こんばんは。

今日は、前回の葛城神社から西、
内子町(旧小田町)に鎮座する三島神社をご紹介します。

久万高原町から、小田町へと抜けるこの山道は
今回初めて通りました。

所どころ狭い所もありましたが、
想像していたよりも、ずっと綺麗な道でした。

先日徳島へ行って思ったのですが、
愛媛は徳島に比べて、山奥でも道がととても整備されています。

本当に人の住んでいない、秘境に行かない限り、
どこも、舗装された綺麗道がついています。

それに比べ、徳島は少し山奥へ入ると、
道がガタガタで、本当にびっくりしました。

今回の道も、山の中は人が通らない山の中。
それでも、山を越えると多くの民家が存在するからなのか、
本当に綺麗な道でした。

今回の三島神社は、以前ご紹介した、
ひろた村(現在の砥部町)にある、三島神社の時にも少しご紹介しましたが、
ひろた村と小田町の境目に位置する二つの三島神社には、
二つの神社をつなげる由緒が書かれてあります。

天応元年(781年)8月21日
桓武帝天応元年
小田町の現在の三島神社へ、大三島より神を勧請した時に、
お隣のひろた村の現在の三島神社があるところへ、
立ち寄り休憩され神谷口としたといいます。

しかし、
そのひろた村の三島神社のある場所には、

「駒が瀧」という滝があり、
瀧の絶頂に平坦地があり、天狗の住家と伝えられているのです。

この瀧で雨乞いをすると、
必ず雨が降ったという、駒が瀧には、

岩肌に駒の爪あとがあり

「駒は白馬」 との伝えがあると書かれています。

前回、ここを訪れた時には、この由緒を見てもピンとこなかったのですが、
この途中で休憩した場所は、
姫を祀る場所だったのです。

ひろた村の三島神社の記事はこちら↓
ひろた村 三島神社

この地域は、古代、

「浮穴郡臼杵邑」といっていました。

「臼杵(臼と杵)」 この名前がつく場所は、
姫の封印との関わりの深い場所です。

これについては、今回は深くふれませんが、
この地が、臼杵とつけられたのには、まだまだ何か隠されていると思います。

そう思う理由が、もう一つあります。

この臼杵の三島神社の由緒には、
驚く内容のことが書かれてあります。

「安永10年3月の一千年祭執行の際には、

大三島参議 藤原佐理卿真筆の額字を奉納された。」

ここに三島神社が勧請されて、1000年がたった時
ここで一千年祭が行われたようです。

そして、その時に、
「藤原佐理卿真筆の額字を奉納された」というのです。

この文章からすると、
二つの意味にとれるのですが、
ここにも、大三島の大山祇神社と同じように、
藤原佐理卿真筆の額字が奉納されたというのか、

それとも、
ここから、大三島へ奉納したというのか、

この文章からは、どちらなのかはっきりわかりません。

そして、この神社の由緒では、

「藤原佐理卿は、大三島参議」と書かれてあります。

「参議」とは、
古代の令外官(りょうげのかん)の一つで、
大臣の一つでもあります。

それが、「大三島参議」とは、
いったいどういう意味なのでしょうか。

「大三島の大臣?」とも言わんばかりです。

以前、藤原佐理についてもふれましたが、
この藤原佐理とは、現在の大山祇神社の鳥居に書かれた

「神額」を書いた人物としても有名で、
大山祇神社には、その現物が保存されています。

その「神額」には、伝説の物語があり、
この臼杵の地とは全く縁もない物語です。

その物語はこちらです。↓
大西町 「素鵞神社」

この大西町に伝わる伝説も、
大三島に伝わるものとは、少し違い、
大西では、本当は違う人が書いたと言い伝えられているようですが、
大三島では、藤原佐理のものとして、保存されています。

この小田町の三島神社の由緒が言う
「藤原佐理卿真筆の額字」が、その伝説のものなのかどうかは、
まだはっきりと調べていませんが、
そんなにいくつもあるとも考えられず、
あの「神額」も、
本来言い伝えられている伝説と、全く違う事実が存在していた可能性が出てきました。

それが、大三島から遠く離れた、
この山の中の神社にあることに本当に驚きました。

*三島神社
*喜多郡内子町臼杵2070
*祭神
 大山積命(おほやまつみのみこと)
 松王小児命(相殿)


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こうして神社を周りながら、一つ一つ神社の由緒を調べていくと、
これだけの範囲、全てを封印していったのかと思うと、
想像を超えるものがあります。

昭和が始まっても、まだ続いていたこの封印の発端は、
あの卑弥呼が存在した時期から、もう既に始まっていたのではないかと
最近は思うようになりました。

どんどん、古代へとさかのぼる
神の封印の歴史。

これまで、そこまで考えてもみなかった沖縄に、
その封印の歴史を説く鍵があることがわかってきました。

沖縄地方でしかとれない、
「ゴホウラ貝」 という貝があります。

その貝は、弥生時代二度に渡り、その貝を使った腕輪が
はめられるようになります。

ゴホウラ貝は、沖縄で別名 「世直しの牛貝」とよばれていました。

この腕輪が日本で見られるようになるのは、
一度目は、弥生時代前期末期、最初に現れたのは

「北九州」だったといいます。
そしてそれらは、九州と山口県にまで広がりました。

しかし、一度、この腕輪は見られなくなり、
次に現れるのが、弥生時代末期。

この第二期に現れたゴホウラ貝は、
ここ今治からだったといいます。

そして、この貝が今まで見つかっている場所を挙げると、
その場所が、大山祇神社と深い関係のある場所、
また、神功皇后の伝説と関係のある場所に繋がっているのです。

今治市、広島市、岡山県瀬戸内市、岡山市、香川県三豊市、
そして神戸市。

これらの名前で、真っ先におもいつくのが、
孝霊天皇(こうれいてんのう)です。

あの卑弥呼とも言われる、ももそひめの父でもあり、
伊予皇子の父でもある、孝霊天皇(こうれいてんのう)。

大山祇神社とも密接な関係にあり、
越智家の祖は、饒速日尊とも孝霊天皇とも言われ、
ここには、岡山の吉備津彦の名前も登場します。

岡山吉備津彦神社の祭神は、
以前は、吉備津彦とされていなかったことが最近わかり、
南北朝時代には、吉備津彦は誤りで、吉備津武彦と書かれてあります。

やはり、先日吉備津彦神社へ行って思ったことは
間違いではないのでないと。

吉備津彦とは、本来の原初やまとの皇子で、
後にここを支配した人々によって、
その吉備津彦の名前だけを、利用されたということが。

桃太郎の鬼退治伝説の本当の意味は、
原初大和と擬制大和との戦いのことだったと。

ゴホウラ貝が示す場所は、
古事記により、完全に封印される前の時代、
その発端が始まった時に、姫を祀る一族が腕にはめていたものだったのではないでしょうか。

天智天皇が歌った歌。
神代の時代より、ずっと続いていた、天の香具山の取り合い。
それは、第一期、紀元前後から、既に始まっていたのかもしれません。
一時は収まったに思えた戦乱の世は、
弥生時代後期に再度始まり、卑弥呼の時代に入る。

