小千(越智)家
2012年 03月 02日
これから数回にわけて、古代 「神野郡」とよばれた場所、そして現在は新居浜市大生院とよばれる場所のお話をさせていただこうと思いますが、今日は、もう一度伊予の国の豪族
「小千(越智)家」 について少しお話をしたいと思います。
今度お話をする 新居浜市大生院は、現在は新居浜市になっていますが、西条市との境に位置し、古代はこの境はありませんでした。
また、この地区の氏神は、西条市の以前紹介した 神功皇后の由来が残る 「飯積神社」。
新居浜市になってはいますが、西条市と深い繋がりがあるところです。
新居浜市大生院の隣は、古代「神野郡賀茂郷」とよばれた 「鴨(賀茂)族」の本拠地でした。
そして、賀茂族の本拠地と並ぶようにここ大生院にも、秦氏の跡があります。
新居浜市誌によると、
応神天皇の御代(270年)、秦の始皇帝三世、融通王(弓月王)が秦の遺民127県の民を率いて百済を経て、我が国に帰化したが、天皇は之を大和朝津間腋上の地に置き、後更に山城の太秦の地に置いたが、仁徳天皇の御代これを諸国に分置して、蚕を養い、絹布を織らしめた。その時、大生院の地に、多くの秦氏が来住し、この地の豪族となって発展した。この地で飛躍的発展をとげた秦氏は、奈良朝末期から平安初期にかけて大生院の地に巨刹正法寺を創建して、宗教的面にも大いに活躍した。
と書かれてあります。
伊予の国では、応神天皇の御代、三つの国に国造りをの皇子をおき、開拓をおこなったとされています。
・小千命・・・ 伊予の国造を命じられる
・阿佐利・・・・國造に任命(國津比古命神社・櫛玉比賣命神社)
・伊予主命・・・松山市久米小野あたり
秦氏は、数回にわたり日本へと帰化したとされていますが、応神天皇より更に昔、
紀元前200年頃、徐福が不老不死の仙薬をさがすために大船団を率いて日本へとやってきました。
ここ神野郡の国造りでもあった小千家の伝承では、小千家の祖は 「徐福」 だとも書かれています。
小千家にはさまざまな伝承があり、どれが本当の祖なのか、いまだにいろいろな議論がなされています。
小千(越智)家・・・・饒速日命、徐福、孝霊天皇、大山積神、小千命、
これら全てが、小千家の祖また祖神だと言われています。
一般的に言われている歴史からすると、これらが全て同じ祖先だとはなるはずがありません。
でも、私の中ではこれら全てが 小千家となります。
そしてそれは 秦氏、徐福系の秦氏と繋がります。
阿佐利が国造りを行ったとされる、旧北条市に鎮座する、
「國津比古命神社・櫛玉比賣命神社」は、
今も饒速日命を祀る神社であり、また姫神は天道日女命を祀ります。
こちらの神社に関わる方も、饒速日命と瀬織津姫のことに気付いていらっしゃいます。
そして 久米。
伊予主命が国造りを行った久米は、饒速日命の名前が消され、その代わりに、饒速日命の息子、
「宇摩志摩治命」の御降誕の地という伝説があります。
本来は、太陽の神 アマテラス饒速日命 と 月の女神 瀬織津姫とが夫婦神となります。
しかし、現在では、饒速日命の后は、 「天道日女命」 です。
だから、北条の國津比古命神社では、饒速日命を、后を祀る 櫛玉比賣命神社には、天道日女命を祀っているのです。
そして、小千家の祖、小千命を祀る 「大浜八幡神社」 もまた同じように、
小千家の祖神として、 饒速日命と天道日女命を祀っています。
饒速日命には、二柱の子供がいました。
饒速日命と天道日女命の子 、「天香山命(あめのかぐやまのみこと」
饒速日命と三炊屋媛(みかしきやひめ)の子 「宇摩志摩治命」です。
そして、この「宇摩志摩治命」が、物部氏(越智家) の祖神とされています。
私はずっと 母違いのこの二柱の子供のことがどう意味なのかどうしてもわからず考えていました。
でも、なんとなくその意味がわかってきたような気がします。
それは、越智家にも関係があります。そしてやはりこの伊予の国にも。
饒速日命は 本来のアマテラス、 神です。
饒速日命という神自身が、母違いの子供をつくるはずがありません。
ということは、これはあることを意味しているのだと思うのです。
それは、子孫です。
アマテラスである饒速日命と、天に通じる日の女 「天道日女命」 との間に生まれた
