カテゴリ:四国八十八カ所( 24 )

三角寺

こんばんは。

三連休いかがお過ごしですか?
私は今日から三日間のお休みです。
昨日と今日はあいにくのお天気でしたが、
明日は少し晴れそうですね。

今回お話会をすることとなり、
改めてこのブログの大切さを実感いたしました。

お申し込みをされた方のほとんどが、
このブログをご覧いただいている方で、
また、今は面識のある方でも、
始まりはみんなこのブログからでした。

しばらく、神社やお寺のことを書いていないにも関わらず、
ずっと見てくださり、
本当に感謝しています。

今、本当に時間がなく、
以前のようには書く事ができませんが、
少しづつまた神社やお寺のことを書いていきたいです。

歴史の難しいこともですが、
皆さんの神社巡りの道しるべになれたらいいなと思います。

今日のお話は、

愛媛県四国中央市にある、
四国八十八ヶ所65番札所 三角寺です。

今年は、四国八十八ヶ所1200年祭ということで、
ここ愛媛にも沢山のお遍路がさんの姿を見かけます。

近年、歩き遍路をされる方が増え、
あちこちで、歩いているお遍路さんの姿を見かけます。

四国ならでは光景。
四国意外では見ることができないのではないかと思います。

人々の生活に溶け込むお遍路。

いつまでも、続いて欲しいなと思います。

「三角寺」

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愛媛県の最後の札所となるこのお寺は、
四国中央市の山の中にあり、
奥の院は、ここから更に山を超えた反対側にあります。

四国中央市は、
歴史上とても重要な場所の一つで、
三島とも深い関わりのあるところです。

今から1300年前、
歴史が大きく変わるあの時代に、
一つの大きな舞台になったところではないかと
思うほどです。

徳島県、香川県、高知県の県境にあるこの町は、
とても位置的にも重要な意味を持つ場所。

四国最大規模の、
横穴式石室を持つ古墳もここにあります。

そんな場所にあるお寺の名前も

「三角寺」

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弘法大師も、
四国でたった一つの、三角の護摩堂を築いて21日間、
国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法する。


この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、
寺院名の由来ともなっているいいます。

これが、
その三角の池。

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三角の護摩堂は、
ここ三角寺意外にはありません。

そして、この三角の護摩堂の中で、
「降伏護摩の秘法」と言われる秘法を修法する。

降伏護摩とは、
五無間を犯し、方等大乗を謗じ、仏性を殷滅し、君主に背逆し、正法 を惑乱する、
是くの如きの人に於いては降伏法を作すべし。

「五無間」とは、
無間(むけん)地獄に落ちる5種の悪業。
母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、
仏身を傷つけることの五つ。五逆罪。

「方等大乗」とは
不変平等の真理を説きあらわした 経典。

「仏性」とは
仏の性質・本性

「殷滅」とは
隠れて見えなくすること

そして、君主に逆らい、

仏の正しい教えの
判断を失うもの。

これらに用いる秘法
それが、

「降伏護摩の秘法」

この秘法を、ここで修法したことが
意味すること。

それが、
ここであったことを意味しているのかもしれません。

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本尊である
十一面観音は、古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、
信仰されており、

「子宝杓子」といって、子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、
仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられています。

どうして、杓子が子宝に恵まれるものとして
考えられているのか。

それは、「杓子」が
女性を意味するもの、女神を意味するものだから。

女神の体そのものだからです。

「三角」

女神の体の中で、
特別な秘法を修法した弘法大師。

この場所は、
それをしなければいけない場所、
それをするために一番適した場所だと
思ったからかもしれません。

使われるものには意味がある。
それをすることにも意味がある。

それが例えただの伝説だったとしても
そこには必ず、意味がある。

今度のお話会では
そんな話もしたいと思います。

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by ldc_nikki | 2014-11-03 00:17 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。
最近平日は、ゆっくりと歴史のことを考える時間がなく、
なかなか更新ができなくてすみません。

文章を書く時は、
頭の中から他のものを消してしまわないと、上手く書けません。
音楽をかけ、気持ちを落ち着かせ、脳の中を空っぽにする。

そして浮かんできたことを、ただひたすら文章にする。

こうしてブログや、歴史のお話を書く時は、
浮かんでくる言葉に意識を集中させます。
そうすると不思議と、次々言葉が浮かんできます。

時々自分で書きながら、新たなことがわかったりもします。
書くことは、自分自身に気づきを与えることにもなります。

また、こうして残しておかないと、時間がたつと、
何を考えていたかも忘れてしまうことがあり、
日記のように書くこの文章は、私の中で浮かんだ記録を残しているのかなとも
思えたりします。

不思議ですね。

さて今日は、フェイスブックで書いたものを同じ内容になりますが、
四国八十八ヶ所をご紹介したいと思います。

第59番札所 金光山 最勝院 国分寺
今治最後のお寺、国分寺は、今治市の東に位置し、旧越智郡朝倉村との境目にあります。

国分寺がおかれる山は、古代から信仰の対象になっていた山で、
多くの古墳が見つかっています。
ただ残念なことに、この山は高度成長期にあちらこちらを崩され、住宅やマンションとなり、昔の形を今にとどめていません。

先日も、愛媛県各地で遺跡を彫っている方とお話したのですが、愛媛県の考古学で一番の汚点は、この山を何の調査もせず、崩してしまったことだとおっしゃっていました。

今となっては、二度と元の姿を見ることはなく、
その時壊され、捨てられたものを復元することもできず、
真相は闇の中に葬られたままとなってしまいました。

高度成長期、日本のあちこちで行われた開発によって、多くの遺跡や古墳は崩されてしまったと言います。
あの有名な高知県のストーンサークルもその一つですね。
もうこれ以上、山や土地を崩したり開発したりするのはやめてほしいと私は強く思います。

「国分寺」
とは、741年(天平13年)、
第45代 (奈良時代)聖武天皇が仏教による国家鎮護のため
日本の各地につくらせたお寺のことで、国分寺の近くには、ほとんど場所で国府があったともされています。
今治もその一つで、奈良時代、伊予の国の国府がおかれた所でした。
国府のあった場所は、はっきりと今も見つかっておらず、今も謎のままですが、この国分寺からそう遠くないところにあったとされていて、現在一番有力な場所は、ここから少し北へ行った
拝志という所だったのではないかと考古学の間では言われているそうです。

