<   2011年 04月 ( 19 )   > この月の画像一覧

こんにちは。
今日から、ゴールデンウィークですね。
昨日は、ブログを書いている途中で寝てしまっていました。。。

皆さんは、どんなゴールデンウィークを過ごされるのでしょうか?
今年は、震災の影響で、旅行を自粛される方も多いと聞きます。
でも、こんな時だからこそ、元気を出して、笑顔になることも必要かな。なんて思います。

ボランティアツアーがあると聞きました。
1000人の募集があっというまにうまったとか。

うちの子供たちも、ゴールデンウィーク中は、ずっとチャリティーイベント出演する予定です。
今回の地震で、子どもたちも、それぞれにいろんなことを考えたようです。
多くの人の命が犠牲になり、人々が学ぶためにしては、あまりにもその代償は大きいものでした。
でも、もう後戻りはできません。
亡くなった人々の命を無駄にしないように、よい世の中にしていかなくてはいけないですね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、先日の続き、天之逆矛があった場所は?です。
数回前に、ご紹介した 「徳威三嶋宮」は、神社の名前に、「徳威」がついていて、私も見つけた時は驚きました。 

「こんなに早く見つかるなんて!」 と すっかり、この「徳威三嶋宮」がそうかと思いました。
でも、それから、重信を調べるうちに、他にも、この「徳威」と関係のある神社が見つかりました。

そして、これらの神社の原点?ともいえる神社も。
今日は、その中の、もう一つの 「徳威」の神社をご紹介します。

ここは、現在の住所は松山市。
重信と松山市の境目にあります。
しかし、もともとは、この場所にあったのではなく、貞和二年(1346年)くらいまでは、別の場所にありました。

現在の場所はココです。


松山市津吉町乙12番地乙13番地

神社の名前は、「徳川神社」
徳川神社という名前は大変珍しく、全国でも、徳川神社という名前の神社は、ここだけだそうです。
もともと、ここ津吉町は江戸時代まで德川村と称しており、その時期に津吉村に改名させられ、この神社は、その時の徳川村をそのまま使っているのではないかといわれています。

しかし、元は、
人皇第32代崇峻天皇の時代大三島宮より大山祇神を勧請したのが始まりとなっているのですが、
ここで一つ疑問があります。
人皇第32代崇峻天皇の時代とは、推古天皇の前で、587年9月9日 - 592年12月12日の間といわれています。
前回もお話しましたが、大三島瀬戸に、神社ができたのは、推古天皇の時代、また、それまでは、大山祇神という名前ではありませんでした。
それなのに、推古天皇より前に、大山祇神を勧請したというのは、おかしいのです。

ただ、神社という建物はなかったかもしれませんが、もうこの時代には、三島明神(瀬織津姫)が何らかの形で、あの 「みたらしの水」の場所にあったのかもしれません。
その三島明神(瀬織津姫)を、この徳川神社の元となる神社に勧請したのだと思います。

そして、その時は、現在の場所ではなく、違う場所にありました。

そのあった場所というのが、

「御所ヶ谷徳威」

という場所です。 
そして、社名も

「徳威宮」 と称しており、この時期神託に依り今の地に奉遷したと伝わります。

この神社も、あの 「徳威三嶋宮」と同じく、「德威宮」と呼ばれていたことになります。

二つの三島明神が祀られる、 「徳威宮」。
もともと同じものだったのか。 それとも、別々に二つの神社が鎮座していたのか、わかりません。

しかし、どちらも、天之逆矛に関係する重要な神社だったのではないかと思います。

また、この徳川神社が、現在の場所へと移るころ、つくられた
貞和二年(1346年)作の井川水神の木彫りの神像があります。

「井川水神」 ここも、やはり水の神(瀬織津姫)の神社だったということがわかります。

また、もう一つ
文明二年(1470年)作 猿田比古神木彫りの神像の遷宮面があります。
人の顔の大きさぐらいで鼻は大きく約30㎝程あるそうです。

二つの 「徳威宮」
このどちらかに、天之逆矛はあったのでしょうか?
でも、どうして、この重信に、天之逆矛は一時的にしてもあったのでしょう?
私の推測ですが、その鍵を握る神社があります。
その神社については、また、後日ご紹介したいと思います。

