こんばんは。

昨年は桜を見る機会がほとんどなかったのですが、今年は毎日のように桜を見に行っています。
こんな時間を与えて頂けて、感謝の毎日です。

今日のブログの最後も、とっても綺麗な桜をご紹介します。

では、今日のお話です。

今日は、東温市(旧重信町)のお話です。

弘法大師の湧水や、泉はこれまで何度も紹介してきましたが、
今回ご紹介するところは、今までと全く逆。

弘法大師が、水を止めてしまったという伝説です。

まずは、そのお話から。。。。。


平安時代初期、弘法大師が四国を回って仏の教えを説いていた時のことです。

ある日のこと、弘法大師はこの土地にも来られ、村の豪族だった
横張九右衛門(よこばりきゅうえもん)の家で托鉢(たくはつ)をしていました。

九右衛門が玄関に出てみると、うすぎたない身なりの僧がわんを差し出して、

「何でもけっこうです。どうかお恵みくだされ。」と言いました。

九右衛門は生まれつきたいそうな欲張り。

「お前のようなこじき坊主には、恵んでやるものはなあにもない。さっさと立ち去れ。」

と言って門の戸をピシャリとしめておくへ入ってしまいました。
すると弘法大師はそのままだまってどこかへ行ってしまいました。

次の日の朝のこと。
部落の組頭がふうふう言いながら、九右衛門の家へ駆けこんできました。

「横張様、横張様。た、たいへんでございます。村の泉の水が一滴もなくなって、泉の底がまる見えになっております。」
 これを聞いた九右衛門は、そんな馬鹿なことがあるもんかと、組頭を連れてさっそく泉へかけつけまいした。

すると、昨日(きのう)まであれほどたくさんわいて、青い水がいっぱいあった泉が、組頭のいうとおり泉の底まですっからかんになっていました。

「ううん。こりゃまたどうしたことじゃ。まったく不思議なことじゃ。」
と、九右衛門も首をかしげるばかり。

そのとき、泉の周(まわ)りを回っていた組頭が、見られない二つの大きな石を見つけて、

「横張様。ちょっと来てこれを見てください。
こんな石は今まで見たこともなかったんでございますが・・・・・。」

「どれどれ。おう、こりゃまたおかしな石じゃ。この石が水の出口をふさいどるんかも知れんぞ。
今すぐ、村の若い者に言いつけて取りのけさせてみい。」

 そこで、さっそく村の若い衆が呼び出され、石の根もとを掘り続けたのですが、なんぼ掘っても掘っても石は地中深く続いとって、取り出すことはできませんでした。

 さすがの九右衛門も村の人々も、これは不思議なことじゃ。きっと何かのたたりにちがいないと、おそれおののいたといいます。

 それからというものは、毎年のように日照りが続き、泉の水が田に引けず米がとれませんでした。
そして九右衛門の子どもたちは、悪い病気や災難などで、次から次へと死んでしもうて一人もおらんようになってしまいました。
さすがの九右衛門も弱り果て、見るもあわれな姿になってしもうた。
 
 このありさまを見た村の人々は、
「あれは横張でなく、欲張(よくば)りじゃ。泉がかれたのも、子どもが死んだのもそのむくいじゃ。」
と、うわさしあったそうな。
 そして、これは弘法大師のたたりにちがいないと、二つの石の近くに大師堂を建て、手厚くお祭りをすることにしたということです。そしてそのお祭りは今も毎年続いているといいます。

(重信町教育委員会発行:重信の昔話)

弘法大師が水に困っている人々のために井戸を掘ったり、杖で水を出したりするところはたくさんありますが、ここのように水を止めてしまう場所はそう多くはありません。

ここは、あのニギハヤヒの子供、宇麻志麻治命の降誕の浄地「浮嶋神社」の近くで、
そう遠くない場所に、多くの古代から神社があります。

どうして数キロ離れた場所では、水を出し、ここでは水を止めたのか、
その意味がとても気になります。

ここには水を出してはいけない何かがあったのかもしれません。

今後、日本全国の弘法大師が水を止めた場所を調べていくと、
それがどんな場所なのかがわかってくるのではないかと思っています。

先日岡山に行ってきましたが、
そこにも弘法大師はきていました。
そこは、古代の歴史上はずせない重要な地です。

しかもそこにある弘法大師の跡は、まるで後世の人々に姫の存在を知らせるかのようでした。

弘法大師の伝説が残る場所は、多くの人々の命が戦いによって失われた場所。

そんな気がします。。。。。。

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日本最古の心中事件。
許されない恋の末、皇子と皇女は二人で黄泉の国へと旅たちました。

松山市姫原。 この場所はもう一つの伝説の場所を訪れてから詳しくお話しようと思っているのですが、
桜があまりに綺麗だったので、一足早く、二人の眠る場所に植えられた1本の桜の木を
ご紹介させていただきたいと思います。

皇子と姫の桜。
「比翼塚」

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そして、昨日の満月。
松山からの帰り道。北条でとった満月です。

月の光がまるで太陽のように光輝いていました。

まるでかぐや姫が月へと帰るあの日のように。。。。。。

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-04-08 01:38 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

昨日、ある書き込みを読んでいて、 ある言葉が目に飛び込んできました。

「ゼロ磁場」

以前から、知ってはいたのですが、今まで愛媛と結びつかなかったからか、あまり真剣に調べたことがありませんでした。

それが、昨日から、頭の中で、
「ゼロ磁場」 という言葉が、くるくるずっと回っているのです。
というのも、「ゼロ磁場」 という言葉とともに、ある場所が浮かんできたからです。

今日、ゼロ磁場について、少し勉強しました。
そして、少し、思うことがありますので、今日は先に、ゼロ磁場についてのお話です。

「ゼロ磁場」 知っている方が多いと思いますが、知らない方のために簡単に説明を。

地球は、皆さんも知っているように、北極がS極、南極がN極です。
地球は、巨大な磁石。

この地球の磁石は、地表近くで、+と-の力が押し合っています。
プラスとマイナスが、押し合っている場所では、ぶつかり合い、互いの力を、二つの力が拮抗して、
動かなくなる場所があります。
そこを、「ゼロ磁場」と呼びます。

「ゼロ=何もない」ということではなく、大きなエネルギーがせめぎ合い、二つの力が拮抗して動かない状態
ではありますが、その二つの力が、他の場所では、出すことのないエネルギーを出しているといわれています。

ゼロ磁場として、日本で有名な場所は、長野県にあります。

しかし、まだわかっていないだけで、日本中まだまだあるのではないかといわれています。

では、ゼロ磁場は、どんなところに多くは存在するのでしょうか。
それは、断層といわれる場所です。
特に、世界でも有数の巨大活断層といわれている、「中央構造線」です。

巨大な地震を起こすといわれる、この中央構造線沿いに、ゼロ磁場は存在するといいます。
この巨大な断層は、南は九州から四国をとおり、北は関東地方、今まさに、地震が起きている、あの茨城県へと続いているのです。

その北の最終地点茨城県は、地震を起こさないようにさせるという、要石をお祀りしている、鹿島神宮がある場所です。
皮肉にも、このゼロ磁場の多くは、地震地帯と言われる、中央構造線沿いにあるのです。

大地震という人間にとって、起きて欲しくない災害をもたらす断層ですが、その断層のある地点からでる
「ゼロ磁場」は、神秘のエネルギー、「気」のような、人や動物の病気をなおす力なんらかの強いエネルギーが出ていると言われています。

そして、中央構造線沿いには、まるでそのエネルギーをわかっていたかのように、古代の人々は、そこを聖地とし、神社を建立したり、修行の場としてきました。

そして、愛媛の聖地と一般的に言われる場所は、「石鎚」 です。

でも、私は、ここだけではないような気がするのです。
四国は、小さな島にも関わらず、その身体をまるで、半分に割るかのように、中央構造線が走っています。
そして、愛媛の場合は、その力を更に倍増させるかのように、黒瀬川構造帯があります。

まず、以前から、ここが何かの境目ではないかと思っていた場所があります。
それは、高速道路を走っていて、伊予から内子へと入る最初の山のトンネルです。
私は、南予へ行くようになってから、ここを、天空へ向かうトンネルと呼ぶようになりました。