拝志は海のすぐ側にあるため、私自身は少し違うのではないかと思っていますが、その場所を特定することはできません。
ただ、私の中でとても気になる場所があり、その近くではなかったのかと思う所があります。
それは、あの役行者と関係のある場所で、役行者が石鎚山に入る前にいたとされているところです。

聖武天皇から「国分寺建立の詔」と言われるものが出されたのですが、その内容は

・各国に七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経すること。
・自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること。
・国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすること。
などでした。

聖武天皇はなぜ、日本中に国分寺を建立させたかと言うと、
当時日本は、地震や飢饉、台風等自然災害に見舞われ、また、日本中で伝染病が広がり多くの人が亡くなりました。
そんな世の中が平穏になるようにと、奈良に東大寺を建て、国分寺を建立するように命じたのでした。

ここでとても気になるのが、
国分寺におかれた塔は、七重塔だったということです。
国分寺以外のお寺では、三重塔、五重塔また八重塔というものもあります。
それなのに、国分寺でつくるように命じたのは、全て
「七重塔」だったということです。

そして東大寺におかれた大仏。
そして、法華経。

私は聖武天皇が本当に恐れていたものが、ここにあらわされていると思っています。

伊予の国分寺におかれた七重塔は、
高さ60mほどあったとされ、豪壮な七堂伽藍を構えた
寺院でした。

古代の謎を秘めた朝倉や、古代の今治の交通の要だった川、
頓田川からすぐの場所につくられた国分寺。
今治の東に、
聖武天皇の勅願により行基菩薩が東の仏、薬師如来像を彫造。

弘法大師はここに長く滞在し、
「五大尊明王」の画像一幅を奉納。
弘法大師の弟子・真如も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納めたと言います。

そして国分寺の横に神仏習合の形を今に残す神社、
春日大社が置かれることもまた、ここの意味を物語ってるように私には思えるのです。

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「春日大社」
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by ldc_nikki | 2013-07-27 04:17 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(6)

愛媛巡礼

こんばんは。

今週から新しい職場に行き始めました。
以前からつきたかった情報発信の仕事です。

半分以上が営業の仕事にはなりますが、
これもきっと何かの役に立つ。
今、与えられた仕事を一生懸命にすることが、次へと繋がると信じ、
後はできることを精一杯するだけですね。

3月4月は、引っ越しや移動、新しい職場や学校など、
別れと出会いの月。
皆さんは、どんな春を迎えているのでしょうか。

先日、久しぶりに、動画をつくってみました。
今回は、四国八十八か所の動画です。

菩提の霊場 愛媛。

なかなか愛媛まで来れない皆様。
動画でほんの少し、愛媛の雰囲気を味わっていただければ嬉しいなと思います。

またこの動画に使っている音楽は、
実際の四国八十八か所のお寺の鐘の音を使いつくられたものだと言います。

愛媛巡礼。

心の中へと向かう旅。 皆様の何かのお役にたてると幸いです。。。。





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by ldc_nikki | 2013-03-06 22:26 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

第43番札所 源光山 円手院 明石寺 
げんこうざん えんじゅいん めいせきじ

伊予の国 四番目の霊場は、
三間町のお隣の町、宇和にあります。
三間町から山を越えると古代南予の中心的な町として栄えた宇和町につきます。
宇和は、「弥生の里」と言えるほどの多くの弥生時代の遺跡があります。宇和からは、九州地方との文化の繋がりを感じさせるものが多く出土しています。
その中でも、銅矛(どうほこ)は5例以上に上ると考えられており、宇和にある歴史博物館に展示されてある銅矛は、まるでおとぎ話に出てくるような立派な銅矛。
また、宇和からは、瀬戸内海地方で多く発見される、平形銅剣が発見されており、今治や松山の道後地方との関連性が考えられるとても貴重な場所です。
それは古墳にもあらわれ、「古墳時代初期」のものがここからも発見されています。
愛媛の古墳時代初期の古墳が見つかっている場所は、
「宇和町」 「松山市」 「今治市大西町」 「今治市唐子山」この中でも今治市唐子山は、古墳時代以前のお墓が見つかっているところでもあります。 
このようなことから宇和は、ちょうど卑弥呼の時代、300年前後に大きな豪族がいたと考えられています。

四国八十八か所は、平安時代に開基されたものですが、
実はこの弥生時代からの歴史が大きく繋がってきているのです。

ここ43番札所明石寺に残る伝承は、そんな古代に栄えた宇和歴史の流れが見える伝承の一つです。

 「明石寺」は、現在は 「めいせきじ」と読みますが、本来は「あげいし」と呼ばれていました。 
その名前の由来には、一つの女神の伝説が残っています。
神仏習合の名残を残した明石寺は、明治維新まで神仏習合の寺院で、住職を別当職と呼んでいました。
ここも本来は神を祀る場所でした。
しかし、6世紀、欽明天皇の勅願により円手院正澄という行者が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るためお寺を創建し、その後、天平六年 (七三四) 役行者小角から数えて五代目に当たる寿元行者が、紀州より熊野十二社権現を観請し十二坊を建てて修験道の中心道場となりました。
その後、弘仁13年(822)に弘法大師がこの地を訪れ、荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興したといいます。

そして、女神の伝説。

「その昔、若くて美しい女神が願をかけて、深夜、軽々と両腕に大石を山に運んでいました。
ところが、目の前に天の邪鬼いて、石をかついでいる女神の後ろから 「コケコッコー」と 朝を告げる鶏の鳴き声をしました。
女神は、朝が(太陽が昇る)きたとことに驚き、こんなはずではなかったがと思いながらも、石を置いて消えてしまった といいます。」

この伝説が元となり、「あげいしじ」と呼ばれるようになったと言われています。

この中に出てくる、「朝を告げる鶏」
これはあの古事記の中に出てくる一文と同じ。

「思金神に思はしめて、常夜の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」

アマテラスを磐からだすために、神々たちは、常世の長鳴鳥という 「鶏」を鳴かせるのです。
朝(夜明け)を知らせる鶏。  「東天紅」

朝が来ることを知らせる鶏は、
単に朝を知らせるもにではなく、太陽の出現の象徴でもあります。月から太陽の時代への以降をこの伝説が物語っているのです。

伊勢神宮が20年に一度行う 「式年遷宮」の儀式の始めに、宮司さんは、この鶏の鳴き声を3回されます。
それは、天の磐戸の再現です。

古事記では岩から出てきたことをあらわしていますが、
ここ明石寺では、太陽の出現によって、女神は石を置いて消えてしまう。交代を意味するのです。

そしてここ明石寺は、弘法大師が水を出した所でもあります。
弘法大師はある所では水を出し、ある所では水を出ないように封印したりします。
水に関する伝説が多い弘法大師ですが、私はどうして弘法大師は水を出したり、止めたりするんだろうとずっと不思議でした。
人々のために水を出すだけならまだしも、大切な水をとめてしまう場所があることを知った時、弘法大師は単に飲むためだけに水を出していたのではないのかもしれないと思うようになりました。
そんな謎の意味が私なりに理解ができた場所もここ明石寺なのです。