では、徳川神社です。
*徳川神社
*松山市津吉町乙12番地乙13番地
*祭神
大山祇神(おおやまづみのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
雷神(いかづちのかみ)
面足尊(おもたるのみこと)
惶根尊(かしこねのみこと)
猿田比古神(さるたひこのかみ)
井川水神(いかわすいじん)
*御神徳
御神格高(何事にも御利益あり)
無病息災・安産祈願
※特に高龗神の御神徳(雨水を支配する神)は非常に高く、崇敬者の方も多い!
*境内社
素鵞神社
若宮神社
白山神社
天満神社
金刀比羅神社
奈良原神社

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この杜の中に神社はあります。
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拝殿
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本殿
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神紋
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境内社
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ご神木
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今日もありがとうございました。
素敵なゴールデンウィークをお過ごしください。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-29 12:23 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(3)

こんばんは。

旧重信町は、天之逆矛にまつわる伝説の地かもしれないと、先日お話しました。
そして、その周りには、沢山の意味のある神社があると。

天之逆矛については、次回また、続きをお話します。
その前に、昨日の謎の日、神亀5年8月23日から 16年前の和銅5年8月23日のお話をさせて頂きたいと思います。

神亀5年には、伊予の国に80箇所以上三島神社が、同日に勧請されました。

それより、16年前の8月23日にも、伊予の国に、一度に三島神社を勧請しているのです。
和銅5年は、西暦712年です。
この年を聞いて、思いつくものがある方もいらっしゃることでしょう。

そう、この年は、来年1300年祭が行われる、古事記が完成した年です。
この年の1月、太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ)によって、献上されました。
もう、ここで何度かお話させていただいているように、古事記の中には、瀬織津姫は書かれていません。
瀬織津姫の名前が、消され始めたのも、ちょうど、この古事記ができる前後から、そして、大山祇神社が、瀬戸から、現在の宮浦へと移ったのも、ちょうどこの前後なのです。
古事記は、瀬織津姫を語る上で、はずせないものなのです。

そして、今日の神社、今までも何度か同じ年に勧請された神社をご紹介しましたが、これらは、この古事記ができた、この年の8月23日に、勧請されているのです。

どうして、古事記のできた年に、多くの三島神社をつくらなければいけなかったのか。
その謎は、今もまだ、はっきりとわかりません。 そして、この8月23日の意味も。。。。。。。

ただ、同じ日に、多くの三島神社を勧請しなければいけなかった、何かの理由があるはずだと。

今日、ご紹介する神社は、和銅5年8月23日に、伊予国司三位越智宿称玉興が大三島宮より勧請し、拝志郷一宮三島大明神と称え、氏神として崇敬したといわれます。
この、越智玉興とは、神亀5年に勧請した 玉澄の兄です。
玉澄とは、異母兄弟になります。 
越智玉興が、玉澄に 「河野」という名前を与え、これより、越智から河野と名乗るようになります。

私は、他国で生まれた、母違いの弟玉澄に、国造りを任せ、苗字を河野と名乗らせたのにも、訳があるのではないかと思います。
越智家の祖である、物部氏族は、この時もう衰退していっていました。
越智氏族と関係の深かった、斎明天皇の崩御し、越智氏族の力もまた、なくなってしまいました。
もしかしたら、このままでは、滅びてしまうと考え、名前を変えて、再起を願ったのではないと、思えてきました。

前回紹介した神社と、今回紹介する神社は、ある神社を囲むように鎮座されています。
このように近い場所に、2回、別々の場所に、勧請されたのにも、きっと何かわけあってのこと。
和銅5年(712年)~神亀5年(728年)8月23日は、越智氏族の大きな変革期であり、その当時のことを考える上で、きっと重要な出来事ではないかと思っています。


*築島神社
*東温市大字下林甲2616番地
*祭神:大山祇命(おほやまつみのみこと)
*和銅5年8月23日伊予国司三位越智宿称玉興が大三島宮より勧請し、拝志郷一宮三島大明神と称え、氏神として崇敬したと云う。
仁平3年正月源三位頼政が心願あって社殿を再建、神領久米田、別当、社僧読経料、水田等の寄進があった。後に十城別王が伊予に封じられたとき、当郷御瀧峯伊邪那岐、伊邪那美二柱の神を奉斎したが、天正18年官命により三島宮へ合祀、築島大明神として改めた。
寛文6年大旱魃の際、浮穴郡十三ヵ村より雨乞の祈願をして神威顕現瑞雨を得たので一三ヵ村より本殿を改築し、爾来十三ヵ村の祈念祈雨の祈願所と崇め、天保8年の神殿改築にも前例により十三ヵ村より寄進があった。
昭和35年一二五〇年祭執行、同41年神殿屋根を銅版に葺き替えた

