無量寺 しだれ桜

こんばんは。
今年は桜の開花が早く、愛媛でも桜が咲き始めました。
ソメイヨシノはまだ満開になっていませんが、今治で有名なしだれ桜が今週満開となりました。

その場所は、
今治市朝倉町の「無量寺」です。
夜になるとライトアップされそれはそれは綺麗です。

昨日、今年は無量寺の桜を見たいと思っていたので、
満開の便りを聞き行ってきました。

歴史の秘密の宝庫朝倉「無量寺」は、
多くの伝説が残るお寺です。

その時代は、飛鳥時代から奈良時代へ以降する、ちょうどその頃。
斉明天皇の時代にあります。

斉明天皇は、一般的な歴史では、北九州の朝倉へと行きそこで最後を迎えたといわれています。
しかし、ここ今治市朝倉には、斉明天皇ゆかりのものが多数存在し、また伝説も多く残ります。
ここ無量寺もその一つなのです。

無量寺は、斉明天皇と一緒にこの地へとやってきた
お伴の僧侶、無量上人により、浅地、 車無寺 ( くるまんじ ) の地に開創したことが始まりとされます。
そして、斉明天皇は、この無量寺の元の名、
両足山天皇院車無寺を、小千の皇子のために両足山安養院車無寺と呼ぶことにし、
小さな皇子の無事を願い祈願したと伝わります。

この小さな皇子のことを斉明天皇は自分の子供のように寵愛し、
可愛がっていたといいます。
しかし、言葉が話せず生まれつき体が弱かったので、無事大きくなって欲しいと願い祈願していたのです。

しかし、その願いも叶わず、皇子と皇子の母はなくなってしまいます。

無量寺の本尊は、阿弥陀如来。
秘仏で、聖徳太子一刀三礼の御作と伝えられます。

そしてこの無量寺には、他にも大量の仏像があったといい、
斉明天皇の亡き後これらの仏像は、北条のお寺へと移さされて行きました。
どうして、ここにあった仏像が西条へと移されなければいけなかったのか、その理由は今も謎のままです。
しかし、その仏像のいくつかは今も西条で大切に保存されています。

一説には、地震によりお寺が崩壊したため、
北条へと移されたのではないかと言われていますが、私はそれは全くの間違いで、移されたこともまた歴史の謎に大きく関わっていると思います。

そして、このお寺が建てられた、朝倉「浅地」という場所は、この小さな皇子とその母の伝説が残るように、
斉明天皇はもちろん、歴史が封印されたことに大きく関わった土地なのです。
また浅地だけでなく、この辺り一帯が大きな意味を持つ場所なのです。
斉明天皇のお墓もここにあり、斉明天皇の名前をとってつけられた地域も存在します。
しかし、そのお墓の近くには、「藤原」が住んでいた場所もありました。

ここ数か月、何度も朝倉に足を運び、
再度、いろいろなことを調べてきました。 
その結果は、ブログの中では控えさえていただきますが、いつか本に全てを書きたいと思います。

きっと多くの人は、この説を信じることができないかもしれません。
でも、いつか信じてもらえる日が来ると信じています。

桜は人々の罪や穢れを祓ってくれる木だと言われます。
無量寺のしだれ桜は、この地で起こった多くの過ちを今もこの地で祓ってくれているのではないかと思うほど、それはそれは美しく咲きます。

無量寺の山号 「龍門山」 
ここは、龍の里への門、入口です。

昨日NHKで蝦夷征伐のドラマをやっていましたが、
それと同じこと、いえそれよりももっと理不尽なことがここで起こりました。
斉明天皇も、あの皇子も、あの皇子の母である姫も
その歴史の渦に巻き込まれてしまいました。

繁栄、発展、権力、私利私欲、地位、名誉、
それらが欲しい人たちに、潰されてしまったのです。

繁栄や発展は、
命がなければ成すことができません。
もちろん、繁栄すれば豊かになり、発展すれば裕福になれるかもしれません。
しかし、それは命あってのこと。
人の命だけでなく、動物たちの命、自然の命、この地球上にある全ての生命の命が繋がれなければ
その向こうに繁栄も発展もないのです。

どちらがより大事なのか、それを間違ってしまったのではないかと思います。
その延長線上の世界が今にある。
もう、多くの人が気づいていると思います。今の世界の過ちを。
その過ちの発端はここにあるということを、私たちは知らなければいけません。

太陽と月、どちらもなければいけないもので、どちらも大切ですが、
どちらがより大切なのか。
発展と命、どちらも人間にとって必要なものですが、どちらがより大切なものなのか。

太陽と発展は同じことを意味し と 月と命は同じことを意味する。

どちらも大切ではありますが、よりどちらを優先するかによって
世の中は大きく変わっていく。
そのことに、一人でも多くの人が気づいてくれることを日々願い続けています。

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by ldc_nikki | 2013-03-24 20:30 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(6)

こんばんは。

今週に入って、急に愛媛も涼しくなってきました。

暑さ寒さも彼岸まで。
と昔から言われていますが、この時期になるとその言葉がいつも頭に浮かびます。
そして毎年、本当に昔の人が言う通りだねと。

時代は変わっても、ずっと受け継がれていく
昔の人の教え。
そんな教えも、最近なんだかあまり言われなくなってきたなと思う今日この頃。
この教えの中には、私たちが思っている以上の
ふか~い意味があります。

いつまでも、絶えることなく、伝え続けて行ってほしいなと思います。

「厚さ寒さも彼岸まで」

こんななんでもない言葉でも。。。。

今日のご紹介は、前回の続き朝倉です。
朝倉はもうずいぶん前になりますが、続けてお話したことがありますが、
この今治の中でも、古代の歴史を見るうえで、外せない場所です。
昔は、ここが中心的な場所だったとも思える伝承が数多く残されています。

今日ご紹介する神社も、
そんな歴史の秘密を知る上で、とっても大事な神社です。

以前もお話したように、朝倉は、斉明天皇のゆかりの地。
ともいえるほど、多くの伝説が残っています。
地名にも天皇に繋がる地名が多いことでも知られています。

昔は、朝倉へと流れる現在の頓田川がもっと入りくんでいたと言われ、
今ではそんな面影などありませんが、天然の良港としてとても開けた所でした。
しかし地元に残る歴史では、
天武天皇の時代におこった大きな地震で、この港が使えなくなり、
だんだんと中枢としての機能が果たせなくなり、衰えていったといいます。

しかし、私はそれだけが原因ではないと思っています。
以前にもお話した、朝倉のお寺にあったと言われる多数の仏像が、
どうして北条へと運ばれていったのか。
その理由も、姫の封印に関係があったのではと思っています。

一つ一つの神社の伝承を繋ぎ合わせ、
初めてその姿が見え始めてきました。

朝倉も、歴史とともに封印された場所だった。
それが、最近になってわかってきました。
それがどういう意味かは、まだここではお話できませんが、
今日ご紹介する神社は、その謎をとくためにもとても重要な神社です。

*八幡大神社
*今治市朝倉下甲74番地

現在の祭神は、
誉田別命(ほむだわけのみこと)

しかし、ここには八幡神社が勧請されるもっともっと前から、
神さまが祀られていました。

その神さまのことを、
「晏坂の神」といいます。

「晏」とは、安らか。という意味でもあり、
女性をなだめて落ち着かせるという意味もあるといいます。
ここが、「晏坂の神」と呼ばれていたのは、
封印された姫の姿をあらわしているような気がします。

このことばを見て少し思ったことが・・・・。
お彼岸に、神さまにお供えてすることからはじまった、
「ぼたもちやおはぎ」
これらにあんこを用いることも、この名前に繋がるような気がします。

斉明天皇7年5月、
歴史上、斉明天皇の最後を迎えるこの年、
一般的な歴史では、5月に九州の朝倉へついたということになっています。
しかし、この神社の伝承では、
同じ年の同じ月、斉明天皇は、この伊予の国の朝倉へときました。
そしてその時、
この神社に祀られる、「晏坂の神」に天下太平・五穀豊穣を祈願をされたと言われます。

