カテゴリ:愛媛県西条市( 24 )

こんばんは。

三連休もあっという間に終わり、七草も終わり、2017年もスタートを切りました。

今は毎日が忙しく、一日が36時間くらいあればいいのにな…と。
今日は、西条市のお寺、西山興隆寺をご紹介します。

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御由流宜橋。ここから山の中を歩いて本堂に向かいます。

西山興隆寺は、西条市の西、元丹原町にあるお寺。
紅葉で有名で、紅葉シーズンは特に県内外から多くの方がこられます。


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昨年は、秘仏の御開帳もあり、私も初めてご本尊千手千眼観世音菩薩を見ることができました。

お寺の起源は、624年。
とても古いお寺です。

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現在は、高縄山系の東の麓にありますが、最初は黒滝山の上にあったとされていますが、その場所は特定されていません。

黒滝山と言えば、石鎚山と仲が悪かったと言う伝承のある山。
そこに最初にお寺を創建したのは、あの神戸六甲の六甲山雲ヶ岩で修業したとされる、
『空鉢上人』。

後に、空海が入山し、桓武天皇の勅願寺になったと言います。

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重要文化財の本堂。
ご本尊の隣には、左に、不動明王立像、右に地蔵菩薩立像、本尊厨子の両脇には28部衆像や石鎚権現三体像などが並びます。

空鉢上人の跡がある所はとても意味のある所ですが、ここもその一つ。

境内の中は、子供を授かると言われる空海由来の湧き水もあります。

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美しい自然の中に歴史の跡を今に伝える西山興隆寺。
お寺に行く道沿いには、まるで大蛇のような木の根や老木。

ここを歩くだけいろんなものが洗い流されそうです。

お遍路さんで訪れるさいには、ぜひ立ち寄ってみてください。

最後にツアーのご案内です。
一緒に越智ゆかりの地をめぐりませんか?

<愛姫伝著者と巡る越智ゆかりの地を巡るツアー>
詳しくは、おち.com~越智氏の縁 をご覧ください。

<日程>

4月15日(土)16日(日)

<参加方法>

15日(昼のみ)

15日(昼+懇親会のみ)

16日(昼のみ)

16日(昼15日懇親会のみ)

15日16日(昼のみ)

15日16日(宿泊込)

<料金>

調整中

<ツアー内容>

大浜八幡大神社(宮司さんのお話あり)

大山祇神社

東円坊

他現在検討中








by ldc_nikki | 2017-01-09 22:16 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日は、西条市にある弘法大師の加持水です。

昨日までお話をしていた秦氏が住んでいた大生院からの帰り、もう1年以上前からいつか行きたいと思っていた、弘法大師が出したと言われる湧き水の場所へと行ってきました。

ここは西条の港口にあり、水が湧き出る場所は、川の入り口。

古代の人々が、再生の水として禊ぎを行っていたといわれる、川の水と海の水が交じり合う場所でした。

この海と川の境目の地下から、弘法大師の水は湧き出ていました。

大三島のみたらしの水は神が禊ぎをした場所と伝えられ、今も大山祇神社へ供えられます。

先月、西条であった古事記の講演の時晴明さんも言っていたこの河口の水は、海から川へと上がる魚たちが、その身体についた微生物を取り除く場所でもあり、体を綺麗にしてから川へとのぼっていくといいます。

潮と真水、両方の水によって体は清められ、再生されるのだと考えられいたのではないかと。

そしてこの 「再生」 の意味を持つ、河口の水も、瀬織津姫の意味を持つ再生の水だったのです。

古代、西条や新居浜は現在よりも山に近いところ、国道11号線の辺りまでが海でした。

現在の地形を見てわかるように、

古代海とされていた場所に小高い山があります。

そしてそこには、現在神功皇后の跡があります。

満潮の時そこは海となり、干潮になればそこは陸となる。

瀬戸内海沿岸の平野は遠浅の海のため、そこは一日の中で海にもなり陸ともなる場所でした。

神功皇后の跡は、そんな場所に多く見られることがわかってきました。

そしてそこも、古代の河口。

だから本来はそこには、瀬織津姫が祀られていたのだと思います。

弘法大師がここに真水を出したとしたら、それもやはり姫の水を出したのだと私は思います。

弘法大師は、密教の力で姫を封印していったのではないかと一時は思っていました。

でも今は、それは間違いで、

本当は、中国に渡ったその時、姫が封印された秘密をわかったのではないかと思うのです。

そして、それがどのように封印されたか、その謎を解いたのではないかと。

四国中の姫が封印された、また消された重要な場所を巡りながら、その一つ一つの謎をあきらかにしていったのではないかと思います。

実は先日、あるサイトで、弘法大師の暗号が隠されたという、「かごめ」以外のうたを見つけました。

それは、今も私たちが全く違う意味で覚え使っているうたです。

そちらのサイトでは、姫のことには全くふれられていませんでしたが、その解読された文章は、

姫のことを言っているとしか思えない文章でした。

その解読された文章を読んだ時、弘法大師は全て知っていた。と確信しました。

勝手に掲載することができませんので、解読された文章をぜひ見つけてみてください。

もし許可をしていただければここで紹介させていただこうかと思っているのですが、まだお返事がきませんので、もし気になる方は、捜してみてください。

それは、だれもが子供のころから知っている 「うたのようなうたでないようなうた」です。

では、弘法大師の加持水です。

 弘法大師四国巡錫のみぎり、ある夏の日、路傍の石に腰うちかえて休息されているところへ、老婆が飲み水を水桶に汲みたたえて帰ってきた。
大師は玉のような額の汗を拭いながら一杯の水を乞うて渇きをいやした。
この水が、はるか遠方から組みとってきたことを聞き知って、大師は錫杖の先で2、3回大地を強く突き給えば、アラ不思議、清水がこんこんとして湧き出した。

ここが、弘法大師の加持水
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今もここには多くの人が水をいただきにきているようでした。
近くのお年寄りも手押し車を押しながらやってきていました。
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本当に海と川の境目。水が沸きでるその場所の左を見れば海。
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そして右を見れば川です。
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水は今も勢いが衰えることはなく、こんこんと湧き出ています。
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水を飲んでみると、ほんの少しだけ潮の味がして不思議な感じでした。

そして振り返り帰ろうとした時、ちょうどこの場所と夕日が一直線に並んでいました。

太陽の周りに赤い輪が。 

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そして遠くには、真っ白く雪化粧をした石鎚山系が見えていました。
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今年一月に、初めて小さな写真展をさせていただきました。

そして、今年もう一箇所で写真展をさせていただくことが決まりました。

今年の11月1日~11月30日までの一ヶ月。

岡山で開催します。場所は 「岡山プラザホテル」内のギャラリーです。

すぐ近くには後楽園や岡山城があり、観光でもとてもよいところです。

岡山と愛媛は古代とても深い繋がりがありました。

その関係はまだはっきりとしていませんが、最近少し勉強をし始めた考古学からもその繋がりが見えます。

岡山で土器が多く見つかっているということです。

私自身、岡山には少しの間住んでいたことがあり、また妹が現在住んでいるところでもあります。

そんなご縁ある場所で開催させていただくこととなり、今からとても楽しみです。

岡山で開催するまでに、何度か岡山へ足を運び神社へ行ってみようかと思っています。

そして、岡山での写真展はできるなら、岡山と愛媛の両方の写真を展示したいなと思っています。

また、愛媛でもできれば後一回はどこかでと考えています。

これは全く未定ですのが、もし、日程が合えば今度は松山以外でしたいなと思っています。

まだまだプロの方のような写真ではありませんが、
忘れさられようとしている小さな神社が、
本当はこんなにも美しかったんだと感じていただけるように、写真をとっていきたいと思っています。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-03-07 23:26 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は、私にとってはとても重要なことがわかりました。
それは、昨年からずっと気になっている 「鴨族」のことです。

先日から西条へと再度入ってきて、鴨族が移り住んできたという小松の近くのお話をしていますが、
いよいよ、次回から鴨族と秦氏の跡が色濃く残る、西条市内へと入ります。

そのタイミングで、鴨族の新たな秘密にかかわる大事なことを知ることができたことに自分でも驚いています。

昨日のお話もそうですが、あまりに今まで言われてきた一般的な歴史と違うため、きっと歴史家の方たちには受け入れられないと思います。

もちろん、もっともっと深く知ることでその内容は少し変化していくかもしれませんが、それぞれの氏族の関係はそんなに変わることはないと思っています。

なぜなら、今までどうしても繋がらなかった多くのことが、秦氏と鴨族の関係がはっきりしたことで、どんどん繋がっていくのです。

これからは、この考え方が本当に正しいかどうかを、もっと深く読み解いていかなければいけないと思っています。

そして、一言では言い表すことのできない複雑な関係もできるだけ細かくその姿をはっきりとさせることが必要だと感じています。

また、秦氏、鴨族のほかにも、葛城氏、蘇我氏、そして宇佐辛島氏、などなど、まだまだ多くの謎もあります。

まだまだ先は長いな~と思いますが、何年かかっても、一つ一つじっくりと各地の伝承を伝えながら読み解いていきたいと思いますので、一緒に歴史をめぐる旅を楽しんでいただけたらうれしいなと思います。