また、上記の由緒を見てわかるように、三島明神(三島神社)は、多くの場所で、雨乞いの祈願が行われています。 雨=水 と関わりの深い神様ですね。 
そして、由緒の中では、どこもそうなのですが、大山積神の名前はほとんど出てくることはありません。そのほとんどが、 「三島明神」 としての姿なのです。

越智家、河野家は、どんなに世の中が変わろうと、大山積神とは呼ばず、三島明神の名前を貫きとうしました。  これが、微かな、抵抗だったのかもしれません。

では、築島神社です。
ここの神社は、北と西と東に、入り口があります。 
まずは、北の入り口。
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次に、西の入り口
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拝殿
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本殿
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境内社
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ご神木
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次回は、天之逆矛の続きのお話をさせて頂きます。

今日27日、首都機能移転が、東日本大震災を機に再浮上している。との記事がありました。
江戸、東京と、長い間、東京が日本の中心となってきました。
まだ、実現するかどうかはわかりませんが、自然災害によって、首都を移転するという話が真剣に行われるようになったようです。

太古の時代も、自然災害により、また、時代の流れにより、都、城を移動してきました。
そして、現代のような、さまざまな物が進んだ世の中でも、同じようなことが起ころうとしています。

原点に帰る時期にきていると、いろんな場面で感じさせられます。
人々の心も、同じように、忘れていた心を取り戻してほしい。 そう願います。

本当に、大切なものは何かを。。。。。。

今日もありがとうございました。






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-28 00:50 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

まずは、神社のお話から。。。

旧重信町の神社、3日目。。 今日は、宇氣洲神社です。
現在ここは、八幡神社と三島神社が合祀されていますが、建立された当時は、別の場所に、別々に鎮座されていた神社でした。

合祀されたのは、嘉永2年(1849)。合祀された当初は、三島神社海稲八幡神社とよばれていましたが、大正2年(1913)に宇氣洲神社と改称されました。

三島神社は、伊予の国司越智玉純が大三島から勧請した神社です。
そして、その日は、神亀5年(728)8月23日。

もうずっとご覧になっているかたは、あれ? と思われた方もいるかと思います。

そうなんです。
この神亀5年(728)8月23日。 伊予八十三郷に、同時に、三島神社が勧請されているのです。
今、それが、どれだけ、どこに鎮座されているのかを、一つ一つたどっているところなのです。

同じに日に、これだけ多くの場所に、三島神社を勧請されたのには、きっと何か深いわけがあったと思うのです。

そこで、簡単ですが、この神亀5年について調べてみました。
この時代の天皇は、聖武天皇。

聖武天皇は、7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかったといわれています。 この時代の天皇は、いつも何かにおびえるように生活していました。
天皇の座を巡り、骨肉の争いが絶え間なく起こり、その中で死没していった天皇の怨霊に悩まされたとも。

また、私が思うに、それだけではなく、神に対してもおびえていたのではないと思います。

文武天皇の時代から、多大な力をもっていた人物、藤原不比等。
藤原不比等は、瀬織津姫の名前を消したことに、とても関係の深い人物だったと思われます。
そして、藤原不比等がなくなった後も、まだその影響力はとても強いものでした。

しかし、聖武天皇が即位されてかた、長屋王ながやのおおきみが、天皇に近い人物になってきます。
それを、よく思っていなかったのが、藤原四兄弟でした。

聖武天皇と長屋王ながやのおおきみは、藤原家とは対立の立場にあったと思います。
長屋王ながやのおおきみは、神亀5年(728年)5月には、王の父母と聖武天皇をはじめとする歴代天皇のために、大般若経一部六百巻の書写を発願しているのです。

もしかしたら、怨霊の魂を鎮めようとしたのかもしれません。
そして、その同じ年に、三島神社を、伊予の国に一度に勧請させたことも、同じような意味ではなかったのかと思うのです。

長屋王は、翌年の神亀6年(729年)2月、妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺します。
この事件の発端は、「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があったとされます。
左道とは、中国では右を尊び、左を正しくないとしたところからから、

正しくない道。邪道 不都合なことという意味だといいます。

何か、藤原氏族にとって、不都合なことを、調べていたのではないかと思われるのです。
それを、知った 藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が、妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺してしまったのではないかと。