それから、古事記が編纂されるまで、
幾度となく繰り返された戦争。

そして、とうとう古事記の編纂により、
権力争いだけでなく、

女神をも封印されてしまったのかもしれません。




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by ldc_nikki | 2012-06-27 23:50 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

数日前、寒い日、家族で食事に行っていた時のことです。
私と息子、娘は、丁度出入り口の真正面の席に座りました。

食べていると、一人の男性が、食べ終わって帰って行きました。

そこのお店の入口は、横にスライドする戸。
その戸を、男性は開けたまま帰ってしまい、店の中へ、冷たい風が吹き込んできました。

私は、急いでその戸を閉めに行きました。

息子と、「寒いのに きちんとしめないで行っちゃったね。」 と話ていると、今度は女性が一人かえって行きました。

「今度の人は、ちゃんと閉めてくれるかな?」

そう言ってみていると、その女性もまた、きちんと閉めないまま帰ってしまいました。

お店の人は、厨房からわざわざ出てきて閉めないといけないので、かなり距離があります。
また、私は、閉めに行きました。

「どうして、閉めないのか?」 そう話していると、今度は、表からお客さんが入ってきました。

すると、外から入ってきたその人は、きちんと戸を閉めて入りました。

それからしばらく見ていると、何人も外からお客さんが入ってきましたが、誰ひとりとして、開けたままにする人はいませんでした。

でも、帰っていく人は、びっくりするほど、みんなきちんと閉めないで帰っていくのです。
閉めた人は、たったの一人。

入ってくる人は、約10人中、全ての人がきちんと閉め、
かえっていく人は、7人中、6人は、開けたまま帰っていったのです。

すると、息子が言いました。

「ママ、わかったよ。 外から入ってくる人は、外が寒いからあったかい中に入ってきて、寒いのがいやだから閉めるんだよ。 でも、中から外に出る人は、 外が寒いから、閉めても閉めなくても、自分は寒いのが変わらないから、閉めないんだよ。」 と。

私は、愕然としました。 みんな、自分のことしか頭にないんだ。自分が帰ったあと、中の人たちが寒い思いをすることなど、全く頭になく、自分は1歩外に出たら寒いから、閉めても閉めなくても変わらないんだと。

でも、他の人や、閉めに行くお店の人のことを、まるで考えていない人が、こんなにも多いなんてと、
私も息子も、本当にびっくりしたのです。

今の世の中は、そんな風になってしまったのかと、改めて、考えさせられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、内子町(旧小田町)に鎮座する、とても重要なことが書かれてあった神社をご紹介します。

ここは、以前小田町の大木のある神社としてご紹介した、「広瀬神社」 「三島神社」 と同じ道沿いを、さらに、山奥へと入った場所にあります。

三社とも、そう遠くない位置に鎮座。

また、このあたりは、大山祗の神地だと言いますが、ここには、大山積神の名前はなく、記録にも、それがどうしてなのかわからにと書かれてあります。

神社庁における由来では、興国2年(1341)6月1日、西南の宮満良親王がこの地の山中に逃れた時、大和の国吉野(奈良県)の金峰山より安閑天皇のご分霊を三嶽の古戸の地に祀り所としたのがはじまりと伝えられている。と書かれてありますが、村に伝わる記述では、それよりももっと昔、もしかしたら、あの三島神社や広瀬神社よりも、古い時代から祀られていた可能性があります。

神社の名前は、

「太森神社」

現在の祭神は、
安閑天皇(あんかんてんのう) ・ 伊弉諾命(いざなぎのみこと) ・ 鐃速日命(にぎはやひのみこと)
です。

そして、本来は、二柱の神を祀っていました。

その神の名前は、上記と同じ
伊弉諾命(いざなぎのみこと) ・ 鐃速日命(にぎはやひのみこと)
と書かれてはいるのですが、とても違和感のある、組合せだと、ここに行った時感じました。

そして、家に帰ってから調べてみると、やはり、ここは、イザナミではなく別の神さまが祀られていたと気づきました。

それがどうしてかと言いますと、

この太森神社は、 古くは、饒宮の三地嶽王大権現と呼ばれていました。

そして、こうとも書かれてありました。

 「日の神鐃速日命に授け給うなり、故に鐃宮の伝えを尊む古神社である」


ここでは、ニギハヤヒのことを 「日の神」 と ちゃんと書かれてありました。
更に、このニギハヤヒの宮に伝わる言い伝えを、とても価値ある、尊いものだとも言っています。

その価値ある、尊いものとは、もう一つの記述にあります。

 当国は、大山祗の神地えい州にして、伊弉諾、伊那冊 二尊、日の神と月の神との給う古事あり。

ここは、ニギハヤヒを祀る神社なのにもかかわらず、また、その前に、ちゃんと 「日の神ニギハヤヒ」 と書いているにも関わらず、 祀る神は 「イザナミとイザナギ」 の二尊だと書いてあるのです。

これが、ニギハヤヒと瀬織津姫の関係を、隠していき、名前を消し去った、なによりの証拠となると思います。

そして、一番重要な最後の部分。

「日の神と月の神との給う古事あり。」

今まで、300近い神社を巡ってきましたが、ニギハヤヒと瀬織津姫を 「日の神・月の神」と書いてある神社は一つもありませんでした。

大三島の伝説や、さまざまな歴史をつなぎ、 瀬織津姫を 「月の女神」 と 言ってきましたが、
やっと、その本質部分が書かれてある神社に巡りあったのです。

もちろん、ここには、瀬織津姫の名前はありません。

でも、イザナミは 「月の女神」 ではありません。
また、ニギハヤヒとイザナミを、 一つとして考えることはまずありません。

大山祗の神地えい州にして、伊弉諾、伊那冊 二尊、日の神と月の神との給う古事あり。 と書かれてあるように、下に三島神社が建てたられたにも関わらず、名前は変えられながらも、しっかりと、瀬織津姫の姿を残し続けてきたのです。

この地に住む人々が、なんとしてでも、瀬織津姫を守ろうとしたことが、伝わってくるようでした。

道路から、山へと続く階段をのぼり、まるで、その姿を隠すかのようにつくられたお宮でした。
でも、そこに、今も瀬織津姫は守られているのだと思います。

三島神社から、狭い1本道を山奥へとはいると、道路沿いに、とても古い神を祀る石がありました。
昔は、こんなふうに祀っていたのかもしれません。

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そして、太森神社の入口が見えてきました。

*太森神社
*喜多郡 内子町 上川 1344番地
*祭神
安閑天皇(あんかんてんのう)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
鐃速日命(にぎはやひのみこと)
*主な祭礼
4月 4日(春祭り) 
 7月15日(夏祭り)
10月15日(例祭) 
11月23日(新嘗祭)
12月31日(除夜祭り)
 1月 1日(元旦祭り)

