大山祇神社の真実 (瀬織津姫)
2011年 10月 29日
今日は、大山祇神社の今まで一度もふれたことがない神社と、その歴史をお話します。
北緯34度、東経133度に位置する、大山祇神社。日本の総氏神として、古代から多くの人々がここにさまざまな思いと願いをよせ、訪れました。
現在の、大山祇神社の歴史では、593年、三島明神(現大山積神)は、津の国御島(現在の高槻市)より、この大三島瀬戸へと鎮座されたと伝わります。
しかし、もうこの時、現在の場所、 「大三島宮浦」 に、瀬織津姫は、祀られていました。
それはたぶん、楠が植えられたと伝わる 3000年前から。。。。。
大山祇神社には、三つの御神体の山があり、 その山は現在の本殿の向こうにみえる、
小見山、安神山、鷲ヶ頭山。
小見山は、奥ノ院と呼ばれ、神宮寺というお寺がありました。 本来の四国八十八ヶ所、55番札所は、ここ神宮寺だったのですが、 現在の今治市 南光坊に移されました。
神宮寺の 「山号」 は、 「月光山」 この意味は、次回のお話でもう一度触れさせていただきます。
鷲ヶ頭山は、古くは (神野山) といい、古代の磐境(いわさか)が現在も残る山です。
大山祇神社の祭祀は、この磐境から始まったとも言われます。
そして、安神山。
この山には、 「龍」 が住んでいたと伝わります。
しかし、大山祇神社が、 「瀬戸」 から 「宮浦」 へと 移る時、 ここにいる龍が邪魔をして、なかなか、遷座ができなかった。 それで、安神山の頂上に、「五龍王」を祀り、龍を追い出したのです。
その 「龍」 こそ、 「瀬織津姫」 であり、ここに祀った 「五龍王」の 「五」 にもちゃんと意味がありました。
本当の 「三島明神(瀬織津姫)」 は、瀬戸ではなく、 宮浦の山に祀られていたものだと思われます。
それでは、もう一度神社の中をご案内しながら、 この 「五」 の意味に繋がる、神社の歴史をお話したいと思います。
こちらが、大山祇神社の御神体の山々です。
一の鳥居がある、海の入口です。
大山祇神社の一の鳥居は、海から入ってくる人のために造られたように、海(浦)の玄関にあります。
鳥居には、 「日本総鎮守 大山積大明神」 の文字が刻まれています。
神社に入る前に、「御手洗の川」 が流れています。
ここで、 祓い清めを行う意味があるのかもしれません。
そして、二の鳥居。 ここから神社の境内へと入ります。
2010年、688年ぶりに再現された、総門です。
総門をくぐりすぐ右手に、毎年、御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)が行わる場所があります。
ここで、稲の聖霊と人間が相撲をとる、一人角力が行われます。
そして、こちらが、2600年前、小千命が植えたと伝わる、「小千命御手植の楠」。
根周り20m、高さ15.6mあります。
2600年前とは、縄文時代、初代天皇と言われる、神武天皇の時代です。
瀬織津姫は、縄文時代の女神と言われています。 もしかしたら、本当に縄文時代からここに祀られていたのかも。。。
しかし、大山祇神社の古い書物の中に現れる、最初の天皇の名前は、
「孝霊天皇」 です。
大山祇神社を祀った最初の人物は、 越智家の祖「小千命」 です。
大山祇神社を祀った 「越智家」 は伊予の一大豪族。
「越智家」 は、 ニギハヤヒの子供 「宇麻志麻治命」 の子孫 「物部氏」 の中の一族だと言っています。
そして、 「孝霊天皇」は、 「三島明神」 の化身と言っています。
孝霊天皇が、三島明神の化身? (後でその意味にふれます)
大山祇神社の古い書物の書き出しに、こんな文章があります。
(現代文に訳しています)
言い伝えによると、孝霊天皇の時代においては、世の中が平和ではなく、(孝霊天皇の)意のままにならなかった。
民衆の多くは(孝霊天皇に)背いた。
このため孝霊天皇は 「オオクニヌシノミコト」 に世の中が穏やかになり、国民を従えられるようにお祈りなさった。オオクニヌシノミコトが孝霊天皇の夢枕に立って仰ったことには
「孝霊天皇が世の中が穏やかになり、国民が従うようになることを望むのならば、
最初にオモダルカシコネノミコトを柱神として崇めて上位に据える必要がある。
崇められることで大山積神となる」
と孝霊天皇にお教え申し上げなさった。
こういった理由で天照大神と一緒に大山積神を崇めなさったのだということだ。
この文章の中には、既に大山積神の名も、アマテラスの名もでてきますが