中央構造線を、地図で調べて見ると、なんと、そのトンネルを出た場所が、中央構造線 地質境界線と言われる場所だったのです。

そして、もっと調べてみる、まだ、紹介していませんが、先日行ってた神社が、この地質境界線と言われる線の真上に鎮座している神社でした。 
そして、今日ご紹介する神社も、中央構造線沿いとも言える場所に鎮座している神社です。

また、次回から紹介する予定の、「城川町」は、 中央構造線の南に位置する町で、ここには、更に以前も少しお話しました、黒瀬川構造帯という場所にあります。
黒瀬川構造帯とは、西南日本の大きな断層帯にそって、まわりとはまったく違った岩石が出てくる場所なのです。
ここでは、約4億2700万年前の暖かい海のサンゴ礁に生きていた生物の化石が見つかっています。
この化石は、ゴンドワナ大陸という大陸からやってきたといわれています。
約4億2700万年前にあった大陸で、現在の南米・アフリカ・オーストラリア・南極大陸のほか、インド半島やマダガスカルなどがあつまっていた巨大な大陸でした。
古生代から中生代にかけて南半球にありましたが、その後、分れてしまった大陸。

このゴンドワナ大陸の一部と言われているここ城川の土地を、
黒瀬川古陸と呼んでいます。
約1億4000年前 ジュラ紀までは、赤道地域にあった黒瀬川古陸は、はやいスピードで北に移動して、アジア大陸の東がわに、衝突したと考えられています。
そして、その後の大きな横ずれ断層によって、ばらばらになりながら、さらに、北中国の位置にまで北のほうにずれと言われています。
その一部が、時を超え、黒瀬川構造体という形で、こうしてあります。

約4億2700万年前とは、植物が地球にでき初めて、大森林が各地に形成し始めたころ、まだ恐竜すら現れていない時代です。
その時の大地の気が、この地域には今も残っているのではないかと思うほど、全く今までと違う感覚がありました。 更に、その中でも、強いエネルギーの場所のいくつかに、今回は行ってきたように思います。

「ゼロ磁場」 

これから、私の神社 (聖地) を巡る上での、一つのキーワードのように思えましたので、
少し長くなりましたが、お話をさせて頂きました。

今日ご紹介する、 雨乞いの宮も、それはそれは、別世界のような場所でした。

では、神社のお話です。


少し前に、紹介しました 重信町山の中、
県道152号線を、北へと走ります。 その道沿いには、沢山の採石場があります。
山之内という地区へ入り、少し走ると、更に山へと上がる、小さな林道が小さな川の横にあります。

その林道に向かって入っていきます。
小さな川の名前は、黒滝川。 この川の上流近くに、今回の神社はあります。

名前は、「龍神社」 古くは、黒滝神社と呼ばれていました。

雨乞いの神として、住古から信仰されていて、当時は、現在よりも更に上、
明神ヶ森に鎮座されていました。
と、言っても、現在の鎮座されている場所も、かなり上へと上がっていきます。

道は、地元の人でも、めったに来ない 細い林道。
今まで、いろいろな山奥へと行ってきましたが、今回の道が一番の難所でした。

道は、舗装されていなく、砂利道、所どころ、落ちてきた落ち葉で、道が覆われていたり、大きな石が山から落ちてきていたり、途中車を止めて、石を除けながら走っていきました。

本当に、この道であっているのかと思うほど、誰にも会うことはなく、細い細い道をゆっくりとゆっくりと
走っていきました。 でも、途中時々現れる、美しい沢。
ただただ、神社へつきたい、きっとたどり着けると自分に言い聞かせながら走ること約40分。

ここが、最後の難関でした。

神社の看板などあるはずもない、山奥、道が二つに分かれていました。
もちろん地図にも、のっていません。

ふと見ると、小さな看板が、そこには、「登山口」 とかかれた小さな看板が置いてありました。

看板がある方向のほうが安心だなという思いから、矢印の方向 左へ曲がりました。
しかし、数十メートル走った時、なにか違う気がする。そんな気持ちが急におこりました。
すると、目の前に、車がユーターンできる少し広い道があったのです。

この道は、ほとんど広い道がなかったので、これを逃すと、かなり上まで行かないと行けないかもしれない。
そう思い、とっさに、やっぱりユーターン。
右に行こうと、引き返しました。 もちろん、何も根拠はありません。
このまま、行ったらたどり着くかもしれません。
でも、右へといくことを、選び、元の別れ道へ、 そのまま右の方へと進みました。

少し走りましたが、やっぱり神社は全く見えない。

もしかして、間違っていたの? そう思いましたが、もう少し行ってみようと、そのまま信じて進みました。

すると、突然、左側に、

「あ!神社が!」  

林道へ入ってから、約1時間、やっと神社に到着しました。

そこは、下界とはまるで別世界。
生い茂る木々の中に、静かに静かに 鎮座する 龍神社。
聞こえてくるのは、遠くから聞こえる 鳥の声。
木々の間から、差し込む光。 人の気が全くなく、あるのは、その静かで優しい自然だけ。

ここまで上がってくるには、本当に勇気がいりました。
前もって調べたのですが、ここに来た人を見つけることはできなくて、やっと見つけたサイトの方は、
途中で諦めて帰ってしまっていました。

まるで、先の見えない 人の人生をあらわしているかのような道に思えました。
途中何度も、もう、これ以上は無理なんじゃないかと思うような場所を通り、それでも、前に進む。
諦めたらいけないんだな。 ということを、改めて教わったような気がしました。

引き返そうかと思った自分が、とても恥ずかしくも思えました。

龍(黒滝)神社です。

*龍神社
*祭神:龍神(しゅうじん)(十二躰の御神像あり)
*御神徳:雨乞神
*由緒
 黒龍神社と称し元明神ヶ森に鎮座すと伝う。文明4年(1472)現在地に遷座したと伝う。
 慶安元年(1648)8月吉日、願主高須賀佐兵衛在銘の金幣は市指定文化財。雨乞神として霊験あった神 社である。神門は嘉吉3年(1443)11月8日河野通光再建と伝わる。

山の中の参道
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ありがとうございました。







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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-05-26 23:05 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

昨日は、この記事を書きかけたのですが、途中間違って更新をしてしまい、
題名だけが、掲載されてしまって申し訳ございませんでした。

そのまま、寝てしまっていて、
続きが今日になってしまいました。

昨日は、久しぶりに温泉に行ってきました。 今治市玉川町にある温泉で、源泉は鈍川温泉です。
美人の湯と言われているんですよ。
道後温泉もいいですが、鈍川温泉も私は大好きです。

温泉に入りゆっくり身体を休めたおかげで、ゴールデンウィーク中の疲れもとれたようです。
温泉はやっぱりいいですね。
自然の力は凄い、そう思います。

ここ、玉川町は、天之逆矛のことを知るきっかけになった神社が鎮座する町です。
この山々には、まだ私達が知らない過去の歴史が沢山つまっているのでしょうね。

その歴史のほんの一部でも、こうして感じることができて、とても感謝しています。
そして、これからも、もっと本当の歴史に少しでも近づきたいそう思います。

天之逆矛が、なぜ、大三島へ移動したのか、どこから来たのか、その鍵を握るかもしれない、重信町のお話も、今日でひとまず、最後となりました。
今日、ご紹介する神社は、これまで、お話した、重信町の神社の原点とも言える場所ではないかと思います。

この旧重信町は、松山平野の中の、東に位置する町です。
松山平野は、弥生時代頃から、姿を現し始めたと言われていますが、ここ重信町は、町の中を流れる重信川(伊予川)が、よく氾濫をおこしたかと思えば、枯れ川となり、河床に砂礫(されき)が積もって、伏流水による湧水が噴出し、湖沼が散在する独特な地形になったと言われています。

そして、そんな村の中に、浮嶋があり、古代からこの浮嶋を神域とされていたのではないかと言われています。 
その場所に鎮座するのが 「浮嶋神社」です。

伊予の国つくりを行った越智(小千)氏は、ニギハヤヒを祖先とする一族。
『新撰姓氏禄』に第7代孝霊天皇を始祖とする「皇別」とされています。

ある伊予の古文書の中に、第7代孝霊天皇は、三島明神の化身であったということが書かれています。 

そして、38代 天智天皇祖神は、今治沖にある津島に鎮座の神「門島神」が
「饒速日命・天道日女命」とも書かれてあります。

第7代孝霊天皇そして、第38代 天智天皇の祖神は、アマテラスとはかかれていないのです。
これは、大変重要な記述です。

ニギハヤヒまたは、瀬織津姫と三島明神は、私の中では同じ神だと思っています。
また、三島明神=大山積神と言われていますが、
やはり伊予の古文書の中に、

「大山積神は、ニギハヤヒ命のことである。」と書かれてある文章も、見つけました。

一瞬目を疑いましたが、何度も読んでもそう書かれています。
瀬織津姫とは書かれていませんでしたが、ニギハヤヒであると書かれてあるだけでも、これは凄いことではないかと思っています。