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入口の所に書かれてあった文字が、目に飛び込んできました。

 「皇紀2600年」

今まで、どうしてこのことに気づかなかったのか?
皇紀2600年とは、神武天皇が初代天皇になってから、2600年の記念にたてられたもの。

ということは。。。。。

大山祇神社の、小千命が、植えたと伝わる 2600年の楠木は、初代天皇が、王となった時に植えられた木ということになります。

あの2600年の楠木が、本当に、2600年前に植えられたものかどうかはわかりませんが、
あの木には、その意味が込められていたのです。
そして、もしかしたら、あの木は、その王によって植えられたものかもしれません。

大三島が、2600年に神の島となった時に。

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霧が漂う杜の中、拝殿へ向かって階段が続いています。
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少し上がると、鳥居が見えてきました。
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鳥居をくぐり、また階段を上ります。
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やっと見えてきました。
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雨も降り、薄暗くなってたせいもありますが、まるで、その姿をはっきりと見せたくないかのように、
いつものように鮮明にその姿をうつさせて頂けません。

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不思議なことに、時々、同じような明るさでも、同じような雨の中でも、
映らない時があります。 まだ、その姿をはっきりとは見せてくれないかのように。。。

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どの写真も、何枚とってもうまくとれませんでした。
また、いつかもう一度来て、今度は綺麗な写真を撮って帰りたいと思います。

「日の神と月の神」 を祀る神社。

今も見つかることを恐れているのでしょうか。
それとも、まだ、真実を私が知っていないからでしょうか。

ここに来て、瀬織津姫と月の女神の姿が、より明確になったような気がします。
そして、

  「聖なる水の女神」 だったことが。。。。。








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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-28 23:18 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、前回の続き、小田町に鎮座される神社をご紹介します。

ここは、前回の 新田八幡神社から、山の中へと入っていった所にあります。

細い山道を、さらに奥へと進むと、数件の部落が見えてきました。
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車をゆっくりゆっくりと走らせ、 目をこらしながら、神社を探していると、赤い屋根の拝殿がほんの少しだけ、
川の向こうの山の中に見えました。

どこから川向こうに渡ればいいのか。。。
車をとめて、あたりを歩いてみると、畑へ降りる小さな道がありました。
小さなあぜ道を通り、 栗の木の中を抜けると、綺麗な川が流れていました。

赤い屋根に向かって、川を渡り坂をのぼると、ずっと気になっていた、赤い屋根の神社の拝殿が見えました。

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ここは、 
祭神 スサノオを祀る 「黄幡神社」 です。

今日は、この「黄幡神社」の神社の名前に由来する、 「黄幡神」について、少しお話したいと思います。

「黄幡神」とは、二つの大きな意味をもちます。

一つは、 九曜(くよう) 
もう一つは、以前も少しお話した、 陰陽道の神で方位の吉凶を司る 八将神(はっしょうじん)の中の神です。

九曜(くよう)とは、インド天文学やインド占星術が扱う9つの天体とそれらを神格化した神のことをいいます。

日本の陰陽道の原点は、 この九曜(くよう)ではないかと思います。
九曜のうち七曜は実在する天体で、残りの2つも古代インドでは実在すると考えられた天体と言われます。

          (九曜)                         (九曜曼荼羅)
1.スーリヤ         蘇利耶       日曜星  太陽  (千手観音) 
2.チャンドラ / ソーマ   戦捺羅 / 蘇摩  月曜星  月 (勢至)
3.マンガラ / マンガル  盎哦囉迦    火曜星  火星 (虚空蔵)
4.ブダ            部陀         水曜星  水曜    (弥勒)
5.ブリハスパティ     勿哩訶娑跛底   木曜星  木曜    (薬師)
6.シュクラ         戌羯羅       金曜星  金曜  (阿弥陀)
7.シャニ          賖乃以室折囉   土曜星  土曜 (聖観音)
8.ラーフ          羅睺(らごう)     羅睺星 月の昇交点(不動明王)
9.ケートゥ         計都(けいと)    計都星  月の降点  (釈迦)

八将神(はっしょうじん)とは、牛頭天王の八王子。
そして、その母は牛頭天王の妃で娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の娘、頗梨采女(はりさいじょ)
またの名を、瀬織津姫と同一と思われる 「「善女(如)龍王」です。

まずは、牛頭天王の八王子を、書かせて頂きます。

1.太歳神(木曜星・総光天王)
2.大将軍(金曜星・魔王天王)
3.太陰神(土曜星・倶魔羅天王)
4.歳刑神(水曜星・得達神天王)
5.歳破神(土曜星・良侍天王)
6.歳殺神(火曜星・侍神相天王)
7.黄幡神(羅睺星・宅神相天王)
8.豹尾神(計斗星・蛇毒気神天王)

先に、黄幡神について、見比べていきます。
八将神(はっしょうじん)は、日本独自で考えられた陰陽道の神の形でですので、その名前の付けられかたに違いがありますが、
八将神の 7..黄幡神の星(羅睺星) が、九曜の、8.ラーフと同じ星(羅睺星)の神とされているのが、わかると思います。

九曜の 「ラーフ」 という神は、「蛇神」ですが、
インド神話に登場する、4本の腕と1本の尾をもつ 「アスラ」 の名前です。
古代インドでは実在するとされていた、(羅睺星)

神話によると、神々と 「アスラ」は不死の霊薬アムリタをめぐって争い、不死の霊薬アムリタは神々の手にわたりました。
神々は集まってアムリタを飲んだが、その神々の中に 
アスラは 「ラーフ」 という蛇神に化け、混じっていて、 不死の霊薬 「アムリタ」を 飲んでしまったのです。

それを太陽と月が発見し、ヴィシュヌ神に知らせました。
それを聞いた、ヴィシュヌ神は円盤(チャクラム)を投げてラーフの首を切断しました。
しかし、ラーフの首は、「アムリタ」 を口にしてしまっていたので、不死になってしまっていたのです。

ラーフは、天に昇り、告口したことを怨んで太陽と月を飲み込んでしまいました。

これ以来、ラーフは日蝕や月蝕を起こす悪星になったといいます。
一方、切断した、ラーフの体も天に昇ってケートゥという凶兆の星になったとされています。

この神話から、ラーフと呼ばれる蛇神は、災害をもたらす悪神として恐れなれたといいます。
そして、この伝説が日本に伝わり、 日食を引き起こした神であるスサノオと習合したと言われます。