その後、
キーワードの年でもある、

和銅5年8月に大三島宮を勧請して合祀し、
「真宮明神」と言われるようになりました。

その後、 貞観元年8月、宇佐より八幡宮を勧請して一社を建立されたといいます。

しかしこの時は、真宮明神と八幡神は、まだ別々の社殿でまつられていたようです。
そして文禄11年に両社合併して現在地に奉遷し、現在の形となりました。。

本来、ここは姫を祀っていたと思われます。
そして、斉明天皇は、大山祇神社でも、八幡神でなく
姫に参拝をしていたのです。
斉明天皇の由来は、ここだけではありません。
そして、斉明天皇7年1月6日
斉明天皇がある場所を出発して、九州に向かった。

その途中、1月9日に、
大伯海という海にいたり、大田皇女が皇女を産み、
大伯皇女と名付けたと言われます。

この皇女が生まれた場所も、
この伊予の国だったのです。

大伯海とは、この伊予の国側の瀬戸内海のある場所を指していたのです。

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今も、三島と八幡の二つの神紋を掲げています。

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明日は秋分の日。
太陽が真東からのぼり、真西に沈む日。

この日は、古代の人々にとって特別な意味を持つ日だったのだと思います。
そして今年 2012年は、116年ぶりの秋分の日でもあります。
普段は9月23日が秋分の日ですが、
今年は9月22日。

1世紀に一度起こるか起こらないかのとても貴重な日です。
古代の人は、もしかしたら正確にこのことをわかっていたかもしません。

メキシコのククルカンの神殿では、
年に二度、春分の日と秋分の日に、
天下る巨大なククルカンというトルテカの神の象徴である羽の生えた蛇の姿が現れるといいます。

古代、中国では、
春分の日に、龍が天へと上り、秋分の日に天から降りてきて
深い淵の中へと沈んでいくと考えられていたといいます。

どちらも、
年に二度。竜が天から地上へと降りてくる日。
だから、この日は古代の人々にとって、とても重要な日だったのでしょう。
姫である龍体が、太陽の道を通る日。
先祖の霊を祀る日になったのも、姫の魂への祈りだったのかもしれません。

太陽の道の中に現れる龍。
その龍神である女神に対する、信仰から始まったものなのかもしれません。



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by ldc_nikki | 2012-09-21 22:55 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日のお話は、今治市朝倉にあるお寺、光蔵寺です。

この日は息子が早朝からカブトムシを取りに行くというので、玉川方面へ行ったのですが、まったく見つからずそのまま朝倉へ。

そしてなんとなく、何度も通った道を通っていると、息子が急にトイレに行きたいというので、
どこかないかな~と廻りを見渡すとお寺があるのを見つけました。

お寺なら、行かせてもらえるかなと思い行ってみました。
息子がトイレに行っている間に、お寺の縁起を読んでみると、ここは、越智家の氏寺だとされていたのです。

今まで全く知らなかった越智家の氏寺が、朝倉のこんな場所にあるなんて。。。。

朝倉は、これまで何度かご紹介したように、斉明天皇のゆかり地。
多くの斉明天皇の伝説が残っている場所です。

そしてそれと合わせて越智家の由来も多く、弥生時代から古墳時代にかけて
ここが、越智郡の陸地の中心だったのではないかと思っているところです。

医王山光蔵寺は、
朝倉の高き峰にあることから「高蔵寺 たかくらのてら」とされていました。

推古天皇年 (602年)
旅の薬生僧俊覚日羅上人が伊予国の
大領小千益躬を施療し平癒したことへの報恩により、本尊薬師如来像をお寺のある
水之上(みずのかみ)に安置し、領内に飢饉や旱魃・洪水のないよう領民の五穀豊穣・領内安泰を祈願、自らも延命地蔵王菩薩像を彫って小千氏の氏寺「高蔵寺」を建立したのが医王山光蔵寺の開基であるとされます。

このお寺の縁起を見ておわかりのとおり、
ここは、越智家の中で突然、世の中に名前をあらわしはじめた人でもある、あの鉄人伝説の

「小千益躬」に由来するとされます。

しかし、本来小千家は、神さまを祀る一族なので、こんなに早くお寺を建立するとは考えがたいのですが、
602年。大化の改新の少し前に、ここに建立されたというのです。

もしこれが本当なら、仏教が日本に入ってきて、物部氏が蘇我氏に滅ぼされた後、
神を祀る一族が住む場所にも、少しづつお寺も建てられるようになっていたのかもしれません。
しかし、その時はまだ、静かに浸透して行っていたというように思います。

その後、斉明天皇の時代にも、この朝倉にお寺が斉明天皇が名前をつけたというお寺があります。

しかし、このわずか数十年後に、斉明天皇が名前を付けたとされるお寺は、その姿を消してしまいます。
そしてそこに置かれてあった多くの仏像は、北条へと移されていったのです。
この理由は今でもはっきりとわかっておらず、朝倉町史は地震のためではないかといっています。

当初私も地震で全てが倒壊してしまい、人が住むことができなくなったのかと考えました。
でもなんなくしっくりこなかったのですが、この越智家の氏寺は、その地震があったとされる以降も
こうして、1400年の間ここにあり続けているのです。

やはり、これは地震が原因でななかったと思いました。

その理由もまた姫の封印に関係すると思います。

小千家の氏寺とされるこの光蔵寺は、
現在のお寺の前を流れる古寺川上流の古寺山(小寺山)に存し、
林内に点在する堂は七堂伽藍であったほど大きなお寺だったといいます。

冒頭の縁起には、ここを開基したのは、
「旅の薬生僧俊覚日羅上人」と書いていますが、もう一つの説があり、
この御本尊を掘ったのは、あの行基だとも言われます。

お寺の前を流れる古寺川は国府の田畑を潤す頓田川の上流で、
さらにその奥の古寺山の山中にある
磐座(いわくら)があり、古来より山ノ神としてお祀りされていたといいます。

しかしこの磐座は、水ノ神だったとも言われ、ここで雨乞いの神事が行われていたと言います。

地名も 「水の上(みずのかみ)」これは 「水の神」のことをあらわしているのではないでしょうか・

水の神から山の神へ。

まるで大山祇神社と一緒ですね。

また、水源の近くには古くから銅鉱石を産出する
金山(かなやま)があったといいます。

ここも当時の人々に必要不可欠だった、銅鉱石がとれる場所だったのです。
この山を 【金山」といいます。

だからか、ここにはもう一つ名前があり、

「金蔵寺 かなくらのてら」とも言います。

また、江戸期まで光蔵寺が水之上の氏神である飯成神社の
別当寺であったとも言います。

「飯成神社(いなりじんじゃ)」は、このお寺からすぐの所にあり、
現在は、宇加之魂神(うかのみたまのかみ) を祀ります。

稲荷は通常「稲荷」と書きますが、ここでは「飯が成る神社)と書いて「いなり」と読みます。

弘仁15年嵯峨天皇の詔勅を奉じて山城国稲荷山から当国へ十社を勧請した中の
1社だと言います。

そしてもう一つ、このお寺で気になることがあります。

それは、ここが奈良時代、華厳経学の道場となっていることです。

華厳経学は、今とても興味のある経典で、
釈迦が成道(じょうどう)した悟りの内容を表明した経典とされます。

華厳経学もとても奥が深く、
実在した釈迦族の王子が真理を発見して覚者となり、覚った真理を説いた内容となっています。

これを 「佛教」ともいいます。

この後アジアを中心にした多くの国に影響を与え、
独自の宗教が出来上がっていきます。

今日本に伝わってきている仏教も、強く影響を与えているとされますが、
その内容は日本に伝わると同時に大きく変えられてしまったともいいます。

 佛教は、釈迦が祖。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの経典宗教は、神が総てを創造したのに対して
佛教は釈尊が真理を発見した宗教です。