少し話しがそれてしまいましたが、浮嶋神社を知るためにも、この原点をもう一度書いておくべきだと思ったので書かせていただきました。

浮嶋神社のお話に戻りますが、
浮嶋神社は、全国でも数少ない、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)を主神とする神社です。

可美葦牙彦舅尊は、天地開闢において現れた別天津神の一柱。
男女の区別がなく、独神だと言われていますが、陰陽思想の陽の神の一柱です。

神社の境内には、三つの自然石が配置された磐座(いわくら)があり、弥生時代から祭祀がおこなわれていた聖地でした。

かつては中央に可美葦牙彦舅尊、左右に伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)を祀っていたとされます。(本当は、イザナミ、イザナギではなかったと思われます)
現在では、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビノミコト:浮島神)、大山積命(オオヤマツミノミコト:大三島神)、三神御面(さんしんごめん)が祀られています。

三神御面(さんしんごめん)とは、河野家から伝わるもので、代官は藩主の命を受けて三神御面に対して祈雨祭をしばしば執り行ったと伝わる、雨乞いのための面のことです。

そして、ここは、物部氏の太祖とされる宇麻志麻治命(ウマチマチノミコト)の降誕地でもあるのです。
ニギハヤヒの子である、宇麻志麻治命が誕生した場所。

ここで、お生まれになったことが、もし本当ならば、伊予の国は、神話の舞台となった場所ということになります。 しかし、伊予の国は、現在神話の国とは、ほど遠い存在となっています。
隠された事実が、この伊予の国にあるのではという思いがますます強くなってきたのです。

そして、もう一つ、なぜここに、弥生時代から、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)をまつる、祭祀があったのかということです。

伊予に残る記述の中でも、特に古い神社の一社であることが伺えます。
そして、その場所に、祀られていたとされる、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)は、瀬織津姫とどんな関係があるのか。
そして、伊予の中でも、重要な場所であったと考えられる、重信町に、天之逆矛がどれくらいの間かはわかりませんが、置かれていたことは、この神社に関係があるような気がしてなりません。

また、この浮嶋神社隣接して、長慶天皇御陵があります。
長慶天皇は、第98代天皇です。
「長慶天皇陵」と称する墳墓は、全国各地に点在しているそうなのですが、ここもその一つです。

天之逆矛は、大三島に移動する前に、これらの三社のどれかの神社にあった、もしくは、この三社全てに移動しながら置かれてあったかもしれないとも思えてきました。
そして、大三島の瀬戸へ移ったとしたら、そこに、その後、日本の総氏神として、大山積神を祀ったことにも、もしかしたら繋がってくるのかもしれません。

私は、最近強く思うことがあります。

日本の聖地は、「瀬戸内海」の二つの場所。
一つは、鳴門の渦潮がある淡路島と徳島周辺の海。
そして、もう一つは、今治沖、大三島を中心とした、来島海峡の渦潮の海。

二つの 「渦潮」 は、聖地、神域、そして、エネルギーを生み出し、力を増大させる、龍の宿る海ではなかったのかと思います。

「渦」と「龍」そこに、国生みの秘密もあるような気がしています。
更には、四国の四柱の神にもつながり、その四柱の神々には、この浮嶋神社の祭神、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)にも繋がる。

「陰」と「陽」 を現す 神々。

それは、瀬織津姫、ニギハヤヒも同じく、「太陽」と「月」 陰と陽の神だということにも繋がるのです。

これらは、まだまだ 私の妄想の世界かもしれませんが、私の中では、これらが全て繋がっているように思えるのです。

まだ、頭の中で整理ができていないので、話がいろいろと飛んでしまってわかりにくい所が多々ありますことをどうか、お許しください。

ただ、今日、私が書いたことは、今、私の中でキーワード? パズルのピースのように出てくる言葉です。

まだまだ見つかっていないピースと、今までのピースを、ぴったりとつなぎあわせることができれば、いつか、一つの大きな絵が完成するのかもしれませんね。
全てを見つけることは、そう簡単ではないこともかもしれませんが。。。。

でも、完成だけが目的ではなく、それまでの過程で起きるさまざまな出来事こそが一番大切なことかもしれないとも思います。
その中に、私たちが生きる大きな意味や、ヒントや、教えや、導きが あるから。。。。。

*浮嶋神社 (重信町)
*東温市牛渕584番地
*祭神
可美葦牙彦舅尊 (うましあしかびひこじのみこと)
三神御面(さんしんごめん)
大山積命(おほやまつみのみこと)  
*10月第2土・日曜日 例大祭・神幸祭
*境内社
長慶天皇御陵(隣接地)
祖霊社・殉国英霊社
荒魂社
長慶河野宮霊社
*特殊神事12月20日 御面渡御祭・隔年鎮座  

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拝殿
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本殿
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神紋
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磐座(いわくら)
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本殿 (菊の神紋)
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長慶天皇御陵
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御陵から入る鳥居
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参拝の後、ずっと曇っていた空から太陽が顔を出し、光がおりました。
きっと、意味のある場所にきたのですね。
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今日も長い文章を最後までお読み下さいまして、本当にありがとうございます。
過去は振り返るものではありませんが、過去を知り、認めることは、次へと進むために必要なものではないかと思います。
悔やむための過去でもなく、悲しむための過去でもなく、
ありのままを、受け入れ、真実を知り受け入れることから、始まる。

それは、私達の人生も同じで、いつまでも引きずるために思い出すのではなく、歩いてきた道は受け入れなければいけなくて、それを認めなければ次へと進むことはできないと。それが、私自身だから。。。
それが、ありのままの姿だから。。。。。
それは、どんな過去でもあっても。。。。。。

今日も、ありがとうございました。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-05-06 23:54 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(6)

こんばんは。
ゴールデンウィークも半ばになりました。 
今日は、松山も大渋滞。 道後温泉は、多くの県外からの観光客でいっぱいでした。
皆さんは、どんな連休をお過ごしでしょうか?

今日、びっくりするシンクロがありました。

私は、この連休中毎日松山に行っているのですが、一昨日、商店街をいつものように歩いていたら、ふと一つの看板が目にとまりました。 
パワーストーンのお店の看板でした。 この看板の前はいつも通っているはずなのに、今まで全く気付いていませんでした。
お店は二階にあったので、中を見ることが出来ず、その日はそのまま通りすぎただけでした。
でも、何だか、あのお店が気になっていました。 
いつもは、子どもを連れていった後は、神社巡りへと出発するのですが。今日は雨。
時間もそんなにないからと、行ってみることにしました。

中へ入ると、急に心臓がドキドキ。 石とパワーの強さにまず驚きました。
そして、石を見ていると、お店の女性が話しかけてきてくれました。 
少し話していると、壁にはっていた一枚の写真を相棒が見つけました。

それは、一枚の滝の写真。

すると、この滝についていろいろ教えてくれました。

「この滝は、ものすごいパワーの強い滝で、徳島県にあるんですよ。
山の中ですけど、ぜひ一度行ってみてください」

「え~。 徳島のどこにあるんですか?」

「神山町というところです。。。 インターネットで調べてみますね。」
(そう言って、滝を調べてくれて、パソコンで写真と地図をわざわざ印刷してくれたのです)

(神山? なんだか聞いたことがある名前だけど、どこで聞いたんだったかな?)
その時は、わからずお店を出てから、携帯で検索。
(もしかしたら、滝の近くに神社があるかも?) と 神社を調べてみると。

「あ!! この神社は、この間、徳島のぐ~たらさんが教えてくれた神社かも・・」

そう思って、コメントに書いてくれていた神社を確かめました。

「やっぱりそうだ~!」

初めて、先日コメントを入れてくださったぐ~たらさんが、教えてくれた 「オオゲツヒメ」の祀られている神社の鎮座する町 「神山町」 の滝でした。
この教えてくれた女性は、普段はこのお店にいることはほとんどなく、今日はたまたまもう一人の女性がお休みのため、来ていたようで、これにもまた、不思議なご縁を感じていました。