このお話の中で、とても気になる箇所が数か所あります。

1.ラーフは、蛇神だったこと。
2.月と太陽の見込み、日食を引き起こした神であること。
3.切断した体も天に凶兆の星となったこと。
4.そして、不死の霊薬アムリタをめぐって争い、飲んでしまったことです。

日本の古事記は、もしかしたら、このインド神話も、一つの物語をつくるうえでの参考資料になったのかもしれません。
もちろん、このインド神話だけをもとにつくられたわけではないと思いますが、インド神話をもう少し詳しく調べていくと、もっと、何か共通点がみつかるのではないかと思います。

瀬織津姫やニギハヤヒが、「蛇(龍)」神であったことで、このことと結びつけるのに、ぴったりではなかったのでしょうか。
しかも、 このお話が、「悪神」 として現されていたことが、何より、ちょうどよい話だったのかもしれません。

ここに出てくる 「不死の霊薬」 ですが、
古代インドでも、「不死の薬」を、求めていたことが、ここでわかると思います。

その神格をもつ、 「姫」 が どれだけ偉大な神であったかも、 それと同時に見えるような気がします。

しかし、一つ、どうしてもわからないことがあります。

それは、「九曜」 では、 9つの星の中の、一つの星 「羅睺」のみが、「黄幡神」とされ、
スサノオと同一とされている一方、
日本でつくられた、陰陽道の八将神では、その八柱の父である、牛頭天皇もスサノオと同一とされ、
更に、子供の一柱である、 黄幡神(羅睺星)もまた、「スサノオ」 と同一ということになります。

でも、この八将神での、黄幡神の意味を見ると、
「別名万物の墓の方といい、また兵乱の神ともいう。」 とあります。

「墓の方」 とは、 まるで、 三途の川の神として現され、死の世界の神として空海に表現された 
「瀬織津姫」 のことを言っているように思います。

また、一般的には、 「牛頭天王」が スサノオと同一とされているため、 その妃 「頗梨采女」は、奇稲田姫とされていますが、 この「頗梨采女」またの名を、「善女龍王」 は、 瀬織津姫のこと。

これら、八将神の母もまた、瀬織津姫なのです。

ということは、 この日本独自でつくられた、八将神(凶神)は、その八柱全てか、瀬織津姫や、スサノオなど、悪神にされた神たちに繋がる神たちなのかもしれません。

八将神(はっしょうじん)とは陰陽道の神といいましたが、
陰陽道(おんみょうどう)は、5世紀から6世紀頃、仏教や儒教とともに日本に伝わりました。
当初は、自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられたのですが、
、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始め、藤原氏が権力を握ったころから、怨霊に対する御霊信仰に利用されるようになったのです。

古事記により、古来の日本の神を封印してしまって以降、 その祟りを恐れた人々が、この陰陽道と、瀬織津姫他、スサノオなどの魂と結びつけ、「悪神 死の神」 にしてしまったのではないかと思うのです。

また、 この八将神(はっしょうじん)の父でもある、牛頭天皇は、神仏習合における神で 「京都東山祇園や播磨国広峰山」 に鎮座する神スサノオと同一です。

京都の祇園祭りで知られる、 「スサノオの姿 (祇園の神)」 の起源もまた、インドにあります。
インドの釈迦の生誕地 (釈迦が説法を行ったとされる五つの寺院 「天竺五精舎」 )
に因む 「祇園精舎」 の守護神 が 祇園神 (牛頭天皇) の起源なのです。

牛頭天王は、平安京の祇園社の祭神として、御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるための神となりました。

これもまた、 「封印し消された神の魂」 を鎮めるために祀られたものであり、 さらには、自らの魂で、自らを退散させると言った、この時代独特の思想によって、行われた儀式であったのではなかと思います。

そして、祇園まつりの 「花笠や山鉾」も、疫病神を鎮め退散させるためのものであり、
「瀬織津姫」 の魂を、 鎮め退散させるためのものでもあったのです。

その祇園まつりが、 この伊予の国へと伝わり、 先日紹介した、三島神社の御祭りとして行われるようになったのもまた、 「瀬織津姫」 の聖地だからだったのではないでしょうか。

西条や、新居浜は、その御魂を、男神へと変えてしまったのに、「伊予三島」 だけは、今もなお、変えることなく、「姫」 の 御神体を載せているということは、 それだけ、 「姫」 とのつながりが深い土地だったともいえるかもしれません。

でも、それが、西条以西、 ここ 今治では行われていないのは、
最後まで、「姫の魂」 を 悪神と認めていなかったのかもしれません。

今治で、御祭りが行われなくなった理由は、 もしかしたら、ここに理由があったのかもしれません。

今日お話したインド神話や、黄幡神、そして陰陽道は、まだ、調べ始めたばかりですので、これからもっと詳しく調べていかないといけないものになりそうです。
古事記や、瀬織津姫がどのように隠されていったのか、また、空海とのつながりも、このことから、もっとはっきりとしてくるように思います。

*黄幡神社
*喜多郡内子町中田渡632
*祭神:素盞鳴命(すさのをのみこと)
*由緒
 延喜19年9月10日勧請という。元和年間には雨の神として崇敬が深い。

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参拝の帰り、山の間から夕日が落ちていき、その光がまっすぐに谷間の鎮座する、
黄幡神社へと届いていました。

自らの姿の真実に、光をあてるように。。。。
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今、連日報道されている、 「オリンパス」 の不正経理問題。

オリンパスの設立当時の、社名は、「高千穂製作所」は、 神々の力を借りるために、
あの瓊瓊杵尊が、この国を治めるとちかった、神々が集う山の名前からつけられたそうです。
そして、新たな名前、 「オリンバス」 もまた、 ギリシャ神話で神々が住む山であるオリンポス山にちなんでつけられた名前です。

神の力を利用し、 日本一、さらには 世界一の会社を目指した企業が、その神の名前に傷をつけるような行為、「嘘をつき、人をだまし、自分の都合のいいように神を利用した」 

これもまた、神さまを利用した 人間の過ちの一つかもしれません。

「嘘は必ずあきらかになる」  いつか、 全ての嘘が、あきらかになる日がくることを願って。。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-10 01:05 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(6)

こんばんは。

今まで、ご紹介してきた神社は、 「神様」 を 御祀りする神社でしたが、
今日は、伝説の武将を神とし、 御祭りする神社をご紹介したいと思います。

でも、この神社のことを調べていくと、不思議と、瀬織津姫さまとかかわりのある神社も出てきて、
これも、きっと今後の私のために、必要な神社だったこと気づかされました。

本来は、ここへは立ち寄る予定ではなかったのですが、
この近くで、道がわからなくなりちょうど目の前に立っていた、一人の男性に、神社の場所を尋ねた所、
今日ご紹介する神社のお話もしてくださり、 せっかく教えて下さったのだからと、山へ入る前のご挨拶にと
立ち寄らせて頂きました。