明石寺の本堂に上がる手前を山の方へ行くと、
まるで鳥居のようにそびえる大きな木があり、その向こうに弘法大師由来の湧水があります。
周りには何もなく、ただ湧水だけが存在する場所。
湧水の後ろは山になっていて、どうして水を出した所がここだったんだろうと思いながらそこを立ち去ろうとした時、ふと後ろを振り返ると、あることを思いつきました。

湧水の背後にある山の奥には古墳時代初期といわれる古墳がある場所であり、その向こうには、「鳥殿」 と呼ばれる山があります。ここは、弥生時代栄えた一族の聖域だったのです。
その場所から水を出した弘法大師。
太陽によってその姿を消したしまった女神の水を、もう一度この地上へと出そうとしたのではないかと思ったのです。

弘法大師は、あの室戸岬で、そこに空と海しかないことを知り、空海と名前をつけたと言われます。
それは、私たち人間は、空にも水があり、地上にも水があり、そしてこの大地の下にも水がある。
それはまるで子宮の中にいる赤ちゃんと同じように、私たちは水に囲まれて生きているということを前身で感じたのではないかと思うのです。

つまり地底(黄泉の国)へと姿を消した女神の水をもう一度この大地の上に出そうとしたのではないかと。

地球は「水の星」
水によって生命が誕生し、水によって自然が形成され、水によって命が繋いでいかれる。
空にも水が存在し、地上にも水が存在し、そして私たちの立つ大地の下にも水が存在する。そして私たちの体も水によってつくられている。
水が生命にとってどれだけ大切なものか、今の私たちは頭では理解しながらも、心で本当に感じているかと言うとそうでないかもしれません。

空、大地、地底。
水はそれぞれの場所で、それぞれの役割をはたし、また循環してく。全ての水は全てのもの、全ての生命と繋がっているのです。

原発によって侵された海、川、大地は、
その場所が侵されただけではなく、全てのものに循環していくということを忘れてはいけないと思います。

四国八十八か所は、水と私たちの命、また全ての命との繋がりを頭だけでなく、心で感じることができる場所でもあるように思います。空海は、いつの日が今のような時代がくることを予想していたのでしょうか。
私たちが、いつかそのことを忘れてしまいそうになった時、思い出すためにその人生の全てを欠けて、私たちに多くのものを残してくれたような気がします。

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by ldc_nikki | 2013-03-01 22:24 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

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第42番札所 一カ山 毘盧舎那院 仏木寺 
いっかざん びるしゃないん ぶつもくじ

伊予の国 三番目の霊場は、
41番札所龍光寺と同じく三間町にあります。
龍光寺から車だと数分のところにあるこのお寺もまた
とても意味深い伝説が残っています。

三間町は、その姿がはっきりと見えないものの、
41番札所そしてこの42番札所どちらとも、仏また稲に関係する重要な土地だったことがわかります。

ここ仏木寺の伝承は、
あの高野山に匹敵するほどとても意味深いのです。

弘法大師がここを訪れた時、牛を引く老人に出会いました。
そして、誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にしました。
よく見ると、この宝珠は弘法大師が中国より日本へ帰る途中、「有縁の地が選ばれるように」と、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠だったのです。

*有緑の地とは、仏や菩薩に会い教えを聞くご縁のある地と言う意味や、血縁、地縁など深い関係がある地という意味。

この宝珠を見た弘法大師は、
「この地こそ霊地である」と感得、堂宇の建立を決心したと言います。

この宝珠と一緒に投げた、「三鈷」とは、三鈷杵(さんこしょう)のことで、金剛杵(こんごうしょ)という、密教やチベット仏教における法具のこと。
金属製で杵(きね)の形を し、両端が三つに分かれています。この時投げた、三鈷杵は、高野山の松の木にひっかかっていて、弘法大師は密教を広めるためにふさわしい土地だと感得し、高野山にお寺を建立したのです。
そしてその三鈷杵と一緒に投げた、どんな願い事も叶うという宝珠がこの仏木寺となるこの地の楠の大樹にひっかっていたのです。 方や高野山、方や三間。

三間は、高野山に匹敵するほどの大きな意味を持つ場所だったのです。

また、院号は、「毘盧舎那(びるしゃな)」とは、
「光明遍照」(こうみょうへんじょう)と意味で、
あの東大寺の仏さま、「毘盧舎那仏」のことでもあります。

毘盧舎那は、密教では大日如来とされ、
また、宇宙の真理を全ての人に照らし悟りに導く仏のことともされます

まさに「太陽の象徴」

またこの仏木寺では、弘法大師が宝珠のひっかかっていた楠で、弘法大師自ら大日如来を刻み本尊としました。そしてこの宝珠を眉間に埋めて白毫(びゃくごう)とした。
白毫(びゃくごう)とは、仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされる白く長い渦巻き状になった巻き毛のことです。この渦巻き状になった巻き毛から光を放ち、無量の国を照らします。

弘法大師が投げた宝珠に巻きつけられた白毫(びゃくごう)にはきっと深い意味が込められていたのだと思います。

また高野山では松の木、ここ三間では楠。
この二つの木にも、大きな意味があるのです。

こんな風に、ありえない伝説の中にも隠された大きな意味があるのです。心の目を開き真実に従ってみるものにしか見ることができない真実。ここにも、そんな真実の姿があるのだと思います。

私たちは多くの情報の中に生き、いろんなものに左右され、内なる声や、真実、また本当に大切なものが見えなくなってしまっているように思います。私もずっとそうでしたが、どれが正しくどれが正しくないのか、人の意見に惑わされてきたと感じます。本当に大切なものに出会うために、自分の内なる声を聞くことができるようになるために、毎日ほんの少し、自分自身を見つめる時間をつくってみてはいかがでしょうか。
ここが、そんな皆さんの少しでもお役にたてることができればいいなと思います。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2013-02-27 22:25 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(1)