ず~っと前からなぜか気になっていた 「徳島」 少し前に、ハンドルネーム 「オオゲツヒメ」さんと出会い、徳島のぐ~たらさんに、神社のことを教えて頂き、そして、今日の滝。
これは、偶然ではないような気がしています。

「徳島」 近いうちに、行くことになりそうです。

大宜都比売命が伊勢国丹生の郷より神馬に乗り、八柱の供神を率いて阿波国に移られ国土を経営し、
粟を蒔き、当地一帯にひろめられたという徳島の原点の場所 「上一宮大栗神社」、そして、雨乞いの滝がある神域。
また、この神社は、あのキーワードの日 「神亀五年(七二八)」に、聖武天皇御勅願所となったということ。
一日も早く行ってみたいです。。。。。。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、久しぶりにお寺です。
大山祇神社の周りには、神仏習合の時代沢山のお寺がありました。
高縄神社の周りには、同じように、神々を守護するかのように、やはり沢山のお寺がありました。
そして、この重信にも、同じように、重要な神社の周りに、4つの別当寺があったと言われています。
今日ご紹介するお寺は、その別当寺の中の一つ

「道音寺」 です。

このお寺は、最後にご紹介しようと思っていました、「浮嶋神社」の別当寺です。
この神社は、次回詳しくご紹介しますが、ここ重信の原点というだけではなく、伊予を語る上でも、特に重要な場所の一つではないかと思われる大変古い神社です。

その神社の別当寺が置かれたのは、保延5年(1140)には崇徳院の院宣によるものでした。
道音寺、香積寺、西光寺、明照寺の4つのお寺です。

その中のここ 「道音寺」 は、現在伊予十三佛霊場の一つでもあり、霊場第9番、勢至菩薩(せいしぼさつ)です。
かつては村の鬼門封じ。身代わり大師であったとも言われています。

勢至菩薩(せいしぼさつ)は、「大勢至菩薩」と表記されることもあり、午年の守り本尊、十三仏の一周忌本尊でもあります。
あらゆる迷いを、解き放つ力が強いことから、「大勢至」とよばれているそうです。
迷いと戦いの世界の苦しみから、知恵を持って救って下さる菩薩。 まさに、今、人々が必要としている菩薩さまかもしれません。
また、強い意志を守り育てて下さるともいい、まるで、「どんなことがあっても強い意志を持ち続けなさい」と言われているような気さえしました。

三昧耶形 (さんまやぎょう/さまやぎょう)、仏の象徴物は、未敷蓮華(ハスの蕾)。

“この泥があればこそ咲く蓮の花”
泥の中から美しい花咲かせる 蓮のように、苦しいことがあったことには意味があります。

迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救って下さり、その悲しみ、苦しみが必ず誰かのため、
また世の中の幸せに役立つようにと、導き、その強い想いをもてるよう力を、授けてくれる菩薩さま。

今、震災で多くの人々は、これ以上ない、苦しみと向き合い、またこれから先、どう生きていけばいいのかと迷い苦しんでいることと思います。
勢至菩薩さま、どうか、震災で迷い苦しんでいる人々の心をどうかお救いくださいますよう、心が祈りたいと思います。     (合掌)

*道音寺
*真言宗
*愛媛県東温市牛渕457
*浮嶋神社 別当寺
*伊予十三佛霊場 第9番

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願かけ地蔵
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身代り大師
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奥の院には
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震災直後、ラジオで流されたアンパンマンが、多くの反響を呼んでいます。

「生きる」 という 普段なら当たり前のことを、こんなにも強く考えさせられた時はなかったかもしれません。

3/19高知新聞 やなせたかしさん(92歳)談

『そうだ うれしいんだ 生きる よろこび』で始まるこの歌は自分を力づけるために作りました。こ­の歌で元気付けられている人がいるのなら、うれしいことす。

今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生­きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです。今回の震­災も永遠に続くことはありません。アンパンマンは“世界最弱”の­ヒーローで、ちょっと汚れたり、雨にぬれただけでも、ジャムおじ­さんに助けを求める。でも、いざというときには、自分の顔をちぎ­って食べてもらう。そして戦います。それは私達も同じ。みんな弱­いけれど、そうせずにはいられないときもあるのです。アンパンマ­ンは、いつもニコニコ顔ではありません。げんこつを握りしめ、戦­う姿勢です。地震と戦うことは出来ないけれど、自分自身の中にあ­る弱い心をやっつけてしまいなさい-というアンパンマンからのメ­ッセージです。

やなせたかしさんの記事でした。

「なんのため生まれてなにをして生きるのか」

私一人一人が、もう一度考えなければいけないことかもしれませんね。
そして、子どもたちにも伝えることのできる、大人でなければいけないと、そう思います。
決して、自分の欲望を満たすために、人は生きているのではないことを。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-05-04 03:35 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(12)

こんばんは。
ゴールデンウィークいかがお過ごしですか?

前半 3日間、朝から晩まで忙しくてあっというまに終わってしまいました。

今日、松山でろうそくを買いました。
そのろうそくの収益金は、震災にあった方々へ送られるそうです。
私は見ることは出来なかったのですが、そのろうそくを今日の夜8時から、商店街で一斉に灯したそうです。

綺麗だったでしょうね。
ろうそくを入れるコップに、メッセージを書きました。

「愛」 

どうしてかはわかりませんが、この言葉しか頭に浮かんできませんでした。

多くの人の愛で、人々の心が少しでも癒されますように。
沢山の人の愛で、一日も早く、普通の生活に戻れるようになりますように。

「愛」 は、 必ず、沢山のものを救ってくれる、そう思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、先日お話した、徳川神社のすぐ隣にある神社

「船川神社」 をご紹介します。

旧重信町と松山市の境目。 徳川神社は、松山市側にありましたが、ここは、重信町側にあります。
町の境の両側に鎮座する 二つの神社。
船川神社は、小さな橋を渡った向こう側にあります。
近くには、山の神池という不思議な池もあります。 

また、この辺は、今も古墳や石器が発掘されていて、とても古い時代から人が住んでいたと言われます。
また、この神社は、由緒の中には、いつごろ建立されたかは書かれていなく。
書かれてあるのは、大国主命と少彦名命が力を合わせ国土を固めし時にという言葉より始まっているそうです。
それだけ、とても古い時代に建立されたのでしょう。

また、古くは神村(かみむら)と呼ばれていました。

「神の村」 ここは、神々に深い関係があったのかもしれません。
この神村が、上村(かみむら)に変わり、現在は上村(うえむら)となっています。

祭神は、由緒に書かれていることからか、
大国主命(おおくにぬしのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)

でも、神社の神紋は、「三島」のものです。
神社には、祭神の名前はありませんが、ここも、三島明神(瀬織津姫)が祀られていたのだと思います。
境内社には、荒魂神社があり、姫がいることは、これを見てもわかると思います。

そして、以前ほんの少しだけお話しました、「蛇」
実は、この神社の本殿のすぐ裏で出会いました。 まるで、本殿から出てきたかのように、本殿の方から私の前を横切り、山へと帰っていったのです。

蛇は神使ともいいます。 また、瀬織津姫もニギハヤヒも 「龍」 「大蛇」 とたとえられているのです。
本殿で参拝を終えたあとに、そこから蛇がでてくるなんて、本当にびっくりでした。

今は、姫の名前だけでなく、三島明神、更には、大山積神の名前もありませんが、ここはきっと姫とニギハヤヒが原点の神社だと、そう感じました。

ここで、「事代主命」 の名前がありますが、 事代主命は、ニギハヤヒのもう一つの名前の場合もあるようです。 全ての事代主命が、そうというわけではありません。
でも、その場合もあります。

それがどうしてかと言いますと、静岡に鎮座する 「三島大社」をご存知でしょうか?
静岡の三島大社は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)、二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称しています。

どうして、事代主神が、三島明神なのか。。。

静岡の三島大社は、この伊予の三島明神と深く関係しています。
大三島の三島明神は、海を超え、静岡県伊豆地方にある島、「三宅島」に渡ります。
そして、三宅島富賀神社→白浜海岸白浜神社→大仁町広瀬神社→三島市三嶋大社と移動していくのです。

白浜神社は、現在は 三島明神の奥様をお
祭りしているのですが、
白浜神社までは、夫婦で一緒に来たものの、奥様は白浜の地に留まり、三島明神だけが次の神社へ移ったという伝説も残っています。