そして、今日、ご紹介するにあたり、少し調べた所、ここもまた不思議なご縁を感じる神社でした。

また、 ここに祀られている方は、 伝説では、全く違う場所で最後の日を迎えられたことになっていました。
しかし、それもまた、伝説か、本当のことかがはっきりとわからないお話のようで、もしかしたら、ここが、本当の終焉の地かもしれないと。。。。。

内子町 「旧小田町」 昨日ご紹介した広田村との境に位置する、「中田渡」 に鎮座する神社

「新田八幡神社」 

こちらの御祭神は、 「新田義宗公」 です。

父は、新田 義貞(にった よしさだ)正式名は、源 義貞(みなもと の よしさだ)の三男。
(父 源 義貞は、八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる源義家の四男)

新田義宗は、長兄・義顕は父に先立ち戦死し、父が戦死後、三男の義宗が嫡子として扱われました。
それは、二男の、義興の生母が、上野国一宮抜鉾神社神主の娘と身分が低かったためだといいます。

「上野国一宮抜鉾神社」 とは、
群馬県富岡市に鎮座する、「一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)」のことです。

少しだけ、この神社のことにふれますが、一之宮貫前神社の祭神は、
「経津主神」 と 「姫大神(比売大神)」

「経津主神」は、古事記には登場せず、日本書紀のみに登場する神です。
イザナギが、軻遇突智を切った時、使った「十束剣」 から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖となると言われます。

「十束剣」とは、アマテラスとスサノオの誓約の時、スサノオが持っていた十束剣から、
あの厳島神社の祭神 「3柱の女神」が生まれ、
また、スサノオは、ヤマタノオロチ退治で使った剣も、この「十束剣」です。

「経津主神は 国譲りの際に、武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている神でもあります。

この意味深い神と一緒に祀られる 女神は、 はっきりとその正体はわかっておらず一説には、
養蚕機織(はたおり)の女神と言われるそうです。

「機織り」の女神だとすると、それは 「瀬織津姫」と重なります。

「一之宮貫前神社」は、これから先の瀬織津姫のことを調べるうえで、とても重要な神社の一つになるような気がします。


話を、義宗公に戻しますが、兄の母が、この神社の娘だということで、嫡子として扱われることとなりました。

そして、1352年、足利尊氏との戦い 「武蔵野合戦」が行われます。
しかし、義宗公は、敗れてしまいました。
一般的には その後、越後へ落ち延びたと言われますが、 この後の行方が、はっきりとしていません。

一説には、再起の時を待つために、軍勢を群馬県に引き返させ、それから「義宗は北国に落ちて行った」と言いふらせ、自分は密かに所沢に隠れ住んで、その時をまっていましたがとうとう、再度戦う時は訪れず、髪を落とし衣を着て、今までの隠れ家をお堂に改め、薬師如来を彫刻し、戦士した一族や部下の菩提を弔いながら毎日を送り、遂に応永20年(1413)この地で亡くなったという伝説が残っています。

また、もう一説は、
1368年、現在の群馬県沼田市で、戦いに敗れ、最後の時を迎えたという伝説があります。
この時、敵の一矢を右眼に受けうつぶしに落馬し壮絶な死を遂げ敵に義宗の首を渡さないため火葬したという言い伝えが残る、白佐波神社があります。

「白佐波神社」

この神社は、もとは武尊神社といい、うつぶしの森の杉の木立の中に鎮座していました。

この 「うつぶしの森」 という名前は、 義宗がこの地にうつぶしに落馬し死を遂げた場所という意味でつけられた名前と言いますが、 このうつぶしの森も、この武尊神社も、もしかしたら、このずっと前かから、神様を祀っていたかもしれません。

というのが、
この社に下からは、清水がこんこんとわき出でていて、以前はその下に大きな池があり、柳が立っていたといいます。
そして、そこには、、水神様、弁天様が祀られていたのです。
また、「うつぶしの森は」
旧10月1日の朝早く、うつぶしの森へ行って神様を出雲へ送る 「かみおくり」 がおこなわれ、
旧10月30日の朝早く、鎮守の森へ行き神様を迎える 「かみむかえ」 が行われる場所だそうです。
そして、この間、留守番をしている神様がいらっしゃり、 その神様は 「恵比寿様」 だといいます。

「白佐波神社」、元の名 「武尊神社」 は、本来水の神を祀る場所で、そこに、義宗の伝説をつくったものかもしれません。
その伝説をつくることで、「義宗」 を 死んだことにしたのかもしれません。
ここに住む人たちは、「義宗」 を 大切に思っていた人たちで、さらに、もしかしたら、 ここに祀る 「水神」 を守っている人たちでもあったのかもしれません。

そして、「義宗」 の本当にいた場所は、もしかしたら、ここ伊予の国だったのかもしれないのです。

それが、今日ご紹介する神社の由緒です。

「義宗」は、「うつぶしの森」 で 死を遂げたとされた、3年後、 伊予の国 「伊予大島」 へときていたのです。
「伊予大島」 とは、 大山祇神社が鎮座する 「大三島」 のことなのか、それとも、その向かいの島 「大島」
のことなのかははっきりとはわかりませんが、もしかしたら、源家が崇拝していた 大山祇神社のある大三島かもしれません。

そして、源家とかかわりの深い 「河野家」 河野通義の力を借りて、宇和島を経て田渡村に入り、中田渡岩木の森(新田八幡神社鎮座地の前方)に住居を構えました。
この場所から、東方を眺め、吉野朝廷を偲んで、千本桜を懐かしみ、東方の谷を桜原谷と呼び、また、谷と合流する川を吉野川と名付けたといいます。
この川も、この谷も、今もこの名がつけられています。

やがて年老いて義宗は 明徳4年(1393)8月8日 現神社のある宮坂で息を引き取りました。
村人達は手厚く埋葬し、ここに 「新田武義社」 という小社を建て、「武神八幡」 として祀ったのが、この神社の起源です。

そして、ここ 「新田八幡神社」 には、二つの特殊神事があります。

一つは、 新田義宗の命日 旧8月8日祭があり、子供相撲など、縁日が行われます。
もう一つは、 主祭神(新田義宗) の誕生日 3月最終日曜日 初卯祭が行われるそうです。

卯の刻に参ると霊験あらたかであるといい、「卯の刻参り」で栄えた時期もあったそうです。
また、縁結びの神さまとして、今も地元の人に大切に祀られています。

戦いのない、この伊予の国の山の中で、 ここに住む村の人々に見守られながら、静かに最後の時を迎えたのかもしれません。

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なぜか、ここに陰陽石が。。。。
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拝殿
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神社へと渡る 赤い橋の下には、吉野川への流れおちる、小さな川が流れていました。
この川を見ながら、静かに暮らしていたのでしょうか。
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もし、本当に、ここで暮らしていたとしたら、
義宗公は、どんな想いでいたことでしょう。 