これは、アマテラス=ニギハヤヒのこと。
でも、この中に、とても重要なキーワードがあります。
1.「孝霊天皇の時代においては、世の中が平和ではなく、意のままにならなかった。」
2.「最初にオモダルカシコネノミコトを柱神として崇めて上位に据える必要がある。」
3.「孝霊天皇は 「オオクニヌシノミコト」 に世の中が穏やかになり、国民を従えられるようにお祈りなさった。」
1は、この時代は、自然災害というよりも、国が平和ではなかったと書いています。
これは、後で、さらに詳しくお話しますが、 このことは、とても重要なことなのです。それは、「王」 の力ではどうにもならなかったことを示しています。
先に3.のことにふれますが、 孝霊天皇が祈った神は、アマテラスでも、イザナミでも、イザナギでもなく、 「オオクニヌシ」 でした。
「オオクニヌシ」 とは、 「ニギハヤヒ」 のことで、本来の 「アマテラス(太陽神)」 の姿。
孝霊天皇が、重要な神として信仰していたのは、 「ニギハヤヒ」 だったということになります。
そして、これは、後にでてくる 「孝霊天皇の娘」 にも繋がります。
そして、最も今回重要な 2. の意味。
どうして、最初に祀る神が、 「オモダルカシコネノミコト」 だったのか。
*古事記では、世界が始まった時こう記しています。
天地開闢(てんちかいびゃく)
世界が始まった時、最初に、高原原に、三柱の神(造化の三神)が生まれました。
天之御中主神(宇宙の根源の神)
高御産巣日神(天地・万物を生成・発展・完成させる神、想像の神)
神産巣日神(天地・万物を生成・発展・完成させる神、想像の神)
これが宇宙の始まりです。この造化三神の一番初めに現れた 「神」 「天之御中主神」
この神は、瀬織津姫とも繋がる神でございます。
こうして宇宙は始まりましたが、まだ、この世は、油のようにどろどろとして、まだしっかりと固まっていませんでした。 まるで、水の上を油が浮いたように。
そんな泥沼のような中から、まるで美しい若葉が萌えるように、次の二柱の神がお生まれになりました。
まずは、全ての命の源として、
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
次に、
天之常立神(あめのとこたちのかみ)
こうして、宇宙が出来上がっていったと。
これら五柱の神は、別天津神(ことあまつかみ)といい、宇宙を造った後すぐに姿を消してしまい、その後古事記の中には登場することはありませんでした。
この別天津神と大山積神の直接的な関係は、書かれてはいませんが、 ここでも、神の数は 「五」です。
この 「五」 もその奥そこには、 この後にでてくる神々の数に関係があります。
別天津神が消えた後、 いよいよ 大地を造る神が現れるます。
最初に現れたのは、
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
日本の大地を造った神、日本のこの大地が永遠に揺らがないように、大地にどっしりと座り込み、
天と地が、こうして出来上がりました。
2.豊雲野神(とよくもののかみ)
この神については、詳しく書かれたものはなく、その姿ははっきりとわかりません。
しかし、この名前の字から、雲(水)と野(木々)が芽生え豊に育つようにとの思いを込めつけられた名前のような気がします。
上記の二柱の神は、独身神といわれ。
次の神から、 夫婦神として現れていきます。
(夫婦で一柱、一組と数えます)
3.宇比地邇神(うひぢにのかみ)(男神)須比智邇神(すひぢにのかみ)(女神)
神名の「ウ」は泥(古語で「うき」)、「ス」は沙(砂)の意味となり、夫婦で、泥や砂を御生みになりました。
4.角杙神(つのぐひのかみ)(男神) 活杙神(いくぐひのかみ)(女神)
「クイ(クヒ)」は「芽ぐむ」などの「クム」で、「角ぐむ」は角のように芽が出はじめる意、「活ぐむ」は生育しはじめるの意味。
この夫婦神によって、泥はだんだんと固まりはじめ、その大地に、木々が芽生え、花が咲き、作物が育つよ土、大地を造っていったのです。
5.意富斗能地神(おほとのじのかみ)(男神) 大斗乃弁神(おほとのべのかみ)(女神)
大地が固まり、食物が芽生え、その木々や、植物に実がなるように、 「おしべ」 と 「めしべ」 のように、
自然の中に、初めて、「男」 と 「女」 の 源が造られました。
こうして、この地球上で、神以外に、「男」 と 「女」 の二つの命を合わせて、 新しい命が誕生するようになりました。 そして、 いよいよ出てくる名前。