では、今日のお話です。

今日は、昨日と同じ 「丹原町」 の お話です。

福岡八幡神社からちょうど南に1.5kmほど行ったところに、一人の姫の伝説があります。

それが、「綾延神社」です。

私がこの神社を知ることになったことも、今思えばとても不思議で、まるでここへきなさいと導かれたような気がします。

2月4日、立春の日にあった 「古事記物語」の講演の日、講演が終わって一度今治へ一緒に行っていた友達を送り届けてから、私は再度西条へもどり、著者のみどりさんや晴明さんたちと合流しました。

その時、ご一緒させていただいたのが、彫刻家の近藤さんでした。

そしてもう一人、遅れてやってきた女性、私の隣へ座った方が、私の高校の時の恩師、担任の先生でした。

卒業してから一度も会ったことがなかったので、もう約20年ぶりの再会でした。

まさか、隣に高校の時の担任の先生がいらっしゃるとは思ってもみなかったので、それだけでもびっくりしたのですが、私が神社や姫の話をすると先生が、

「それなら私のところにもこなきゃだめよ。」 と

「え?」

「先生はあれから教師を辞めて、自分の家のお寺を見ることになったの。
うちはお寺だけじゃなくて、神社もあってその神社は 綾延姫というお姫さまのお墓があったところなのよ。
だから、うちにもきなさい。」

そういわれたのです。

私は早速家に帰って 「綾延神社」 のことを調べてみました。

すると、そこには瀬織津姫と重なる伝承があったのです。

そして、その後次の週末に、早速綾延姫のところに行ってきました。

それが、今回の西条の旅です。

綾延姫を祀る 綾延神社に伝わる伝承では、


「往古、西条市今在家の黒須賀の浜に、一人の姫が漂着しました。 

姫の名前は、 綾延姫命。 姫は、土地の旧家汐崎氏に奉じられた 田野郷に移り住み、

綾織りの技を伝えました。 そして、綾延姫はここでその生涯を閉じました。

里人は、生前の賢徳を慕って 霊亀二年(七一六)墓辺に一祠を建立してお祀り申し上げたのが創祀と伝

えられています。」

それ故に、元は 「墓辺社(はかべのやしろ)」とも称したといいます。

平安時代には、朝廷より 「従五位下」の神階を授与されたことが

「日本三大実録」 に書かれてあります。

その後、室町時代には八幡宮を併せ祀り 「綾延八幡宮」 となりました。

その後、明治維新に至るまで 松山藩の祈願社の一つとして篤く崇敬されました。

そして何より、不思議なことは、「綾延姫」 という 織物を伝えた姫の墓が起源の神社にも関わらず、

道前地方の、祈雨祈晴の代表的神社として知られ、氏子のみならず松山藩周敷郡中より寄進が相次いでい

たといいます。

この伝承でもわかるように、ここに祀られる 「綾織を伝えた 綾延姫」が、織物を伝えただけの姫ではありません。

綾織りとは、タテ糸がヨコ糸の上を2本(3本)、ヨコ糸の下を1本、交差させて織られるおりかたをいいますが、綾織りは、古代の人々にとって特別な技術だとされていました。

綾織りは、平織りにくらべ柔らかく、上質な布ができる織り方。

古代の織物は、麻、カジ、コウゾ、タクといった木から取った繊維の糸がそのまま織物の原料となっていました。

そして、その真っ白い糸で白い織物ができる姿を、白い蛇に例えられていました。

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」 

この歌は、万葉集の中にでてくる 持統天皇が歌ったうたですが、

この 「 白妙の 衣ほすてふ 」は、 真っ白い羽衣のような布のことをいっています。

この布こそが、瀬織津姫のことを表した 布、真っ白い まるで絹のような柔らかさの布のことだったのではないかと私は思うのです。

「春過ぎて、夏来にけらし」

春から夏に季節が変わるように、時代は新しい世に変わろうとしている。

「白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」

あとは、天の香具山に干してある(祀る)、真っ白い布である瀬織津姫を我が物にすることができれば。

天の香具山とは、伊予の国にその片方が落ちたといわれる山。

天の香具山については、また今度、天山のお話のさいにもう一つの万葉集とともに、その姿をお話したいと思いますが、織物を伝えた 「秦氏」 の祖神 「瀬織津姫」 は、白い蛇、真っ白い布にも例えられていたのです。

瀬織津姫が、最後にたどり着いた 岩手県 遠野の国、早池峰山の伊豆神社に祀られた瀬織津姫は、
この伊予の国から渡っていった瀬織津姫。

そして、早池峰の女神となった瀬織津姫のその場所もまた

「綾織村」 とよばれました。

遠野の綾織姫も、伊予の綾織姫も、瀬織津姫。

ここに綾織りを伝えた 「綾延姫」 とは、織物を伝えた 秦氏一族が祀る姫のことだったのです。

祠ができた 「七百十六年」は、大三島の大山祇神社が完成した年。

この年、ここに暮らし、織物で生活していた人々は、その神を奪われてしまったのです。

それは、「死」 を意味し、神として祀る代わりに、 「墓」としての祠をつくったのではないでしょうか。

でも、姫の魂は、田滝へ逃げた人々により受け継がれていった。

それが昨日お話した 「黒滝神社」 です。

綾延神社の中に、 「古綾延神社」という小さな社があります。

私は、後の世にもしかしたらここにひっそりと姫が祀られたのではないかと思っています。

それを、写真が物語っているかのように私には見えました。

この古綾延神社に向かい降り注ぐ光が、まるで姫の光のようだったから。。。。。

*綾延神社
*西条市丹原町田野上方1548
*祭神
綾延姫命 (あやのべひめのみこと) 
品陀和気命(ほむだわけのみこと)
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
三柱姫大神(みはしらのひめのおほかみ)

一の鳥居は、川の側にあります。

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そして拝殿。
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神紋は 八幡神社の三つ巴
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本殿
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御神木
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そして境内社
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そして最後に。 中央が、古綾延神社です。

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綾延神社は、特殊神事といわれる、県下で最も古い祀り形式を今も伝えているといいます。

毎年行われる 10月17日の例祭に先立ち 「榊指し神事」があります。

これは、頭屋居宅の棟に榊を指し、お仮屋を設けて神霊を招き、例祭が終了するまで頭屋の主人が氏子を代表して毎日の神祭りを励行する神事です。

そして、もう一つの特殊神事。

「潮ごり取り」
例祭前に神職以下関係者が今在家の海岸で潮ごりを取り、祭神漂着地に参り、ゆかりの汐崎本家を訪問するといいます。

潮ごりとは、海で禊ぎをすることをいいます。

今在家の海岸から流れる広江川は綾延神社の一の鳥居がある中山川の河口。

海と川とが入り混じるその河口で、禊ぎを行い、姫の存在を伝え続けてきたのかもしれません。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-03-01 00:26 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は昨日ご紹介したお寺 「正善寺」の裏山の上に鎮座する神社

「福岡八幡神社」です。

弘法大師が一夜にして刻んだ、地蔵菩薩を奉るお寺の裏山に鎮座する神社。

ここもその歴史はあまりはっきりしたことがわかっていません。

ただかなり古い神社だと思われ、周敷一の宮の神社とされるほど重要な神社でした。

古代ここは、添神として鎮座していました。

添神? では主神はどこに祀られていたのでしょう?