そして、この時、なぜか三島明神を、事代主神として祀ったのが、始まりでのようです。

この伊豆のお話は、またいつかじっくりとさせて頂きたいと思います。

では、船川神社です。

*船川神社
*東温市上村甲275番地
*祭神
大国主命(おおくにぬしのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
*境内社
荒魂神社
素鵞神社
天満神社
奈良原神社
*神代の昔大国主命、少彦名命が力を合わせ国土を固めし時にという言葉より始まり、数多くの神社は人皇第何代という事から始まっている由緒が多い中で、その事しか記載されていない。この地は古くから人が住み始め、今も古墳や石器が発掘されており、また、古くは神村(かみむら)と呼ばれていたが、上村(かみむら)に変わり、現在は上村(うえむら)となっている。
 尚、本殿は平成16年4月1日附で、旧重信町の有形文化財に指定され、現在は東温市の指定になっている。指定の内容は彫物であり、明治12年に完成し、屋根の形は美しく前拝があり、かご彫り・すかし彫りという技法により龍の彫物等があり、友沢弥三郎(ともざわやさぶろう)の作で、他の神社では類を見ない中予地方では非常に珍しく一見の価値がある。


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拝殿
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船川大明神と書かれてありました。
愛媛では、三島明神と書かず、こうしてそれぞれの神社の名前をそのまま使っている所が多いのです。
これも、何か理由があるのかもしれないと思います。
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本殿です。
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境内社 「荒魂神社」
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何故か 祭神の御名前が。。。
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三島の神紋です。
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境内社
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「愛」とは、何でしょう。

私は、20歳から約10年間、愛について考えた時期がありました。
その中でも、一番、難しい 男女の愛について、長い時間をかけて考えました。
そして、いろんな愛についても、考えました。

報われない愛、 裏切りの愛、 悲しい愛、 苦しい愛、
この気持ちをどうしたら無くすことができるのかを、必死で考えました。

今でも、全てをわかったわけではないと思います。

でも、報われないと思う心、裏切られたと思う心、悲しい、苦しいと思う心があるうちは、愛ではないのだと思うようになりました。
今でも、もちろん、そう思ってしまう出来事があるかもしれません。

でも、それは、自分勝手な愛。
苦しいのは、自分の思うようにならなかったからで、
悲しいのも、自分の思うようにならないからなのです。
自分がこれだけ、思って、これだけしたにも関わらず、相手はその心に答えてくれないことに、いいようのない感情を抱いてしまう。

だから、「愛」 という言葉は、簡単に使えない言葉かもしれません。
親が子どもを愛するように、誰かを愛することは、とても難しいことなのかもしれません。

それでも、人は人を好きになる。
「愛」という意味を、もっともっと考えなさいと 言われているかのように。。。。。


 



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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-05-02 00:56 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(0)

こんにちは。
今日から、ゴールデンウィークですね。
昨日は、ブログを書いている途中で寝てしまっていました。。。

皆さんは、どんなゴールデンウィークを過ごされるのでしょうか?
今年は、震災の影響で、旅行を自粛される方も多いと聞きます。
でも、こんな時だからこそ、元気を出して、笑顔になることも必要かな。なんて思います。

ボランティアツアーがあると聞きました。
1000人の募集があっというまにうまったとか。

うちの子供たちも、ゴールデンウィーク中は、ずっとチャリティーイベント出演する予定です。
今回の地震で、子どもたちも、それぞれにいろんなことを考えたようです。
多くの人の命が犠牲になり、人々が学ぶためにしては、あまりにもその代償は大きいものでした。
でも、もう後戻りはできません。
亡くなった人々の命を無駄にしないように、よい世の中にしていかなくてはいけないですね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、先日の続き、天之逆矛があった場所は?です。
数回前に、ご紹介した 「徳威三嶋宮」は、神社の名前に、「徳威」がついていて、私も見つけた時は驚きました。 

「こんなに早く見つかるなんて!」 と すっかり、この「徳威三嶋宮」がそうかと思いました。
でも、それから、重信を調べるうちに、他にも、この「徳威」と関係のある神社が見つかりました。

そして、これらの神社の原点?ともいえる神社も。
今日は、その中の、もう一つの 「徳威」の神社をご紹介します。

ここは、現在の住所は松山市。
重信と松山市の境目にあります。
しかし、もともとは、この場所にあったのではなく、貞和二年(1346年)くらいまでは、別の場所にありました。

現在の場所はココです。


松山市津吉町乙12番地乙13番地

神社の名前は、「徳川神社」
徳川神社という名前は大変珍しく、全国でも、徳川神社という名前の神社は、ここだけだそうです。
もともと、ここ津吉町は江戸時代まで德川村と称しており、その時期に津吉村に改名させられ、この神社は、その時の徳川村をそのまま使っているのではないかといわれています。

しかし、元は、
人皇第32代崇峻天皇の時代大三島宮より大山祇神を勧請したのが始まりとなっているのですが、
ここで一つ疑問があります。
人皇第32代崇峻天皇の時代とは、推古天皇の前で、587年9月9日 - 592年12月12日の間といわれています。
前回もお話しましたが、大三島瀬戸に、神社ができたのは、推古天皇の時代、また、それまでは、大山祇神という名前ではありませんでした。
それなのに、推古天皇より前に、大山祇神を勧請したというのは、おかしいのです。

ただ、神社という建物はなかったかもしれませんが、もうこの時代には、三島明神(瀬織津姫)が何らかの形で、あの 「みたらしの水」の場所にあったのかもしれません。
その三島明神(瀬織津姫)を、この徳川神社の元となる神社に勧請したのだと思います。

そして、その時は、現在の場所ではなく、違う場所にありました。

そのあった場所というのが、

「御所ヶ谷徳威」

という場所です。 
そして、社名も

「徳威宮」 と称しており、この時期神託に依り今の地に奉遷したと伝わります。

この神社も、あの 「徳威三嶋宮」と同じく、「德威宮」と呼ばれていたことになります。

二つの三島明神が祀られる、 「徳威宮」。
もともと同じものだったのか。 それとも、別々に二つの神社が鎮座していたのか、わかりません。

しかし、どちらも、天之逆矛に関係する重要な神社だったのではないかと思います。

また、この徳川神社が、現在の場所へと移るころ、つくられた
貞和二年(1346年)作の井川水神の木彫りの神像があります。

「井川水神」 ここも、やはり水の神(瀬織津姫)の神社だったということがわかります。

また、もう一つ
文明二年(1470年)作 猿田比古神木彫りの神像の遷宮面があります。
人の顔の大きさぐらいで鼻は大きく約30㎝程あるそうです。

二つの 「徳威宮」
このどちらかに、天之逆矛はあったのでしょうか?
でも、どうして、この重信に、天之逆矛は一時的にしてもあったのでしょう?
私の推測ですが、その鍵を握る神社があります。
その神社については、また、後日ご紹介したいと思います。

では、徳川神社です。
*徳川神社
*松山市津吉町乙12番地乙13番地
*祭神
大山祇神(おおやまづみのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
雷神(いかづちのかみ)
面足尊(おもたるのみこと)
惶根尊(かしこねのみこと)
猿田比古神(さるたひこのかみ)
井川水神(いかわすいじん)
*御神徳
御神格高(何事にも御利益あり)
無病息災・安産祈願
※特に高龗神の御神徳(雨水を支配する神)は非常に高く、崇敬者の方も多い!
*境内社
素鵞神社
若宮神社
白山神社
天満神社
金刀比羅神社
奈良原神社

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この杜の中に神社はあります。
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拝殿
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本殿
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神紋
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境内社
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ご神木
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今日もありがとうございました。
素敵なゴールデンウィークをお過ごしください。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-29 12:23 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(3)

こんばんは。

旧重信町は、天之逆矛にまつわる伝説の地かもしれないと、先日お話しました。
そして、その周りには、沢山の意味のある神社があると。

天之逆矛については、次回また、続きをお話します。
その前に、昨日の謎の日、神亀5年8月23日から 16年前の和銅5年8月23日のお話をさせて頂きたいと思います。

神亀5年には、伊予の国に80箇所以上三島神社が、同日に勧請されました。

それより、16年前の8月23日にも、伊予の国に、一度に三島神社を勧請しているのです。
和銅5年は、西暦712年です。
この年を聞いて、思いつくものがある方もいらっしゃることでしょう。

