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神亀5年の謎  「宇氣洲神社 」

こんばんは。

まずは、神社のお話から。。。

旧重信町の神社、3日目。。 今日は、宇氣洲神社です。
現在ここは、八幡神社と三島神社が合祀されていますが、建立された当時は、別の場所に、別々に鎮座されていた神社でした。

合祀されたのは、嘉永2年(1849)。合祀された当初は、三島神社海稲八幡神社とよばれていましたが、大正2年(1913)に宇氣洲神社と改称されました。

三島神社は、伊予の国司越智玉純が大三島から勧請した神社です。
そして、その日は、神亀5年(728)8月23日。

もうずっとご覧になっているかたは、あれ? と思われた方もいるかと思います。

そうなんです。
この神亀5年(728)8月23日。 伊予八十三郷に、同時に、三島神社が勧請されているのです。
今、それが、どれだけ、どこに鎮座されているのかを、一つ一つたどっているところなのです。

同じに日に、これだけ多くの場所に、三島神社を勧請されたのには、きっと何か深いわけがあったと思うのです。

そこで、簡単ですが、この神亀5年について調べてみました。
この時代の天皇は、聖武天皇。

聖武天皇は、7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかったといわれています。 この時代の天皇は、いつも何かにおびえるように生活していました。
天皇の座を巡り、骨肉の争いが絶え間なく起こり、その中で死没していった天皇の怨霊に悩まされたとも。

また、私が思うに、それだけではなく、神に対してもおびえていたのではないと思います。

文武天皇の時代から、多大な力をもっていた人物、藤原不比等。
藤原不比等は、瀬織津姫の名前を消したことに、とても関係の深い人物だったと思われます。
そして、藤原不比等がなくなった後も、まだその影響力はとても強いものでした。

しかし、聖武天皇が即位されてかた、長屋王ながやのおおきみが、天皇に近い人物になってきます。
それを、よく思っていなかったのが、藤原四兄弟でした。

聖武天皇と長屋王ながやのおおきみは、藤原家とは対立の立場にあったと思います。
長屋王ながやのおおきみは、神亀5年(728年)5月には、王の父母と聖武天皇をはじめとする歴代天皇のために、大般若経一部六百巻の書写を発願しているのです。

もしかしたら、怨霊の魂を鎮めようとしたのかもしれません。
そして、その同じ年に、三島神社を、伊予の国に一度に勧請させたことも、同じような意味ではなかったのかと思うのです。

長屋王は、翌年の神亀6年(729年)2月、妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺します。
この事件の発端は、「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があったとされます。
左道とは、中国では右を尊び、左を正しくないとしたところからから、

正しくない道。邪道 不都合なことという意味だといいます。

何か、藤原氏族にとって、不都合なことを、調べていたのではないかと思われるのです。
それを、知った 藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が、妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺してしまったのではないかと。

しかし、一つ全くわからないことがあります。
それは、8月23日という日です。
この日にも、何かとても深いわけがあるのです。 それは、この神亀5年より以前、和銅5年にも、伊予の国に一度に三島神社が勧請されています。 神亀5年ほどは多くないのですが、この和銅5年に勧請された日も、
8月23日なのです。

8月23日は、いったい何の日だったのか?
これがまだ、どうしても知ることができません。

これが、わかれば、もしかしたらもっと深いことがわかるかもしれません。
ただ、ほんの少し近づいたような気がしています。 

神亀5年8月23日。 
もしかしたら、瀬織津姫の御魂を鎮めるために、伊予の国に勧請されたとしたら、伊予の国と姫との関係が本当に深いものだったということになります。

*宇氣洲神社
*東温市田窪1585番地
*大山祗命(おほやまつみのみこと)   
 品陀別命(ほむだわけのみこと)
*境内社
 田窪神社
 三穂神社
 出雲神社
 奈良原神社
 稲荷神社
*当社は、以前は三島神社と海稲八幡神社と二社それぞれ別所に鎮座していた神社である。
三島神社は、神亀5年(728)8月23日伊予の国司越智玉純が大三島から勧請した神社であり、伊予八十三郷各郷の一の宮と称した。
治承2年(1178)国主河野通清、当神社を尊敬するによって社領を寄進し神宮司香積寺を置く。
元久(1204~1206)の頃、荏原城主平岡氏と志津川の城主和田氏と互いに交戦すること数度に及び、当神社の社殿は破壊された。当時、河野親太夫親孝の二男高井太夫兼孝の六男で田窪七郎孝村、同太郎孝通はこの地を居所としており、河野殿の上屋形の趾蹟があることをもって浮洲本郷一の宮として社殿を再築し、水田数町を寄進された。元徳2年(1330)越智通孝、社殿を興し自ら社職となって奉仕する。

海稲八幡神社は、延久2年(1070)源頼義が創祀させたといわれ、以後河野氏、高井氏、浮穴氏、田窪氏、白石氏、田井氏等の諸豪族が深く尊崇した。
嘉永2年(1849)二社合祀の議が起こり、現在の地に合祀して三島神社海稲八幡神社と称し、大正2年(1913)に宇氣洲神社と改称する。平成11年(1999)に、合祀150年祭の記念大祭を執り行う。

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三島の神紋と、八幡神社の神紋が一つづつ、掲げられています。
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本殿に三島大明神の文字
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ご神木
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キャンディーズの田中好子さんが、亡くなりました。
私も、小さいころから、大好きでした。
今でも信じられない気持ちです。

生まれて初めて、ポスターを貼ったのが、キャンディーズでした。
こんなに早く、逝ってしまうなんて、本当に悲しいです。

でも、葬儀の時、遺影のそばに飾られていた、一枚の絵か写真。どちらかわからなかったのですが、
あれを見た瞬間、 

「女神だ!」 と思いました。

肉声テープの中で、
「天国で被災された方のお役に立ちたいと思います」 と言ったあのことばは、女神としての声だったのかもしれないと思いました。

田中さんの笑顔は、とても優しくて、キラキラ輝いていました。
田中さんの心は、優しくて強く、人のために役にたちたいといつも願っていました。

田中好子さんは、女神になったのですね。
もしかしたら、女神さまが、この世に降りてきていたのかもしれませんね。

長い闘病生活、本当にお疲れさまでした。 今度は女神として、いつまでも、見守っていてください。
沢山の思い出を、本当に本当に、ありがとうございました。

(合掌)






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-27 00:51 | 愛媛県東温市重信町

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。


by 愛姫
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