世界宗教の中で唯一、信仰や儀典への参加や忠誠心を強要しない宗教ともいえるといいます。

元々日本は自然に宿るものを神としていたので、
今のような仏像や、神像などをつくる風習はありませんでした。

しかし、この沸教が日本に入ってから、神像等をつくる礎となったともいいます。

この後の日本に強く影響を与えた、沸教。

しかし、この本来の教えもまた、神の入れ替えに利用され、
元の教えとは違うようになってしまいました。

華厳経学、これからの大きな鍵となる一つのような気がしています。

ここに由来する鉄人、小千益躬を見るためにも、
やはり朝倉は、もっとしっかり突き詰めていかなければいけないと思いました。

そして、同時に、
どうして中心だった朝倉が衰退し、他へ移っていったかも、
もう一度見直さなければいけないと思います。

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そしてこれが、飯成神社です。
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人はどれだけ緑を壊せば気が住むのでしょうか。
森に住む動物たちどんどんその住かがなくなっていく。

二年前、私が行った、あの美しい姫の滝。鳴滝もまた、
人の手によってその姿を変えてしまったと言います。

あの場所は、私にとって特に思い出深い場所でした。

姫の魂がしっかりと今も残る場所の一つでもありました。

まるでもののけ姫の世界のように、あの場所で私の目の前に現れた猪。
あの猪たちは、今もあの森でいきていてくれるでしょうか。

どうかこれ以上森を壊さないで。
これ以上森がなくなれば、私たち人間の身にも降りかかってくることを知っているのでしょうか。

人も自然も、動物たちも、みんなこの森のおかげで生きていくことができる。
それを、もう一度思い出してほしいと思います。

そのためにも、こうして伝えていかなくてはいけない。
そう思います。

2年前の鳴滝
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by ldc_nikki | 2012-09-17 02:47 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(2)

斉明天皇と夏姫物語の謎

こんばんは。
昨日は、いろいろ調べものをしていたら、 突然全く最初に調べていたものと違うことが浮かび、
そのことを考えていたら、 ブログを書くことができませんでした。

何かが、 わかりそうでわからない。
もうすぐそこに、答があるのに、 あと一歩、たどり着くことができない。
今、そんな感覚が続いています。

とにかく、一つ一つ、 こうして思いついたことを、ここに書きとめていくことが、今するべきこと。
そんな声が、どこからか聞こえてくるような気がします。

今日は、昨日、突然私の中で、つながったことを、お話したいと思います。

いつも、言っていることがですが、 今、書いていることが、100%正解ではないかもしれません。
でも、 今、 この瞬間にたどり着いた考えがなければ、また、次にもすすむことができないと思っていますので、 今後、また、ここから新たな展開へと、入ることもあるかもしれません。

ですから、 この考えも、一つの通り道としてご覧いただければ、うれしいです。

いろいろなことがわかればわかるほど、 日本の歴史は奥が深く、 また、 その謎は、現代の世の中以上に複雑で、終わりがないと思うほど、さまざまな角度から、見て行かなければいけないと強く感じます。

ある時代だけでは、とうていたどり着くことができないほど、その根底にあるものは深く、また、それぞれの時代に生きてきた人々の強い想い、感情も同時に味わっていかなければ、本当の姿は見ることができないのかもしれないとも、 最近思えてきました。

今日のお話は、まさに、日本の歴史が嘗てないほどの、大きな変貌を遂げようとしている時の天皇、
「斉明天皇」 と、 瀬織津姫と大山積神を、変えてしまった、 「越智家」 の 繋がりについてです。

「越智(小千)家」 とは、 これまで何度となくでてきた 「伊予の古代の豪族」 であり、 物部氏の子孫だとされていますが、 瀬織津姫と大山積神変え、新しい大山積神社を建立した人物が、 本当に、「越智(小千)家」 の子孫であったかどうかは、 今もまだはっきりとしていません。

大三島の謎をとくためには、 「越智家」 の真実も、 一緒に見なければ、とうていたどりつくことはできません。

でも、 現在残っている資料では、 「越智家」 の本当の姿をみることは、不可能に近いほど、難しいことです。 

それでも、小さな小さな 「真実」 を、 繋げていくことで、もしかしたら、いつか、それら全てが1本の線で結ばれる時がくるのではないかと信じています。

今日のお話も、この中に、何かに繋がる秘密が、 隠されているような気がしてなりません。

もう、ずいぶん前に、このブログでもお話をした 今治市朝倉に残る古代の伝説 「夏姫物語」です。
この夏姫物語は、 地元に残る、ただの伝説のような物語。
でも、 もしかしたら、この物語は、 単なる伝説ではないかもしれないと思えてきました。

まずは、 その 「夏姫物語」 をご覧ください。

【夏姫物語】

  夏姫は、車無寺建立の時の、普請奉行、岩塚土佐守重之の姉。
当時、地方の郡司以下の地方豪族の子女の中から、みめうるわしく健康な女性を選抜して、朝廷に差出して、朝廷の御手伝いを、させていた。この地方豪族の女の中から差出され、朝廷の雑用に奉仕する女性のことを、「釆女(うねめ)」と呼んでいたが、夏姫は、小千郡から、飛鳥朝廷に差出された釆女であった。

斉明天皇からの御信頼と、御寵愛が深く、征西のため、朝倉行司原の行在所行幸にも、夏姫はもちろん、お傍近く奉仕して、かいがいしく、こまめに立ちはたらいていたので、御病身がちな天皇は、片時もおそばから離さなかった。年齢は18歳の絶世の美人で、鄙には稀れな娘ではあったが、朝廷の目には止まらなかった。
  
 しかし、同じふるさとであり、互いに父祖の間に親交のあった、群司としての、伊予の大領としての小千守興(オチモリオキ)は、早くから、彼の夏姫に好意を寄せていた。
夏姫としても、宮廷に生活し、生白く非力なくせに、絶えず権謀術数を弄び(もてあそび)、より立身出世に憂身をやっしている、宮中の男性よりも、武骨で、素朴な筋骨の逞しい男性的な守興に、ひかえめな夏姫ではあるが、心の中にほのぼのとした僧からね感情を抱いていた。
 守興が行司原に伺候する日が待ち遠しく、夏姫はその守興の伺候する当直の日がくると、朝から、ボッと身が燃えて、上気した頬を一そう桃色に染めた。
守興にしても。そのような夏姫が待ってくれていると思うと、足しげく、行宮への伺候がしきりになってきた。

守興・夏姫の、自然のなり行きのように、どちらかともなく、接近し、若い二人の楽しい語らいが、屯田川の堤や、行宮の物蔭でささやかれるようになった。
 しかしながら、守興は、伊予の大領として伊予の将兵を引きつれて、半島百済の救援の征途につかねばならない、つかの間の出会いを、守興も夏姫も、全生命によって、愛し合い互いに燃えていったのである。

そのうちに、間もなく、小千守興は、伊予の兵士、五千名を引具して、征西軍の先鋒として、征途についた。 夏姫にとって、短くも楽しい日々を、追憶しながらも、身の変調に気ずいたのは、守興が出帆して間もなくの事である。
  中大兄皇子・大海皇子の御二人の母君である、女帝の斉明天皇は、御自分の寵愛する夏姫の身の上を御心配なされ、白地の奥に、夏姫の居館を新築して、そこを産月館(うめかつきやかた)として、その御館を中心にして、たくさんの屋敷を作り、夏姫の出産やその他に奉仕する召仕いを住まわし、世の人はこれを召仕屋敷といった。また、この産ヶ月館・召仕屋敷の附近を総称して、乳母が原と呼んでいる。

夏姫は、斉明天皇のおそばを離れ、産が月の館にうつって、ひらすら、守興との愛の結晶の出産を待ったのである。

 そのうちに、月みちて、めでたく男の子を出産したが、斉明天皇は、この子の父は、国のために外地にある、母夏姫は産後の日たちのはかばかしくないのを、大へんあわれに思召され、この夏姫が出生した男の子を、斉明天皇の御猶子となされ、皇子として、小千皇子とお呼びし、両足山天皇院車無寺に、安らかな御生育を祈願し、両足山安養院車無寺と呼ぶことにして、ひたすら小千皇子の御成長を祈願したのである。