「天香具山命」 は、 大和に落ちてきた二つの山 「天の香具山」と同じ意味、神功皇后が天の香具山を自分のものにしようとしたように、日の神と日の女神の間に生まれた子供は、日の神を祀る氏族を意味する。
そして、大和にそむいた 長髄彦(ながすねひこ)の妹、三炊屋媛との間に生まれた
「宇摩志摩治命」は、本来の倭、饒速日命と瀬織津姫を祀る 「物部氏(越智家)」のことを意味する。
ということは、三炊屋媛とは、瀬織津姫ということになります。
しかしこれは、本当は神に例えているだけで、神の物語ではありません。
そしてもしかしたら、これは 「小千家」のことを語っているかもしれません。
大三島を日本総鎮守にしなければいけないほど、
この伊予の国、「小千の国」は、大和にとって重要な地でした。
また、二つに割れて落ちてきた 「天の香具山」 の片方は、この伊予の国に落ちてきました。
その地は、小千命の父である、 大小千命が国を築いた 松山でした。
また、饒速日命と三炊屋媛(瀬織津姫)の子供「宇摩志摩治命」が生まれた場所でした。
饒速日命の子孫、 小千家が、「越智」として記述に現れてくるのは、不思議なくらい突然でした。
それまでは全く表舞台には現れなかった越智家が、あの鉄人伝説の 「越智益躬」から 新羅を倒して世に姿を表します。
そして、越智守興、越智玉澄、越智玉興、越智玉男と、大山祇神社の変更とともにその名前が現れていきます。
でも、この名前が現れた人々は、朝廷に味方した人物ばかりです。
越智家は、同じ一族の中で 朝廷側と、朝廷に抵抗した側がいます。
それが、この饒速日命の話に繋がってくるのではないかと思うのです。
越智家に嫁いだ 二人の姫。 片方は、物部氏側(瀬織津姫を祀る一族)の姫、
もう片方は、鴨族(日の神を祀る一族) の姫。
そしてそれぞれに生まれた子供が、片方は朝廷側(鴨族)へとつき、片方は越智家として戦った。
それが、饒速日命を祖神にもち、秦氏を祖先とする 越智家の姿なのではないでしょうか。
瀬織津姫を祀っていた大三島は、大山積神へと祭神を変更されました。
瀬織津姫が宿る 「姫の国 愛比売(愛媛)」 は常世の国、橘の島。
宇佐家がさらって行った 「越智常世織姫」は、小千家の姫でした。
そして、645年
天の香具山の落ちた片方、松山市天山の姫(白い衣)は奪われ、その地は、大化の改新により、
大和の地となり、越智国(今治市)に先がけ、国府の役割の地となりました。
でも、一番奪わなければいけなかった場所は、「越智国」 大三島でした。
徐福が、不老不死の島 「蓬莱山」とした 大三島に祀られた姫を、
百済の神 「大山積神」に変えなくてはいけなかった。
また、西日本最高峰 石鎚山も。
701年、大山祇神社の大造営が始まったとされるその年、
ここ今治に、「役行者」が入り、ここを根本道場として、孔雀明王、不動明王、愛染明王の法の功徳によって大誓願を行いました
すると、空中から五色の雲が下り、楢原、石土、豊岡、象頭の四大権現が現れ、
役行者は、この地から石土蔵王権現の彌山を決めるため出発しました。
そして、石鎚山最高峰に 「天狗」 を宿し、石鎚神社山頂社のある山を 彌山としました。
現在の 「天狗岳」と呼ばれる、石鎚山最高峰に、なぜ役行者は、天狗を宿したか。
それは、天狗とは、インド神話の カルラが変化したものといわれ、
仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天。
金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、
「龍を常食としていました」
西日本の一番高い場所に住みついた 天狗(迦楼羅天(かるらてん)は、
その金色に光る赤い翼を広げると336万里(1344万km)にも達するといいます。
半径にして約700万km。
全ての龍をその翼の中に、収めてしまうほどの威力です。
瀬戸内海(竜宮の海)の中央に位置する 「大三島」と、西日本最高峰の石鎚の二つを制し、
空と地、そして海の龍を制したのではないでしょうか。
そして、その両方の国を治めていたのが 「小千命(乎致命 こちのみこと)」
その小千(こち)の本来の意味もまた、
「蘇る神の子」=「聖なるをち水をもつ、月の女神 瀬織津姫の子」 だったのです。
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