6.於母陀流神(おもだるのかみ) 阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
この二柱の神々は、 それまでの5柱の神々が造った生命の源を全て受け取った、完成された姿を現す神なのです。
この意味が、とても重要になります。
少しややこしくなりますが、 この五柱の神は、 この日本が生まれるあたって自然を作り上げた 「源」
の神、 そしてそれぞれの神の名前、意味を照らし合わせるのではなく、素直に、全ての 「源」 としてとらえ
次の文章を、読んでみます。
(現代文に訳しています)
四十四代目の元正天皇は霊亀二年(西暦七十六年)(丙辰の年)に本社の御神殿と大巳貴神社と事代主神社と大市姫神社と荒神の社の合計五つを建てた。
以上の事は大宝元年(西暦七〇一年)から霊亀二年まで終始で十六年かけて完成した。
同じ元正天皇の御世である養老三年(西暦七一九年)(己未の年)の四月二十二日にご神体を本殿に移す儀式が行われ、安元がこの遷宮の儀式を勤めたという。
伝え聞くところによると、安元は玉澄に対して以下のように尋ねた。「大山積の命は伊弉諾の尊がお生みなさった神であるのに、どうして(その大山積の命と同じ神社で伊弉諾の尊より一代前の)面足惶根の命を祭りなさっているのか」
玉澄が答えたことには「私はこのことについて玉奥で聞いた。
天地開闢は国常立の尊から始まって、大苫邊の尊までの五代の神様は面足惶根の命をして、お2人(伊弉諾の尊と伊弉册の尊)に政の方法をお教えさせたのである。また伊弉諾の尊と伊弉册の尊のお2人は天(国常立の尊から始まって、大苫邊の尊までの五代の神様)から天の逆矛を授かって、天界から地上にお下りなさり、名前を頂いて天下を治めなさったので、天神七代は面足惶根の命に集約できるのである。
そのため孝霊天皇を通して、大巳貴神は大山積大神の名前が五つあることをお教えなさった。
そして、私にお教えなさった。
「このため大巳貴の命を挙社と決めて、事代主葛城を神社と呼び、大市姫またはその名前を南海龍女と呼ぶ、(の神社)を祓殿と呼んだ。」
本社で儀式をする前に祈祷を行うことが重要であるとの秘伝がある。心得て儀式を行うのが良いだろう」とのことであった。
まず、最初にでてくる 「716年」 とは、大山祇神社が完成された年です。
でも、この時、大山祇神社の本宮だけでなく、 他の、4つの神社が建立された。
それが、「大巳貴神社と事代主神社と大市姫神社と荒神の社」 です。
これは、最後にでてくる、説明と同じことを言っています。
この次の文面は、読んでの通り、大造営にかけられた年月や、その正遷座の時期が書かれてあります。
そして次は、この時から、大山祇神社の宮司として、祭祀を司ることになって、大祝家の名前が出てきます。
越智家は、 「軍事」を司る一族と、 祭祀を司る一族の二つに分かれたとされます。
大祝家は、その祭祀の役目を頂いた側、 「安元」 は、大山祇神社の初代 宮司の名前です。
「安元」 は、 この神社遷宮に大きく関わった 「越智玉澄」 (後の河野家の祖)に尋ねます。
「大山積神」 を祀る神社なのに、どうして、父と母を祀らず、その一つ前に御産まれになった、)面足惶根の命を祀るのかと。
しかし、ここでもうこの文章は、その前の文面と繋がらなくなります。
というのも、実際に完成している神社は、 「面足惶根の命」 ではなく、「大巳貴神社と事代主神社と大市姫神社と荒神の社」なのです。
このどこにも、「面足惶根の命」に関連する神社はありません。
そして、次の文面が、先ほどの、5柱の神を面足惶根の命一つに集約することの意味を 玉澄は述べています。
面足惶根の命は、それまでの5柱の神の一つの姿であり、イザナミとイザナギは、その
(5柱の神=面足惶根の命)より、天の逆矛を授かって、古事記の中で神生みをされていったのだと。
そして、それをここでは、
「天界から地上にお下りなさり、名前を頂いて天下を治めた」 と表現しています。
本当ならば、名前を頂いたのではなく、生まれたと書くのが本当で、天下を治めたと書くのではなく、神々をお産みになったと書くはずです。
この文面は、瀬織津姫の名前を消しさり、新しい神がこの国の神となり天下を治めたといわんばかりです。
そして、これを孝霊天皇を通して、
「大巳貴神」 (ニギハヤヒ) が大山積大神の名前が五つあることをお教えたと。
これは、もしかしたら、後世に、その真実を伝えるべく、かすかに残した 「真の声」 だったのかもしれません。
