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七夕(棚機)・織女(姫)様と瀬織津姫1

こんばんは。

先ほど、間違ってまだ完成していないのに、投稿してしまってすみませんでした。

今日のお話は、タイトルにもあるように 「七夕(棚機)」

これまでも、瀬織津姫の変えられたさまざまな神の名前を、お話してきましたが、
まだまだ、瀬織津姫が起源となっている名前は、沢山あります。

瀬織津姫のことをご存知のかたは、姫のことを調べれば調べるほど、そのどれが、姫の本当の姿かわからなくなってくるのではないでしょうか。

私も、その一人でした。

水でもあり、龍でもあり、月でもあり、かぐや姫でもあり、星でもあり、航海の神でもあり・・・・・
もう、書いていたらきりがないほど、その姿は、謎にみちています。

でも、その謎も、だんだん解けてきたような気がします。

瀬織津姫さまとは、 原点は、もちろんたった一つ、 一つだけです。

ですが、その時代時代、特に、天武天皇が、日本の神を太陽の神と変えるために、古事記を造ったその時から、 瀬織津姫は、古事記の中だけでなく、他にも、それぞれの人にとっての 「自分にうつる姫の姿」 に変えられてしまったのです。

ですから、どれもが、瀬織津姫であり、 また、どれもが、真の瀬織津姫の姿ではありません。

その物語や、伝説、歌、 昔話、を造った人にとっての瀬織津姫の姿なのです。

しかし、その物語や伝説は、ただ、闇雲につくったわけではなく、それら全てに、ちゃんと理由があるのだということが、最近次々にわかってきました。

「火のないところに煙はたたず」 と昔からのことわざであるように、どんなことにも必ず、そうなる原因があり、根拠になる何かがあり、偶然にも、それがさも最初から姫のことを表していたかのような、伝説が、他の国にあったもりします。 また、 伝説はなくても、 その物語に隠された、まるで暗号のような根拠が、ちりばめられているのだと、今、強く思っています。

今日、お話する 「七夕」 のお話も、もちろん同じで、 今まで、ただ、 「織姫」 が 「瀬織津姫」 と呼ばれただけでも、 ただ、 彦星であるニギハヤヒと会えなくなって、別々の星として、夜空に輝いているからでもありません。

もっと、深い意味が、この中には隠れています。

もしかしたら、まだ、この七夕のお話の裏に隠された意味を、全てわかったわけではないかもしれませんが、
今、私の中で繋がったことを、お話したいと思います。

「七夕」 昔からずっと伝えれてきた、伝説、そして、今では小さい子供から、お年寄りまで、誰でも知っている「織姫様と彦星様が年に一度天の川をわたって出会う日、短冊に願いを込め祈りを捧げる日」
それが、七夕 7月7日。

そして、この織姫さまが 「瀬織津姫」 彦星さまが 「ニギハヤヒ」だということは、 ご存知のかたも多いかと思います。 

夫婦神であった、瀬織津姫とニギハヤヒは、別々に離されたことと、この七夕のお話は、ぴったりと当てはまってしまいます。

でも、このお話もまた、起源はありますが、つくられた物語。
本来あった物語が、姫とニギハヤヒのことを物語っているかのようなお話に、さらに、後から、 瀬織津姫とニギハヤヒの背景に合わせて作られた物語だと思います。

では、どうして、瀬織津姫は、織姫さまにたとえられるようになったのでしょうか。

七夕の起源は中国から渡ってきたと言います。
七夕とは 7月7日を意味しますが、

◆中国の 7月7日は、、太陰太陽暦の7月7日で節句の日でもありました。 

◆そして、日本もまた、本来は 旧暦の 7月7日に行っていました。

現在も旧暦で行っている所もありますが、一般的な七夕は、現在は、太陽暦(新暦)で行います。
しかし、本来の七夕は、 この旧暦の日にすることに意味がありました。
太陽暦では、何の意味もありません。

7月7日を特別な日とされたのは、いつのころからは現在まだわかっていないそうですが、
この日の行事として書かれたもっとも古い文献は

後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』という文献でした。
しかし、この時は、まだ現在の七夕の意味ではなく、「書物を虫干しにしたこと」が、記されているだけでした。

七夕の風俗を記したものとして考える最初の記録は、*東晋時代(317年 - 420年)と考えられる
『西京雑記』に書かれていた、「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」 という記録だといいます。

七夕(7月7日)の伝説とは別に、織女と牽牛の伝説は、古代 「漢」(の時代の『文選』に編纂された
「古詩十九首」が文献として初出とされているそうです。

「古詩十九首」
迢迢牽牛星  皎皎河漢女
繊繊擢素手  札札弄機杼
終日不成章  泣涕零如雨
河漢清且浅  相去復幾許
盈盈一水間  脈脈不得語

迢迢(ちょうちょう)たる牽牛星、皎皎たる河漢の女
(はるか高くにある牽牛星さま、こうこうと白く光り輝く、天の川の姫)

繊繊として素手を擢(ぬ)き、札札として機杼を弄る
(天の川の姫は、細くてしなやかな手で白い糸をえらび、トントンと機織りの器械をあやつります)

終日 章を成さず、泣涕 零(お)つること雨の如し
(しかし、一日じゅう機を織っても布はちっとも模様にならず、涙は雨のようにこぼれ落ちます。)

河漢は清く且(か)つ浅くして、相(あい)去ること復(ま)た幾許(いくばく)か
(天の川は澄んでいて浅いのに、おたがいにまた別れてからどれほどの時間がたったのでしょう。)

