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誰も気づかない由緒 「葛城神社」

こんばんは。

今日は、久万高原町の神社です。

久万高原町はこれまでも沢山ご紹介してきましたが、
ここは、久万高原町の西、内子町との境目にあります。

以前からずっと気になっていた神社だったのですが、
なぜか、その由緒をしっかりと読んでいませんでした。

どうして今まで気づかなかったのか
不思議なくらいです。

ここは、神社の名前の通り

「葛城氏」 と深い関係にあります。

葛城氏とは、古代豪族の一つで、
大和葛城地方、現在の奈良県御所市・葛城市に本拠地を置いていたとされ
武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔だと言われています。

武内宿禰とは、
歴史上もっとも長く生きた人物とされており、その年齢は
300歳前後になります。

もちろん、一人の人間が300歳まで生きるわけもなく、
その歴史は、まだまだ謎に包まれたままです。

武内宿禰が使えた天皇は、
景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代にの渡り、
仲哀、応神天皇の時代には、
神宮皇后の伝説の中にも、たびたび名前が登場します。

子孫には、
紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏など、
歴史上に名を残す一族が並べられます

この中に蘇我氏が入っていますが、
蘇我氏は、百済来た渡来人だという説もあり、
先日見た韓国の映画の中では、
蘇我氏=百済人 とされていました。

韓国の歴史ドラマの中で登場する 「蘇我氏」
どちらが正しいとも言えませんが、
仏教を日本に伝えた一族が蘇我氏ならば、
蘇我氏が百済人だという、韓国のドラマの説の方が
正しいのではないかと思えてしまいます。

百済は、新羅、高句麗、百済の中でも、
特に仏教国で、政治に僧が必ず加わっている姿が描かれています。

日本で、国が大きく変わった700年前後、
その政治の中には、必ずと言っていいほど、「役行者」や「僧」の姿がありました。

だからもし、蘇我氏が武内宿禰の子孫だとするならば、
武内宿禰もまた、百済人だということになるかもしれません。
武内宿禰は、応神天皇の時代、渡来人を率いて韓人池を造ったともされており、
このことから、百済と関係が深かったのではないかと思わされます。

紀元前84年~仁徳天皇55年(367年)の間に生きたとされるということは、
この間に、卑弥呼の存在もあったということにもなります。

ここで一つ気になるのが、年齢の約300歳とされること。

300歳と言って思い出される人物とは、
あの 浦島太郎です。

私は、この浦島太郎が最初に書かれたのは、
以前もお話したように、700年前後。
古事記ができる少し前に、その原文が書かれたといいます。

お話の内容は、以前も書きましたが、今の浦島太郎とは違います。

浦嶋子という若者が、亀に変身した神女(龍宮の姫)とともに、
蓬莱山へ行くというお話です。
そして、元の世界へ戻った時には、300年の月日が流れていました。

私は、この亀に姿を変えられた神女が瀬織津姫のことだと思っています。
でも、この浦嶋子が何を意味しているのかは、
まだはっきりとわかっていません。

この浦島太郎の元なるものをつくった人物は、
伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)といい、越智氏の研究の本の中では、
この人物も、本来は伊予の国出身ではないかと書かれています。
この浦島伝説を書いた時は、丹後にいた 伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)でしたが、
この人物は、今で言う、大学教授のような人で、
古事記をつくるにあたっても、この人物が協力しているともいいます。

そんな、古事記編纂の意味を知っていたと思われるこの人物が書いた
浦嶋伝説は、単なる物語ではなく、その当時のことを何かにたとえ書き残したとしか
考えられません。

物語では、蓬莱山で、神女と浦嶋子は夫婦の契りを交わしたかのようなことが書かれてありますが、
もちろんそんなことは嘘で、このことは、もっと深い意味を込めていると私には思えます。

そして、蓬莱山ですごした 300年という月日は、
本来は、たった数年の出来事を、300年の出来事として記録された
嘘の歴史のことをあらわしているように思えるのです。

武内宿禰の中で最初に出てくる 
景行天皇の時代は、創作だとされる説もあり実在されない天皇との見方が強い天皇です。

しかし、ここ伊予の国では、
ちょうどこの時代に神を祀る由緒が多数残っています。
また、熊野速玉大社もこの時代になります。

このことから、
私は、この時代から300年に渡る古事記に書かれたことは、
全てではないかもしれませんが、嘘ではないかと考えています。
そして、これより約100年後に、邪馬台国連合が、姿を現し始めてたといいます。

日本の歴史で、空白の100年と言われる時代がありますが、
私は、空白の300年ではないかと思うのです。

沖縄に伝わる、「赤碗の世直し」の伝説を調べられている著者が書いている
ちょうどその時代の大和の国の実像が、はるかに現実に近いのではないかと
最近思えています。

「赤碗の世直し」については、また機会があればもう少しお話したいと思いますが
世の中が乱れ、戦乱の時代だったこの時代、
二度にわたって、大きな世直しと言われる、今でいう社会運動のようなものがあったのではないかと
いいます。

それは、女性が立ち上がった、
新しい世の中をつくるための、女性たちの戦いの始まりです。

それが、後に卑弥呼に繋がっていくと。

その大和で始まった世直しは、沖縄の女性たちへも伝わっていたのです、

それが「赤碗の世直し」として、
現在も歌い続けられている歌です。

丁度その時代に生きたとされる 武内宿禰の伝承は、
全てを隠すためのものと、今に繋がるための物語。
そして、神功皇后の伝説をつくるための物語でもあったのではないでしょうか。