いよいよ、最後の文面です。
「このため大巳貴の命を挙社と決めて、事代主葛城を神社と呼び、大市姫またはその名前を南海龍女と呼ぶ神社、そして、それは祓殿神社ともいう。」
最初に書かれていた、神社をさらにここで詳しく書いてくださっています。
「本社の御神殿と大巳貴神社と事代主神社と大市姫神社と荒神の社の合計五つを建てた。」
本社とは本宮のことですので、最後の文面には書かれていません。
次の 「大巳貴神社」 は 「大巳貴の命を挙社と決めて」 挙社とは、この4社の中で、一番高い位の神社という意味だと思われます。
これが、「ニギハヤヒ」 を祀る神社です。
次の 「事代主神社」は 「事代主葛城を神社と呼び」と現されています。
ここでも、私にとってはかなりの驚きでした。
「葛城」 とは、 古墳時代、大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族と言われますが、456年 「葛城氏本流」は滅びたとも言われ、謎の氏族の一つですが、
最近、調べていくうちに、古代の葛城氏と物部氏は、かなり密接なつながりがあることがわかってきました。
そして、瀬織津姫の名前を、大山積神としていた所を、事代主に変えらていたりもします。
その代表的なものが、 伊豆の三嶋大社です。 また、 三宅島でも、 大山積神ではなく、 事代主とされています。
当初、私は、瀬織津姫を変えた側に近い存在だと思ったこともありましたが、 それは間違いで、古代、この二つの氏族は、共に手を取り合い、この国の開拓に力を尽くしていたものどおし、そして、
「瀬織津姫」 を 祀っていた 二つの中心的氏族だったのだと思いはじめました。
また、後日、お話します、 神紋 「亀甲」 の意味、 そして、 「剣山」 の意味 そして、それが、龍宮に繋がり、 あの 「かごめ歌」 に繋がるのだと、 この大山祇神社の文面を読み、確信しました。
そして、いよいよ瀬織津姫です。
「大市姫神社」「荒神の社」 は、
「大市姫またはその名前を南海龍女と呼ぶ神社」←そしてこれは 「祓殿神社」 ともいう。
どうして、これが、瀬織津姫? と思われると思います。
まず、少し整理します。
*上記の「大市姫神社」は、その下の文面にその祭神の名前が書かれてあります。
「大市姫」 でも、わざわざまたの名前をと書き、 その名前は 「南海龍女」 と。
*「荒神の社」 と最初は書かれてあるのにもかかわらず、この神社のことを、最後には、ちゃんと
「祓殿神社」 としてくれています。
まず、 「大市姫」 です。
この姫は、 またの名を 「モモソヒメ」 と言います。 この姫のことは依然も少しふれていますが、
「孝霊天皇」 の娘であり、 「卑弥呼」 とも考えられいます。
モモソヒメの墓は 「倭迹迹日百襲姫の大市墓」と言います。
京都府北部、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社という神社があります。
1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表されました。
この系図の中に、「卑弥呼」 と思われる名前が見つかりました。
この系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、
「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。
この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」と書かれてあるのです。
「日女命」が、卑弥呼と決まったわけではありませんが、今回のことで、さらに「モモソヒメ」 が 「卑弥呼」だと繋がっていくのです。
まず、モモソヒメは、またの名を神大市姫命というと書かれています。
大山祇神社に造られた 大市姫神社は、これで、さらに、モモソヒメということがわかってきました。
では、「卑弥呼」 です。
三輪山の伝説で、 モモソヒメが出てきます。
三輪山の神は、 「ニギハヤヒ」 です。 そして、モモソヒメは、 この 神である 「ニギハヤヒ」 と結婚をするのです。
もちろん、神と人間が結婚をするのですから、その意味は少し違うと思います。
「ニギハヤヒ」 と 結婚をすることで、 神のことばを受け取る、 「巫女」になるということです。
「ニギハヤヒ」 は、 「瀬織津姫」 の夫、 二人は夫婦神です。