 夏姫は、引きつづいて、産めが月館で静かに産後の御養生をなされ、早く斉明天皇お傍近く奉仕できる日を待ちわびていたのであるが、産後の日立ちがはかばかしくない上に、小千丸興の身の上や、百済での、日本軍報など御心労のため、小千皇子の安らかな御成長を願い、守興の武運長久を念じつつ遂に遠い死出の旅路についたのである。
 それから、幾ばくもなく、小千皇子も、車無寺の案養の祈願も空しく、御母君である、夏姫のあとを追うように、乳母が原にてはかなく幼い生命の火が消えたのである。
里人は、夏姫の生前の慈愛をしたうと共に世の無情をかこちながら、浅地に神として祀り、子守神社とし、峠にも熊神社として祭祀して、安産の神、乳の出の神、子育て神として今も里人の信仰が絶えない小千皇子は峠に皇子神社として祀られ、峠の氏神となっている。
  
 ここにおいて、皇子神社、子守神社の両社の氏子たちは後に、皆、越智姓を許されることになった。
また、朝倉総廟矢矧八幡宮、伏原正八幡宮の両社も、安養院(車無寺)別当となり、大谷という所の朝倉総廟矢矧八幡宮(守興の祖先、天狭貫を祀る)の仮御殿に橘正達という、小千守興の四男が居城していた。

またこの夏姫物語のあったころに、野々瀬という所に銭蔵が完成したので、小千守興を始めとして、伊予の国の大名・小名が、野々瀬・一ノ谷・立岩・夫婦岩・炭屋谷・野田重ね岩・麻呂山をご覧になってそれぞれ帰城した。 日ならずして、小千守興以下の面々は、水の上の冠へ参拝せられたのである。

 冠とは、斉明天皇の御冠を乾かしたまうた岩のことである。(伝えて言う、斉明天皇が朝倉から征西のため、九州へ御出発の時、御装束をすべて、御改装になられたが、古い前の御装束といえとも、大変りっぱなものであったので、その盗難を恐れて、もとの古い御装束を全部、土中に埋め、その上に、少人数でが動かすことのできないような岩石を置いて守ったので冠岩という名がつき、その場所を岩塚と呼ぶのであるともいう。


これが、夏姫物語です。

この物語の主人公ともいえる 「夏姫」 は、この物語の中では、その身元がはっきりとわかっていませんが、
 (「小千郡」 から 飛鳥朝廷に差出された釆女) と 書かれています。

そして、もう一人の主人公 
「越智守興(オチモリオキ)」 は、 伊予の国三島神社の由緒の中にも、多く残る名前で、この時代の 伊予の国の 「越智家」 を代表する人物の名前です。

しかし、私は、最近、この「越智守興」 が、本当に存在したか、 また、この人物が本当に、「真の越智(小千)家」だったかどうか、疑問に思ってきています。

この他にも、 突然世の中にその名前が出てくるようになった、
「越智益躬」  
そして、 大三島宮浦へと、大山祇神社を建立した 
「越智玉澄」

この三人の 「越智氏」 は、物部氏が滅亡してすぐから、突然、天皇家に仕える地方豪族として、あちこちにその名前が見えるようになります。

そして、今回のお話ですが、 「越智守興」 が実在した人物かどうかをはっきりさせるまでにはいきませんが、この物語の中での 「守興」 の存在はなかったかもしれません。

まず結論から申しますと、 「夏姫」 が生んだ子供は、 「守興」 の 子ではなかったということです。

では、誰の子であったかというと、 それは

「天智天皇」 です。

以前、この夏姫物語を知ったころ、朝倉の神社をずっと調べていて、朝倉に、斉明天皇の伝説があまりに多いことに、驚きました。
どうして、ここまで、斉明天皇は、 ここに訪れていたのか。
また、 この 「夏姫」 のことを、 ここまで好んでいたのか。

斉明天皇は、 ここ今治の朝倉に、 何度も訪れています。
そして、ただ訪れているのではなく、数か月も滞在をしていたり、仮の住まいもあったという伝承もあります。
地名も、斉明天皇に繋がる地名も多く、 さらには、
「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に因む土地であったかもしれないほど、
ここ朝倉は、 斉明天皇と繋がりの深い場所なのです。

また、大山祇神社がまだ宮浦へ移される前に、奉納したと伝わる、斉明天皇が奉納した 「鏡」や、
「天智天皇」 が斉明天皇のために、奉納した 「鏡」 は、 今も大山祇神社に残されています。
さらには、「斉明天皇陵と供養塔」 が今も存在し、 今日、行ってきたのですが、 「天智天皇」 が 崩御されたと伝わる場所が、 隣の市 「西条市」の山の中に存在するなど、 伊予の東予地区には、多くの伝承が残っていまるのです。

そして、 天智天皇の方はというと。

天智天皇には、 皇后 「正室」 の他に、多くの 「嬪(ひん)「側室」 」がいたとされますが、
その中側室の中に、 「遠智娘(おちのいらつめ)」 という 妃がいます。

(おち)の字は、 「遠智」 とされていますが、 これは、 「越智」 だった可能性がとても高いです。
「遠智娘」には、別名があり、「造媛」、「美濃津子娘」 とも言われるともいいます。

「遠智娘」には、三人の子供がいたと考えられています。
三人の子供の名前は、
大田皇女(おおたのひめみこ) 
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ) 
建皇子(たけるのみこ) 

このうちの、 皇女は、二人とも、天武天皇の妃となっています、。
大田皇女は、天武天皇との間に、二人の子供が生まれますが、天武天皇が即位する前に亡くなります。
そして、二番目の皇女 鸕野讃良皇女が 天武天皇の皇妃となり、後の持統天皇となるのです。

そして、三番目の、 「建皇子」 はというと、生まれつき体がよわく、言葉も話せなかったと言われ、小さいころに夏姫の子供と同じように崩御されていますが、それまで、斉明天皇がとても可愛がっていたとされ、自分が崩御した際一緒に合葬せよと命じ、その言葉通り、一緒に埋葬されているといいます。

私が考えるのは、この三番目の 「建皇子」は、 この 「夏姫」 の子供と同一ではないかと思うのです。
「遠智娘(おちのいらつめ)」 とは 「越智の娘」 ということではないでしょうか。
もし、この二人が同一だとすると、ここに重要なことが隠されています。

それは、 「遠智娘(おちのいらつめ)」 の父は、 豪族蘇我氏の娘とされているところです。

ということは、「遠智娘=夏姫」 は、「蘇我家」と「越智家」の、両方とのつながりのある人物だということになります。 

「越智守興」 との間に子をもうけることになる 「夏姫」 はもしかしたら、蘇我家と越智家の両方の血を受け継ぐ娘ということになるかもしれません。

そして、「建皇子」の母と、他の子供の母が同じかどうかははっきりとはわからないものの、
後の天武天皇の皇妃となる、「大田皇女」 や 「持統天皇」 の母が 「越智家」の血を受け継ぐ母(遠智娘ー夏姫」 であるかもしれないということです。

もしかすれば、 父は同じで、母が違う子供かもしれませんが、蘇我家と越智家に繋がりを持つ、父の子ということになります。

持統天皇は、父である 「天智天皇」 が自分の祖父を殺したこと、またそれが原因で母までもが亡くなったことを、 大変恨んでいたと思われ、だからこそ、天武天皇の意志を受け継ぎ、さらに、拡大させ、日本の歴史を大きく変える一人となったと思われます。

もし、 それが事実だとすれば、大山積神を瀬織津姫と変えたことに、 蘇我家がかかわっていた可能性が高くなり、 さらには、 「越智家」 の新たな姿も見えてきます。

587年、物部氏は、蘇我氏との戦いで敗れ、滅亡します。

それなのに、物部氏一族と言われる、「越智氏」 が、その翌々年 「589年」 には、「鉄人伝説」 として、世の中の表舞台へと名前を出していくのです。
これは、 「越智家」の一部の人間 が、 生き延びるために、 「蘇我氏」と 「婚姻関係」を結んだと考えれるかもしれません。

ですから、瀬織津姫を祀っていたとされる 「小千家」 と 大山積神に変えた 「越智家」 は、 
血のつながりはあったかもしれませんが、 対立する 「越智同士」 だったのかもしれません。