そして、神功皇后は、
その時代に女性たちが行った世直しのことが、
まるで一人の皇妃がしたことのように、変えられてしまったのではないかと思います。

一度は北九州から始まり、いったん終息したかに思えた世の中は
再度戦乱の世に入り、二度目は瀬戸内海で始まったのではないかといいます。

これは、単なる説ではなく、
世直しの証となる、平和をかたどったあるものが、多くのその世直しの地から
出土されています。

私はこの説が全て正しいとは思いませんが、
これに近いことが、北九州から瀬戸内海へそして大和へとどんどん広まっていったのでは
ないかという気がしています。

だから、邪馬台国とは邪馬台国連合。
その跡が、北九州とも、四国とも、大和とも言われるは、
その場所が一つの場所で行われていたことではないからではないかと思います。

そして元へ戻りますが、
その時代が、人間が生きていられるはずのない 300歳という年まで生きた
葛城氏の祖、武内宿禰の時代です。

葛城氏は、456年いったん滅びたとされています。
しかし、それは本当に滅びたのではありませんでした。

葛城氏と加茂氏の繋がりから考えると、
葛城氏と加茂氏は、時に同じではないかと思うほど、
神も同じ神を祀り、同じ動きをします。

丁度、葛城氏が滅んだ時と同じ年、
456年、伊予の国に、加茂族が移り住んできます。
(滅んだ葛城氏が、加茂族として移り住んだかのように、
その年代はぴったりとあてはまります。)
小松町の神社の伝説では、この時加茂一族は全国に散らばり
移り住んだといいます。

またここが、愛媛で一番最初に 「お寺」 が建立された場所と言われる
小松町、現在の西条市です。

葛城氏=蘇我氏=百済=仏教=加茂氏

葛城氏と加茂氏は、
その名前は違うように思えますが、
繋がっていたのではないでしょうか。

そして、今日ご紹介する神社も、
葛城氏と加茂族が繋がっていることをあらわしているかのような、
由緒が残っています。

この由緒を読んでも、
きっと歴史に興味がない人にとって、また神社に祀られている神様のことなんて
全く興味のない人にとっては、なんとも思わない由緒かもしれません。

でも、この由緒が、
私からすれば、全てを物語っているかのような由緒です。

先日の天狗のお話のところでも、書きました 「役行者」は、
役 小角(えん の おづの)という名前を持ち、
加茂族から出た一人でした。

そして生まれた場所が、
大和国葛城上郡茅原、この地名の通り、「葛城氏」の土地です。

役行者=加茂族=葛城上群=葛城氏

葛城氏と加茂族は、その役割は違っても、
本来は、同じものたちではないかとも思えます。

久万高原町 葛城神社 現在の祭神は、

「一言主命」

この神は、加茂家の神です。

古事記の中では、「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」
と書かれ、
日本書記では、「天皇と共に狩りを楽しんだ」 と書かれ、当時の加茂氏の位置が
わかるかのようですが、

『続日本紀』天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流されたと
書かれてあります。

さらに、
822年の『日本霊異記』では、
一言主は役行者(賀茂氏)に使役される神にまで地位が低下します。

こうして、中臣家=藤原家の力がだんだんと強くなるごとに、
姫の封印に大いに活躍したはずの加茂族の地位はどんどん低下していったのではないでしょうか。

そして、それは、同じ徳島の忌部氏も同じ道を辿っていきます。

加茂族と忌部氏は、同じように姫の封印の時は、
その力を発揮するのでは、同じように、藤原氏にどんどんその勢力を
奪われてしまったと思います。

この久万高原町に葛城神社を建立した時は、
まだまだ加茂家の力が強い時でした。

そして、
天武天皇、朱雀元年8月
小千玉興公が大和国葛城山から役小角を迎えて
山野の地を拓いて移民の法を設けたときに、

往古からの饒宮、または古宮と称した饒速日命を祀った社

へ大和葛城山から一言主命、味鉏高彦根命を奉還して鎮護の神として祀った。

この神社は、
本来饒速日尊を祀る神社でした。ということは、姫が祀られていた神社だとも言えます。

しかし、 「葛城山」 から 

「役小角(役行者)」 を迎え、姫を封印し、

本来祀られていた神を消し、加茂族の神 

「一言主命、味鉏高彦根命」 を祀った神社だったのです。

これだけ、そのことを忠実に由緒に書いてあるのに、
誰もこのことを不思議だと思わない時代なのだと
改めて感じました。

ここは、役行者、加茂族、そして葛城氏によって
封印された神社だったということが、
この由緒から、はっきりと読み取ることができます。

そして、これと同じようなことが、
伊予の国だけでなく、全国で次々と行われていったのです。

ある所では、御神体を持って山奥へ逃げ、
ある所では、最後まで守り続けた人々が殺され、
ある所では、追ってが来る前に、全てを隠したといいます。

村を挙げて戦った所や、
女性が、兵を率いてその命をなげうって守ろうとした
伝説もあります。

更には、もっと昔、二度にわたって世直しをしようとした
女性たち。

その多くの事実は、
権力者によって、全て封印されてしまい、
その証拠を焼き尽くされてしまいました。

しかし、その事実は、今もなお沖縄のある地域で神歌として
歌い継がれていたのです。

「水と太陽の霊も寄りつく私たちの崇める神は、ヤマトの中心の国のお生まれである。
この神を崇めるのは今や沖縄だけになってしまったが、
スジを曲げないでこの神にお仕えし、ご御招請しよう。
大和・山城から伝わった赤碗の世直し(碗)に、神酒を溢れるほどに注いで捧げます。」

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-06-25 22:22 | 愛媛県久万高原町

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