ここから3kmほどしか離れていない場所に、高鴨神社という名前の神社があり、
神社のすぐ下には、四国八十八ヶ所 「香園寺」があります。

この高鴨神社の由緒では、雄略天皇の御代(456年)、ここに鴨族が移り住んできたといいます。

そして、その場所に高鴨神社が建立されました。

福岡八幡神社は、鴨族が勢力を増し、高鴨神社の添神となったのではないかと思います。

この丹原地域には、次回お話しますが、瀬織津姫を祀っていたであろう神社があります。

でも、そこへ姫を祀っていた一族は滅ぼされ、姫の御神体は、丹原町の山の中、「黒滝神社」へと隠されたのではないかと思います。

丹原町の山奥にある 「黒滝神社」には、石鎚神社との不思議な伝説があるのです。

「石鎚神社」は、役行者により開かれた山。それもまた、姫の封印のためでした。

黒滝の神と石鎚の神は、妹と兄の関係でした。

でもこの兄弟は昔から仲が悪く、喧嘩がたえませんでした。

ある時、黒滝さんが投げた石が石鎚さんの庭まで届き、石鎚さんの投げた石は黒滝さんの拝殿から奥へ1kmのところの大夫池まで届いて神域を侵したため、

以後決定的に敵対関係になってしまったのだそうです。

それから、黒滝神社の氏子 田滝の人々は、石鎚山に登ると、石鎚大神に鎖から投げられるため、参拝をしない習わしとなっているそうです。

本来ここに祀られていた姫は、きっと丹原の奥地へとその御神体を遷さなくてはいけなくなったのでしょう。

この黒滝神社へはまだ行っていないので、今年中には行きたいと思っています。

話を福岡八幡神社に戻しますが、

この神社は、もう一つ不思議なことがあります。

それは、四国は豊臣秀吉の四国攻めにおいて、姫の神社に関わる場所はその多くが、焼き討ちにあい、神社の由来が全くわからなくなっている場所がたくさんあります。

それなのに、ここは、全く逆。

秀吉は、ここを 「守護不入の聖地と定めた」 といいます。

添神を祀り周敷一円の神であったこの神社は、後に岩清水八幡宮の別宮を併祀して武門武将の崇敬を受けるようになりました。

秀吉がここを聖地と定めたのは、岩清水八幡宮だったからなのでしょうか。

でも、今まで行った神社の由来で、秀吉が聖地と定めたとされるのはまだここだけです。

それだけ愛媛ではとても珍しいこと。

その後も、松山藩主は代々に亘り周敷一の宮として祭祀の費用を代官所で賄ったそうです。

鴨族が伊予の国へと移ってきた最初の地。

ここから少しづつ、少しづつ勢力をましていった。

そして国を大きく動かせるだけの力をもつようになっていったのはないでしょうか。

*福岡八幡神社
*西条市丹原町今井5
*祭神
玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
誉田別命 (ほむだわけのみこと)
氣長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)

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長い階段をあがります。
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途中に境内社がありました。
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そして拝殿へ
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拝殿です。 
ここは姫が消されてしまった神社。でも、拝殿に降り注ぐ光はまるで姫の光のようでした。
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そして、本殿のすぐ側にまるで並ぶように稲荷神社が。。。
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ここから瀬戸内海の島々まで見渡せます。
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そして、本殿。ここにも虹色に光が降り注ぎました。
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そして、もう一つ、私の中で今日はっきりと確信したことがあります。

それは、新大和をつくる鍵を握る人物たちは、やはり「百済」です。

大三島に祀られていた姫は 「大山積神」へと変えられました。

大山積神は百済からきた神。

そして、その時姫を祀る重要な山々にいる龍を仏の力追い出した人物 「行基」 もまた 百済の人物でした。

また、中臣 鎌足も、百済系の人物。その後を継いだ、藤原不比等も。

ただ、天武天皇だけはまだはっきりと謎がとけません。

でも、私の中での今の答えは、天智天皇と斉明天皇は、百済系の人物ではありません。

斉明天皇と天智天皇の伝承はもしかしたら、そのほとんどがつくられたものかもしれません。

それは天武天皇との関係を繋げるためです。

斉明天皇も、天智天皇も、越智家と同じ 「秦氏の子孫 = 物部氏の子孫」または、そちら側の人物。

もちろん、他に多くの氏族との血縁がある可能性はあります。

でも、どちらもほんとうは、越智家、物部氏と深い繋がりのあった天皇だったのではないかと私は思います。

斉明天皇の伝承は、百済との密接な関係が書かれたものばかりです。

でも、これもつくられたものかもしれません。

なぜなら、斉明天皇は越智氏と深い関係にあったからです。

天智天皇は、中臣 鎌足に利用され、最後はもしかしたら暗殺されたかもしれません。

それは、以前紹介した天智天皇の崩御された場所が、敵の本拠地とある場所に挟まれた場所だったこともそうなのですが、

今度ご紹介するそのもう一つの場所が、天智天皇の本来の姿を示してくれていると、私はその場所にたった時思いました。

そして、あの大浜八幡神社の由緒にかかれてあることにやっとつながります。

「創立は遠く上古に溯り、乎致命九代の後裔乎致足尼高縄の創建したものにて、応神天皇の御代小千国造に任ぜられ、此の大浜の地に館を造り、東予地方を開拓した乎致命を祖神として斎き祀り、大濱宮(王濱宮)を号し壱千七百余年以前に未開の地を開拓せられた神を敬慕して御祀りしたものにて、伊予一国の中心門族越智・河野氏の産土神なり。 

天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀し、仁和元年神位従五位の下を賜う。

「天智天皇の祖神 門神神」 とは、大島の向かいに祀られていたという 「瀬織津姫」 のことです。

天智天皇の祖神でもあり、乎致命の祖神でもある神は 「瀬織津姫」 

どうしてここに、天智天皇の名前がわざわざ書かれたか。 その意味がやっとわかりました。

天智天皇は、越智家と繋がりのある最後の天皇だったからです。

そして、天智天皇の崩御とともに、越智家も百済系の氏族に、瀬織津姫を渡すことになってしまった。

699年、斉明天皇陵と天智天皇陵が共に改葬され、その真実は封印されました。

そして新たな歴史を証明するために古事記、日本書記と次々と完成させ、各地の神社の伝承も書きかえられていった。 

各地の瀬織津姫を祀る神社は、大山祇神社の大造営が行われていたとされていた19年間の間に、次々と消されていったのではないでしょうか。

そしてそれは伊豆へ、武蔵へ、そして早池峰へ。



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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-29 00:14 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は、朝からバンバンと花火の音が。。。

「今日って何の日だったっけ?

あ!今の時期と言えば御餅まきだ~!」

職場の人に今日は御餅まきの日ですよね?

と聞くと、上司が

「今日は、お稲荷さんの日だよ。うちの神社でもお餅まきがあるよ。」と

すると、次々、「うちの神社も、うちの神社も。。。。」と

そうなんです。

今日は、稲荷神社のお祭り。 「初午祭」の日でした。

2月最初の午の日、今治のお稲荷さんがある神社では、御餅まきが行われます。

初午祭りとは、伏見稲荷神社に初めて神様がおりたった日に行われる行事。

伏見稲荷神社に神様が降りたのは、

和銅4年2月11日、この日が初午の日だったことから、この日に全国の稲荷神社で、初午祭が行われるそうです。

和銅4年とは、711年。 古事記が完成される一年前。

この日、本来は龍を祭っていた伊奈利山に稲荷神が降臨しました。

しかし、山城国風土記逸文には、
秦氏の先祖といわれる 伊侶巨秦公が、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となりました。

伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈ったと書かれてあります。

餅=蛇=太陽と月が一つになったもの。
そしてその餅に矢を放つと、白鳥となって稲荷山に飛んでいった。

こうして、姫は稲荷になったのです。

そして生き抜くために、秦氏の子孫は、先祖の過ちを認めたのではなく、認めざるおえなかったのだと私は思います。

そんな姫の封印された今日、私はまた一つ今治の封印の場所を見つけました。

実は先日、ある川を上っていったのですが、それはそのすぐ側にありました。

ここに気付かせてくださったのが今日だったことも、なんとなく不思議な導きを感じています。

このお話は、また今度させていただきますね。

そこにたどり着くまでの過程も、ぜひ皆さんも一緒に楽しんください。

何かにたどり着くまでには、一つ一つ通らないといけないことがあるということを一緒に感じていただければうれしいなと思いながらいつも書いています。

これは、これまでの道のりもそうですが、あせらず、あわてず、一つ一つ積み重ねていくことが大切だということに、私は何度も何度も気付かされます。 

そして、その過程を楽しむことが続けるコツなのかもしれないと神社をめぐりを始めてわかりました。

これは、人生を生きるコツともいえるかもしれません。

そうすれば、時々ご褒美のように、突然何かにたどり着く。 その繰り返しが、生きるってことかもしれません。

さて、今日のお話は、前回の続き西条市です。

西条市(旧東予市)から、丹原町へと向かいます。

丹原町は、456年、鴨族が移り住んできたといわれる 小松町のすぐお隣。

ここにも不思議な伝説が残る場所が、いくつかあります。

今日はその中の一つ、弘法大師にまつわる伝説が残る、

「正善寺(しょうぜんじ)」 です。

四国別格二十霊場 11番札所の一つ、「正善寺」には、姫の封印に繋がる不思議な伝説が残っています。

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弘法大師は、迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くために四国八十八カ所の御霊場を開こうと四国を巡られておりました。