ですから、 「モモソヒメ」 が 「ニギハヤヒ」 と結婚をするということは、 「瀬織津姫」 になることと同じことなのです。
「モモソヒメ」は、「瀬織津姫の魂を受け継ぐ」 人間だとされたのです。
「瀬織津姫」 は、 古代の日本では、一番の神でした。 その魂を受け継ぎ、倭の国を治めた。
「卑弥呼」とは
「瀬織津姫」 の魂を受け継いだ、 人間の姫= 人間の世界の女王のことだったのです。
これからをもう一度まとめたら、こうなります。
「大市姫神社の祭神 大一姫」 とは 「モモソヒメ」 であり、「卑弥呼」 であり、その真の魂は 「瀬織津姫」
である。
だから、 「モモソヒメ」 の父である 「孝霊天皇」は、 「卑弥呼」の父であり、 「瀬織津姫」 の魂をもつ娘をこの世に誕生させた、「父」 でもあるのです。
だから、 孝霊天皇、 娘と結婚をした 「ニギハヤヒ」 を祖神であり、
また、瀬織津姫の魂を受けつぐ人間もあるのです。
だから、 「真」 の 大三島の神 「三島明神」= 「瀬織津姫」の化身なのです。
一番初めに、 孝霊天皇の時代、 「王」 の力では、この世を平和にすることができなかったと書かれてありましたが、 ここも、 卑弥呼の時代と同じです。
「王」では、 もうこの国は治めることができなくなり、 「女」 である 「モモソヒメ」 を 「卑弥呼」(女王)とし、
この国は平和になっていったのです。
それは、 もちろん瀬織津姫の御霊を持ち、 神のことばを民に発する 「女王」 だったからです。
そして、それを決定づける この三島家に伝わる 最後の文章
「その名前を南海龍女と呼ぶ」 です。
瀬織津姫は、「龍」 です。 「龍神」 なのです。
更にこの言葉から読むと、 「南海」 「南の海に住む 龍女」 だったのです。
この「南海」 とは、 ここ 瀬戸内をしめしているのだと思います。
そして、最後の最後。。。
4社目に 「祓殿神社」 (荒神神社) を造っていますが、
瀬織津姫がその真の姿を消し去られた後、 唯一名前が残った場所が、
この 「祓殿神社」 でした。
大祓祝詞の中に、罪や穢れを、大海原へと流してくれる 川の女神。
これが、今もなお続く、 瀬織津姫の姿です。
そして、この祓殿神社は別に建てられたにも関わらず、 この大市姫神社と同じだと言ってくれているのです。
この文章は、 一見、とても複雑で、その意味がわからないように思えます。
これを訳してくださった方も、漢文、古文はかなり優秀な方で、その論文は表彰されるほどの方です。
その方でさえ、この最後の意味と、途中の内容とが全く一致しないので、こんな文章になって申し訳ないと言ってくださっていました。
でも、私からすれば、 何の先入観もなく、そのまま、その意味を忠実に訳してくださったことに、心から感謝をしています。
そして、この4社は、今も、大山祇神社に鎮座しています。
それが、伊予国総社、祓殿社、葛城社、宇迦神社(稲荷神)(神池)(雨乞いの神)です。
その社がこちらです。
伊予国総社、祓殿社、葛城社
そして、
宇迦神社(稲荷神)(神池)(雨乞いの神)
現在は名前を変えられ、宇迦神社になっていますが、ここに間違いないと思います。
宇迦神社は(稲荷神) どうして、稲荷神が水の神に?
これが、先日お話した、 稲荷神と 瀬織津姫の 関係です。
そして、ここには、神池という池があります。
この川も神池の一部です。 そして、この木々の向こうにも池が。。。。
この神池には、 「大蛇(龍)」 が住んでいたと伝わります。
池の別名は、(放生池、弁財天池、蛇の釜) ともよばれる神池。
この池に棲む大蛇を3つに切ったところ、尾が備後国に飛んで 「尾道」 の地名になったとの伝説があります。
「尾道」の 地名がこことかかわりがあったということは、きっと 尾道にも何か伝承があるはずだと思います。
いつかそこにたどり着くことができるかな。。。。
大山祇神社の 「真の姿」 たくさん書いてしまったので、 ものすごくややこしくなったかもしれませんが、
どうかお許しください。
今日は、 この辺で終わりにして、 この続きはまた明日に書きたいと思います。
長い長い文章を、最後までお読みくださいまして、本当に、ありがとうございました。
「愛姫伝 第11章 愛媛に眠る古代の女神さま」
神々の伝説を伝えるために、そして、
その中から自らの生き方を見つけるために、
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