おはようございます。
今日は、

第41番札所 稲荷山 護国院 龍光寺 
いなりざん ごこくいん りゅうこうじです。

伊予の国 二番目の霊場は、
愛南町から宇和島を飛び越え、三間町にあります。
三間町は、周りを山に囲まれた盆地。
縄文時代早期からこの豊かな土地で人々は暮らしはじめ、
愛媛の中でも、早期から米が栽培されていた所でもあり、
現在も愛媛でもっとも美味しい米がとれるところとも言われています。
四万十川に続く川や、豊かな土壌が、米をつくるのにとても適した場所だったことも、米の産地となった理由でもあると言います。現在も、昔の面影を残すこの三間には、四国八十八か所が二つもあります。
私が愛媛の中で最もその古代の姿がわからない地域でもあります。 

そんな三間町にある四国八十八か所は、どちらもとても何かとても重要な意味をもつお寺。
弘法大師も、ここをとても重要な土地と見ていたことが二つのお寺の縁起から読み取ることができます。
その一つが、ここ、龍光寺。

縁起によると、弘法大師がこの地を訪れた時、
稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、
「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消しました。
大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置したことがこのお寺の始まりで、
この時、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置したと言います。

このお寺の縁起にも書かれてあるように、ここは平安時代も同じように「米」に纏わる伝説が残っています。
お寺の山号も「稲荷山」
現在も、三間のお稲荷さんと呼ばれるこのお寺は、
神仏習合の時代は「稲荷社」とも呼ばれていました。

またこのお寺は、
四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられているのです。

日本総鎮守の神を祀る大三島、大山祇神社
そして、四国霊場の総鎮守の寺 「龍光寺」。

日本は、古代から「稲」で栄えてきた国。
稲は現在は単なる食べ物でしかありませんが、この時代、稲は今のお金と同じようなもの、また権力の象徴でもありました。
しかし、それ以上に太陽の恵みと水の恵み、そして四季折々に変化する気候、自然の恵みを詰め込んだ稲は、人間に豊かさをもたらす神の恵みそのものでもあります。

現代の人々は、お金をえることによって権力を握ろうとし、
見えないところで、人の命を奪おうとし、
古代の一部の人たちは稲のために、多くの人の命を奪い、
権力を握ろうとした。

やり方は少し違いますが、1000年以上前と今はある意味同じなのかもしれません。
しかし、古代以上に今の世の中は、酷いかもしれません。
自然の命までもは奪おうとしているから。

お金が第一の世の中。
本当に今のままでいいのか、この稲の歴史がその答えを教えてくれるような気がします。
稲の神を祀る山に龍が光る。
龍が稲のために今も光っているのかもしれません。

でも、それは権力を握らせるためでも、人間の私利私欲のためでもなく、人がこの世界で生きていけるため。それをここが教えてくれる。心の扉を開いて本当に大切なものを観ることができれば、ここの本当の意味も見えてくるのかもしれません。

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by ldc_nikki | 2013-02-26 08:04 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

第40番札所 平城山 薬師院 観自在寺 
へいじょうざん やくしいん かんじざいじ

伊予の国、菩提の霊場の一番初めのお寺
観自在寺。

愛媛県の最南端にある愛南町にあるお寺です。
一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれます。
このお寺の縁起は、
大同2年(807年)に平城天皇の勅命を受けて弘法大師がこの地を訪れ一本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置したことが始まりとされています。

このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされたと言います。

ここの本尊でもある薬師如来は、
四国八十八か所の中でも多く祀られる仏さまで、古来から多くの人々に信仰されている仏さまです。

薬師如来は東方浄瑠璃世界教主で、
世における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめる仏。
病気をなおしてくれる姿が代表的ですが、
宗派によってはさまざまな意味の仏さまとなっています。

東密(とうみつ)という、真言宗に伝わる密教の中では、
胎蔵界大日如来と書かれたり、天台宗では、東の国の帝たる天皇と結び付けられています。
ここに弘法大師が、どうして阿弥陀如来や十一面観音とともに薬師如来を刻み本尊としたのか、その意味もまた、上に書かれた薬師如来の意味をよく考えると見えてくるのかもしれません。

というのが、
菩提の道場の始まりのお寺の名前が
観自在寺という名前になっていることが、その意味を見なさいとも言っているように私には思えるのです。

菩提の道場とは前回お話したように、
ものごとのありさまを正しくみる道場。自らの心を奥深くまで見ることによって、仏の悟りの心へとたどり着くことできる道場。そしてまたそこには、真実の姿が見える場所でもあります。

観自在とは、あらゆるものを自由に観る事ができるという意味でもあり、見ると観るがその意味が違うように、
あらゆるものを心の目で観るための始まりのお寺でもあるのです。

あらゆるものを自由に観ることができる力をここで授けてくれるのかもしれません。

ベトナムの僧侶、ティクナット・ハンさんの「般若心経〈ハート・スートラ〉」は、こんな書き出しで始まるそうです。
 「あなたはここにある白い紙の中に、ポッカリ浮かぶ白い雲が見えますか?」そこに雲はなくとも、そこに雲があることが見えるか。

皆さんは、一枚のなにも書いていない紙の上に
雲を見ることができるでしょうか?
それは、雲を見てくださいと言われなくても、真っ白い紙の上に雲の存在を観ることができるかということを言っています。

観自在とは、そこに雲がなくても雲あることを知る、観ることができるようになるための場所でもあるということなのです。

白い紙。現代の私たちにとっては、何も書いていない白い紙はただの白い紙にしか見えませんが、白い紙は、一本の樹からつくられます。そしてその樹が成長するためには、水が必要です。では水とはどこから来たのかというと、雲からきたのです。

今の私たちは、白い紙を見てもそこに雲を見ることはできないのではないかと思います。ものはものでしかなく、それがどうやってできたか、そこにはどんな魂や自然からの恵みが存在するのかということを考えなくなってしまったのです。

またこの白い紙のお話は、本来の歴史や本来の女神の姿を見ることにも繋がります。目でみても、いくら文献を読んでも、そこに書かれている事柄をそのまま観ることしかできない、本当は、紙の上に雲を見るように、その先を辿っていった先にあることを見なければその向こうにあるものを浮かびあがらせることができないということを伝えているのではないかと思うのです。