しかし、一つ全くわからないことがあります。
それは、8月23日という日です。
この日にも、何かとても深いわけがあるのです。 それは、この神亀5年より以前、和銅5年にも、伊予の国に一度に三島神社が勧請されています。 神亀5年ほどは多くないのですが、この和銅5年に勧請された日も、
8月23日なのです。

8月23日は、いったい何の日だったのか?
これがまだ、どうしても知ることができません。

これが、わかれば、もしかしたらもっと深いことがわかるかもしれません。
ただ、ほんの少し近づいたような気がしています。 

神亀5年8月23日。 
もしかしたら、瀬織津姫の御魂を鎮めるために、伊予の国に勧請されたとしたら、伊予の国と姫との関係が本当に深いものだったということになります。

*宇氣洲神社
*東温市田窪1585番地
*大山祗命(おほやまつみのみこと)   
 品陀別命(ほむだわけのみこと)
*境内社
 田窪神社
 三穂神社
 出雲神社
 奈良原神社
 稲荷神社
*当社は、以前は三島神社と海稲八幡神社と二社それぞれ別所に鎮座していた神社である。
三島神社は、神亀5年(728)8月23日伊予の国司越智玉純が大三島から勧請した神社であり、伊予八十三郷各郷の一の宮と称した。
治承2年(1178)国主河野通清、当神社を尊敬するによって社領を寄進し神宮司香積寺を置く。
元久(1204~1206)の頃、荏原城主平岡氏と志津川の城主和田氏と互いに交戦すること数度に及び、当神社の社殿は破壊された。当時、河野親太夫親孝の二男高井太夫兼孝の六男で田窪七郎孝村、同太郎孝通はこの地を居所としており、河野殿の上屋形の趾蹟があることをもって浮洲本郷一の宮として社殿を再築し、水田数町を寄進された。元徳2年(1330)越智通孝、社殿を興し自ら社職となって奉仕する。

海稲八幡神社は、延久2年(1070)源頼義が創祀させたといわれ、以後河野氏、高井氏、浮穴氏、田窪氏、白石氏、田井氏等の諸豪族が深く尊崇した。
嘉永2年(1849)二社合祀の議が起こり、現在の地に合祀して三島神社海稲八幡神社と称し、大正2年(1913)に宇氣洲神社と改称する。平成11年(1999)に、合祀150年祭の記念大祭を執り行う。

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三島の神紋と、八幡神社の神紋が一つづつ、掲げられています。
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本殿に三島大明神の文字
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ご神木
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キャンディーズの田中好子さんが、亡くなりました。
私も、小さいころから、大好きでした。
今でも信じられない気持ちです。

生まれて初めて、ポスターを貼ったのが、キャンディーズでした。
こんなに早く、逝ってしまうなんて、本当に悲しいです。

でも、葬儀の時、遺影のそばに飾られていた、一枚の絵か写真。どちらかわからなかったのですが、
あれを見た瞬間、 

「女神だ!」 と思いました。

肉声テープの中で、
「天国で被災された方のお役に立ちたいと思います」 と言ったあのことばは、女神としての声だったのかもしれないと思いました。

田中さんの笑顔は、とても優しくて、キラキラ輝いていました。
田中さんの心は、優しくて強く、人のために役にたちたいといつも願っていました。

田中好子さんは、女神になったのですね。
もしかしたら、女神さまが、この世に降りてきていたのかもしれませんね。

長い闘病生活、本当にお疲れさまでした。 今度は女神として、いつまでも、見守っていてください。
沢山の思い出を、本当に本当に、ありがとうございました。

(合掌)






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-27 00:51 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

今日から、数回にわけてご紹介する神社は、どの神社も、大変重要な神社だったと思われます。
以前の、内容を読まれていない方のために、ちょっとご説明をすると、
今治市玉川の山の麓に鎮座する、「御鉾神社」

今では、地元の人にしかわからないであろう場所に、鎮座されています。

しかし、この神社の由緒には、真意は不明ですが、天之逆矛についての記述があります。
天之逆矛とは、あの坂本龍馬が引き抜いたという伝説もある、、大国主神を通してニニギに譲り渡されて国家平定に役立てられたと伝わる矛のことです。
一方、諸説あり、
・『大和葛城宝山記』によると、天魔反戈は内宮滝祭宮にある。
・伊勢神道(度会神道)の神道書『神皇実録』ではサルタヒコの宮処の璽(しるし)
・『倭姫命世記』では天照大神が天から天逆鉾を伊勢に投げ下ろしたとし内宮御酒殿に保管されている
・北畠親房は『神皇正統記』の中でオノゴロ島である宝山にあると結論づけている。