そう、この年は、来年1300年祭が行われる、古事記が完成した年です。
この年の1月、太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ)によって、献上されました。
もう、ここで何度かお話させていただいているように、古事記の中には、瀬織津姫は書かれていません。
瀬織津姫の名前が、消され始めたのも、ちょうど、この古事記ができる前後から、そして、大山祇神社が、瀬戸から、現在の宮浦へと移ったのも、ちょうどこの前後なのです。
古事記は、瀬織津姫を語る上で、はずせないものなのです。

そして、今日の神社、今までも何度か同じ年に勧請された神社をご紹介しましたが、これらは、この古事記ができた、この年の8月23日に、勧請されているのです。

どうして、古事記のできた年に、多くの三島神社をつくらなければいけなかったのか。
その謎は、今もまだ、はっきりとわかりません。 そして、この8月23日の意味も。。。。。。。

ただ、同じ日に、多くの三島神社を勧請しなければいけなかった、何かの理由があるはずだと。

今日、ご紹介する神社は、和銅5年8月23日に、伊予国司三位越智宿称玉興が大三島宮より勧請し、拝志郷一宮三島大明神と称え、氏神として崇敬したといわれます。
この、越智玉興とは、神亀5年に勧請した 玉澄の兄です。
玉澄とは、異母兄弟になります。 
越智玉興が、玉澄に 「河野」という名前を与え、これより、越智から河野と名乗るようになります。

私は、他国で生まれた、母違いの弟玉澄に、国造りを任せ、苗字を河野と名乗らせたのにも、訳があるのではないかと思います。
越智家の祖である、物部氏族は、この時もう衰退していっていました。
越智氏族と関係の深かった、斎明天皇の崩御し、越智氏族の力もまた、なくなってしまいました。
もしかしたら、このままでは、滅びてしまうと考え、名前を変えて、再起を願ったのではないと、思えてきました。

前回紹介した神社と、今回紹介する神社は、ある神社を囲むように鎮座されています。
このように近い場所に、2回、別々の場所に、勧請されたのにも、きっと何かわけあってのこと。
和銅5年(712年)~神亀5年(728年)8月23日は、越智氏族の大きな変革期であり、その当時のことを考える上で、きっと重要な出来事ではないかと思っています。


*築島神社
*東温市大字下林甲2616番地
*祭神:大山祇命(おほやまつみのみこと)
*和銅5年8月23日伊予国司三位越智宿称玉興が大三島宮より勧請し、拝志郷一宮三島大明神と称え、氏神として崇敬したと云う。
仁平3年正月源三位頼政が心願あって社殿を再建、神領久米田、別当、社僧読経料、水田等の寄進があった。後に十城別王が伊予に封じられたとき、当郷御瀧峯伊邪那岐、伊邪那美二柱の神を奉斎したが、天正18年官命により三島宮へ合祀、築島大明神として改めた。
寛文6年大旱魃の際、浮穴郡十三ヵ村より雨乞の祈願をして神威顕現瑞雨を得たので一三ヵ村より本殿を改築し、爾来十三ヵ村の祈念祈雨の祈願所と崇め、天保8年の神殿改築にも前例により十三ヵ村より寄進があった。
昭和35年一二五〇年祭執行、同41年神殿屋根を銅版に葺き替えた

また、上記の由緒を見てわかるように、三島明神(三島神社)は、多くの場所で、雨乞いの祈願が行われています。 雨=水 と関わりの深い神様ですね。 
そして、由緒の中では、どこもそうなのですが、大山積神の名前はほとんど出てくることはありません。そのほとんどが、 「三島明神」 としての姿なのです。

越智家、河野家は、どんなに世の中が変わろうと、大山積神とは呼ばず、三島明神の名前を貫きとうしました。  これが、微かな、抵抗だったのかもしれません。

では、築島神社です。
ここの神社は、北と西と東に、入り口があります。 
まずは、北の入り口。
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次に、西の入り口
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拝殿
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本殿
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境内社
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ご神木
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次回は、天之逆矛の続きのお話をさせて頂きます。

今日27日、首都機能移転が、東日本大震災を機に再浮上している。との記事がありました。
江戸、東京と、長い間、東京が日本の中心となってきました。
まだ、実現するかどうかはわかりませんが、自然災害によって、首都を移転するという話が真剣に行われるようになったようです。

太古の時代も、自然災害により、また、時代の流れにより、都、城を移動してきました。
そして、現代のような、さまざまな物が進んだ世の中でも、同じようなことが起ころうとしています。

原点に帰る時期にきていると、いろんな場面で感じさせられます。
人々の心も、同じように、忘れていた心を取り戻してほしい。 そう願います。

本当に、大切なものは何かを。。。。。。

今日もありがとうございました。






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-28 00:50 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

まずは、神社のお話から。。。

旧重信町の神社、3日目。。 今日は、宇氣洲神社です。
現在ここは、八幡神社と三島神社が合祀されていますが、建立された当時は、別の場所に、別々に鎮座されていた神社でした。

合祀されたのは、嘉永2年(1849)。合祀された当初は、三島神社海稲八幡神社とよばれていましたが、大正2年(1913)に宇氣洲神社と改称されました。

三島神社は、伊予の国司越智玉純が大三島から勧請した神社です。
そして、その日は、神亀5年(728)8月23日。

もうずっとご覧になっているかたは、あれ? と思われた方もいるかと思います。

そうなんです。
この神亀5年(728)8月23日。 伊予八十三郷に、同時に、三島神社が勧請されているのです。
今、それが、どれだけ、どこに鎮座されているのかを、一つ一つたどっているところなのです。

同じに日に、これだけ多くの場所に、三島神社を勧請されたのには、きっと何か深いわけがあったと思うのです。

そこで、簡単ですが、この神亀5年について調べてみました。
この時代の天皇は、聖武天皇。

聖武天皇は、7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかったといわれています。 この時代の天皇は、いつも何かにおびえるように生活していました。
天皇の座を巡り、骨肉の争いが絶え間なく起こり、その中で死没していった天皇の怨霊に悩まされたとも。

また、私が思うに、それだけではなく、神に対してもおびえていたのではないと思います。

文武天皇の時代から、多大な力をもっていた人物、藤原不比等。
藤原不比等は、瀬織津姫の名前を消したことに、とても関係の深い人物だったと思われます。
そして、藤原不比等がなくなった後も、まだその影響力はとても強いものでした。

しかし、聖武天皇が即位されてかた、長屋王ながやのおおきみが、天皇に近い人物になってきます。
それを、よく思っていなかったのが、藤原四兄弟でした。

聖武天皇と長屋王ながやのおおきみは、藤原家とは対立の立場にあったと思います。
長屋王ながやのおおきみは、神亀5年(728年)5月には、王の父母と聖武天皇をはじめとする歴代天皇のために、大般若経一部六百巻の書写を発願しているのです。

もしかしたら、怨霊の魂を鎮めようとしたのかもしれません。
そして、その同じ年に、三島神社を、伊予の国に一度に勧請させたことも、同じような意味ではなかったのかと思うのです。

長屋王は、翌年の神亀6年(729年)2月、妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺します。
この事件の発端は、「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があったとされます。
左道とは、中国では右を尊び、左を正しくないとしたところからから、

正しくない道。邪道 不都合なことという意味だといいます。

何か、藤原氏族にとって、不都合なことを、調べていたのではないかと思われるのです。
それを、知った 藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が、妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺してしまったのではないかと。

しかし、一つ全くわからないことがあります。
それは、8月23日という日です。
この日にも、何かとても深いわけがあるのです。 それは、この神亀5年より以前、和銅5年にも、伊予の国に一度に三島神社が勧請されています。 神亀5年ほどは多くないのですが、この和銅5年に勧請された日も、
8月23日なのです。

8月23日は、いったい何の日だったのか?
これがまだ、どうしても知ることができません。

これが、わかれば、もしかしたらもっと深いことがわかるかもしれません。
ただ、ほんの少し近づいたような気がしています。 

神亀5年8月23日。 
もしかしたら、瀬織津姫の御魂を鎮めるために、伊予の国に勧請されたとしたら、伊予の国と姫との関係が本当に深いものだったということになります。