大山祇神社が、宮浦へ移る前にあったとされる 「大三島瀬戸」 には、 今もなお、「蘇我」 という名前の苗字が多いことも、このことを物語っているのかもしれません。

そして、斉明天皇が、ここまで 「越智家」 と繋がりを深くしていったこともまた、 斉明天皇の母、そして、祖父が、物部氏側の人間だったことに繋がるのかもしれません。
斉明天皇自身も、そして、斉明天皇の母も、蘇我氏と物部氏の争いの被害者だったからから、「越智家」とのつながりを深くしていったのかもしれません。

そして同じ身の上の 「夏姫=遠智(越智)姫」 を、 不憫に思い可愛がり、 そして、 その争いが原因となり小さなこどもを残し死んでいった 「夏姫=遠智姫」 の子を、 大切にしていたのかもしれないと思いました。

ここ、今治市朝倉は、 斉明天皇にとって、 まるで母の故郷、自分の故郷のように思えたのかもしれません。 

日本の歴史を大きく変えることになった原因は、 男たちの権力争いが招いた結果だったのかもしれません。

現代の世の中は、この時代のように女性が、結婚で道具にされることはなくなりましたが、権力争いは、今、またその争いが大きくなってきているような気がします。
更に、今は、大きな権力争いだけでなく、 企業までもが、多くの人を犠牲にしながら、その力を増大させようといています。

何のために政治を行うのか、 
何のために、会社を大きくするのか。

グローバルな政治、 グローバルな経営、 それ自体は悪いことではないのかもしれませんが、
それは、一体だれのためにしていることなのか。。。。
私には、 多くの人の幸せのために、 国を思い、 働く人を思い 行っているようには見えません。
そして、 それは、 一人一人の心の中もまた同じで、 
人の心が、 その規模が違うだけで、 自分や、自分に関係する人間にだけ利益をもたらすことを一番に考えてしまう世の中になりつつあるような気がします。

その心が変わらなければ、 いつか必ず大きな崩壊を招き、本当の幸せはやってこないことに、そろそろ気づかなければいけないのではないかと、日々、その思いが強くなります。

私たち人間が、過去に犯した過ちの意味を、 もう一度考えなければいけないと、心から思います。


夏姫を祀る 「子守神社」

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夏姫の子供を祀る 「皇子神社」
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皇子神社から見る風景
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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-13 03:51 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

台風6号が、四国に接近中ですね。
高知県は、1000ミリを超える記録的豪雨と高波であちこちで被害が出ていると聞きました。
どうか、これ以上被害が拡大しませんように。

同じ四国でも、今治は、本当に守られているなと思います。
少し風は強いですが、雨もほとんど降らず、今回の台風も何事もなく過ぎ去っていきそうです。

昔から、この辺の人は、石鎚山に守られているから、今治は本当に災害のないところだと、
今回のようなことがあるたびに言っているのをよく耳にします。

本当にありがたいことです。 
こうして、何事もなく平和に生活できることに、心から感謝したいと思います。 (合掌)


さて、今日から、新しい場所に移ります。
この日は、 朝、出かける前に、 なぜか突然、地元、今治市朝倉にある多伎神社に行きたくなって、行ってきました。 そして、その後、磐長姫のご神体がある 興居島へと2度目の参拝に行ってきました。

今日は、まず、多伎神社のお話です。

多伎神社は、旧今治市と朝倉の境目の山の中に鎮座します。
その山の名前を、天道ヶ頭(てんとがとう) といいます。
510.26mの山で、旧玉川町、旧今治市、旧朝倉村の三つの町を結んでいる山です。

この山は、古代から人が住んでいたと言われ、 この山そのものが、太陽信仰の山だったのではないかとも考えられるような名前がついています。

天道ヶ頭の 「天道」 とは “お天道様” 太陽のことだと言われます。
または、天の通り道、 「太陽の通り道」 とも言われます。

春分、秋分の日の夕方、朝倉支所(旧役場)の辺りから、西の方角を見ると 天道ヶ頭の山頂に太陽が沈む姿をみることができるそうです。
古代朝倉はとても栄えた村でした。 斉明天皇ゆかりの場所も多く伝わり、斉明天皇が自分の子供のように可愛がった夏姫の子供を祀る神社(皇子神社)も、ここ朝倉にあります。

更に古くは、弥生時代後期の集落跡・水田跡多数あり、20年程前圃場整備の際、全国的にも大規模な穀物地下貯蔵庫が発見された場所でもあります。

また、この天道ヶ頭山塊は、山そのものにも、歴史をよみとく鍵があります。
今治市のある、高縄半島は、そのほとんどが、花崗岩で形成されています。 しかし、この、天道ヶ頭を中心とする天道ヶ頭山塊は石灰岩で形成されているのです。

山の奥に露出した石灰岩の一部がありますが、「ふすべ岩」といわれる古代の、巨石信仰のあとなのです。
この巨石信仰から始まったであろう神様の儀式が、現在の多伎神社の起源だと言われています。
そして、石灰岩と花崗岩が接触することによって  「水銀(朱)、銅、鉄」などの鉱物が形成され、この辺りでは、その鉱物を産出して、鉄を作っていたのではないかといわれます。

すぐ近くで、天から白馬にのったスサノオが降臨されたといわれる場所がありますが、ここ朝倉の鉱物を使い、今治の山の麓で、多くの鉄が出雲の国の一部として作られていたのではないかと思っています。
その証に、 日本では、出雲でしか発見されていない、たたら製鉄が今治で数年前に発見されています。
また、今治市の陸地や、島々で作られていた塩も、鉄を作るために必要だったとも言われています。

スサノオの足あとが多く存在する今治は、こうした豊かな資源によって国つくりが行われていったのではないかと思います。 

多伎神社は、 古代の聖地。 そして今も、森の精霊が宿る、豊かな森。
社殿前方を流れる多伎川は奥の院の磐座を源とし、その水は霊水と云われ重病人をも救ったとされる、神の水が今も神社の中を流れています。
この豊かな水は、農業にも使われ、古代から、多くの人々がここに住んでいたであろう跡、周辺には沢山の古墳も発見されています。

今治の町を守っているとも言われる、天道ヶ頭山塊に鎮座する、多伎神社です。

*多伎神社
*今治市古谷乙47番地
*境内社
 天満神社  高市郷 総鎮守 <相殿に 大巳貴・山之・御鉾・鷹取(城主正岡紀伊守)神社
 一宮神社  かっては古谷村の氏神社(以上明治末年氏子内の場所から現在地に移築)
 清水社
 越智社
 大仲社
*祭神
 須佐之命(すさのをのみこと)
 多伎都比売命(たきつひめのみこと)
 多伎都比古命(たきつひこのみこと)

現在の祭神は、上記のようになっていますが、古い書物には、丹生都比売命の名前が記されていたこともありました。 水銀(朱)=丹生都比売命
あの空海と深いかかわりのある女神さまといわれる、丹生都比売命が、この神社の記録で、現在残されている一番古い女神様の名前です。

それでは、神社のご紹介です。
山への入り口に、朱塗りの大きな鳥居があります。
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小さな川を渡った向こう側に、神社は鎮座します。
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橋の名前は、八雲橋。
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橋を渡ろうとすると、足元をす~っとトカゲたとおり過ぎました。
お出迎え? (山の中にトカゲなんてあたりまえにいるけど、これもうれしく感じるのは神社だから?)

橋を渡るとまず見えるのが、陰陽石。
ここには、多くの陰陽石が、おかれています。 
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奥の院の磐座から流れてくる、御手洗川。 ここが、手水舎となります。
昨年、この場所で、生まれて初めて、木霊の声を聞きました。
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そして、拝殿へ。
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本殿
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越智社
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一宮神社
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一宮神社の裏に広がる鎮守の杜
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杜の写真をとり、戻ろうとしたら、小さな蝶が飛んできて目の前に止まりました。
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アゲハ蝶ではありませんが、別の姫さまの神使かな?