これを見ると、今も、本当はどうなったかは誰もわからないようです。

そして、玉川の麓の 「御鉾神社」の由緒の中にも、天之逆矛のことが、書かれてありました。

それは、推古天皇の時代、鉄人伝説で以前お話した、小千命の子孫、小千益躬が、徳威の宮というところから、大三島宮へと奉遷した時に、この玉川の現在鬼原と呼ばれる場所に、滞在して同神の御威徳を後世に伝えるため小祠を建営して御鉾の宮と崇め奉ったと伝わる、御鉾神社を偶然見つけたのです。

そして、それからすぐ、これもまた偶然、徳威の宮と呼ばれていた場所を見つけることができました。
しかし、徳威の宮と呼ばれている場所はひとつではなく、また、その周りに鎮座するいくつかの神社も、とても古い歴史を持ち、謎が多く隠されているであろう神社でした。

今日から、ご紹介する神社は、全てほぼ同じ地域に鎮座されています。

これだけの範囲の中に、これだけの神社が固まって鎮座されていることもまた、とても不思議なことです。
また、弥生時代から信仰されていた、磐座もある場所もあります。

三嶋明神と呼ばれる前からの、伊予の国での瀬織津姫の姿は、ここ重信にあるかもしれないとも、思うのです。
では、そんな旧重信町のお話をさせて頂きたいと思います。

重信町は、松山市と伊予市の隣、重信川が流れる、池や沼が多く存在する不思議な町です。
重信川は戦国時代まで、伊予川(いよがわ)とよばれていて、たびたび大氾濫をおこす暴れ川で、その流域には氾濫原(はんらんげん)が広がっていました。

松山平野が、姿をあらわし始めたのは、弥生時代から、奈良時代にかけてといわれています。
昔、吉井郷と呼ばれ、見奈良(みなら)、田窪(たのくぼ)、牛渕(うしぶち)、北野田(きたのだ)、南野田(みなみのだ)の5つの大字がありました。
そして、この吉井郷のあたりの伊予川は洪水をおこしたかと思えば、とおもうと、すぐに枯れ川となり、河床に砂礫(されき)が積もって、伏流水による湧水が噴出し、湖沼が散在する地形になったといわれています。

現在、池や沼が多いのは、このことが理由だったのです。

そして、この特殊な地域に、浮島があり、そこには、弥生時代からの神の聖域があったと言われます。
この神の聖域のことについては、後日お話いたしますが、この神の聖域の周りをまるで囲むように、(当初は現在よりも高い位置にあった場所もありますが) 重要な意味をもつ神社が現在も残っています。

今日は、その一つ、

「徳威三嶋宮」 です。

もう、お名前を読んで、え? と思われたと思いますが、そうなんです。
この神社の名前には、あの、天之逆矛のあった場所といわれる、「徳威」 という名前がつけられているのです。

★1徳威三嶋宮 (重信町)
  東温市野田1丁目20番地11
  *祭神
     鹿屋野比賣神(かやぬひめのかみ)
     雷神(いかづちのかみ)
 大山積神(おほやまつみのかみ)
     高龗神(たかおのかみ) 
  *特殊神事12月20日 御面渡御祭
  *境内社
       祓戸四柱大社
       夷子神社 
       龍神社
       和霊神社 
       野田神社
   十二社神社 
       市之宮神社 
       荒神社



ここの由緒を見てみますと、創建はいつの時代かははっきりわからないようなのですが、
三嶋明神ではなく、一番初めに、お祀りされた神は、
  
 鹿屋野比賣神(かやぬひめのかみ)

となっているのです。 鹿屋野比賣神は、大山積神のお后です。

 (徳威原の台地に鹿屋野比売神を祀り「徳威王楯明ノ宮」と称したことに始まる)

三嶋明神ではなく、大山積神でもなく、鹿屋野比売神を最初にお祀りするということに、疑問を感じずにはいられません。  やはり、ここも、瀬織津姫かもしれないと、そんな気がするのです。
大三島から、雷神(いかづちのかみ)大山積神(おほやまつみのかみ) 高龗神(たかおのかみ)の
三神が勧請されるのは、慶雲3年(七〇六)のことです。