戦いの中、気持ちが安らぐことがなかった日々から、 やっと、人として、ゆっくりと過ごすことができていたでしょうか。

それでも、やはり、故郷を想う気持ちは、忘れることはなかったのかもしれません。
そして、できることなら、故郷で、こうして心安らかに暮らせることを願っていたのかもしれません。

その時代、時代で、それぞれの 「生きる」 がある。
時代に翻弄され、 時代の波にのまれ、 それが、当たり前のように、もがき、苦しみながら、それでも、そこから抜けることができず、自分の信じた道をただ突き進む。

でも、どんなに苦しくても、 「信じる道」 があれば、 それは苦しみでもあり、 喜びでもあるのかもしれない。

一番、悲しいことは、 「生きる」 ことに、 「心」 が、何も感じないことかもしれない。

人それぞれの 生き方があり、 人それぞれの、 喜びがあり、 人それぞれの 悲しみがあり。。。

別れも、出会いも、 喜びも、悲しみも、 苦しみも、感動も、生きているからこそ、感じるもので、それが生きているっていうこと。

 「息」 を しないと 生きていけないのは、
 「自(分)」 に 「心」 がなければ 生きていけないことと、同じ意味なのかもしれません。

 「心」 に 支えられて 生きているのが、 本当は、人間 「自(分)」 の方なのかもしれません。

 


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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-09 00:01 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

ニギハヤヒの御神体とも言われる、三輪山。 
三輪山は、山が御神体であるから、神社のような御神体はないと言われます。

しかし、 この三輪山の御神体が、高知県のある山に祀られていると言います。

その山の名前は、 高知県伊野町にある、「加茂山」 です。
そして、祀られているという神社の名前は、 「椙本神社」と言います。

一説には、
大和の国三輪山から神像を奉じ、阿波を経て吉野川を溯り、伊予国東川(三川村東川)の山中に鎮座していましたが、仁淀川の洪水で流れ、現在の地に祀られたと言います。

もう一説には、
三輪山から直接神像を奉遷したという伝説も残っているそうです。

仁淀川の上流、 「三川村東川」 とは、 たぶん、「美川村」 のことだと思います。
美川村とは、現在合併をして、 久万高原町になっています。
あの、 空海が四国八十八か所「岩屋寺」 の 守護神として、 五男三女神を祀ったといわれる所です。

そして、美川村と伊野町の間には、 以前からとてもきになっている 「越知町」 
越知町は、久万高原町から、山を越えて高知県側に行った所にある町の名前です。

どうして、こんな山奥に、「越知」と名のつく、地名があるのか、ずっと不思議だったのですが、 やはり、このあたりは、 何かが隠されている気がします。
また、この越知町と仁淀川町の境に位置する 「黒森山」 には、 「天石戸別神社」という神社があります。

まるで、「天磐戸」 のもう一つの神社とも思える名前です。
山の中腹には 「岩戸」、 「峰岩戸」 といった地名も見受けられ、 ここが、もしかしたら、「天岩戸」の場所?

アマテラスが岩の中に隠れてしまい、その岩を、アマテラスが覗いたすきに、力いっぱい押し開いたと言われる神様は、 「天手力男命」 です。

そして、この天手力男命を祀る神社が、 この黒森山の境目に位置する、「越知町」 と、
三輪山の御神像を祀ると言われる山(加茂山)がある 「いの町」にあるのです。

その神社の名前が、天石門別安國玉主天神社です。

そして、もう一つ驚いたことが、 この 「いの町」 に鎮座する、
天石門別安國玉主天神社の中に、 「白兎神社」 があるというのです。

現在は、とても小さな社になってしまって、名前を書いていないため、どれがそうなのかわからなくなってしまっているようですが、 でも、確かに、ここに 「白兎神社」 は あるようです。

まるで、もう一つの 大国主の国のようです。
先日、古事記の中で、 愛媛が 女性の理想の女神に例えられ、 高知が、強くたくましい、男性の象徴のような男神に例えられていたと言いましたが、 もうしかしたら、本当に、 瀬織津姫とニギハヤヒに関係があるのかもしれないと思えてきました。

高知県の中でも、とくに以前から気になっている、 久万高原町や城川町の境目の町、
そして、 逆に、 愛媛県の東の端、 徳島県と高知県と愛媛県が重なる山々。
このあたりをもっと深く調べてくると、何かがわかりそうな気がしています。

考えただけで、ワクワクしてきますね。。。。

では、今日の神社です。

今日は、小田町の続き、 前回ご紹介した、「 広瀬神社 」から、 5分ほどの場所に鎮座する、
「三島神社」 です。

こんなにすぐ近くに、 小田郷の 「総氏神」 「大氏神」 と 呼ばれた神社があるのはどうしてなのか、これも不思議なことの一つです。

今日の三島神社は、 越智玉澄が、 和同5年に三島神社を勧請した中の一つです。
元明天皇の勅詔 (命令) によって越智郡大三島から三神 (大山積大神  雷大神 ・ 高龗神) を勧請し、一宮大明神と称号を賜ったことが、始まりとされます。

そして、この三島神社の境内には、 この時越智玉澄により植えられたと伝わる、「大イチョウ」があります。
樹齢1300年の、大木です。
前回の広瀬神社にも、 樹齢1000年以上と言われる大木が多くありましたが、ここ三島神社にも。。。

でも、 この三島神社よりも、重要な神社が、ここにはありました。
それが、現在境内社になっている 「龍王神社」です。

海津見大神を祭るとされる、龍王神社、 ここが、当地の土着神だった可能性が強いのです。

現在も、ここでは特殊神事として、 年に二度、「竜王祭り」 が行われますが、
毎年11月28日に、 この竜王祭りとしての、 神輿の渡御があります。
なんと以前は、 この日を氏神の例大祭日としていたこともあったというのです。

現在は、10月15日に、御祭りが行われ、三体の神輿と牛鬼があるそうです。

でも、 本当に大切な神事は、この 「竜王祭り」 だったと思われます。
そして、この龍王神社が、 この村の土着神 「瀬織津姫」 だったのではないでしょうか。。。。

そして、ここでも、和銅5年。 ちょうど大山祇神社の造営が行われている時、 大山積大神への変更が行われていたのです。

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樹齢1300年の 「大イチョウ」
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拝殿
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本殿
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境内社 豊受神社
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そして、ここが境内社 龍王神社(海津見大神)です。
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三島神社の拝殿の瓦です。 「波と渦」 
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最後は、三島神社の神紋と瓦です。

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三島の神紋と横に、龍が描かれています。 三島の神紋は、 この写真のように、
「折敷に縮三文字」 が現在は多くみられます。