境内にそびえる、三本の神木
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もう一度、違う方向から拝殿の写真をとって、
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そろそろ帰ろうと、境内を出ようとした時、

「あれ?足元に 何かいる!」

「あ!来たときも見た とかげが!」 (別のとかげかもしれませんが^^;)

すぐ目の前に、とかげの後ろ姿が。 
そ~っと 近づいてみました。

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いつもなら、怖いのですが、なんだかこのトカゲは可愛く見える。
少しづつ近寄っていったのですが、この位置からまったく動こうとしませんでした。

写真を何枚かとって、いつものように、トカゲに話しかけてみました。

「トカゲさん、 後ろ姿しか見えないよ。 顔が見えないから 顔を見せて。」

そう言って、そのままじ~っとトカゲを見つめていると。
トカゲが、す~っと前に動きました。 

(あ~あ。 もう隠れてしまうかな?) 
一瞬そう思ったのですが、 トカゲは隠れるどころか、目の前の石の上にす~っと上がっていきました。
そして、二つの石の上に、体としっぽがちょうどおさまる位置に止まり、
まるで
「写真 とっていいよ~」 と言っているように、ポーズ? をとったのです。
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「え~!凄いよ! 全くこのまま動かない。」

思い切ってもう少し近寄ってみました。 この時、カメラを忘れ、携帯でとっていたので、遠くからでは
小さくしかとれなかったのです。
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「顔のアップもとってあげるね!」
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こんなに近くでトカゲを見たのは、生まれて初めてかもしれません。
何まいも、写真をとって、いっぱいとったので、

「じゃあ、そろそろ帰ろうか。 トカゲさん、ありがとう!」 そう言ってその場を立ち去ろうとすると、
トカゲも、す~っといなくなりました。

嘘のような話ですが、神社に行くと、時々こんな不思議なことに遭遇するのです。
偶然かもしれませんが、 まるで、言葉がわかっているかのように。

森に住む、小さな可愛いモデルさん。 あのトカゲは、女の子だったか?
あの綺麗な目、なんとなく、姫の姿にも見えたりして・・・・・。

小さな奇跡に、心から感謝です。 
(合掌)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なでしこジャパン。
凄い試合でしたね。 小学生の息子も、3時に起きて見ていました。

最後まであきらめない姿、キラキラ輝く澄んだ瞳。 

そして、「サッカーの神様はほんとにいるんですね。」 
そう言った 澤選手の言葉が凄いとても印象的でした。

最後のあの奇跡のようなシュート。
いろんな苦しいことを乗り越え、
それでも、がんばり続けた澤選手にサッカーの神様がくれたご褒美だったのでしょうか。

まだ、女の人がサッカーをすることがあまりよく思われなかった時代の話をしていたのを、息子が聞いていて、 一言
「澤選手に、あんな酷いことを言った人たちは、今どんな気持ちなんだろうね。」 と。

今回の、優勝は、多くの人に夢や希望、そしてそれだけではなく、
もっともっと多くのものを、人々の心に伝えたような気がします。

本当におめでとうございます。 そして、ありがとうございます。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-07-19 22:59 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(6)

こんばんは。

今日は、阪神大震災が起こった日ですね。
もう17年も前のことなのに、
ついこの間のことのように思います。

大きな地震は、
いつ、どこで起きるかわかりません。

この日のことを
無駄にしないよう、 被害を最小限にするにはどうしたらいいかとか
地震や津波が起こった時 どうするか。
など、家族で話し合ってみるといいかもしれませんね。

地震で、家族を亡くされた方の心の傷は、
一生なくなることはないかもしれません。

でも、亡くなられた家族や友達の分まで
精一杯生きていってほしい、そう思います。

(合掌)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日も、前回に引き続き朝倉の神社をご紹介します。

「矢矧神社」

今回ご紹介する神社も、
小千氏、斉明天皇、河野氏と深い関わりのある神社です。

住古、朝倉宗廟本社と号し、
小千命の長子であった、
天狭貫王の廟として祀られていました。

斉明天皇が、朝倉の行司原へ行幸され、661年正月~3月まで滞在し、
征西のための準備をされた時、おひまを見て、
この朝倉惣廟八幡大明神にお参りなされ、矢番大明神社へ、戦勝
の御祈願をするとともに、征韓戦勝の神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の霊を合祀して、
八幡宮の号を賜り、これより朝倉宮と言っていましたが、
後世清和天皇の御代になって、「朝倉宗廟八幡宮」と改名されました。

矢矧八幡は、
大浜八幡神社、鴨部八幡神社とともに
高縄山城主河野氏の祈願とされていました。

毎年8月15日には、御旅所、朝倉本郷の本堂寺から、
第二の御旅所、鴨部郷與和木の重茂山に
矢矧八幡、大浜八幡、鴨部八幡の越智郡内の三社の神輿を集合し、
夜を徹しての神事・神楽の行事の後、
翌8月16日高縄に向かい。
8月17日に高縄山城での大祭式典を執行したといわれています。

大浜八幡神社は、私の始まりの神社でもある 小千命の発祥の地と
言われる神社、
鴨部八幡神社は、鉄人伝説の、小千益躬を祀る神社。
どちらも、ブログで紹介していますので
まだの方は、ご覧下さい。


この三体の神輿渡御のすべての指図は、大山積の神の地御前として尊崇されている
別宮大山積神社の神官にして、小千氏の一族である、

「小千今波羅太夫信澄」からその子々孫々の者が司っていたといいます。

今の「今治」のことが、「今波羅」という字で、初めて出現したのですが、
これより後、小千郡のことを今波羅=今張というと記されているそうです。

今治という名前のもとは、
小千氏の一族の名前からきていたんですね。

でも、大浜八幡神社と、この矢矧神社、
そして、昨年末紹介した、鴨部八幡神社の神輿が
高縄山へと 行っていたということには驚きました。

この神事を、もう一度再現できたらいいのに。。。。。
なんて、思ってしまいました。

*矢矧神社(今治市朝倉北甲42番地)

(主祭神) 天峡貫王(あまさぬきのおう)・
       誉田別命(ほむだわけのみこと)・武内宿禰(たけうちのすくね)

(配神)日本武尊、 仲衷天皇、 神功皇后、

(境内社)日吉神社(大山咋命) 
        杵築神社(大穴牟遅命) 
        山神社(大山積命)
        平林山神社(大山積命)
    荒気神社(橘参河守)


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朝倉の 矢矧神社 でした。

昨年、美空ひばりさんがデビューする前に、日本一の歌手にして下さい。と祈願した
日本一の 大杉に行ってきましたが、
ひばりさんの晩年の歌、声は、
心の中に、す~っと溶け込むように
入ってきます。

また、明日から 頑張ろう。

そんな気持ちにさせてくれる気がします。

生きているといろんなことがあります。
でも、いつも、どんな時も
本当は、沢山の愛で包まれているのかもしれません。

人は、どうして悲しいのでしょうか。
人は、どうして苦しいのでしょうか。

それは、目の前に起こっていることが悲しいのではなく
苦しいのではなく、思い通りにならない心が
悲しく、苦しい。

でも、感情があるから人間で、
悲しい心があるから、 嬉しい心もある。

人生は、両方あるから、人生なのかもしれない。
そして、嬉しいときだけでなく、 悲しいときも、苦しいときも、
愛で包まれているということを、忘れないで。。。。。。

今日も、ありがとうございました。
寒い日が続きますが、どうかお体に気をつけて。。。
おやすみなさい。


 


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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-01-17 23:09 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(2)

こんばんは。
昨日は、次の動画に使う歌を録音してきました。

今回も、3曲録音してきたので、
これから、愛姫伝第5章を作りたいと思っています。

出来次第、
ユーチューブへアップしたいと思います。
また、ブログでも
ご紹介したいと思いますので、
よかったらご覧下さい。

では、今日は早速ですが
神社と、朝倉に残る、姫のお話です。

今治市朝倉。(今大活躍中の、スーパーフライの越智しほさんの出身地です)
朝倉は、今までも、何度かご紹介しましたが
今治の東の端の町、
600年ごろは、この朝倉が、今治の中心として
栄えていました。

しかし、
684年に起きた、今でいう 東南海地震により
朝倉は、壊滅的な被害を受け、
中心地を移動することになりました。

今日のお話は、その地震が起きる少し前の
この地方に伝わる、姫の物語です。

*夏姫物語

ちょうど、斉明天皇の頃、
夏姫という、美しい娘がいました。
夏姫は、車無寺(天皇の御祈願の寺)建立の時の、
普請奉行の姉でした。

当時は、地方の郡司以下の地方豪族の子女の中から、
みめうるわしく健康な女性を選抜して、朝廷に
差出して、朝廷の御手伝いを、させていました。
(この地方豪族の女の中から差出され、朝廷の雑用に奉仕
する女性のことを、「釆女(うねめ)」と呼んでいました。)