伊予の国、最初の霊場は、そんな観ることができなくなった心の目を見えるようにしてくれる場所として存在するのかもしれないと私には思えるのです。

これから始まる伊予の国の霊場の第一歩が、
観自在とされることがそれを物語っているように私には感じます。

「 観自在菩薩 行深般若 波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうおんかいくう どいっさいくやく」

般若心経の最初の部分です。
「観自在」まずは、心の目を開いて心の奥そこへ向かって行きましょう。
自分の心の中へ入っていく始まりの地、

「観自在寺」

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by ldc_nikki | 2013-02-24 02:44 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

菩提の道場 愛媛の旅


こんばんは。
まだまだ寒い日が続きますが、皆様風邪などひいてないでしょうか。

フェイスブックを見れない方が多いようなので、
同じ内容になりますが、
しばらく忙しくて両方をアップすることが難しいので
こちらにも書きたいと思います。

フェイスブックの方では、
しばらくこのブログでもお話しました大国主命と少彦名命のお話をしていました。

そして
今日からは、お寺のお話をしたいと思っています。
重複になるところもあるかもしれませんが、
もう一度、順に愛媛の四国八十八か所をここでも巡ってみたいと思います。

四国のお寺と言えば、真っ先に思い浮かぶのが、やっぱり四国八十八か所。
最初の頃は神社しか行っていなかった私が、お寺に行くようになったのも、四国八十八か所のお寺がきっかけでした。
それは、そこに弘法大師空海の跡があったらかでもあります。

神仏習合

神さまと仏さまは裏と表の存在で、本来はどちらも一つ。
神も仏も信仰していた弘法大師空海。
そして、愛媛の歴史を語るには、この平安時代に生きた、弘法大師空海をおいて語ることはできません。
また歴史の意味を知るためにも、四国八十八か所の意味を知らければいけないと強く感じています。

私たちの住む日本は、神さまから仏の国へ以降していきました。
「大日如来の本国。」
 この意味が、「日本」と呼ばれる原点とも言われるほど、仏もまた日本にとってなくてはならないもので、その風習を今も受け継いでいます。

今日からしばらくの間は、愛媛の四国八十八か所を順に、お話しながら仏の世界をほんの少しご案内させて頂きたいと思います。

まず今日は、
四国八十八か所について簡単にお話したいと思います。

774年に香川県善通寺市で生まれた弘法大師空海。
幼名は「佐伯 眞魚(さえき の まお」
眞實(しんじつ)の魚と書いて、まおと言います。
そんな弘法大師空海は、793年、19歳の時に大学をやめ、山の中に修行に入ったと言われ、そんな修行の途中、高知県室戸岬を訪れ、御厨人窟(みくろど)と言う大きな洞窟の中から、
空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっています。

そんな空海が、815年に開創されたと伝えられているのが、
この四国八十八か所です。
四国八十八か所は、四つの道場に分かれていて、
阿波国の霊場は「発心の道場」、
土佐国の霊場は「修行の道場」、
伊予国の霊場は「菩提の道場」、
讃岐国の霊場は「涅槃の道場」

と呼ばれています。

愛媛(伊予の国)は、菩提(ぼだい)の道場。

菩提(ぼだい)とは、サンスクリット語でボーディのことで、
悟りを開くための、仏の智慧(ちえ)のことで、
煩悩を取り去り、もののあり方を正しく見ると言ういみでもあり、また密教では、「菩提とは実の如く自心を知ること」とされ、それを「如実知自心」と言います。
自分自身を限りなく見つめ続け、自分の心とは生きとし生けるものすべてが本来持っている菩提心ゆえに、
その自心を真実の方法に従って観察すれば、仏果(仏の悟り)の心に気づくことができる。

すなわち、菩提、仏の心=仏は自分の中にある。

全ての生命、生きるものは宇宙(神)の一部であり、だからその心、仏もまた自分の中にあるということ。

更にその奥を言えば、
もののあり方を正しく見、自心の心の中を真実の方法にしたがって見つめ続ければ、
本来の真実の姿も見えてくるということに繋がるのではないかとも私は思っています。

愛媛が 「菩提の道場」とされることは、
偶然なのか、必然なのか、本来のものの在り方を正しくみる場所であり、自分の心の奥底にある本来の仏の心(姿)を見る場所でもあり、知る場所でもあり、それは、更に奥底まで見続ければ、悟り=真実の仏また神の姿があるということにもなります。

また愛媛を旅することは、自分自身を見つめ、生きる意味、命の意味、生まれた意味、そして、最後は、宇宙の根源である命の源へとたどりつく場所ではないかと思います。

そしてそれが、裏表の存在でもある神にもたどりつき、歴史の本当の姿へと繋がっていく。

2014年、来年開創1200年を迎える四国八十八か所。
この節目は、今大きな変革期にきている世の中を仏の心でもある自分の心の目でもう一度見つめ、自分自身の中の命という意味と向き合ういい機会かもしれないと、そんな機会を空海が与えてくれたのではないかとも思える今日このごろ。

「お遍路」が始まった原点ともされる、衛門三郎が、自分自心の心と向き合うために、真実に気づき全てを詫びるために弘法大師空海の後を追いかけたように、私たちも真実の心、真実の神へと近づくために、
ほんの少しここで四国八十八か所を辿ってみたいと思います。




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by ldc_nikki | 2013-02-23 01:57 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

改めまして、こんばんは。

今日2回目の記事になります。
もしよかったら、まだの方は本日1回目の記事もご覧ください^^

明日は、これと言って予定がないので、今日はもう一つ書いてみたいと思います。

それにしても、寒いですね。
今ブログを書いている部屋には、暖房がなく、ストーブもないので寒がりの私には、ちょっときついですが、
ひざ掛けと、ストールと、温かいカフェオレで、なんとか頑張っています。

皆さんも、急に寒くなりましたので、風邪などひかないようにお気をつけください。

今日2つめのお話は、 「鬼門」 についてと、 久しぶりに 四国八十八か所のご紹介です。

「鬼門」 

家をたてたり、トイレの位置を決めたり、風水でよく使われる 鬼門ですが、
文字の通り、 「鬼が出入りする方角」 として、 さけられる方角ですね。

これもまた、陰陽道の考えかたと言われますが、 古代中国の書物『山海経』にある物語が元となっていると言われます。

しかし、不思議なことに、現在は、日本独特の考えだと言われています。
また、日本の中でも、沖縄には 「鬼門」 という 考えはないそうです。

鬼門とは 「北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位」 のことをさし、またこの反対側として
裏鬼門  「南西(坤、ひつじさる)の方角」 があります。

陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明されていますが、「鬼」 ということばに反応してしまうため、それが、どうしてそうなったのかが知りたくなりました。

そして、調べていると、 この考えは日本だけのものということがわかり、また沖縄ではないということがわかり余計に、この秘密が知りたくなりました。

ちょうど、そんなことを考えている時に、一つの文章に出会いました。

 「八の数は神道の尚(とうと)ぶ所なり。 但し、殊に八を尚ぶのは、艮(ごん)(東北)・八世の卦であるからだ。これ即ち鬼門にて諸神鬼の出入りする所なり。 故に八の数をもって殊に神道の尚ぶ所となす。」

これは、鎌倉時代の神道史家である 卜部懐県賢(うらべかねたか)が書いた文です。

ここにも、でてくる 「卦」の文字。 「八世の卦」 とは、 「八卦」 のことではないかと思ったのです。
そして、「八」 が神道尚ぶ所のは、【艮(ごん)(東北)】が八卦の中の一つであり、 この場所が即ち、鬼門となるということです。
それ故に、 神道は 八を尚ぶと。

【艮(ごん)(東北)】とは、八卦の 7番目にあたり、山・止・狗・手・少男・相続・関節・骨格・節度などを象徴し、
方位としては東北(地支では丑と寅の間)を示します。
そして、急激に暗闇から明るくなる時間帯(1時から5時まで)なので停止・再出発の意味もあるといいます。

東北は 「再出発のために、終わりを迎える場所」 と いう意味を 「鬼」 と合わせたということになります。

そして、ここでいう 「東北」 とは、 「東北地方」 のことを表しているのだと思います。

では、どこを基準に東北とするのかというと、 当時の都 「長岡京」 または 「平安京」。

鬼門という概念が、いつ生まれたかによって、その中心となる場所は若干違いますが、どちらにしても、ほぼ東北となる場所は、 東北地方のどこかになるのです。

東北というと、 最後まで瀬織津姫を守り続けた場所とも考えられ、また、最後まで朝廷に背いた「蝦夷」 がいた場所でもあります。
そして、 この蝦夷を征伐しに行ったのが、 「坂上 田村麻呂」です。

田村麻呂は、四人の副使(副将軍)の一人ではありましたが、中心的な役割を果たしたと言われます。

そして、この田村麻呂後に、「蝦夷」 を倒したことで、 「鬼」 を 退治した英雄として、さまざまな伝説が語り継がれるようになります。
「蝦夷」には、悪路王という伝説の人物がいて、この悪路王が、悪鬼羅刹にすり替えられ、高丸・赤頭とともに「三鬼」と呼ばれる鬼に転じられたというのです。

そして、田村麻呂といえば、毘沙門天の加護を得て、その鬼を倒したと言われるようになったのです。

毘沙門天とは、インド神話の財宝神クベーラを前身とする神で、もともとは、武神ではありませんでした。
それが、中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになったと言われます。

そして、日本では、「邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗る姿」 でつくられています。

この鬼形の上にのる姿は、 「蝦夷=鬼」を征伐したことが原点ではないかと私は思います。
そして、東北では、 この毘沙門天を祀るところが、多く、田村麻呂の伝説も多く伝わっています。

このことが発端となり、東北以外でも、鬼退治の伝説がさまざまな所で作られるようになったようです。

「東北=蝦夷=鬼」 = 「艮(ごん)(東北)」 = 「鬼門」 となっていったと考えられます。

表の鬼門は 「東北」 として表現されているのは、「瀬織津姫」の名前が最後まで残りつづけ、今もなお
「早池峰の女神」 として祀られる場所、 鬼の住む場所だからなのかもしれません。

他の地方に比べ、 「瀬織津姫」 の名前は消されることなく、残っている所が多いこと、
また、 その東北を鬼門とすることで、 「門」 を閉じ、 瀬織津姫を早池峰の山へと封印してしまったのかもしれません。

早池峰の神とすることで、瀬織津姫の名前は残るものの、早池峰の山の神としてその山から出ることのないように、鬼門の地、 停止の地に、封印されてしまったのではないかと思ったのです。

そして、 鬼門の反対側にある 裏鬼門とは、 「四国」 のことです。
これも、偶然にも、そのちょうど反対側にあたる 「四国」 が 裏にあたり、ここもまた、 「裏の鬼の出入り口」となるのです。

「裏」 とは、 瀬織津姫の名前が表に出ていないことを表します。
裏の鬼の場所。 そして、 瀬織津姫の裏が隠されている場所です。

そして、その場所を封印したのが、もしかすれば、 「四国八十八か所」 かもしれません。

本当は、空海は、姫の存在を守るために、後世にその後を残すために、四国八十八か所を造ったと思いたいのですが、 もしかしたら、 空海は、姫を存在を仏によって、封印してしまったのかもしれません。
でも、その封印こそが、 後の世への目印にもなるのだと、 空海の心の奥底で、思っていたと信じたいです。

更に、裏鬼門 「南西」 の位置に、もう一か所 封印する場所が必要だった所が、 大分県です。

大分県に関しては、もっと調べないといけない場所ですが、 全国一、大山積神を祀る神社が多いのも、
「大分県」。 そして、 姫を封印するために、つくられた神社と言ってもいい、 「宇佐八幡神社」

宇佐八幡神社は、朝廷からも、崇拝されて、稲荷神社の次に日本で多く祀られる神社となりました。

この宇佐八幡神社は 神仏習合の神とも言われ、 大分県国東半島は、神仏習合発祥の地ともされます。

仏と神を習合させることにより、 瀬織津姫を封印させてしまった発祥の地なのだと思えるのです。

表鬼門の東北と、裏鬼門の大分。 
二つの裏と表の鬼門を 封印し、鬼がもう一度この世界にでることのないように、呪文をかけられているのかもしれません。
そして、八十八か所も同じように。。。。。

更に、鬼門とは違うかもしれませんが、日本は龍体と考えなれていますが、
その龍体がはしる 「中央構造線」 の東の端、 茨城県には 地震をとめると言われる 「鹿島神宮の石」があります。
鹿島神宮も、瀬織津姫を封印するために祀られた神社の一つ、
そして、偶然にも、 宇佐神宮のある 「大分県」 も中央構造線沿いにあたるのです。