また、この「 折敷 」 と言われる、外側の縁は、 神饌を盛る器の意味があると言われますが、
三島神社の本当の、縁は、 「折敷」ではなく、 本当は「亀甲」でした。

亀甲から、折敷へと変わったことにも、何かがかかわっているのかもしれません。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-10-20 22:26 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。
今日、大三島大山祇神社に残る古文書の中に書かれてあったことで、今まで知らなかったことがわかりました。 それは、 現在の場所、宮浦へと正遷座された時の話ですが、その時、本宮以外に建てられていた社があることがわかったのです。

その神社は、 今でも、 境内の中にある神社です。
今では、そんなに重要な神社だとは誰も思っていないと思いますが、本当は、その神社が姫へと繋がる大事な神社かもしれません。
更には、その名前が予想していた通り、モモソヒメ、卑弥呼、そして奏氏へと繋がっていくかもしれません。

先日、偶然、大三島へと行った時、本当は行く予定ではなかったのですが、大山祇神社へ立ち寄り、
その神社の写真をとってきましたので、 今度、大三島のお話をする時に、一緒にお話させて頂きたいと思います。
楽しみにしていてください。

では、今日の神社です。
今日は、前回の続き、小田町の神社です。

今回ご紹介する神社が鎮座する道路沿いには、とても古い神社が数社あります。
今日はその中の、 「広瀬神社」です。

川沿いの道を進むと、 大きな大木が見えてきます。

ここ広瀬神社には、  「けやき」 「いちいかし」 の大木があり、 どれも樹齢1000年以上と言われ、
愛媛県指定天然記念物に指定されています。

広い境内に建つ、大きな御神木に囲まれた拝殿、とても素晴らしい神社でした。

この広瀬神社は、926年に土佐の人士によって勅請奉斎されたといいます。
祭神は、天御中主神、 高皇産霊神、 神皇産霊神。
そして、神紋が、 「蛇の目」 という 珍しい神社です。

「蛇の目」 というのは、 単に神紋というだけでなく、呪文の意味もあると言われます。
呪文とは、いったいどんな呪文なのでしょう。。。。

このあたりは、 昔小田郷と呼ばれていましたが、 さらにその前は、 広奴田郷と呼ばれていました。
この広瀬神社は、 その広奴田郷 15カ村の大氏神でした。

926年の春、 土佐の人士、「篤則」 というものが、従者二人をともない、この村にやってきました。
そてい、田畑を開墾して、農業を営み、住んでいました。
ある時、今の寺成という所に、八頭の大獅子が現れ、 広い間、奴田を打ち(猪がころがって体に泥をつける)田面を荒らすので、上川村久保野組まで追い詰め射止めた。 
その矢の根をこの本社に収め、 この地方を 「広奴田の郷」 と呼ぶようになったそうです。

また、境内に鎮座する、もう一つの社 「恵比寿神社」
祭神は、 事代主命と大国主命です。 一説によると、 広瀬神社よりも、こちらの方が古い神社と言われています。 
もしかしたら、 ここが、 本来の神を祀る 神社だったのかもしれません。
愛媛の恵比寿神社では、 数は少なくなりましたが、今も行われている、「亥の子さん」。
ここでも、 亥の子さんが開催されるそうです。

「亥の子さん」 とは、 中四国に伝わる古くからの御祭りのようなもので、 子供たちが歌を歌いながら、平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗き、家を回って行きます。

農村では、収穫を祝う意味で行われるとも言いますが、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もあるそうです。

今日、亥の子について調べていたら、 亥の子さんの歌について書かれてあるブログを発見。
その中に、未確認ですが、 すごい歌が書かれてありました。
亥の子さんの歌は、 地方によって少しづつ内容が変わり、 とても長い歌もあるようです。

各村史や町史を調べていけば、 どこかにこの歌がのっているかもしれませんが、 とても意味ある歌、そしてこれもまた、 大国主にまつわる大切な歌と行事だったということになります。

『 お亥の子 お亥の子 祝わん者は 鬼生め 蛇(じゃ)生め 角の生えた子生め
昔昔その昔 大国主命と少彦名の神様が ならい出会いし記念にと 今日の亥の日に
亥の子つく 家はますます冨み栄え そんの~きょうきゅう 限りなし 
ふんえ~いと やっさ~いと や 』

この亥の子さんとは、 大国主命と少彦名命の、 出会いの歌だったようなのです。

愛媛も、この二柱の神の伝説が、 とても多く残る国です。
今でも、 こうして続いている 「亥の子さん」 は、二柱の神の偉大さを物語っているのかもしれません。

*広瀬神社
*喜多郡内子町本川 3948番地
*祭神
 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
 神皇産霊神(かみむすびのかみ)

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入口の鳥居の横には、大木の御神木が。。。
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広瀬神社 拝殿
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神紋 「蛇の目」 
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どれが、神紋がわかりましたでしょうか?丸い目のような紋が、蛇の目です。

伊予市に鎮座する、「伊曾能神社」も 蛇の目の神紋のようなのですが、 現在の社殿には、この神紋はないようです。 どうして、 なくしてしまったのでしょう?

そして、境内の大木。 樹齢1000年以上の 「けやき」
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次は、樹齢1000年以上の 「いちいがし」
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先ほどより、大きな 樹齢1000年以上の 「けやき」です。
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亥の子さんの、 「恵比寿神社」
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恵比寿神社本殿
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神紋、御祭り、伝説、昔話。。。。
内容は、少しつづ変化しているかもしれませんが、 日本古来より伝わるこれらの中には、多くのヒントが隠されている気がします。

たとえば、 神紋。 三島や出雲など、国津神に関係する神社では、 「亀甲」 という亀の甲羅の形をした神紋がつかわれます。
どうして、 「亀」 なのか。。。。。 
そして、天津神に、「亀甲」がないのはどうしてなのか。。。

亀は縁起のよい動物とされています。 寿命も万年生きると。。。 
不老不死と亀。 

でも、 ある方向からみると、 亀の甲羅に囲まれている神ともいえる。
また、 亀の中に、隠された女神、 瀬織津姫。 亀の姿に変えられた姫や王。 

大三島の 「渦」 の中から、現れてた不老不死の島 蓬莱山。
(この島は、大山積神の力で出現したと言われる)

龍の姿をした姫の住む 「竜宮城」  渦=龍  

これからのキーワードを結ぶと、  亀が、一つの物語に繋がると思いませんか?