その途中、四尾山(おしぶやま)と呼ばれる小山の麓に一夜の仮寝されました。

するとこの山の南方が明るい光が輝き楠木の大木に、童子が現れました。

弘法大師は、

「童子の化身を以て我に示し給う。」と三拝せられて、その夜この楠の大木にご霊力をふるわれ、

延命地蔵大菩薩の御尊像を彫刻されました。

しかし、天邪鬼(あまのじゃく)が鶏の鳴き声をまねて夜明を告げたので、大師は片方の耳を彫り残したまま立ち去ってしまいました。」

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この楠は、樹齢1200年以上、周囲9~10mの大木。

元々は、本堂と大師堂の間に立っておりその中に延命地蔵菩薩が刻まれていたました。生きた木にそのまま刻まれていたので、

「生木地蔵」(いききじぞう)と言われています。

弘法大師は、どうしてこの楠に延命地蔵菩薩を刻まれたのでしょう。

それは、やはりここに封印された後があったからではないでしょうか。

「延命地蔵菩薩」は、

延命地蔵菩薩を深く想い、忘れないようにすれば、十種の幸福をもたらし、八つの恐怖を取り除くといわれます。

★十種の幸福とは

1.女性なら出産できる
2.健康で丈夫になれる
3.人々の病を悉く取り除く
4.寿命を長くする
5.賢くなる
6.財産に溢れるほど恵まれる
7.他の人々から敬愛してもらえる
8.穀物が育つ
9.神々の加護を得られる
10.菩提を得ることが保障される

◆八つの恐怖が取り除かれる
1.風雨は時節にかなったものとなり
2.敵になるような国家が勃興(にわかに勢力を得て盛んになること)せず
3.内乱・内部抗争が起こらず
4.(不吉とされた)日食月食が興らず
5.(各人の運命運勢に影響するとされた)星宿が悪い方向に変化せず
6.鬼神がやってくることはなく
7.飢饉と旱魃が興らず
8.人民が病気にかかることがない

これが、古代の人々が望んでいたことと、恐れていたことです。

ここに住む人たちが、何を望み何に恐れていたのか。

そしてその恐れていたことを見ると、まるで姫を封印した時の様子が見えるかのようです。

同じことが、二度と起こらないようにと、弘法大師は願い、延命地蔵菩薩をほったのではないでしょうか。

それはここに、封印した人々が住んでいたからでしょうか。

でも、一つだけ不思議なことがあります。

宇和町の明石寺では、姫自身である龍女が、山の頂上へと大きな石を運んでいる途中に、やはり後ろで鶏の声を聞き、夜明けがくる(太陽が昇る)と思い石を置いて消えてしまいました。

でも、ここでは空海自身が、天邪鬼がまねた鶏の声で、夜明けがきたと思い立ち去ったとあります。

空海は、地蔵菩薩を彫っている姿を、見られては困ることがここにあったのでしょうか。

しかも、片方の耳を彫らずに立ち去ったとあります。

片方の耳を彫らなかったことに、意味があるような気がしてならないのです。

半分は聞こえ、半分は聞こえない。

全てを聞くことができない、全ては聞けない、延命地蔵菩薩さまをわざと、彫ったのかと。。。。

夜明け(太陽=アマテラス)を祀る一族に見つかってはいけなかったのは、どうしてなのでしょうか。

もしかしたら、この延命地蔵菩薩さまは、片方の声だけが聞こえるという意味だったのかも。

それは、姫を封印されてしまった人々の声だけが。。。

というのが、このお寺の近くにある神社に、まるで姫の封印を語るかのような神社があります。

それは、姫の姿でもあり、姫を祀る一族の姿でもあります。

ここには、封印した一族と封印された一族の両方が隣あわせで暮らしていた。

だから空海は、封印された人々にために、この延命地蔵菩薩をほったのではないかとこの伝説から私は思いました。

四国八十八ヶ所と同じように、四国4県に定められている、

 「四国別格二十霊場」

先日お話した、松山市の文殊院もこの中の一つです。

そして、一番札所は、あの鷲が三島明神をさらっていったといわれる

「徳島県板野郡」

四国別格二十霊場は、四国八十八ヶ所と同じように姫の封印に関わる場所を意味していると思われます。

今年は、行ける範囲で、別格にも行ってみたいと思っています。

これらに行くことで、ここでどんなことがあったのかが見えてくるような気がしています。

そしてその近くに存在する神社と合わせてみることで更にその場所で何が起こったかが見えてくるような気がします。

*正善寺 (四国別格二十霊場 11番札所)
*愛媛県西条市丹原町今井141-1
*本尊 : 生木地蔵菩薩
*開 山 : 弘法大師   
*宗派 : 高野山真言宗
【御詠歌】
一夜にて 願いを立つる  みこころは 幾代かはらぬ  楠のみどりば

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今日は、この曲を選んでみました。

今日の空はとても澄んで、月が光輝いていました。
そして、月の下には、まるで寄り添うかのように明るい星が輝いてました。

海と山と小さな村、そんな場所に暮らしていた古代の人々の目にうつる月や星はもっともっと
神秘的に見えていたのでしょうね。 星と月のあかりだけの世界って、どんな世界なんだろう。。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-27 23:25 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は、2月3日節分。そして明日は、立春ですね。

節分は立春の前の日、本来は季節の変わり目を意味し、立春を一年の初めと考えるところから大晦日という意味もあります。

いよいよ、本当の2012年のスタートということですね。

ですから節分は、前年の厄、邪気を祓うという意味があります。

しかし、これも本来は「陰陽道」と深い関わりがあります。

「豆まき」は、皆さんも子供のころから当たり前のように行っている風習ですが、これは、悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う意味があります。

豆まきは、平安時代宮中において大晦日に盛大に行われたといいますが、古くは中国から伝わり文武天皇の時代、日本に伝わってきたといわれます。

あれ? と思われたかと思います。

そう、この豆まきも、姫の封印によって始まったものなのです。

「節分」 の 「鬼」 とは、姫のことだったのです。
鬼にされた姫の怨霊を恐れた人々が怨霊を追い払うため、また、自分たちが犯してしまった罪を祓いたいという気持ちから始まったものだったのではないかと思っています。

そして、姫の封印に大きくかかわった 「陰陽道」が、この節分が行われる起源にもなったのです。

以前にも少しお話しましたが、日本独自の考え 「風水」 の中でことば 「鬼門」がこの節分とも繋がっています。

「鬼門」とは、北東を意味します。そして 「裏鬼門」は西南を意味します。

北東を鬼門とよぶようになったのは、姫を祀る一族が住んでいた場所が、都から見て北東の方向にあったからです。

姫を祀る一族への門。 それが 「鬼門」とよばれるようになった理由の一つだと思います。

それと、中国の春秋戦国時代に書かれたともいわれる『山海経(せんがいきょう)』に書かれた内容が、一致したともいえます。

「東海の中に度朔山(どさくざん)がある。頂に大きな桃の木があって、三千里にも渡って蟠屈しており(渦を巻くように曲がりくねっており)、その枝の間の東北を鬼門といい、多くの鬼が出入り口となっている。
頂には二人の神が居て、ひとりを神茶(しんと)、ひとりを鬱壘(うつりつ)といい、悪鬼を調べ取り締まる役目を負っている。
害をもたらす鬼を葦の縄で捕らえて虎に食わせる。このことをもとにして黄帝は礼の決まりを作り時々これを払い、桃の木でつくった大きな人形を門戸に立て、門に神茶と鬱壘そして虎を描いて葦の縄をかけ、凶悪な物の精鬼を防いだ」と。>

そして、鬼門の方角は十二支では、丑と寅の方角(うしとら)に当ります。

ですから、鬼の姿は十二支の意味する牛の角をもち、トラのパンツを身に付けています。

節分の鬼とは、最後まで抵抗し続けた蝦夷がいた場所、最後に姫を祀った早池峰の山の方角に住む、十二支の 「牛」と「トラ」の姿の鬼のことだったのです。

また丑は「12月」をしめし、虎は「1月」をしまします。
鬼門とは、一年のうちの ちょうど「12月と1月」の間にやってくることになります。

だから、立春を一年の初めと考えていた昔の人々は、立春の前の日を、鬼門のいるという鬼を祓うために、そして何事もなく平穏に春を迎えることができるように、節分という行事を始めたのではないかと思います。

「鬼」に変えられてしまった姫。

通常行われる節分は、 「鬼は外、福は内」 と言って豆をまきますが、
「福は内、鬼は内」 というところもあります。

例えば、新宿区歌舞伎町、稲荷鬼王神社。
白龍を、白狐に変えられてしまった稲荷ですが、ここは、

「鬼王」として「月夜見命」「大物主命」「天手力男命」の三神を祀っているそうです。

月夜見命=瀬織津姫が、鬼にされたことをちゃんと伝えているのでしょう。

また、役行者によって封印された
奈良県天川村の、天河神社。

鬼は全ての意識を超えて物事を正しく見るとされているため、前日に「鬼の宿」という鬼迎えの神事を行い、鬼を迎い入れてから節分会をするそうです。

天川村においても鬼にされた姫。 でも、その鬼こそ嘘偽りのない正しい世界を知っている、また姫の存在が立春の日にいなくてはいけない存在だということを物語っているかのようです。