龍の通る道と言われ、 その道は地震を引き起こす場所でもあり、それは、「ナマズ=龍」 が暴れるからだと地震もまた、 瀬織津姫である 龍の存在が引き起こしていると考えられていました。

だからこそ、神宮皇后が、豊玉姫から受け取ったとされる 「満珠干珠」 は、津波を意のままにできると言われる珠。
津波とは 地震によって引き起こされるものであり、その力もまた、神宮皇后によって、封印された。
その神宮皇后を祀る神社もまた、 「八幡神社」 です。

こうしてみていくと、 全てが繋がってきます。

「鬼門」 とは、 瀬織津姫である 「鬼」 を封印するための 「門」 である反面、
鬼が復活してくるかもしれない 「門」 でもあるため、 恐れられていたのです。

鬼門という概念は、 おそらく 平安時代に造られたもので、 だから、 その影響を受けることがなかった沖縄には、鬼門という概念はなかったのです。

このことからもわかるように、今の日本は、この神の封印から始まった文化も多く引き継がれ世の中がつくられているということです。

「鬼」 は、 ある人間たちによっての邪魔者の姿。
鬼門もまた、同じ。 だから、本当は、鬼門なんてないのです。 そして、 鬼門の封印をとくこともまた、よい世の中をつくるために必要なことなのかもしれません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、今日のご紹介 四国八十八ヶ所 56番札所 泰山寺です。

泰山寺は、愛媛県今治市にあるお寺で、弘法大師の開基とされています。

弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころのことです。
今も流れる蒼社川は、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたたといいます。
村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていました。

この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。

大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけました。
これが、このお寺の起源とされます。

この泰山寺という名前は、一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれています。

もともとは、 現在のお寺の裏山 「金輪山」に建てられ、、七堂伽藍を備え10坊を持つ大きなお寺でしたが、
兵火により衰退し、現在の場所に移築されました。

この山号 「金輪山」 は、どうしてこの名前が付けられたのかは不明ですが、
この泰山寺の裏の山は、 古代 「鉄」 を作っていた場所であるとも言われ、ここから少し南へ行った山の中で、 「たたら製鉄」 が見つかりました。

また、スサノオの伝説が残る山もすぐ隣接してあり、 この辺一体が、 「鉄」 の 町だった可能性がとても高いことから、 このような名前がついたのではないかとも思います。

また、このお寺のご本尊は、 

「地蔵菩薩」 です。 大師自らが掘ったものです。

地蔵菩薩とは、大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられた名前。

そして、、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、
弥勒菩薩の代わりに、 六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされます。

また、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いていると言われ、地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入るとも言われます。
地蔵菩薩が与えた水のみ、黄泉の世界に住む鬼たちは、水を飲むことができると言われています。

空海は、鉄の町であり、出雲とも関係の深かったこの地を封印する代わりに、 地蔵菩薩をつくり、鬼たちの供養、鬼たちの魂を鎮めようとしたのでしょうか。

また、お寺の名前にも付けられている、「勅王院」 も、とても気になる名前です。
どうして、ここに 王の勅命による院とつけられたのでしょう。

それだけ、ここは、特別な場所だったのかもしれません。

そして、一つだけはっきりと言えることは、 
空海が八十八ヶ所と定めた場所は、瀬織津姫に繋がるということです。

【追加】
11月24日、今日、新たなことがわかりました。

この 「金輪山」
陰陽道では8番目の星を金輪星というそうです。

この金輪山は、「8」でもって、封印されたお寺だったのです。
そして、この裏山も。 ということは、この山には封印しなければいけない何かがあったということになります。


第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺

本 尊: 地蔵菩薩(伝弘法大師作)
開 基: 弘法大師
創 建: 弘仁6年(815)
住 所: 愛媛県今治市小泉1-9-18

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                               【弁財天】
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                               【大師堂】
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                                【本堂】
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今治の中で、唯一まだ来ていなかったお寺。
家からそう遠くないお寺なのに、 今までなかなかくる機会がありませんでした。

でも、これも、きっと、今行くことに意味があったような気がします。

考えてみれば、このあたりは、小さいころよく遊んだ場所でもあります。
祖母がこの近くに住んでいたので、 よく、遊びにきていました。
見渡す限り 田んぼで、 家はほとんどありませんでした。 

春にはレンゲが一面に咲き、 レンゲを積んで、首飾りをつくりました。
夏は、あぜ道の横を流れる小さな川で、 めだかやオタマジャクシをとっていました。
秋にはつくしを探しにきて、 冬は、たこあげをしました。

今は、そんな風景はどこにもありません。

今より何もない時代でしたが、 子供の頃の方が、幸せだったような気がします。

ブログを書いていたら、ふと、あの光景が目に浮かんできました。

日本の食べ物の象徴 「米」 今でも、神社の神事では、お田植え際があり、収穫祭があります。
そして、神々の名前は変えられても、 「稲の神 食の神」 として、豊受大神が祀られ、アマテラスと共に、崇拝されています。 
豊受神もまた、瀬織津姫のもう一つの姿であり、 オオゲツヒメでもあります。

その田んぼが、日本からどんどん消えていってしまっているこの光景を、姫はどんな思いで見ているのでしょう。 女神も、言霊も、 田んぼも、その他 古代の日本の文化、思想が、消えていってしまうことは、日本がなくなってしまうことに繋がるのかもしれないと思いませんか。。。。。。






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by ldc_nikki | 2011-11-23 03:33 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(5)

こんばんは。

今日は、久しぶりに四国八十八ヶ所のお寺のご紹介です。

でも、このお寺は、今治に伝わるスサノオの伝説に関係のある場所に建立されたお寺です。
今治市のお寺なのですが、今まで一度もまだ行っていませんでした。

今回、ここを訪れ、もしかしたら、スサノオの伝説に関係があるかもしれないと、思いました。
聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、開創された延命寺とスサノオの伝説のお話です。

大化の改新(645)以後、現在の市や郡にあたる地名がつき、〇〇「評」と呼ばれていました。
そして、大宝律令(701)以後、「評」を「郡」に改めました。

現在の今治市は、この時、越智郡と乃万郡に分けられていました。

現在の、野間・波止浜・波方・大西地区が当時の乃万にあたり、ここの大氏神さまは、春の継ぎ獅子で有名は野間神社です。
この野間神社に関係する、スサノオの伝説が、今も今治に伝わります。