夏姫は、小千郡から、飛鳥朝廷に差出された釆女でした。
年齢は18歳の絶世の美人だったそうです。

斉明天皇からの御信頼と、御寵愛が深く、
征西のため、朝倉行司原の行在所行幸にも、
お傍近く奉仕して、かいがいしく、こまめに立ちはたらいていたので、
病身がちな天皇は、片時もおそばを離しませんでした。

そんな夏姫に、
同じふるさとであり、互いに父祖の間に親交のあった、
伊予の大領、小千守興(オチモリオキ)は、
早くから、好意を寄せていました。

(小千守興は、小千命の子孫であり、後の河野氏になる、河野玉澄の父)

そして、夏姫も、
武骨で、素朴な一面ももった、男性的な守興に、
心の中にほのぼのとした僧からね感情を抱いていました。
そして、守興・夏姫の、自然のなり行きのように、
どちらかともなく、接近し、若い二人の楽しい語らいが、屯
田川の堤や、行宮の物蔭でささやかれるようになりました。

そんな幸せな日々も、長くは続かず、
間もなくして、小千守興は、伊予の兵士、五千名を引具して、
征西軍の先鋒として、征途につきました。

夏姫が、身の変調に気ずいたのは、
守興が出帆して間もなくの事でした。

斉明天皇は、御自分の寵愛する夏姫の身の
上を御心配なされ、
白地の奥に、夏姫の居館を新築して、そこを産月館(うめかつきやかた)として、
その御館を中心にして、たくさんの屋敷を作り、
夏姫の出産やその他に奉仕する召仕いを住まわしました。

(世の人はこれを召仕屋敷といった。
また、この産ヶ月館・召仕屋敷の附近を総称して、乳母が原と呼んでいる)

夏姫は、斉明天皇のおそばを離れ、
産が月の館にうつって、ひらすら、守興との愛の結晶の出産を待っていました。

そのうちに、月みちて、めでたく男の子を出産しました。
斉明天皇は、この子の父は、国のために外地にいるうえに、
母夏姫は産後の日たちのはかばかしくないことを、
大へんあわれに思われ、
この夏姫が出生した男の子を、
斉明天皇の御猶子となされ、皇子として、小千皇子とお呼びし、
両足山天皇院車無寺に、安らかな御生育を祈願されました。

そのことから、
両足山安養院車無寺と呼ぶことにして、
ひたすら小千皇子の御成長を祈願されました。

夏姫は、早く斉明天皇お傍近く奉仕できる日がこないかと、
待ちわびていました。

しかし、産後の日立ちがはかばかしくない上に、
小千守興の身の上や、百済での、日本軍報など御心労が重なり、
とうとう、小千皇子の安らかな御成長を願い、
守興の武運長久を念じつつ、
遠い死出の旅路についたてしまいました。

それから、幾ばくもなく、
小千皇子も、車無寺の案養の祈願も空しく、
御母君である、夏姫のあとを追うように、
乳母が原にてはかなく幼い生命の火が消えたのでした。

里人は、
夏姫の生前の慈愛をしたうと共に世の無情をかこちながら、
浅地とよばれる場所に神として祀り、
子守神社とし、峠にも熊神社として祭祀しました。

そして、現在も、安産の神、乳の出の神、子育て神として
里人の信仰が絶えないそうです。

また、小千皇子は峠に皇子神社として祀られ、
峠の氏神となりました。

このことから、
皇子神社、子守神社の両社の氏子たちは後に、皆、
越智姓を許されることになったといわれています。

皇子神社は、
以前ご紹介した神社です。

皇子神社はこちら

ここに行った時には、
まだ、このお話をしりませんでした。御祭神ニニギノミコトです。
しかし、今回、このお話を知り、
もう一度、きちんと
参拝に行きたいと思っています。

そして、母である、「夏姫」 をお祀りする
子守神社。
現在の、御祭神のお名前は、玉依姫命(たまよりひめのみこと) 。

玉依姫命とは、天照大神や木花開耶姫命などのような固有名詞では
ないそうです。
「タマヨリ」とは、「霊依」あるいは「魂憑」からきたもので、
神の依り憑く巫女、あるいは神霊が憑依する乙女の意味の名前。

子守神社の、玉依姫命は、
きっと 夏姫のことだと思います。

では、写真でご紹介します。

*子守神社

*御祭神:玉依姫命(たまよりひめのみこと)

*今治市朝倉上上540(浅地)

*御神徳 安産

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夏姫物語でした。
もう1400年ほど前の 伝説なのに、
胸が苦しくなくような、お話です。

でも、これも、さだめだったのでしょうか。。。

夏姫の後を追うように
逝ってしまった、小千皇子。

二人の願いは、叶うことはありませんでしたが、
きっと、今も、見守っていらっしゃる。
そう、想います。

命があるということは
それだけで、とても有難いこと。
家族がいることは、とても幸せなこと。
もし、何かの事情で
今、一人でいるとしても、
命が、続いてきたから、今ここにいる。

そして、母と父がいたから、この世に命を受けた。
だから、一人ぼっちではないのです。

命が、続いているから
ここにある。

太古の昔から、何度となく継ぎ、
繋がれた命を、大切にしたい。。。。

今日も、本当にありがとうございました。
今日の曲は、まるで、夏姫の想いを歌ったような歌です。
ふと、開いたページで見つけた曲です。

「天の子守唄」




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-01-15 23:40 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(4)

こんばんは。
クリスマスまで、後1週間ですね。

子どもの頃は、サンタクロースが来るのが
とても待ちどおしかったのを思い出します。
大人になったら、いろんなことがわかってきて
なんだか、寂しいですね。

どこかに、本物のサンタクロースがいるんじゃないか。。。
なんて、ありもしないことを、思ったりしてしまいます^^;

今日は、神社の前に、「山と森」のお話です。

愛媛で一番高い山、そして、日本七霊山の一つとも言われる
「石鎚山」 
そして、同じ石鎚山脈の一つとも言われる山の中に
「瓶ヶ森」という山があります。

同じ山なのに、山と言ったり、森といったり。

この森には、どんな意味があるのでしょう。

森とはモリ、ボリ、ボルなどという韓国から来た言葉で、
神の住む神聖な場所という意味。

昔は、山の高い所に神をまつって、
その山を神聖な山、すなわち森とよんであがめていたのです。

韓国の首都をソウル=京城というわけは、
神の命をうけた王者の居る所という意味で、
それが後世
には、首都を意味するようになったそうです。

また、中国では、
中国では首都を京といい、それが北京・南京などとなり、
それをまねて日本でも首都のことを京都、
東京などというようになったそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日も、朝倉の神社を紹介します。
朝倉は、斉明天皇ととても、関わりの深い場所だというのは
以前お話をしました。

今日の神社は、その斉明天皇の、御子
天智天皇のゆかりの地だという伝説が残っています。

*伏原八幡大神社(ふしわらはちまんだいじんじゃ)

*今治市朝倉上甲1881-6番地

*祭神:怖牟陀和気命(ほむだわけのみこと)

*境内社:
近江神社(信勝神霊)
進雄神社(須佐之男命)
山神社(大山祇命)

*由緒:建久3年守護職河野通俊が男山より勧請したと
言われるこの神社は、
天智天皇の本丸殿の旧跡であるという伝説が残っています。

この神社は、民家や田んぼの中に鎮座され、
高い建物がないので、神社の杜が遠くからでも見ることができ、
この場所だけ、とても不思議な空気が流れています。

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鳥居
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大きなご神木
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木の根元に、不思議な石がありました。
後で調べてみると、
この石は、力石 力試し、力比べをするために昭和初期まで使われた石だったそうです。

昔、農村では、土木作業や農作業で力仕事が多かったため
労働賃金のランク付けや、また青年の娯楽としてこの石を担いだり、
差し上げたりしていたそうです。

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拝殿
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本殿
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境内社
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朝倉は、古代の足跡が残る
不思議な場所です。

