手渡さなかった御神体 籠神社の姉妹 「河内神社」
2012年 01月 10日
今日は、前回の続き、籠神社の姉妹といわれる 「河内神社」 です。
昨日もお話したように、西石原に鎮座する籠神社と、お隣、東石原に鎮座する河内神社は、姉妹、兄弟といわれます。
河内神社の祭神は、現在の大山祇神。
しかし、元は、瀬織津姫だった。
ここ、河内神社には、まるで、姫の御神体を守ったかのような伝承が残っています。
表向きは、「大山祇神」 を祀りながらも、ここは、今も瀬織津姫の御神体を祀っているのかもしれないという貴重な、伝説です。
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河内神社の御神体であろう鏡では、「土州本川郷舟戸氏神川内大明神」 と書かれてありました。
その御神体は、金幣箱に入れられていたといいます。
そして、現在のところに祀られる前は、大川村川崎のミタキ山の山中に氏神として祀られていました。
源平合戦の終わりころ、岩崎次郎左衛門という弓の名人であり忍法つかいであったものが、同志五人で御神体を箱に納めて持ってこようとしていました。
しかし、川をのぼり、谷を越え運んいたのですが疲れてしまい、弥十郎という男を見晴らしのよくきく高い所に残しておいて見張役にし、上の越の崖の上で休んでいるうちに眠気が出てうとうとしていたら、弥十郎でない声がするので、西へ行くのを止め、崖下まわり、更に下の高い崖から氏神の入った箱を谷のほうへと落としてしまいました。
落としたと同時に、地ゆるぎがしはじめて三日三晩ゆるぎがとまりませんでした。
見張の弥十郎が帰らないので現場へ行ってみると、弥十郎は切られて死んでいました。
落とした氏神の箱は、地ゆるぎが止んでから行ってみると、そこにはなく、谷川づたいに川しもへとさがしてゆくと、有間の地主神社の祠のところにあったので、その所へ合祭した。
それから、現在の宮林であまり烏がさわぐので、土地の人が不審に思って行ってみると、金幣が樫の木に掛かっていたので、神官さんがお祈りをしているとゆらゆらおりてきた。
そして、そのおりたところへ本社を建立して、今にいたっているといいます。
それから月日が流れ、明治十年、この御神体をお役人のところへ持ってこいとの命令があったのです。
神官は、言われたとおり持って出かけました。
しかし、有間の森の首というところまでゆくと、神官の目がくらんで歩けない。
なんとかもとへ帰ってきたのですが、鳥居のところで倒れてしまいました。
副神官の和田仲、大平義忠という人が氏神さまにおことわりのお祈りをすると、神官もやっとなおり、もとの神社へ神鏡をおさめ込んだといいます。
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この伝説を読んで、どう感じたでしょうか?
私は、前半の部分は、まるで姫の御神体を隠すために運んでいて、殺されてしまったかのように思いました。
また、後半部分では、やはり明治時代まで続いたという、姫の封印は本当だったんだと思いました。
前半の殺された場面ですが、実は殺した相手とは平家だと書かれてありました。
でも、あえてその部分は書くのをやめました。
戦いで負けた相手は、いつの時代も悪いことをした人物にたとえられてしまうもの。
誰が、弥十郎を殺したかはわかりませんが、私は平家ではないと思っています。
このように、姫の封印は、日本中で行われていきました。
御神体を運ぶ途中に、命を落としたものは、弥十郎だけではありません。
数えきれない人が、歴史の中で消され封印されてしまったことだけは、忘れてはいけないと思います。
*河内神社
*高知県土佐町石原
*祭神:大山祇神
河内神社は、この川を渡ったところに鎮座します。
木が生い茂る杜の中に。
拝殿です。
拝殿に彫刻された 「鬼」 がとても印象的でした。
ふと頭の上を見ると。
これは、何を意味しているのでしょうか。
本殿です。
名前は変えられても、ここには今も姫が祀られている。そんな気がします。
高知からの帰りは、来た道とは違う道をとおりました。
瀬戸川沿いを北へ。 大蛇の伝説が残る山は、思った以上に高く、壮大な景色がひろがっていました。
そして、今回どうして通ってみたかった、「吉野川」
吉野川は、大国主命の御神体が流れてきた川でもあり、この吉野川と、愛媛側を流れる銅山川の間の山が、今一番きになっている山だからです。
この間の山々は、歴史に封印されたもう一つのなぞがあるように思えてなりません。
なぜか、今でもほとんど人が入ることができない深い山々。 なぜなら、ここには道がないからです。
西は、寒風山トンネル。 東は、川之江まで、この間の山を越えるルートはありません。
この山の中のことは、またいつかお話ができる時がきたら、お話したいと思います。
山の中を走っている途中、ふと空を見上げると、 「龍」が飛んでいました。
ここが、吉野川へと合流する 瀬戸川です。
そして、吉野川です。こんな山の真ん中に、大きな川が流れています。
この川を見て、古代の人々の生活が少し見えたような気がしました。
古代の人々は、山道を歩くのではなく、この川を舟でのぼってきたのかもしれないと。
山の中で時々出会う 「舟戸」 という地名。
これは、川の港のようなものだったのかもしれません。
四国の山は、奥が深く人が容易に入ってこれなかったことでしょう。
川を使えば、牛や馬がいなくとも、大きな荷物を運ぶこともでき、
古代の人々に不可欠であった 「丹(朱)」も、この山の中にはありました。
水が豊かで、気候にも恵まれ、古代の人々が一番平和に暮らしていける場所だったのかもしれません。
ある時代までは。。。。。
私と同じように、神社を巡り歴史を調べている方が、福岡県にいらっしゃいます。
その方のブログの今日の記事に、姫の封印に関わるとても貴重な伝説が書かれてあります。
よかったらご覧ください。
ひもろぎ逍遥「赤司八幡神社(1)」
今日も最後まで、ありがとうございました。
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