そして、もうすぐ日付が変わりますが、明日は立春(2月4日)。
立春とは、太陽黄経が315度のときをいいます。

冬至で生まれた太陽が、本格的に始動し始める時が立春。

節分も、立春も太陽信仰に基づく考えかたからきています。

立春の前の節分が、平安時代より盛大に行われるようになったのも、姫の封印に深く関わりがあるのではないでしょうか。 

古代からあった、月信仰と太陽信仰ですが、
アマテラスの誕生とともに、月は姿を消し、太陽だけの世界となったことを、節分や立春が物語っているように私は思います。

さて、前おきが長くなりましたが、今日は今回の西条の最後の神社のご紹介です。

ここは、西条祭りが行われる4つの神社のうちの一つ、

「石岡神社」です。

ここも、神功皇后にまつわる伝説が残っている場所。そしてその伝説は、とても重要なことを言っています。

石岡神社は、

神功皇后が三韓から凱旋の際、皇子を奉じ武内宿弥と共に此の岡で、天地地祇を奉斉されたことが起源となっているといいます。

西条の神功皇后の伝説は、戦いに行く前に立ち寄った場所はなく、全てが戦いが終わった後に立ち寄ったとされる場所です。

その中でも、ここ石岡神社は、「新羅征討の祝い」の行ったとされている場所なのです。

ただ立ち寄った場所ではなく、ここでどうして祝いが行われたのか、そこに深い意味があると思っています。

神功皇后は、その時ここで歌を詠まれたと伝わり、その歌が今もここで伝わり続けています。

「橘の島にしあれば川遠み さらさで縫ひし我が下衣」

これは万葉集の中の歌として知られている歌のようなのですが、この歌がここで歌われたことはほとんど人が知らないようです。

神功皇后は、 ここを 「橘の島」 と言っています。

橘とは、「不老不死の果実」があるといわれる島 「常世」を表します。

「橘の島」 とは、常世の国、伊予の国の中にある島。ということが、ここではっきりとしたのではないでしょうか。

しかし、この歌を訳してる内容を見ていると、どれも何か違うような気がします。

どうして、祝いが行われたこの岡で、この歌を詠んだのでしょう。

全く違うかもしれませんが、神功皇后の気持ちになって少し考えてみました。

そして、私の中で浮かんできたその意味は。

「橘の島にし居れば川遠み さらさで縫ひし我が下衣」

「橘の島は瀬織津姫という聖なる水を司る女神の場所、だから姫を守る人々と戦った私はここから川はこんなに近くにあるのに遠くに感じるのです。
だから、今の私はこの水で下衣をつくる布をさらすわけにはいけない。
私の下衣は、この水でさらさずそのまま縫うことにしまします。」

神功皇后は、姫の聖なる水が宿る場所では、その水を新しい神の宿る水へと変えるための儀式を行っていました。

聖なる水は、真奈井の水、瀬織津姫の水だと思っていたのです。

だから、戦いに勝利した祝いの場で、その水を使うわけにはいけなかったのだと思うのです。

自分の魂が篭っていると考えられていた下衣をつくる布をその水でさらす(清める)わけにはいけなかったのではないでしょうか。。。。

ここ石岡神社の石岡とは、祝いの岡(祝いが岡)がやがて (石岡)になったといわれています。

*石岡神社
*西条市氷見乙1345-1
*祭神
 誉田別命(ほむだわけのみこと)
 気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
 三女神(さんにょしん)

一の鳥居

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二の鳥居。ここから境内に入ります。
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まるでお城の幣のような入り口です。
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まっすぐに続く広い参道。
この中に一歩足を踏み入れた瞬間、姫の空気が漂っていました。
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参道の周りは神域。木々の間から差し込む光が、とてもまぶしい。
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拝殿が近づいてきました。
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拝殿
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境内を取り囲むように、多くの境内社があります。
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本殿
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境内にたつ御神木
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最近、なんだか目に付く神社
「高良神社」
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この木が、ここで一番大事な木かもしれません。
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全部ご紹介しきれませんでしたが、ここにこの他にも多くの境内社があります。
そして、最後に参拝した境内社は、「条内神社」でした。

ちょうど夕日が沈む時間だったから、また奇跡の瞬間を見ることができました。
条内神社の前にある小さな鳥居の中央にちょうど夕日が入りました。
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この太陽の光の道は、そのまま小さな社へと続いていました。

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とっても素敵な神社でした。戦いがあったこの地に眠る姫。でもそんな空気などどこにもなく、ただ静かに見守る姫の姿が見えるかのようでした。
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そして、少し高いこの岡からは、古代の謎が眠る山が聳えていました。

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ブログを書いている間に、日が変わり立春になりました。

今日はいよいよ、古事記のお話をされている 「宮崎みどり」さんにお会いします。

新居浜から、ブログをご覧になってくださっている方も一緒に参加することになり、
7人の姫で行ってきます。

まるで北斗七星 「姫」 と同じ。

ということは、姫というより天女ですね。

本当は8人の天女が舞い降りたのに、1人だけ衣をなくしてしまって天へと帰れなくなり、7人になってしまった天女。 
それも 「8」 に意味があったから。
もしかしたら、明日、天女は8人にもどるのかな。。。。。。

2012年の立春、それぞれの天女たちの新たなスタートの日となりますように。
そして、それが幸せへの1歩となりますように (合掌)




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-04 01:37 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日も、引き続き西条市のお話です。

西条市は、ここ数回お話しているように、賀茂氏がその勢力を拡大していった場所、そしてちょうど古事記の時代、世の中を大きく動かした場所の一つでもあると思います。

今日は、その中心地に鎮座する、賀茂氏の神社

「加茂神社(かもじんじゃ) のお話です。

水の都とも言われるほど地下水が豊富な町です。
「うちぬき水」と呼ばれる地下水は、国の名水百選にも選ばれています。

西日本最高峰、日本七霊山霊峰石鎚山は山岳信仰の山でもあり、空海も修行した山と言われていますが、この山岳信仰の起源も、賀茂氏と深いかかわりのある役行者が開いた山とも言われています。

しかし、ここにも、多くの謎が隠されていると思っています。

そんな石鎚山から瀬戸内海へと流れる川が、「加茂川」 です。

そして、この加茂川の東に賀茂氏の本拠地だった場所があります。
また、その東隣には、秦氏がこの地を開いたとされる場所があります。

加茂川の西には、アマテラス荒魂を祀る、「伊曽乃神社」、その西隣には、「石鎚神社」があります。
アマテラス荒魂とは、伊勢神宮でもはっきりしているように、「瀬織津姫」のこと。

西条市に本来祀られていた瀬織津姫の中心がここにあります。

大化の改新で賀茂氏の力が一揆に拡大し、ここに祀られていた姫の姿は次々と封印されてしまったのだと思います。

そしてその時、京都の賀茂神社から勧請し、賀茂郷氏神として祀られたことが、この加茂神社の起源です。

京都の賀茂神社とは、

賀茂御祖神社(通称「下鴨神社」)と賀茂別雷神社(通称「上賀茂神社」)のことをさしています。

賀茂御祖神社は、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれています。

神武天皇を導いたといわれる、「八咫烏」は、この賀茂建角身命の化身と言われています。

この伝説から、「八咫烏」とは賀茂氏だったということがわかると思います。

そしてもう一方の、賀茂別雷神社とは、
賀茂氏の祖神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祀ります。

賀茂別雷命は、雷(いかづち)の神、厄を祓いあらゆる災難を除き給う厄除(やくよけ)とされています。

この両社が朝廷の崇敬を受け始めたのは、飛鳥時代後期、文武天皇あたりからです。

しかしここも、もっと昔から神は祀られていました。
それは、はっきりとしたことはわかっていませんが、賀茂御祖神社の社伝では、神武天皇の時代に、「御蔭山」に祭神が降臨したと伝えられています。

また、賀茂別雷神社の社伝では、、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝えています。

どちらも起源は、神武天皇の時代です。

でも、この時祀られていたの真の神は、瀬織津姫です。

賀茂御祖神社に祀られる 「玉依姫命」と同じ名前の姫は古事記にも出てきますが、ここに祀られている玉依姫命は別の姫といわれ、その姫とは、

『山城国風土記』逸文に書かれた姫のことを表すといいます。

ある時、玉依日売は石川の瀬見の小川で川遊びをしていました。
すると、川上から一本の丹塗矢が流れ下ってきました。
この丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、玉依日売は男の子を産みました。

それが、賀茂別雷命です。

賀茂別雷命が成人した時、
建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、
天に向かって杯を手向け、賀茂別雷命は昇天したといいます。

そして、丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神、大山咋神。

大山咋神は、大山積神と同じ上を表しているということは、この伝説の中にも、姫から大山積神へと変えられて秘密が隠されています。

古事記とは違う伝承。 ここに、賀茂氏の秘密があるのではないでしょうか。

徳島ののらねこぶるー​すさんがおっしゃっていた、賀茂とは一つの氏族ではないと言っていたことが、ここにあるような気がするのです。
それは、賀茂氏の中にも、秦氏の血を受け継ぐものがいたのではないかといことです。