盈盈として一水が間(へだ)てれば、脈脈として語るを得ず
(この河の水が満ち溢れてわたしたちを隔てているので、お話しもできずに互いにただ見つめあうだけです)

これが、織姫と彦星の伝説の元となったものだと言われています。

このことからもわかるように、「七夕」 と 「織姫彦星」 は、別々のものだったのです。

その後、中国南北朝時代(439年~589年)の『荊楚歳時記』に
7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれているそうです。

この時から、七夕と織姫彦星は、結び付けられたのではないと言われています。

そして、六朝(六朝時代)・梁代(梁王朝)の殷芸(いんうん)という人が著した『小説』に、

「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」

と、ここで、現在のお話に一番近い物語が書かれたとされますが、 先ほど言いましたように、
これは、 「小説」 物語として書かれたものです。

歴史を重ねながら、さまざまに変化していった、七夕の物語。

そして、日本で初めて、七夕に繋がることばが書かれたのは、やはり、古事記です。

古事記の中に、 
アメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)。
が、七夕の始まりです。

中国でさまざまに変化してきた七夕の姿を、見事にここで、習合させたのだと思います。

古事記の中で、最初に習合された時の意味の中には、「織姫」 のことではなく、ニギハヤヒのことにたとえられています。

アメノワカヒコとは、

アマテラスとスサノオが誓約をしたときに誕生した 五柱の神の一柱の
*「アメノホヒ」 が、葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)(国譲りのこと)のために、
出雲の大国主神の元に遣わされたのですが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らないため、次に使わされた神の名前のことです。

しかし、アメノワカヒコは大国主の娘下照姫命と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻りませんでした。
そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女(なきめ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせました。

すると、その声を聴いた天探女(あめのさぐめ)が、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコにいいます。

アメノワカヒコは、遣された時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いてしまいました。

その矢は高天原まで飛んで行きました。
その為、タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして、その矢を下界に落としました。
すると、その矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、死んでしまったのです。

まず、このお話から説明すると、最初に使わされた、*「アメノホヒ」は、アマテラスとスサノオの誓約の時にアマテラスの勾玉をスサノオがかみ砕いて誕生した神ですが、天武天皇は、この誓約の時に誕生させたにも関わらずまだ、それでは信用できなかったのでしょうか、さらに大きな力を使い、国譲りを完全なものにしようとしたのか、もしくは、現実に裏切ったものがいたのでしょうか。

誓約での誕生の神が、大国主(ニギハヤヒ)+瀬織津姫のところに戻ってしまい、その代わりに使わせたアメノワカヒコを殺してしまいます。
どうして、最初に使わせた 「アメノホヒ」 を 殺さず、 「アメノワカヒコ」 だけを殺したかというと、 
「アメノホヒ」 には、アマテラスの魂も入っていたからなのです。


だから、あえて、「アメノホヒ」 は殺さず、 次に使わせた 「アメノワカヒコ」 だけを 殺します。

また、アメノワカヒコに、不吉な鳥だから射殺すようにと助言をした、天探女は、もちろん瀬織津姫の魂。
また、実は、アメノワカヒコもまた、本当は、瀬織津姫とニギハヤヒの魂をもつ神だったのです。


アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て殯をした。

シタテルヒメの兄の味耜高彦根命も弔いに訪れたが、彼がアメノワカヒコに大変よく似ていたため、アメノワカヒコの父と妻が「アメノワカヒコは生きていた」と言って抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。

アメノワカヒコは 「アメノホヒ」の代わりに、姫の魂をもつものとして殺された。
そして、次にやってきた、「味耜高彦根命」 は、誓約の時誕生した、八柱の一柱。 
宗像三女神の中の、タキリビメの間の子。


誓約で誕生した女神の生んだ子は、裏切りものでない、もう姫の魂はないという証。
でも、元をたどれば、 姫の魂をもつ神であり、同じ姫の魂をもつ 「アメノワカヒコ」 と似ているのは当然のこと。
でも、自分は、違うということを、証明するために、見間違えるなといったのだと思います。


そして、この時、 七夕の織姫が (瀬織津姫) と習合された歌が詠まれます。

「阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦比古泥能 迦尾曾」


「天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 足玉はや み谷 二渡らす 阿冶志貴高日子根の 神そ」

ここで、初めて織姫の名前が出てきます。
残念ながら、今の私の知識では、この歌の解釈があっているとは言えませんが、もしかしたらこんな意味かもしれません。

「天上にいる機織女(瀬織津姫)の、首に掛けておられる連珠の美しい勾玉。
彦星(ニギハヤヒ)の首にかけておられる美しい勾玉。
そのように麗しく谷二つにわたって輝いておられる光こそ、味耜高彦根神よ」

と泣きながらおっしゃったのではないでしょうか。

本当の魂は、おりひめ(瀬織津姫) と ひこぼし(ニギハヤヒ)と同じだと、妹であり、自らもまたこの二柱の神の魂をもつ女神であり、殺された  「アメノワカヒコ」 も そうなんだと。。。。。。

これが、瀬織津姫が日本で初めて、おりひめさまとしてあらわされた姿です。

そして、「おりひめ」 としてあらわされた瀬織津姫には、もっと深い意味がこめられています。

中国の伝説と、姫の境遇を重ねあわせた、七夕の物語。
そして、その七夕の日を、7月7日にしたことにも、意味があった。

少し長くなりましたので、この続きは、 次回にさせて頂きます。

今日も、ありがとうございました。




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by ldc_nikki | 2011-11-26 04:36 | 古代の謎

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