籠宮の龍女と同じ川をのぼって4 「鷹取殿と吉祥寺」
2012年 03月 22日
今週は家族が順番にインフルエンザにかかって大変。
元気なのは私だけ^^;
今年は寒かったせいなのか、こんな時期にまたインフルエンザが流行るなんて、
皆さんは大丈夫でしょうか?
少し暖かくなってきましたが、まだまだ寒暖の差が激しい時期が続きます。
どうぞお体に気をつけてください。
では今日は前回の続き、竜登川の第4回目です。
川が行き止まりとなり、不自然に左へとおれていましたが、そのままもし川がまっすぐに流れていたら
龍仙寺へと登っていくはずだと思い、そのままお寺にむかってまっすぐ行ってみることにしました。
川はここから左へとおれていました。
向こうに見えるのは仙遊寺の山
山にむかっていると、小さな標識が。
止まってみてみると、ここはお遍路さんの道でした。
仙遊寺まで1.8km。 歩いてお遍路さんをする方たちはここを歩いて行くんですね。
そして、少し行くと初めてみるお寺が。 名前は 「吉祥寺」
なんだか、気になったので車を止めておりてみました。
目の前には池。
入口にはお堂が。
そしてお寺の入口に置いてあった看板には
「鷹取殿」 と書いてありました。
「鷹?」 鷹ということばが気になり、行ってみることにしました。
鷹取殿はこの吉祥寺の裏山の上にありました。
山へとあがる入口に小さなお堂があったのでみてみるとその中には「三島の神紋が」
ここも三島家のお寺でした。
ますます気になり上に行ってみることに。
一番上まで行くと、小さなお堂がありました。
そこには赤ちゃんのステイがたくさん結び付けられていました。
お堂の彫刻は初めてみる形で、波と波の間に注連縄がかかっていました。
ここは、正岡紀伊守経長が
天正13年(1585年)小早川隆景の奇襲を受け落城し自害した後、
妻子は鹿子谷で自害したため、その霊を祀ったもので、
安産、子育てのお守りとして多くの一族の人々が信仰されているところでした。
正岡家は、越智家から河野家へと名前が変わったように、
越智家の血を受け継ぐといわれています。
正岡という苗字は北条に多く、北条には正岡家が宮司を務める神社もあります。
この山には鷹取城というお城があり、そのお城の城主の妻子は傷ついた体のうえ、お腹に子供を身籠り、そのお腹をかばいながらこの近くの鹿子谷の洞窟の中に隠れていたのですが、とうとう自害してなくなったといいます。
この戦いは、愛媛中のあちこちに攻め入った、豊臣秀吉の四国征伐です。
この鷹取城はあちこちの城が落城する中、最後まで抵抗し続けた場所だといいます。
今でこそ車でこの山の中までこれますが、昔は今のように開けていたわけではなく、この山の中で必死で抵抗しつづけた様子を思い浮かべると、なんだかとてもつらくなります。
また、この妻子の最後のお話などは、瀬織津姫が封印された時代と重なるものがあり、こんな風に多くの人々が山の中で隠れ最後は自害また、討死したのかもしれません。
次回は、龍女がのぼった川「龍登川」の最後の場所、
龍女が千手観音さまをほったと伝わる仙遊寺の湧水です。
吉祥寺から山を見上げると見えるこの建物が仙遊寺です。
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