消えた女神 第43番札所 源光山 円手院 明石寺
2013年 03月 01日
げんこうざん えんじゅいん めいせきじ
伊予の国 四番目の霊場は、
三間町のお隣の町、宇和にあります。
三間町から山を越えると古代南予の中心的な町として栄えた宇和町につきます。
宇和は、「弥生の里」と言えるほどの多くの弥生時代の遺跡があります。宇和からは、九州地方との文化の繋がりを感じさせるものが多く出土しています。
その中でも、銅矛(どうほこ)は5例以上に上ると考えられており、宇和にある歴史博物館に展示されてある銅矛は、まるでおとぎ話に出てくるような立派な銅矛。
また、宇和からは、瀬戸内海地方で多く発見される、平形銅剣が発見されており、今治や松山の道後地方との関連性が考えられるとても貴重な場所です。
それは古墳にもあらわれ、「古墳時代初期」のものがここからも発見されています。
愛媛の古墳時代初期の古墳が見つかっている場所は、
「宇和町」 「松山市」 「今治市大西町」 「今治市唐子山」この中でも今治市唐子山は、古墳時代以前のお墓が見つかっているところでもあります。
このようなことから宇和は、ちょうど卑弥呼の時代、300年前後に大きな豪族がいたと考えられています。
四国八十八か所は、平安時代に開基されたものですが、
実はこの弥生時代からの歴史が大きく繋がってきているのです。
ここ43番札所明石寺に残る伝承は、そんな古代に栄えた宇和歴史の流れが見える伝承の一つです。
「明石寺」は、現在は 「めいせきじ」と読みますが、本来は「あげいし」と呼ばれていました。
その名前の由来には、一つの女神の伝説が残っています。
神仏習合の名残を残した明石寺は、明治維新まで神仏習合の寺院で、住職を別当職と呼んでいました。
ここも本来は神を祀る場所でした。
しかし、6世紀、欽明天皇の勅願により円手院正澄という行者が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るためお寺を創建し、その後、天平六年 (七三四) 役行者小角から数えて五代目に当たる寿元行者が、紀州より熊野十二社権現を観請し十二坊を建てて修験道の中心道場となりました。
その後、弘仁13年(822)に弘法大師がこの地を訪れ、荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興したといいます。
そして、女神の伝説。
「その昔、若くて美しい女神が願をかけて、深夜、軽々と両腕に大石を山に運んでいました。
ところが、目の前に天の邪鬼いて、石をかついでいる女神の後ろから 「コケコッコー」と 朝を告げる鶏の鳴き声をしました。
女神は、朝が(太陽が昇る)きたとことに驚き、こんなはずではなかったがと思いながらも、石を置いて消えてしまった といいます。」
この伝説が元となり、「あげいしじ」と呼ばれるようになったと言われています。
この中に出てくる、「朝を告げる鶏」
これはあの古事記の中に出てくる一文と同じ。
「思金神に思はしめて、常夜の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」
アマテラスを磐からだすために、神々たちは、常世の長鳴鳥という 「鶏」を鳴かせるのです。
朝(夜明け)を知らせる鶏。 「東天紅」
朝が来ることを知らせる鶏は、
単に朝を知らせるもにではなく、太陽の出現の象徴でもあります。月から太陽の時代への以降をこの伝説が物語っているのです。
伊勢神宮が20年に一度行う 「式年遷宮」の儀式の始めに、宮司さんは、この鶏の鳴き声を3回されます。
それは、天の磐戸の再現です。
古事記では岩から出てきたことをあらわしていますが、
ここ明石寺では、太陽の出現によって、女神は石を置いて消えてしまう。交代を意味するのです。
そしてここ明石寺は、弘法大師が水を出した所でもあります。
弘法大師はある所では水を出し、ある所では水を出ないように封印したりします。
水に関する伝説が多い弘法大師ですが、私はどうして弘法大師は水を出したり、止めたりするんだろうとずっと不思議でした。
人々のために水を出すだけならまだしも、大切な水をとめてしまう場所があることを知った時、弘法大師は単に飲むためだけに水を出していたのではないのかもしれないと思うようになりました。
そんな謎の意味が私なりに理解ができた場所もここ明石寺なのです。
明石寺の本堂に上がる手前を山の方へ行くと、
まるで鳥居のようにそびえる大きな木があり、その向こうに弘法大師由来の湧水があります。
周りには何もなく、ただ湧水だけが存在する場所。
湧水の後ろは山になっていて、どうして水を出した所がここだったんだろうと思いながらそこを立ち去ろうとした時、ふと後ろを振り返ると、あることを思いつきました。
湧水の背後にある山の奥には古墳時代初期といわれる古墳がある場所であり、その向こうには、「鳥殿」 と呼ばれる山があります。ここは、弥生時代栄えた一族の聖域だったのです。
その場所から水を出した弘法大師。
太陽によってその姿を消したしまった女神の水を、もう一度この地上へと出そうとしたのではないかと思ったのです。
弘法大師は、あの室戸岬で、そこに空と海しかないことを知り、空海と名前をつけたと言われます。
それは、私たち人間は、空にも水があり、地上にも水があり、そしてこの大地の下にも水がある。
それはまるで子宮の中にいる赤ちゃんと同じように、私たちは水に囲まれて生きているということを前身で感じたのではないかと思うのです。
つまり地底(黄泉の国)へと姿を消した女神の水をもう一度この大地の上に出そうとしたのではないかと。
地球は「水の星」
水によって生命が誕生し、水によって自然が形成され、水によって命が繋いでいかれる。
空にも水が存在し、地上にも水が存在し、そして私たちの立つ大地の下にも水が存在する。そして私たちの体も水によってつくられている。
水が生命にとってどれだけ大切なものか、今の私たちは頭では理解しながらも、心で本当に感じているかと言うとそうでないかもしれません。
空、大地、地底。
水はそれぞれの場所で、それぞれの役割をはたし、また循環してく。全ての水は全てのもの、全ての生命と繋がっているのです。
原発によって侵された海、川、大地は、
その場所が侵されただけではなく、全てのものに循環していくということを忘れてはいけないと思います。
四国八十八か所は、水と私たちの命、また全ての命との繋がりを頭だけでなく、心で感じることができる場所でもあるように思います。空海は、いつの日が今のような時代がくることを予想していたのでしょうか。
私たちが、いつかそのことを忘れてしまいそうになった時、思い出すためにその人生の全てを欠けて、私たちに多くのものを残してくれたような気がします。
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