朝倉の神社や、山、川、まだまだ、たくさん
これからも行ってみたいと思っています。

今治が出来たその原点の一つが
ここ朝倉に、そして、それ以上の何かがここにはあるような気がします。

まだまだ、朝倉のお話を
続けたいとも思いますが、ひとまず朝倉はお休みして、
次回からは、風早の地。
旧北条市にうつりたいと思います。

風早も、伊予の国の
もう一つの中心の地。

高輪山を中心に、数々の歴史がある所です。

今日も、最後までありがとうございました。

よい週末をお過ごし下さい。



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愛姫愛媛パワースポット地図
by ldc_nikki | 2010-12-18 00:11 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(0)

こんばんは。
今日は、昨日と比べて9度も気温が下がり、
真冬の寒さ。。。

外は、とっても寒いです。。
温暖化なのか、寒冷化なのか、今年は本当にわからない気候です。

今日は、神社のご紹介の前に、
伊予之二名島(いよのふたなのしま)のお話です。

四国は、もう知っている方も多いとおもいますが
イザナミとイザナギが国生みをした時の
2番目の島、
伊予之二名島(いよのふたなのしま)。

このお話で、今回私も初めて知ったことがありました。

これは以前お話したと思いますが
初めて方もいるかと思いますので、もう一度

伊予之二名島は、胴体が1つで、顔が4つ。
顔にはそれぞれの名前がついていて、
* 愛比売(えひめ):伊予国
* 飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
* 大宣都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)
* 建依別(たけよりわけ):土佐国

といいます。

愛比売と 大宣都比売は、女神。
飯依比古と建依別は、男神です。

そして、愛媛は、この愛比売(えひめ)という女神の名前から
ついたと言われてます。

ここまでは、以前もお話したかと思うのですが、
ここから先は、私も始めてしったことでした。

四国は、
男女一組の組み合わせがならんでいて、
いずれの方向から見ても、男女神のカップルがきちんと
並んでいるのです。

確かに、広島方面または、太平洋から見ても、
そして、九州方面から、または、近畿方面から見ても
男女が並んでいます。

そして、二通りの組み合わせが出来ます。
では、どちらが、本当の組み合わせなのでしょう?

これもいろいろ説はあるそうなのですが、
この組み合わせが正しいのでは?と言われている組み合わせがあります。

皆さんはどちらの組あわせだと思いますか?

1.飯依彦=大宣都姫   健依別=愛媛 
2.飯依彦=愛媛      健依別=大宣都姫

正解は、1番の

1.飯依彦=大宣都姫   健依別=愛媛 

これには、理由があり、
飯依彦=大宣都姫は、共に食糧の神として男女一対神を表している。

一方、健依別=愛媛の場合は、
健依別が、「勇敢で、健々しく、男性としての理想神」
(まるで、坂本龍馬)
愛媛は、「優れていて、愛しく弟妹をいたわる、やさしい理想の女性」 
共に、男女の理想像をもつ名前なのだそうです。

愛媛の女神は、女性の理想像だった。
なんだか、とても嬉しくなりました。

女神の国、「愛媛」

愛媛から、もしかしたら、偉大な姫が出ていたかもしれませんね。
そんなことを考えるだけで、ドキドキします。

そして、これから先、愛媛から、世の中を大きく変えるような
女性が出てきてほしい。。。 そんなことも考えたりして。

今日は、神社の前に、
伊予之二名島のお話でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では、今日の神社は、
朝倉の浅地と言われる地域にある

「岩戸神社」です。

朝倉は、村のあちこちから、遺跡か古墳が発見されていますが
神社のある、ここ浅地でも、
「瓶製の棺」が発見されています。

そして、神社から更に奥に行くと、
龍門山、そして、山を超え旧丹原町の方に行くと 「大黒山」

名前からして、とても気になる場所ばかりです。

*「岩戸神社」

*祭神;手力男命(たぢからをのみこと)

*境内社:
天満宮(大国主)
山神社(大山積神)
荒神社(スサノオノミコト)

岩戸神社はもともとは、朝倉天皇石戸宮。

この朝倉天皇とは誰のことか?これは、今だに、
謎に包まれているようです。

この神社については、現在も調べている最中ですので
また何かわかりましたら、追加記載させていただきます。

現在の祭神
手力男命(たぢからをのみこと) は、
アマテラスが、岩戸隠れをした際
岩戸の脇に控えており、岩戸からアマテラスが顔をのぞかせた時、
引きずり出したと言われる神様です。

スポーツの神、力の神として信仰されている神様です。

どうして、ここに、その神様が祀られているのか。

では、神社の写真です。

岩戸神社は、小さな山の中の部落の、
杜の中にあります。

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鳥居と狛犬

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まずは、境内社
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小さなお宮ですが、中を見ると
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出雲の神と、山の神が祀られていました。
後で調べた結果、やはり上記の神様でした。

そして、拝殿
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全体
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昔の風景が残る、山里。

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そして、この辺りには、古代の神々の足跡があるかもしれない場所。
平安時代に起きたと言われる大地震で、
山の形が変わってしまったかもしれませんが、
この山の中には、まだまだ知られていない、
古代の物語が、埋もれているのかもしれません。


今日も最後まで、読んでいただいて
本当にありがとうございました。

明日も、寒いようです。
どうぞ、お体に気をつけて。

お休みなさい☆


よかったら、動画もご覧下さい。
(もののけ姫のたたら場が、今治でも数年前に見つかりました。
そのお話もまたいつか)








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愛姫愛媛パワースポット地図
by ldc_nikki | 2010-12-15 22:42 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(0)

こんばんは。
12月は、忙しくてなかなか更新できなくてすみません。

今日も、前回の続き、朝倉の神社をご紹介します。

前回紹介した神社は、
須佐之男命と大市姫命子が来られた場所でした。

今回は、須佐之男命と大市姫命子の娘
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が主祭神の神社です。

*飯成神社(いなりじんじゃ)
 今治市朝倉上甲941番地

*主祭神:宇加之魂神(うかのみたまのかみ)

*境内社:厳島神社
       大巳貴神社
       廣鉾神社

たまたま通った道で出会った神社でした。
この前の神社に繋がる神社に導かれたのか
後で調べてびっくり!

須佐之男命と大市姫命子の娘でした。
宇加之魂神(うかのみたまのかみ) は、皆さんがよくご存知の
お稲荷さん。
稲荷神社の祭神です。

お稲荷さんと言えば、赤い鳥居をよく見かけますが、
ここは、お稲荷さんとは最初は思いませんでした。


小さな、川を渡り、階段を上がると拝殿。
そして、ここは、上から、拝殿を見下ろすことができました。

やはり朝倉は、スサノオノミコトに関係する
神社が多い。

出雲の国と、ますます関わりが深いのではと
思えてなりません。


では写真です。

行く途中の、もう一つの天皇橋。
向こうに見えるのが、笠松山です。

数年前に火事で、山が焼けてしまっています。
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鳥居
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狛犬
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参道
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天満宮の丁石
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天神さんと呼ばれていた山があったそうです。
やはり、ここにスサノオや大国主命の足跡があるような気がしてなりません。

境内社
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階段
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拝殿
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上から見る拝殿と本殿
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境内社
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ご神木
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最後にもう一度上から
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上から見る拝殿はとても美しい景色でした。
今回も、ここに導いてくださったことに感謝です。


昨日、
朝倉ととても関係の深いお寺 北条の 「十輪寺」に行きました。

行く前に、縦の虹が二本出て、
その後、まるで案内されるかのように、お寺にたどり着きました。

そこで、住職さんと出会い、
沢山のお話を聞くことが出来ました。

ずっと、行きたいと思っていた場所に
気づいたらついていたのです。

このお話も、また、後日させていただきます。

今日も本当にありがとうございます。
風邪が流行っていますので、どうぞお体に気をつけてください。

お休みなさい。



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愛姫愛媛パワースポット地図
by ldc_nikki | 2010-12-13 23:23 | 愛媛県今治市(旧朝倉) | Trackback | Comments(0)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。
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