二つの氏族の中に生まれたもの。
また、同じ一族の中で向かう方向が変わってしまったもの。

私は、これが歴史をさらにわからなくしている理由の一つかもしれないと思います。

それは越智氏も河野氏も同じ。
同じ一族の中でも別々の大和(倭)へ分かれてしまったものがいたのではないかと思います。

今日、あることを調べている時に、ギリシャ神話にたどり着きました。

太鼓の時代、人々は「母性社会」 、女神を信仰(ガイヤ信仰)する世界でした。

(ガイヤ信仰)とは、
地域の安全と繁栄、豊饒、家庭の幸福、子孫繁栄、そして社会の平和を守ること。

「母の愛の世界」です。

しかし、時代は進み、人々が豊かになっていくごとに、その信仰は 「男性信仰」へと変わっていきました。

権力、英雄、戦い、力、人間のために利用する信仰へと。

そして、その信仰の頂点にたった神が、「雷」の意味を持つ、「ゼウス」です。
紀元前2000以上前から始まった、女神信仰と男性信仰の争いです。
今の世界は、女神信仰はすっかり姿をなくし、男性信仰の世の中へと変わってしまいました。

それは、人々が信仰する神の変化と同じように変化した、人間の生き方そのものともいえます。

人間がより豊かになるためには、「愛」ではなく、「力」 だった。

確かに争うことで、新たな時代が生まれ、争うことで競争が起こり、よりよい世界を作ろうとしてきたのかもしれません。

でも、あまりにも 「力」だけの世界になってしまったために、人は 「多くの愛」 を忘れてしまった。

それは、日本だけに限らず、現代で言うならば、今の資本主義社会全体がそうなのかもしれません。

人間のために、地球を壊し、自然を壊し、弱いものは強いものに負ける。それは動物の弱肉強食の世界とは違う、欲望の限りに行われる競争の世界。

神とは関係のないこと、と言われてしまえばそれまでですが、

「女神」の存在は、人間の心と共通するものがあるような気がします。
また、世の中のあり方とも、共通すると。

女神信仰から、男性信仰へと変化し今の時代がつくられました。

でも、そろそろ、男性信仰だけの世界は終わりにしいないといけない時代になってきたのではないかとおもうのです。

これからの時代は、女神だけでもなく、男神だけでもなく、
また、今の日本が歩んでいる 太陽が 「女神」 (女が男) になるのでもなく、
女神と男神が一つになり、その両方のよいところを生かしながら、新しい世の中をつくっていくことではないでしょうか。

私は瀬織津姫の復活の意味は、そこにあるのではないかと今感じています。

「再生・復活の水 落ち水」 は、月と太陽が一つになることができなければ私たちのもとへ降り注ぐことも、
聖なる泉に湧き出ることもないのではないでしょうか・・・・・。

*加茂神社
*西条市福武字新田甲1442-1
*祭神
鴨別雷神(かもわけいかづちのかみ)
健角見命(たけつぬみのみこと)
玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)  

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拝殿
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本殿
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境内社
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拝殿の左後ろの山の少し上に、境内社が見えました。
その社へと向かう階段だけ、ほんの少し違う空気が流れている気がしました。

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階段の上にある、小さな社。

なぜかここに、姫がいるような気がしました。
この山の自然が、姫を伝えているような。。。。。

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-03 00:12 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(3)

こんばんは。

明日で、写真展が終了します。
この間スタートしたと思ったら、もう終わり、二週間なんてあっというまですね。

なんだか、少し寂しい気がします。

でも、このブログを読んでくださり、何人もお越しくださった方がいて、会場に名詞をおいていたのをお持ちいただき、県内外から沢山の方からメールをいただき本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

皆様、本当にありがとうございました。

次回の予定は、全く決まっておりませんが、またぜひ開催したいと思っています。

次がいつになるか、またどこでさせていただけるか、これもご縁がある時に決まると思っていますので、どんな場所で、いつさせていただくことができるのか、私も楽しみにしています。

その時まで、時間のゆるす限り神社やお寺に足を運び、いろんな風景を写真に納めたいと思っています。

また、これもこれまでのご縁がもとで、一番新しい 「経済レポート」に、写真展と愛姫伝の記事が掲載されました。

もし、機会がありましたら、ご覧ください。

経済レポートという雑誌ですので、瀬織津姫のことは記事としては出せませんでしたが、神社や歴史に興味を持っていただける機会になればと思っています。

では、今日のお話です。

今日も、昨日の続き西条市です。

前回ご紹介しました神社 「飯積神社」から東へ少し行ったところにあるお寺

「西福寺」 です。

ここは全く行く予定ではなかったのですが、次の神社へ行く途中前を通り思わず車を止めてしまい、お参りをさせていただいたところです。

大きな門を入ると、立派な本堂と、弘法大師の像がありました。

姫が封印された神社の近くには、弘法大師ゆかりのお寺があることが多いのですが、ここもその一つでした。

このお寺は、兵火で、全て焼失し詳しい由来は残っていないようなのですが、
弘法大師が開基したお寺だということは、わかっているようです。

西條西国三十三霊場 第4番 でもある

「 医王山東光院西福寺 」 

現在は、「篠山」 というところにありますが、元はすぐ隣の 「下島山」にあったようです。

ご本尊は、

「大日如来」 です。

弘法大師が開基され、天正13年(1585)兵火で焼失するまでは、壮大なお寺であったといいます。

全て焼かれてしまった後、廃虚の中、堯上人が僧院を建立しました。

そして元禄時代に、現在の篠山に移転されたそうです。

境内には篠山城というお城の跡がありますが、今はそこに、「地蔵堂」と新四国八十八所霊場の石仏がおかれてあります。

ここは前回ご紹介した神社 「飯積神社」の氏子の地域です。

やはり、ここに弘法大師がお寺を開基したということは、ここも姫の封印さいに何かが起こった場所なんだろうなと思っていたところ、同じく「飯積神社」の氏子である、お隣の新居浜市大生院のお寺に、それに繋がる由緒を見つけました。

ここは西条市と新居浜市の境目の地区になるのですが、このお隣新居浜市の 「大生院」 とよばれる地区も
「飯積神社」の氏子となります。

その同じ氏子の中の、もう一つのお寺が 

「石鉄山往生院正法寺」 といいます。

「西福寺」 の由緒は残っていませんが、こちらの正法寺には残っていたのです。
お寺がある地区の名前 「大生院」は、正法寺の院号「往生院」からきているといいます。

そしてこのお寺の起源は、「泰氏」にあるというのです。

応神天皇の時、多くの泰氏が戦乱の中日本にやってきたと言われていますが、ここではそれが、始皇帝の末裔だと書かれているようです。

また、このお寺では、泰氏、

「我が国に帰化した」 と書かれてあります。
泰氏は、日本人になったということです。

その時、天皇は、泰氏たちを山城の太秦(ウズマサ)に住まわせたといいます。

その後、仁徳天皇(5世紀頃)の時、天皇は泰氏を各地に分散させ、ここ西条にもやってきました。
そして泰氏は、蚕を養い、絹布を織らしめたといいます。
(しかし、これより100以上前卑弥呼の時代には、すでに織物の技術はわたってきています。)

それから、泰氏はこの地で一大豪族となっていったといいます。

しかし、このお寺が建立されるのは、さらにそれから約300年後のことです。

ここで昨日の 「鴨族」のお話にもどりますが、

鴨族が、お隣の西条市小松に移住したのは、 

雄略天皇(456~479年)です。

泰氏は  (313~399年)。

泰氏は、鴨族が移住してくる (100年以上前)からここに来住し、豪族となっていたのです。

鴨族が、ここ西条を本拠地とするのは 大化の改新(645年)。

この200年の間に、泰氏と鴨族の間に何かあったこと私は思うのですが、このお寺が建立されるのは、奈良時代後期から平安時代ころといわれます。

その時代は、西条は鴨族の本拠地となり、泰氏の力は衰えていたはず。

しかし、このお寺を建立したのは、お寺の起源によると 「泰氏」 

七堂伽藍を有する巨刹正法寺という名で、創建されました。

このお寺を建立したのは、本当に「泰氏」なのでしょうか?