まずは、このお話です。

 昔、紀伊の国(今の和歌山県)から幾日も航海されて、現在の大西町九王(旧大井村)のあたりにお着きになった須佐之男命は、天の磐く樟船(普通『磐く樟船』と言えば神話に出てくる伊弉諾尊<いざなぎのみこと>、伊弉諾尊の子、蛭児(伊弉諾伊弉冉<いざなぎいざなみ>二神の間に最初に生まれた子)を乗せて流したという、楠の木で造った堅固な船をいいますが、ここではこの船とは関係なしに、同型の楠の木でつくった船だといわれています。)で品部川を上られました。

 船から降りられた須佐之男命は、更に牛に乗られて、今の (宅間、野間、延喜) を経て 「阿方」 のあたりを通られようとしました。
 
 ところが、 「阿方」 の村人の中に、随分意地の悪い者がいて不浄物をかけるなど色々と悪だくみをし、わざと須佐之男命の通られるのを邪魔しました。

 須佐之男命はいたし方なく、矢田の方にまわられ神宮の地にお着きになりました。
ご自身が乗って来られた磐く樟船を置かれた神宮の奥の熊野峰というところで、牛に食物を与えてご自身も休まれました。

 この磐く樟船が、長い年月の間に化石になったといわれており、今は摩滅して跡を見ることは出来ませんが、古老の話では、以前は須佐之男命のご足跡と牛のえさおけの跡が残っていたそうです。
 -「予陽俚諺集」には駒(馬)の足跡とありますが、この地の人は牛のように語り伝えています。

 この化石になったと言われる 巨石は、「石神さん」と呼ばれ、現在も、この野間神社の奥の山にあります。

野間神社は、この巨石信仰からもしかしたら始まった神社ではないかとも言われていますが、
問題は、この神社の氏子のことです。

旧乃万郡は、全て、この野間神社の氏子と言われているのですが、この伝説の中で、阿方と山路だけは氏子に入っていないのです。

その理由は、このスサノオの伝説からきています。
阿方と山路という場所だけは、 須佐之男命が通らなかったということから現在も、氏子ではありません。

このお話を始めて知ったのは、もう一年以上前で、その当時は、不思議だと思いながらも、そんなには気にしていませんでした。

それが、今回お寺に行って、もしかしたら、ここも、神様を葬られたことに関係する場所かもしれないと思いました。 

四国八十八ヶ所 54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺は、
今治市阿方にあります。 

現在は、旧国道196号線沿いから少し山の方へ行ったところにありますが、開創された当時は、
今治の市街地から西北へ6kmほどのところにある、標高244mの 「近見山」 にありました。
山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたそうです。

今では、想像もつかないほど、大きなお寺だったのです。

そして、このお寺は、養老四年に聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立されたのが、始まりです。

聖武天皇は、45代天皇で、大山祇神社が現在の宮浦へと遍座されてから、数年後に天皇となり、
聖武天皇の時代、神亀五年に、愛媛県だけで、94郷、94社に大山積神を勧請するように詔勅をだした天皇でもあります。

 不動明王が、ご本尊の、延命寺を近見山に開創させた理由も、もしかしたら、瀬織津姫と関係があるのかもしれません。 瀬織津姫は、滝に祀られる 不動明王とも同じとも、言われ、不動明王の祀られているところに近くには、瀬織津姫がいらっしゃるとも言われます。

 聖武天皇は、七歳の時に父を亡くし、母は心的障害に陥り、長い間会うこともなく育ちました。
また、この時代は、数多くの厄病や、天災に見舞われ、このようなことが続くのは、大三島の神の名前を変えてしまったことに原因があると思い、この時代に、雷神と高龗神を大山積神と共に祀るようにという命令も下されています。

 大山祇神社には、大山祇神と一緒に祀らないといけない神、雷神と高龗神とは、水の神であり、龍の神でもある瀬織津姫のことだったのだと私は思っています。

そして、小千命の発祥の地とも言われる、近見山の頂上に、不動明王を祀ったのも、御魂と鎮めるためでもあり、 悪霊を追い出すためでもあったのではないでしょうか。

 野間神社が、当時、どのような立場の神社だったのかがはっきりとまだわかりませんので、 どうして、氏子でなくなってしまったのか、その理由をはっきりさせることはできませんが、 
やはり、瀬織津姫の名前を、大山祇神に変えてしまったことに、 氏子になれなかった理由もあるのだと思います。

 また、このお寺は、空海とも深いかかわりがあります。
 空海と瀬織津姫には深い関係があり、特に重要な場所に、四国八十八箇所を置いていますが、ここもその中の一つ。
 空海は、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興。

そして、再三火災に遭い堂宇を焼失し、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地移転したと伝わります。

聖武天皇、行基菩薩、大日如来、不動明王、空海。

ここは、当時の日本の様子がわかる重要な場所のひとつかもしれません。

*第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺
*愛媛県今治市阿方甲636
*本 尊: 不動明王(伝行基菩薩作)
*開 基: 行基菩薩
*創 建: 養老4年(720)
*真 言: のうまく さんまんだ ばざらだん
        せんだ まかろしゃだ そわたや
         うん たらた かんまん

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この山門は、もとは、今治城の城門の一つで、総けやき造り。
明治初期に今治城取り壊しの際に譲り受けたものだと伝わります。
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本堂
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本尊の不動明王は、「火伏せ不動尊」 とよばれ、
宝冠をかぶった珍しい不動明王像で、再三の火災から逃れているのでこの尊名がついたといわれます。

大師堂へ。
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大師堂
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この奥に、近見山と続く山道があります。
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この鐘は、四面に、お寺の歴史が刻まれています。
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聖武天皇は、過去の人たちが犯した過ちを背負って、苦しんだ一人かもしれません。

その時は、自分のため、自分の望みをかなえるために犯してしまったことが、
後の子孫に、苦しみを与えてしまう。
それを象徴するかのような、時代かもしれません。

私たちが今していることは、私たちの子供、孫、そして後の世に続く子孫にとって、幸せな世になるでしょうか? 
今、この時さえよければいい、 自分さえよければいい、今の時代のことだけを考え生きることは、
そろそろ終わりにしなければいけない時期にきているような気がします。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-07-28 00:23 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。
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