国司越智玉興が大三島から三神を勧請して上津社・中津社・下津社の三社を祀り、「徳威三島神」と崇めました。

それまでは、ここに大山積神の名前はなかったことになります。
七〇六年、この時は、ちょうど大山祇神社の大造営が行われている最中です。

大宝元年(701年) 越智玉澄は、現在の大山祇神社の鎮座する場所、宮浦に、悪神がいたため、南山に五龍王を鎮めまつったとあります。
そして、その悪神(大蛇)は、北西の方へと飛び去ったと。
この悪神とは、三嶋明神(瀬織津姫)のことだったのだろうと思っています。

この悪神退治をした後、 ここ徳威三嶋宮にも、雷神・大山積神・高龗神を祀ったということです。
しかし、一つ疑問なことは、この時、まだ、大山祇神社には、雷神も高龗神も祀られてはいないのです。
ここにも、矛盾を感じます。

徳威三嶋宮は、いつのころの創建かわからないため、ここが、あの「徳威の宮」だったかどうかは今はまだわかりません。
しかし、ここもまた、一つの謎をとく場所だとおもうのです。

推古天皇の時代に、移動された天之逆矛。
どうして、この時代に移動されたのか、ずっと疑問に思っていました。 そして、なぜそれがここにあったのか。
なぜここにあったかは、まだ全くわかりませんが、移動された訳は、もしかして?と思うことがあります。

それは、大三島の大山積神社が元あった場所、瀬戸に、横殿宮[よこどのみや]と呼んだとされる、三嶋明神を祀る神社ができたが、推古天皇が即位されて二年目の甲寅[きのえとら]の年だったと言われるのです。
もしかしたら、この創建と関係があるのかもしれないと。

「徳威三嶋宮」です。

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境内社 (十二社神社)
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本殿
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祓戸四柱大社
祓戸の神として、瀬織津姫を残していただいていました。
よっかた。 これは、姫です。
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三嶋の神紋
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境内の杜
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ここは、「徳威」という地名がついていますが、なんとなくここではないような気がしています。
あくまで私の勘です^^;

でも、ここもとても重要な場所だと思います。
ここに導いて下さったことに、心から感謝いたします。


娘が中学生になりました。 幸い、娘のクラスはとてもよいお友達ばかりで、毎日とっても楽しく学校に通っています。
ですが、娘の習い事のお友達で、
早速仲間はずれにされて、いつも一人で教室にいる女の子がいるそうです。

その子が何をしたわけでもないのに。。。。。

クラスが離れているので、休み時間に一緒にいて、励ましてあげることしかできないそうです。

誰か、一人でもいいから、同じクラスで、お友達ができればいいなと願うばかりです。
私が何かしてあげれないことが、とても辛いです。

私も、中学生3年生になるまで、ずっといじめにあっていました。
だから、その子の気持ちがいたいほどよくわかります。
子どもの時から、人を仲間はずれにしたり、誰かが苦しんでいる姿をみて喜んだり、どうしてそんな心が生まれるのでしょう。

どうしたら救ってあげられるのか。。。。。

大人になっても、いくつになっても、そんなことはなくならない。

みんなが、手と手をとりあい歩んでいくことは、不可能なことなのでしょうか。

そんなことをする人間が、一人でも減るように、心から願います。







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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-25 22:27 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(9)

こんばんは。

今日は、神社巡りとしては初めての土地へと行ってきました。
今日の場所は、全く調べないで突然思いついて行ってきたのですが、不思議なシンクロや、神秘的な自然に遭遇し、感謝感謝の一日でした。

まだ今は、今日行った所がどんな意味があるところなのかわかっていませんが、きっととても意味のある場所、そして、次に繋がる場所だったような気がします。
今日のお話は、重信が終わりましたら、させて頂きます。

やっぱり、調べないで行く時に限って、本当に不思議なことが起こったりするものですね。


今日ご紹介する神社は、旧重信町(現在は東温市)に鎮座する、三嶋神社です。
東三方ヶ森を後にして、いよいよ、重信の三嶋神社へ。
まず最初に向かったのは、東三方ヶ森から一番近い場所にある三嶋神社でした。