それとも、別の泰氏、またそれは鴨とも繋がる 「泰氏」 だったのでしょうか。

医王山東光院西福寺と、石鉄山往生院正法寺(大生院)、二つのお寺があるこの地区が、

「飯積神社」の氏子だとすれば、この地区は、どちらもやはり元は 「瀬織津姫」を祀る 「泰氏」の国。

しかしその名前がなくなってしまったということは、奈良時このお寺も、封印するために、またもしくは魂を沈めるために建立されたものだと思います。

そして、弘法大師はそれを知り、神社の近くにお寺を開基したのではないでしょうか。

もう少し詳しく調べないといけませんが、ここに「泰氏」と「鴨族」の当時の背景をみることができるかもしれません。

これを調べていてわかったのですが、姫の跡は、石鉄山往生院正法寺(大生院)の方に、色濃く残っています。泰氏一族が住んでいたという場所に。
ここで大きな争いがあったのではないかと思うほどに、多くの封印された姫の姿、また、まさかと思ってしまうほど、当時の歴史に繋がる跡があります。

今度、近いうちにこのお寺へと行ってみたいと思います。
そして、このお寺の周りに点在する姫の跡にも、行ってきます。 そうすればもっと、はっきりとその背景が見えてくると思います。

*医王山東光院西福寺(下島山)
*ご本尊:大日如来

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薬師堂
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鐘堂
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本堂
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観音霊場
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大師堂
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そして山の上に、石仏に囲まれた地蔵堂があります。
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ここに入ると、不思議な感じがしました。

こちらのご本尊は、密教において最高仏として位置づけられた、大日如来。
不動明王(滝に祭られる姫)は、大日如来の化身とも言われます。

そして、地蔵菩薩は、苦しんでいる人々を、無限の大いなる慈悲の心で包み込み救う菩薩さま。

ここにくると、何かに包み込まれているようなそんな不思議な感覚がしたのは、地蔵菩薩さまのおかげでしょうか。





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by ldc_nikki | 2012-02-01 00:00 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

今日から、西条市へと移ります。
西条、新居浜は、今治市から1時間ほどで行くことができる近い場所なのですが、いつも松山をスタートとしているのでなかなかくることができませんでした。

でも、それも今考えると後からくるところだったからかなと。

今回、西条へ入り、一つわかったことがあります。

それは、時代が大きく変わろうとしている時、姫を祀る「小千家」と争っていた相手は 「賀茂族」だったのではないかということです。

そして、その賀茂族の本拠地は、ここ西条にありました。

もちろん、賀茂族が西条に入ってくる前は、西条も姫を祀る一族が住んでいました。でも、もう早いうちから賀茂族はこの西条周辺に入ってきていました。
しかし、賀茂族の正体は複雑で、その姿がまだはっきりとわかりません。

というのが、賀茂族は一つの氏族だけをさしているのではないかもしれないということです。

三島明神を、徳島県へとさらっていった 「鷲」 もまた賀茂族で、その賀茂族の本拠地は徳島県板野にありました。 

鴨(賀茂)族は、その勢力を少しづつ増していき、701年、その力は最高潮に達したと思います。

今から、約1500年前、雄略天皇の御代、葛城氏本流は滅ぼされました。
そして時を同じくこの時、鴨(賀茂)族は、全国各地に開拓移住したと書かれています。

葛城氏と鴨族との関係は、もう少し調べていかなければいけませんが、今私が思うことは
雄略天皇により、滅ぼされた葛城氏本流は、 「鴨族」となって全国へと散らばっていったのではないかということです。そして、時がくるのをまっていたのではないかと。。。

全国各地に移住した鴨族の一つは、最初、現在の西条市、旧小松町の四国八十八箇所、香園寺の辺りに移り住みます。
しかしここにも、それ以前から祀られる神はいました。それは、2000年前からだと思われます。

ここへ移り住んだ鴨族は、本国から背負ってきた「葛城山麓」 に鎮座の 「高鴨大御神」 の御分霊を、荒野の守神として祀ったことが始まりだといいます。

ここに祀られた神は、土佐一宮高賀茂大社と同神、そして、石鎚山を開いた、役の行者の祖神でもあるといいます。

役の行者については、また後日ふれることとしますが、1500年前に、この地に移り住んだ鴨族、また、徳島県の鴨族は、それぞれ時がくるのをまつかのように少しづつその勢力を蓄えていたのかもしれません。
 

そして、645年。 大化の改新の時、
鴨族は、ここから少し東へ行った、西条市加茂川の近くを、大化の改新の条里制により、

「神野郡賀茂郷」 と制定され、郡司 賀茂氏の本拠地となったのです。

これで、天智天皇の跡が西条に多いことも繋がります。
でも、もしかしたら天智天皇は本当にここで命を落としたのかもしれない。。。。

また、西条市の越智氏族が、後に 「楠」の姓に変わったとされる伝承がることも、この 「鴨族」 そして 「役行者」 に繋がってくるのです。  

これについても、また後日ふれるとしますが、700年前後、この伊予の国での戦いにおいての敵の中心的な場所が、ここ西条にあったのだと私は感じています。

空海が、この場所に4つの四国八十八箇所を置いたことも、納得がいきます。

バラバラにお話することになるので、少しわかりにくいかもしれませんが、その意味が繋がった時、もう一度まとめてお話したいと思いますので、それまで一緒に考えてみてください。

645年、大化の改新より少し前、593年、推古天皇の時代、大山積神は瀬戸へと祀られることになります。
これは、大三島へその勢力が伸びていることをしめします。

この時、天逆鉾が徳威の宮より大三島宮へ奉遷されていることも、気になります。

また、同じ年、佐伯 鞍職が厳島神社を創建します。

これも、あまりにも偶然とはいいがたい出来事です。

厳島神社は、以前にもお話しましたように、この時からさかのぼること200年前、大三島の神を勧請したといいます。

厳島神社もまたこの時から、何かが動き始めたのではないでしょうか。

突如として現れる、越智氏の祖の「鉄人伝説」も、同じころです。

以前から、この時代にきっと何かあると思っていたのですが、この時から少しづつ準備が進められていた。
だから、後の古事記のさまざまな記録が、ここから急激に増えてくるのだと思います。

実は、今、このブログを書き始めてから、一揆に私の中でさまざまなことが繋がってまだ、うまく整理ができていません。
これから、少しづつ整理しながら、もう一度きちんとお話したいと思っています。

では、今日の神社をご紹介します。

今日の神社は、 「飯積神社」 です。

紀元4世紀の新羅征伐から凱旋した神功皇后と夫の仲哀天皇が帰途の道中、この地で自生していた櫟(いちい)の大樹にて笏(しゃく)を作り 新羅征伐で戦死した兵の鎮魂の祭犠を現在の社叢のある場所で奉じたことがこの神社のはじまりとされています。

このとき笏を作られた境内の櫟の樹がこの故事によって神木として祀られており、このため古来では櫟津神社(いちいづじんじゃ)との名称で呼ばれていたと伝わります。

また、ここ飯積神社は、西条祭りの三神社の一つです。
西条祭り三神社とは、 

石岡神社(氷見・橘地区)、伊曽乃神社(神戸・大町・神拝・玉津・西条地区)、飯積神社(玉津・飯岡地区と新居浜市大生院地区)

しかし、同じ西条祭りでも、

■石岡神社と伊曽乃神社は、楽車(地元ではだんじりと称する)御輿屋台(地元ではみこしと称する)

■飯積神社では太鼓台。

ただ、石岡神社の石岡神社では御輿屋台のことをさして「太鼓台」と呼んでいる。

また現在は、この3神社にもう一社加わり、嘉母神社(禎瑞地区)の祭礼も、西条祭りの一つとされるようになったそうです。

どうして、片方はだんじりで、片方は太鼓台なのか。
そして、それと同じように、新居浜と伊予三島は太鼓台なのかも、今度考えてみたいと思います。

話は、神社に戻りますが、ここ飯積神社は、神功皇后が起源になっていると書かれてありますが、
祭神の中に、

「國魂愛比売(くにたまえひめ)」 が祀られてます。

國魂愛比売(くにたまえひめ)とは、 「愛比売命」のことです。
愛媛の女神 「愛比売命」が、こんなところに祀られているとは私もびっくりしました。

ここには、きっと姫が祀られていたのだと思います。

伊予の国における 姫が祀られていた場所には、神功皇后の跡があります。

ここは、神功皇后の時代、紀元前4世紀ころは海だった場所です。
島のように浮かぶこの場所は、船が入る入り口だったのかもしれません。

それぞれの主要な場所へと入るための、伊予の国の海の入口には神宮皇后の跡があります。
唯一ないのは、今治だけです。

神功皇后が立ち寄ったとされる場所は、当時の主要国。封印されていく過程において、重要な場所だったのだと思います。

ここも、きっとその一つではないでしょうか。

*飯積神社 (いいづみじんじゃ)
*西条市下島山甲1883
*主祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと・稲荷神)
*配神 :國魂愛比売(くにたまえひめ)、
      十城別王(とおきわけぎみ)、
      足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)
      気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)

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階段を上がると、まず境内社があります。

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「今宮藤原神社」
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そして、拝殿。
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本殿
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今週末、西条で行われる古事記のお話。
これもまた、不思議なご縁を感じています。

私が賀茂氏の存在の意味に気づいてから、行くとこともきっと偶然ではないと。

安部清明の神社で古事記を伝えている知人と、陰陽師により封印されてしまった姫を追いかけ、古事記の真実を探している私が、龍神のご縁で出会い繋がり、2012年立春の日に会う機会を頂いたことは、偶然ではない気がしているのです。(私の勝手な思い込みだと思いますが^^;)

お互いが不思議とずっと会いたいと願っていて、敵などと思ったこともなく、それどころか、手と手を取り合いたい。そんな気持ちさえこみ上げてくるのも、そろそろ1300年の争いに終止符をうつときなのかもしれない時がきているのかな。なんて一人勝手に思ったりしています。

争うのではなく、けなすのでもなく、ただ本当の姿を知るだけ。
そして、姫の姿を少しでも表の世界へとあらわすことができたら。 

そして、二つの神が、一つになり、本当の姿になるだけ。

古事記も、大切な日本の歴史。
でも、それと同じように、歴史から封印されてしまった神も、それにより命を落としその存在もなくしてしまった多くの人々も、日本の大切な歴史。

どれも、大切なものには変わらないと思いませんか?