*宇氣洲神社
*東温市田窪1585番地
*大山祗命(おほやまつみのみこと)   
 品陀別命(ほむだわけのみこと)
*境内社
 田窪神社
 三穂神社
 出雲神社
 奈良原神社
 稲荷神社
*当社は、以前は三島神社と海稲八幡神社と二社それぞれ別所に鎮座していた神社である。
三島神社は、神亀5年(728)8月23日伊予の国司越智玉純が大三島から勧請した神社であり、伊予八十三郷各郷の一の宮と称した。
治承2年(1178)国主河野通清、当神社を尊敬するによって社領を寄進し神宮司香積寺を置く。
元久(1204~1206)の頃、荏原城主平岡氏と志津川の城主和田氏と互いに交戦すること数度に及び、当神社の社殿は破壊された。当時、河野親太夫親孝の二男高井太夫兼孝の六男で田窪七郎孝村、同太郎孝通はこの地を居所としており、河野殿の上屋形の趾蹟があることをもって浮洲本郷一の宮として社殿を再築し、水田数町を寄進された。元徳2年(1330)越智通孝、社殿を興し自ら社職となって奉仕する。

海稲八幡神社は、延久2年(1070)源頼義が創祀させたといわれ、以後河野氏、高井氏、浮穴氏、田窪氏、白石氏、田井氏等の諸豪族が深く尊崇した。
嘉永2年(1849)二社合祀の議が起こり、現在の地に合祀して三島神社海稲八幡神社と称し、大正2年(1913)に宇氣洲神社と改称する。平成11年(1999)に、合祀150年祭の記念大祭を執り行う。

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三島の神紋と、八幡神社の神紋が一つづつ、掲げられています。
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本殿に三島大明神の文字
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ご神木
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キャンディーズの田中好子さんが、亡くなりました。
私も、小さいころから、大好きでした。
今でも信じられない気持ちです。

生まれて初めて、ポスターを貼ったのが、キャンディーズでした。
こんなに早く、逝ってしまうなんて、本当に悲しいです。

でも、葬儀の時、遺影のそばに飾られていた、一枚の絵か写真。どちらかわからなかったのですが、
あれを見た瞬間、 

「女神だ!」 と思いました。

肉声テープの中で、
「天国で被災された方のお役に立ちたいと思います」 と言ったあのことばは、女神としての声だったのかもしれないと思いました。

田中さんの笑顔は、とても優しくて、キラキラ輝いていました。
田中さんの心は、優しくて強く、人のために役にたちたいといつも願っていました。

田中好子さんは、女神になったのですね。
もしかしたら、女神さまが、この世に降りてきていたのかもしれませんね。

長い闘病生活、本当にお疲れさまでした。 今度は女神として、いつまでも、見守っていてください。
沢山の思い出を、本当に本当に、ありがとうございました。

(合掌)






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-27 00:51 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

今日から、数回にわけてご紹介する神社は、どの神社も、大変重要な神社だったと思われます。
以前の、内容を読まれていない方のために、ちょっとご説明をすると、
今治市玉川の山の麓に鎮座する、「御鉾神社」

今では、地元の人にしかわからないであろう場所に、鎮座されています。

しかし、この神社の由緒には、真意は不明ですが、天之逆矛についての記述があります。
天之逆矛とは、あの坂本龍馬が引き抜いたという伝説もある、、大国主神を通してニニギに譲り渡されて国家平定に役立てられたと伝わる矛のことです。
一方、諸説あり、
・『大和葛城宝山記』によると、天魔反戈は内宮滝祭宮にある。
・伊勢神道(度会神道)の神道書『神皇実録』ではサルタヒコの宮処の璽(しるし)
・『倭姫命世記』では天照大神が天から天逆鉾を伊勢に投げ下ろしたとし内宮御酒殿に保管されている
・北畠親房は『神皇正統記』の中でオノゴロ島である宝山にあると結論づけている。

これを見ると、今も、本当はどうなったかは誰もわからないようです。

そして、玉川の麓の 「御鉾神社」の由緒の中にも、天之逆矛のことが、書かれてありました。

それは、推古天皇の時代、鉄人伝説で以前お話した、小千命の子孫、小千益躬が、徳威の宮というところから、大三島宮へと奉遷した時に、この玉川の現在鬼原と呼ばれる場所に、滞在して同神の御威徳を後世に伝えるため小祠を建営して御鉾の宮と崇め奉ったと伝わる、御鉾神社を偶然見つけたのです。

そして、それからすぐ、これもまた偶然、徳威の宮と呼ばれていた場所を見つけることができました。
しかし、徳威の宮と呼ばれている場所はひとつではなく、また、その周りに鎮座するいくつかの神社も、とても古い歴史を持ち、謎が多く隠されているであろう神社でした。

今日から、ご紹介する神社は、全てほぼ同じ地域に鎮座されています。

これだけの範囲の中に、これだけの神社が固まって鎮座されていることもまた、とても不思議なことです。
また、弥生時代から信仰されていた、磐座もある場所もあります。

三嶋明神と呼ばれる前からの、伊予の国での瀬織津姫の姿は、ここ重信にあるかもしれないとも、思うのです。
では、そんな旧重信町のお話をさせて頂きたいと思います。

重信町は、松山市と伊予市の隣、重信川が流れる、池や沼が多く存在する不思議な町です。
重信川は戦国時代まで、伊予川(いよがわ)とよばれていて、たびたび大氾濫をおこす暴れ川で、その流域には氾濫原(はんらんげん)が広がっていました。

松山平野が、姿をあらわし始めたのは、弥生時代から、奈良時代にかけてといわれています。
昔、吉井郷と呼ばれ、見奈良(みなら)、田窪(たのくぼ)、牛渕(うしぶち)、北野田(きたのだ)、南野田(みなみのだ)の5つの大字がありました。
そして、この吉井郷のあたりの伊予川は洪水をおこしたかと思えば、とおもうと、すぐに枯れ川となり、河床に砂礫(されき)が積もって、伏流水による湧水が噴出し、湖沼が散在する地形になったといわれています。

現在、池や沼が多いのは、このことが理由だったのです。

そして、この特殊な地域に、浮島があり、そこには、弥生時代からの神の聖域があったと言われます。
この神の聖域のことについては、後日お話いたしますが、この神の聖域の周りをまるで囲むように、(当初は現在よりも高い位置にあった場所もありますが) 重要な意味をもつ神社が現在も残っています。

今日は、その一つ、

「徳威三嶋宮」 です。

もう、お名前を読んで、え? と思われたと思いますが、そうなんです。
この神社の名前には、あの、天之逆矛のあった場所といわれる、「徳威」 という名前がつけられているのです。

★1徳威三嶋宮 (重信町)
  東温市野田1丁目20番地11
  *祭神
     鹿屋野比賣神(かやぬひめのかみ)
     雷神(いかづちのかみ)
 大山積神(おほやまつみのかみ)
     高龗神(たかおのかみ) 
  *特殊神事12月20日 御面渡御祭
  *境内社
       祓戸四柱大社
       夷子神社 
       龍神社
       和霊神社 
       野田神社
   十二社神社 
       市之宮神社 
       荒神社



ここの由緒を見てみますと、創建はいつの時代かははっきりわからないようなのですが、
三嶋明神ではなく、一番初めに、お祀りされた神は、
  
 鹿屋野比賣神(かやぬひめのかみ)

となっているのです。 鹿屋野比賣神は、大山積神のお后です。

 (徳威原の台地に鹿屋野比売神を祀り「徳威王楯明ノ宮」と称したことに始まる)

三嶋明神ではなく、大山積神でもなく、鹿屋野比売神を最初にお祀りするということに、疑問を感じずにはいられません。  やはり、ここも、瀬織津姫かもしれないと、そんな気がするのです。
大三島から、雷神(いかづちのかみ)大山積神(おほやまつみのかみ) 高龗神(たかおのかみ)の
三神が勧請されるのは、慶雲3年(七〇六)のことです。

国司越智玉興が大三島から三神を勧請して上津社・中津社・下津社の三社を祀り、「徳威三島神」と崇めました。

それまでは、ここに大山積神の名前はなかったことになります。
七〇六年、この時は、ちょうど大山祇神社の大造営が行われている最中です。

大宝元年(701年) 越智玉澄は、現在の大山祇神社の鎮座する場所、宮浦に、悪神がいたため、南山に五龍王を鎮めまつったとあります。
そして、その悪神(大蛇)は、北西の方へと飛び去ったと。
この悪神とは、三嶋明神(瀬織津姫)のことだったのだろうと思っています。