大きな道路を走っていて、道路から、小高い杜の入り口に立つ、鳥居が見えました。

「あ!あそこだ!」

そう思った瞬間、ふと反対側を振り向くと、
「あれ? ここは・・・・・」

今から、7年前、何度も何度も訪れた場所、愛大付属病院でした。

ちょうど今から7年前、私の母は、癌になりました。
最初は、目が見えにくくなり、そのうち耳も聞こえにくくなり、それでもなかなか癌になっていることはわからず、発見された時は、もうかなりの大きさになり、ほとんど手のつけようのない状態でした。

最初に入院していた病院から、大きな地元の病院に移され、
詳しく検査。
検査の結果、もう、「ほとんど助かる見込みはないでしょう。」 といわれました。
「うちの病院では、治療できないので、もっと大きな病院へ行ってください。」

そう診断され、ここ重信にある、 「愛大付属病院」へと転院することになりました。

癌は、ちょうど鼻の奥あたりにできていて、手術は不可能。
抗がん剤と放射線の治療でなおすしか方法はありませんでした。
でも、ちょうど母が入院した時、新しい抗がん剤の薬ができたばかりで、その薬は母の癌に効果があるかもしれないと言われ、その治療にかけることにしました。

まだ、誰も使ったことがない薬。
病院の先生も、まるで実験のように、母の変化を調べていました。

それから半年。
母は、奇跡的に癌が消え、退院することができました。
今でも、毎月一度は必ず検査に行っていますが、それ以来再発はありません。

あれから、7年。
病院の正門から続くまっすぐの道の向こうに、この三嶋神社の鳥居があったのです。



この地図の上の赤い星マークが三嶋神社
下の赤い星マークが、病院です。

病院の入り口と鳥居が、繋がっているのです。

もちろん、この時は、神社めぐりはしていませんでした。でも、もしかしたら、この時から、三嶋明神(瀬織津姫)と出会う道は、始まっていたのかもしれないと。

そして、もう一つの紫の☆マーク。
この神社へと曲がる、交差点。 もう何度かこのブログでもお話していますが、私は、瀬織津姫と出会って、神社に行き始めてからすぐ、あごから首にかけて、原因がわからない、膿がたまり、一時は顔全体が大きく晴れ上がるほと酷く、食事もできないくらい酷くなりました。
膿の大きさは、ゴルフボールよりも大きく、信じられない、状態でした。

その膿は、母をこの病院へと連れてくる途中に、突然さけて、中から膿が飛び出たのです。
その膿がさけた場所が、この交差点なのです。
私は、ティッシュで避けたところを抑えながら、そのままこの付属病院の窓口に行き、看護婦さんに、状態を話し、急遽その場で、切って出すことになりました。
幸い、癌かもしれないということで、一度、ここで診察をしていたので、すんなり処置してもらえ、その後、みるみる腫れは収まり、膿は全てなくなり、その後、数ヶ月して、本格的に神社巡りがスタートしたのです。

膿がさけた場所、この交差点の目の前に、三嶋神社があったなんて。
そして、それを全く知らないで、この日、私はここに来ていました。

母の癌が奇跡的に治ったのも、私の膿が避けたのも、三島明神(瀬織津姫)さまのおかげかもしれないと、思わずにはいられませんでした。

もちろん、ただの偶然と言ってしまえばそれまでですが、私は、この偶然は、きっと姫さまのおかげだと、そして、母も生かされたのだと。
でも、生かされたのには、きっと意味があり、私が今こうして、神社を巡っていることにも、きっと意味があるはずだけど、それだけでなく、今回こうして、この場所にくることができて、御礼をいうことができて、本当によかったと、心から思いました。

母がもしいなれば、私は今のように自由に仕事ができていないかもしれません。
神社も、今のように巡ることはできなかっただろうと思います。

母を助けていただいて、本当に感謝しています。
私の、さまざまな膿を、流していただいて、本当に感謝しています。
本当に、本当に、ありがとうございました。

*三嶋神社
*東温市樋口片山1089
*祭神
 大山積神(おほやまつみのかみ) 
 雷神(いかづちのかみ)
 高龗神(たかおかみのかみ)
*境内社
 五十鈴神社
 明見社
*奈良時代初期、神亀5年(西暦728年)伊予の国司であった乎智宿祢玉純が聖武天皇の命を受け、大三島宮より勧請した吉井郷(ごおり)一の宮である。
当初、岩伽羅山上に鎮座していたが、平安時代末期の文治元午(1185年)岩伽羅城の築城に際し、現地に遷座した。別当芋は大蓮寺であったと言う。