そして、この 「亀甲」 は、誰もが知っている 「歌」 にも繋がっていきそうです。。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-10-19 22:34 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

朝晩は、寒くなりました。
ようやく、本格的な秋がやってきた気がします。
でも、今年は、温かいからか? 桜があちこちで咲き始めたり、今日のニュースでは、愛媛県宇和島市で、春に咲く、「すももの花」 が咲いているそうです。

不思議ですね。 気候のせいならいいのですが。。。。。。

今日からご紹介する神社は、 旧小田町。
内子町の隣の町になります。

古くは小田郷と呼ばれ、四国山地の山の奥にあります。
山は東に行くほど高く、、西は900メートル程度ながら、東部には1500メートル級の山々が連なっています。
小田町には、四国八十八ヶ所はありませんが、 歩き遍路の道が通っていて、
大洲市方面から久万高原町方面へ、歩いてお遍路さんをしている姿を時々目にすることがあります。

深い山奥の、この町にも、古くから鎮座する由緒ある神社がたくさんあります。
今日、ご紹介する神社も、その一つです。

小田町の道の駅の少し手前、小田高校の近くにありますこの神社は、二つの重要な由来があります。

新田神社は、延暦6年9月13日、大三島の大山祇神社から、大山祗命、高龗神、雷神を勧請したと伝わります。 
しかし、その後、由緒では、土佐の国新田郷から一言主神を遷祀合祀して新田五社大明神と称えたとされます。

しかし、新田神社の現在の 主祭神は、 「大国主命 (ニギハヤヒ)」 です。

これは、いったいどういうことでしょう?

先に勧請した大山積命、高龗神、雷神、は、現在も 主祭神ではありませんが、その名を残しています。

では、一言主神はと言いますと、 この新田郷から勧請されたという、一言主神が、現在、大国主命として、祀られているようなのです。

土佐とは 高知県のことですね。
では 土佐の国新田郷とは、 どこでしょう。 

新田郷とは、現在の大豊町のあたりを言います。 
大豊町というと、思い出すのが、スサノオ命が植えたとされる大杉です。
大豊町は、愛媛県の隣の町になり、 峠を越えると、新宮村、 そして四国中央市 (旧川之江、三島)になります。

四国中央市には、瀬織津姫の名前が今も多く残り、今週末行われる 「秋の大祭」で三島神社のだんじりに祀られている神様は、 「女神」 。私は、この御神体も、瀬織津姫だと思っています。

大豊町の近くにある山には、 「大国主さん」 と呼ばれる山があります。
山頂には、「大国主命」を祀っているといい、すぐ側の山 「笹ヶ峰」には、西に竜王の祠、東に天神様(スサノオ又は大国主命か)の祠がありそうです。

更には、大豊町と愛媛県との境にある、工石山には、巨大の巨石があり、この巨石には
「白山権現」 が祀られています。
隣の、白髪山との峠は、「竜王越」 と呼ばれ、 愛媛県と高知県との境目には、瀬織津姫に繋がる名前があちこちで見受けれれます。

これは、大豊町の隣、 徳島県側、今年の夏行った 大歩危小歩危のある、三好市も同じです。
龍伝説や、鬼の伝説、さらには、妖怪伝説に、 三途の川・・・・・・・。

愛媛県と高知県と徳島県、 三つの県が交わるこの山々には、数多くの姫に繋がる伝説が残っている場所なのです。
そして、今回改めて、気づいたことはその中でも、高知県は、 「大国主命」に繋がる場所が多いということです。  実は、この他にも、 高知県には、ニギハヤヒ=大国主命に繋がる場所が多く存在します。

それがどうしてなのか、今はわかりません。

でも、もしかしたら、 古事記の中で表現された、四国の四柱の神の中の、高知県は、理想の男神 
「建依別(たけよりわけ」 という名前の神でした。

理想の姫として表現された 愛媛の神 「愛比売」 と
理想の王として表現された 高知の神 「建依別」 

これは、 やはり、 瀬織津姫と大国主 または、 もしかしたら、卑弥呼へと繋がるのかもしれません。。。。

また、高知県にも、天の磐戸に似た神社が山の上にあったりと、四国の山々には、まだまだあまり知られていない重要な場所があるようです。
高知へは、なかなか行くことができませんが、 そろそろ、高知県も調べて行かなければいけないかなと思っています。 

(愛媛=高知) (徳島=香川) これが、古事記の中の四国の神の姿だと私は思っています。

どうして、愛媛と高知が夫婦神で、 徳島と香川が夫婦神なのか、その根拠ははっきりしていません。
それも、これからの大きな課題です。

でも、 「四国」 という、小さな島は、 古代の日本にとって、とても重要な場所だった。
歴史の謎、歴史の真実をはっきりさせるためには、 四国の謎をはっきりさせる必要があるのだと私は思います。

話がずいぶん、それてしまいました。

再度、新田神社のお話に戻りますが、 「新田神社」 という名前の神社は、鹿児島県にあります。
鹿児島県に鎮座する新田神社は、「邇邇杵尊」 が祀られ、 背後の山は、邇邇杵尊の御陵とも言われます。
しかし、この新田神社の由緒も、書きかえられた可能性ああり、 元は、この小田町の新田神社と同じく、
五社大明神を祀っていたという記録や、現在とは全く違う神さまを祀っていたという記録もあります。

そして、今日ご紹介する 「新田神社」もまた、 現在の祭神と、勧請された祭神が一致しません。

新田神社はもしかしたら、「ニギハヤヒを邇邇杵尊 (またはアマテラス) に変えた神社」かもしれません。

ニギハヤヒは、邇邇杵尊に国を譲りました。
そして、大山積命(瀬織津姫)もまた、 娘 「コノハナサクヤ姫」 が 邇邇杵尊と結婚することにより、国を譲ったことになる。。。。。
 
これが、古事記のからくり?。。。。

*新田神社
*喜多郡内子町寺村乙431
*主祭神:大国主命(おほくにぬしのみこと)
  配神 :大山祗命、高龗神、雷神
*由緒 : 延暦6年9月13日越智郡大三島大山積神社から大山祗命、高龗神、雷神を勧請奉斎し、その後、土佐の国新田郷から一言主神を遷祀合祀して新田五社大明神と称えた。
明治6年4月村社に列格し、新田神社と改める。
同40年7月4日神饌幣帛料共進社となる。

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拝殿
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御神木
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本殿
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境内社 (恵比寿神社)
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大豊町とスサノオ、そして 高知と大国主命に、どんな意味があるのでしょう。。。。。。。
高知県大豊町、標高1516m 工石山。
巨石に白山権現を祀る山。

昔は、この巨石の上に、9寸ばかりの銅製の神体(白山権現 瀬織津姫)が直接岩に立っていたといいます。
でも、岩の立っていたので、何度か祠にお入り頂けるよう、お願いがしたそうです。
しかし、頑として、お入り頂けず、立っておられたといいます。

どうして、姫は、祠に入ることを拒み、 そこに立ち続けたのでしょう。
岩の上に立ち、何かを見ていなければいけない何かがあったのでしょうか。。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-10-18 22:41 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(12)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。