この悪神退治をした後、 ここ徳威三嶋宮にも、雷神・大山積神・高龗神を祀ったということです。
しかし、一つ疑問なことは、この時、まだ、大山祇神社には、雷神も高龗神も祀られてはいないのです。
ここにも、矛盾を感じます。

徳威三嶋宮は、いつのころの創建かわからないため、ここが、あの「徳威の宮」だったかどうかは今はまだわかりません。
しかし、ここもまた、一つの謎をとく場所だとおもうのです。

推古天皇の時代に、移動された天之逆矛。
どうして、この時代に移動されたのか、ずっと疑問に思っていました。 そして、なぜそれがここにあったのか。
なぜここにあったかは、まだ全くわかりませんが、移動された訳は、もしかして?と思うことがあります。

それは、大三島の大山積神社が元あった場所、瀬戸に、横殿宮[よこどのみや]と呼んだとされる、三嶋明神を祀る神社ができたが、推古天皇が即位されて二年目の甲寅[きのえとら]の年だったと言われるのです。
もしかしたら、この創建と関係があるのかもしれないと。

「徳威三嶋宮」です。

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境内社 (十二社神社)
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本殿
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祓戸四柱大社
祓戸の神として、瀬織津姫を残していただいていました。
よっかた。 これは、姫です。
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三嶋の神紋
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境内の杜
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ここは、「徳威」という地名がついていますが、なんとなくここではないような気がしています。
あくまで私の勘です^^;

でも、ここもとても重要な場所だと思います。
ここに導いて下さったことに、心から感謝いたします。


娘が中学生になりました。 幸い、娘のクラスはとてもよいお友達ばかりで、毎日とっても楽しく学校に通っています。
ですが、娘の習い事のお友達で、
早速仲間はずれにされて、いつも一人で教室にいる女の子がいるそうです。

その子が何をしたわけでもないのに。。。。。

クラスが離れているので、休み時間に一緒にいて、励ましてあげることしかできないそうです。

誰か、一人でもいいから、同じクラスで、お友達ができればいいなと願うばかりです。
私が何かしてあげれないことが、とても辛いです。

私も、中学生3年生になるまで、ずっといじめにあっていました。
だから、その子の気持ちがいたいほどよくわかります。
子どもの時から、人を仲間はずれにしたり、誰かが苦しんでいる姿をみて喜んだり、どうしてそんな心が生まれるのでしょう。

どうしたら救ってあげられるのか。。。。。

大人になっても、いくつになっても、そんなことはなくならない。

みんなが、手と手をとりあい歩んでいくことは、不可能なことなのでしょうか。

そんなことをする人間が、一人でも減るように、心から願います。







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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-25 22:27 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(9)

こんばんは。

今日は、神社巡りとしては初めての土地へと行ってきました。
今日の場所は、全く調べないで突然思いついて行ってきたのですが、不思議なシンクロや、神秘的な自然に遭遇し、感謝感謝の一日でした。

まだ今は、今日行った所がどんな意味があるところなのかわかっていませんが、きっととても意味のある場所、そして、次に繋がる場所だったような気がします。
今日のお話は、重信が終わりましたら、させて頂きます。

やっぱり、調べないで行く時に限って、本当に不思議なことが起こったりするものですね。


今日ご紹介する神社は、旧重信町(現在は東温市)に鎮座する、三嶋神社です。
東三方ヶ森を後にして、いよいよ、重信の三嶋神社へ。
まず最初に向かったのは、東三方ヶ森から一番近い場所にある三嶋神社でした。

大きな道路を走っていて、道路から、小高い杜の入り口に立つ、鳥居が見えました。

「あ!あそこだ!」

そう思った瞬間、ふと反対側を振り向くと、
「あれ? ここは・・・・・」

今から、7年前、何度も何度も訪れた場所、愛大付属病院でした。

ちょうど今から7年前、私の母は、癌になりました。
最初は、目が見えにくくなり、そのうち耳も聞こえにくくなり、それでもなかなか癌になっていることはわからず、発見された時は、もうかなりの大きさになり、ほとんど手のつけようのない状態でした。

最初に入院していた病院から、大きな地元の病院に移され、
詳しく検査。
検査の結果、もう、「ほとんど助かる見込みはないでしょう。」 といわれました。
「うちの病院では、治療できないので、もっと大きな病院へ行ってください。」

そう診断され、ここ重信にある、 「愛大付属病院」へと転院することになりました。

癌は、ちょうど鼻の奥あたりにできていて、手術は不可能。
抗がん剤と放射線の治療でなおすしか方法はありませんでした。
でも、ちょうど母が入院した時、新しい抗がん剤の薬ができたばかりで、その薬は母の癌に効果があるかもしれないと言われ、その治療にかけることにしました。

まだ、誰も使ったことがない薬。
病院の先生も、まるで実験のように、母の変化を調べていました。

それから半年。
母は、奇跡的に癌が消え、退院することができました。
今でも、毎月一度は必ず検査に行っていますが、それ以来再発はありません。

あれから、7年。
病院の正門から続くまっすぐの道の向こうに、この三嶋神社の鳥居があったのです。



この地図の上の赤い星マークが三嶋神社
下の赤い星マークが、病院です。

病院の入り口と鳥居が、繋がっているのです。

もちろん、この時は、神社めぐりはしていませんでした。でも、もしかしたら、この時から、三嶋明神(瀬織津姫)と出会う道は、始まっていたのかもしれないと。

そして、もう一つの紫の☆マーク。
この神社へと曲がる、交差点。 もう何度かこのブログでもお話していますが、私は、瀬織津姫と出会って、神社に行き始めてからすぐ、あごから首にかけて、原因がわからない、膿がたまり、一時は顔全体が大きく晴れ上がるほと酷く、食事もできないくらい酷くなりました。
膿の大きさは、ゴルフボールよりも大きく、信じられない、状態でした。

その膿は、母をこの病院へと連れてくる途中に、突然さけて、中から膿が飛び出たのです。
その膿がさけた場所が、この交差点なのです。
私は、ティッシュで避けたところを抑えながら、そのままこの付属病院の窓口に行き、看護婦さんに、状態を話し、急遽その場で、切って出すことになりました。
幸い、癌かもしれないということで、一度、ここで診察をしていたので、すんなり処置してもらえ、その後、みるみる腫れは収まり、膿は全てなくなり、その後、数ヶ月して、本格的に神社巡りがスタートしたのです。

膿がさけた場所、この交差点の目の前に、三嶋神社があったなんて。
そして、それを全く知らないで、この日、私はここに来ていました。

母の癌が奇跡的に治ったのも、私の膿が避けたのも、三島明神(瀬織津姫)さまのおかげかもしれないと、思わずにはいられませんでした。

もちろん、ただの偶然と言ってしまえばそれまでですが、私は、この偶然は、きっと姫さまのおかげだと、そして、母も生かされたのだと。
でも、生かされたのには、きっと意味があり、私が今こうして、神社を巡っていることにも、きっと意味があるはずだけど、それだけでなく、今回こうして、この場所にくることができて、御礼をいうことができて、本当によかったと、心から思いました。

母がもしいなれば、私は今のように自由に仕事ができていないかもしれません。
神社も、今のように巡ることはできなかっただろうと思います。

母を助けていただいて、本当に感謝しています。
私の、さまざまな膿を、流していただいて、本当に感謝しています。
本当に、本当に、ありがとうございました。

*三嶋神社
*東温市樋口片山1089
*祭神
 大山積神(おほやまつみのかみ) 
 雷神(いかづちのかみ)
 高龗神(たかおかみのかみ)
*境内社
 五十鈴神社
 明見社
*奈良時代初期、神亀5年(西暦728年)伊予の国司であった乎智宿祢玉純が聖武天皇の命を受け、大三島宮より勧請した吉井郷(ごおり)一の宮である。
当初、岩伽羅山上に鎮座していたが、平安時代末期の文治元午(1185年)岩伽羅城の築城に際し、現地に遷座した。別当芋は大蓮寺であったと言う。

この三嶋神社も、神亀5年に建立された場所のひとつです。
この神亀5年という年は、一つの大きなキーワードの年です。

重要な神を祀らなければいけないと、雷神 と 高龗神を、大三島に鎮座させたその意味と、この年の勧請は重なるような気がします。
姫さまを消してしまった罪と・・・・・・


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本殿
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拝殿の屋根には三嶋の神文と龍
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大木の後に、新たな木が
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この階段は、病院へと続いている。
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本当に、ありがとうござます。 






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-24 02:17 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(14)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。
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