どんな歴史も、どんな存在も、全てが繋がっていて、どれも存在しなければ今の私たちは存在していないのだから。

全てが、一番よい未来をつくるために起きてきた出来事だと、全てが必要な存在だと、私は思いたいと思います。
また、そう思うことで、全てのわだかまりが解け、全てを認め合えることができるのではないかと思うのです。

それが一番難しいことでもあるかもしれませんが。。。。
いつかそんな日がくることができたら。。。。。。 心からそう思います。

また、きっと瀬織津姫もそれを願っていると思います。







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by ldc_nikki | 2012-01-31 00:42 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

あっというまに、もう12月。
2011年も、残り後1か月ですね。

皆様にとって、2011年はどんな年だったでしょうか。

今年は、1000年に一度といわれる規模の、地震が起こり、激動の1年となりました。
来年は、いよいよ2012年。 龍の年です。

さまざまな変化が起こる年になるかもしれません。
でも、未来に向かって通らないといけない道かもしれません。

「道」 とは、 道教で、 「タオ」 といい、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す言葉だといいます。

道の字は辶(しんにょう)が終わりを、首が始まりを示しているといいます。

「道」 何かが終われば、また何かが始まる。
言い換えれば、何かが終わらなければ、また新しい何かも始まらないのかもしれません。

別れがあれば、出会いもあるように、 終わりがあれば始まりもある。

道とは、それを繰り返しながら、前へと進んでいくものかもしれません。

だから、終わりを恐れず、新たな始まりを受け入れることのできる強い心を持っていたいと思います。

では、今日の神社のご紹介です。
今日は、前回少しお話した、 天智天皇由来の神社です。

ここは、神社庁には登録されていない神社です。
たまたま、何かを調べている時に見つけたのですが、その内容にびっくり。
伝説とはいえ、こんな場所に、こんな伝説があるなんて。。。。 と驚きました。

瀬織津姫が、封印されようとしている時代、その鍵をにぎる天皇の一人でもあります。

斉明天皇の皇子として、生まれた天智天皇は、なぜか、ここ愛媛にとても深いかかわりがあるようです。
斉明天皇と共に、訪れた愛媛、そして、まだ宮浦へ大山祇神社が建立される前に、大三島を訪れ、斉明天皇自身も、そして天智天皇が崩御された後は、天智天皇が、 「鏡」を奉納され、現在も大山祇神社で大切に守られています。

天智天皇は、旧暦12月3日に崩御されたと伝わりますが、
その最後は、謎に満ちていて、今もまだ本当のことはわかっていません。

日本書紀によると、は「天智10年(671年)9月に病気になり、12月3日に近江宮で崩御され、11日にもがりした」と書かれています。
そして、その御陵は、京都市の山科陵(やましなのみささぎ、山階陵)に比定されています。

しかし、一説には、
天智天皇は、ある日、山科に馬で出かけた。ところが、いつまで経っても帰りがなかったので、山科一帯を探したところ、天智天皇の靴のみが落ちていた。そこで、靴が落ちていたところに墓を作ったと書かれてあります。

私も、もしかしたら、日本書紀に書かれてあることは、嘘ではないかと思っていました。

では、山科の中で行方不明になった天智天皇は、どこで崩御されたのかと、ずっと疑問に思っていた所、
もう一つの、天智天皇崩御の伝説が残る場所を、愛媛に見つけました。

そこは、斉明天皇がよく訪れていた場所、 今治市朝倉から、東へ車で30分くらいのところ
西条市の山の中にありました。

地元の伝承として残るこの場所は、中心地から少し離れた、小さな集落の竹林の中にありました。

地元に残る 郷土史には、こんな内容が書かれています。

「天智天皇が京都をお立ちになった後、ひそかに当国へ行幸なされたが、この地に崩御あそばされ、おそれおおくも御陵地とせられた所で、後世の人が神社としたものである。」

その神社が、今日ご紹介する、 「御陵神社」です。

「天智天皇はある日、馬に乗り山へ出かけた」 そして、その後、行方がわからなくなった。
天智天皇は、もしかしたら、そのまま、斉明天皇とよく訪れたこの伊予の国へ来たのかもしれないと思ってしまうような神社でした。

行き止まりで車を止め、道に迷っていたら、1匹の黒アゲハが、細い道の入口から突然出てきました。
時々、道に迷うことこうして現れる 黒いアゲハ蝶。

私たちは、この細い道に間違いないと思いました。
そして、ここもまた、瀬織津姫さまが導いてくださったのだと、思いました。
きっと、ここは、姫さまのことを知るうえでとても重要な場所だったのだと思います。

重要な場所で、必ず現れる黒い蝶。 本当に不思議です。
姫さま、ありがとうございます。

蝶に案内して頂いて、進んで行くと、神社の名前が書かれてありました。
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山の中を歩いていくと、鳥居が見えてきました。
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鳥居をくぐり、階段を上ります。
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拝殿が見えてきました。

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天智天皇を祀る 御陵神社
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本殿
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生い茂る木々の合間から、夕日が差し込みます。
天智天皇の真実もまた、瀬織津姫と同じように、闇の中に封印されてしまったのかもしれません。
でも、生い茂る木々の合間から入りこむ光のように、その闇の中にも、少しづつ光が入りつつあるようなきがします。
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今日は、午後から子供たちと一緒に、注連縄つくりに挑戦しました。
今まで一度も行っていなかったので、今年初挑戦です。

注連縄つくりは、地方によって作り方が違うみたいです。
他の地方で、どのように作っているのかはわかりませんが、ここ今治に伝わる注連縄は、「八」 の数字が、見事に組み込まれていました。

まず、 わらを、8本づつ、2束用意します。

「8」 + 「8」 = 16

いきなり最初から、 「8」 そして、四国八十八ヶ所と同じ 「8」 がふたつです。
全ての源、 そして、 最高の力をもつ、「8」 

8本づつの束を、それぞれの束ごとに、ねじり合わせながら、二つの束をさらにねじります。
これには、「陽の8」 と 「陰の8」 これ以上ない組み合わせです。

そして、二つの束を 8回ねじり合わせた所で、その間にさらに 1本のわらを加え合わせます。

1回ねじり、今度は 5本のわらを加え合わせます。

そして、また、1回ねじります。

最後に、3本のわらを加え合わせます。
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右側が私、左側が息子がつくったものです。

両手で、わらを丁寧にねじり、全てが一つになるようにねじり合わせる。
まるで、古事記のお話と同じですね。

そして、それを、一つの輪に繋げます。

そして、1本、5本、3本づつ入れたわらを 中央にまっすぐおろし、
その輪と繋げるのです。

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この「1」 と 「5」 と 「3」 にどんな意味があるのか、聞いてみましたが、その理由はわかりませんでした。
ただ、「神様ごとには、奇数しか使わないね」 とおっしゃっていました。

それは、「陽」 にあたるからでしょうか。 

最後に、うらじろと、だいだいを結ぶのですが、この時の向きは、
真ん中のわらの順番が決まっています。

右側が 「1」 真ん中が 「5」 左側が「3」 になります。

そして、うらじろは、裏側の白い方が表むきになります。
そうして、全てを結びつけると出来上がりです。
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注連縄は、 「蛇」 をあらわしているといいます。
そして、お正月に飾る、「鏡餅」 もまた、 「蛇」 を表しています。

そして、オレンジ色のだいだいや、みかんは、 蛇の目、蛇の頭をあらわしているとも言います。

また、後日蛇のお話をする時にもお話しますが、
「蛇」 は脱皮をし、 新しいからだに生まれかわります。
だから、新年を迎える時には、 蛇をあらわした、注連縄や、鏡餅をかざるという言い伝えもあるそうです。

お正月の注連縄には、その年の年神さまが、注連縄を目印に降りてこられるといいます。
蛇は、そういう意味もあるのだということに最近気づきました。
蛇のお話は、また後日。。

伝統を受け継いでいくことは、とても大切なことですね。
親から子へ。そして、孫へ。
こうして、ずっとずっと受け継いできてくださったことに、心から感謝しています。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-12-02 17:20 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(8)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。
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