この三嶋神社も、神亀5年に建立された場所のひとつです。
この神亀5年という年は、一つの大きなキーワードの年です。

重要な神を祀らなければいけないと、雷神 と 高龗神を、大三島に鎮座させたその意味と、この年の勧請は重なるような気がします。
姫さまを消してしまった罪と・・・・・・


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本殿
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拝殿の屋根には三嶋の神文と龍
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大木の後に、新たな木が
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この階段は、病院へと続いている。
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本当に、ありがとうござます。 






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-24 02:17 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(14)

こんばんは。

今日は、昨日の続きです。

今回の場所はココ。


龍神社のある、明神ヶ森の向こうの、東三方ヶ森の麓の村です。
綺麗な川と、美しい木々に覆われた森。

昔の日本の風景が、そのまま残っています。、
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この川が、重信川まで続いています。

車を止めて少し歩いていると、道路が川に?
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山から流れてきた水が、道路の上を流れて下の川へと落ちていっていました。

最近、こんな山の中が、大好きです。
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桜が綺麗に咲いていました。
この山の中の、龍神社には、今回は行くことができませんでしたが、地図にも載っていない、小さな大山住神社がありました。
ここには、酒だる村あとがあり、お酒を造っていた後の樽が沢山おいてありました。
「大山住」 と書いてありましたが、きっと、お酒の神様とも言われる、大山積神のことだと思います。
酒だる村の敷地の中にも、ちゃんと赤い鳥居が見えました。
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そして、反対側の入り口には、小さな鳥居と、大山住神社の文字が。
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木で作った鳥居も、いいですね。
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小さな拝殿ですが、村の人の想いが、込められた大切な神社。
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ここには、昔の日本の風景、生活が残っていました。

静かに、ゆっくりと時が流れる。 
ここに、贅沢な暮らしはないかもしれませんが、私たちが、今本当に、大切にしなければいけないものが沢山残っている場所のような気がします。

こんなことを書いている私も、電気もガスも何もない生活ができるかといえば、できないかもしれません。
でも、人の欲望はとどまるところを知りません。

人間の欲望をかなえるために、作られた 「原子力発電所」
危険を伴うのを承知で、日本中につくられています。 
絶対安全なんて、あるはずないのに。 地球が静かな時代に暮らしてきた現代の人々は、まさかそんなことはおこるはずはないと思い、危険をどこかで感じていたはずなのに、目をそらしてきたのかもしれません。

未来の子どもたちに、この美しい風景を残すためにも、豊かな自然を受け継ぐためにも、今、変わるべき時。
昔に戻ることも、全てを辞めてしまうことでもなく、やはり前を向いて進んでいかなければいけないのだと。
新しい生き方を、私たち日本人が考え、生み出し、始めなくてはいけないのだと、私は思います。

理想のようにはいかないのかもしれませんが、
欲望のままに生きるのでもなく、全ての欲望を抑えて生きるのでもなく、
全てのものをわかちあい、思いやり、助け合い、地球と共に生きる生き方を。

また、自分の欲望を満たすために働くのではなく、 夢を持つのではなく、 
一人一人が、誰かの幸せを願い働く。 人は、働く意味を忘れてしまっているような気がします。
世の中全てが、欲望のために走りすぎていて。

日本は、とても小さな国です。
でも、日本は、とても大事な国です。
今回、このような大きな災害が日本に起こったことにも、大きな意味があるように思います。

私たち日本から、新しい世の中をつくっていくようにと、神さまから言われているような気がします。
困難は、新しいものを生み出すために、起きる。
今は、大きな節目の時、そんな気がしてなりません。。。。。。。。






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-23 02:36 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。
今日夕方、久しぶりに虹をみました。 
太陽の横に、縦にまっすぐの虹と、頭の上に、不思議な青紫色に輝く虹でした。 

神社に行き始めてから、本当によく虹を見るようになりました。
虹も何かのメッセージなのかと思ってしまうほどです。

それは、どんなメッセージなんだろう?
3月11日、あの地震が起こる一日前、新幹線の中、ちょうど岐阜あたりで、まっすぐの虹を見ました。
3月11日は、私にとっては、とても大切な日でした。 
一つの夢が叶うかもしれない、とても大切な日。

その場所へと向かう途中に見たあの虹は、私には、希望の虹に見えました。

そして、11日、私たちがあることを終えてすぐでした。
あの地震があったのは。。。。 

眩しい太陽の光の中に、見えた今日の虹。 
どんな意味が込められているのかわからないけど、美しい光景を見せていただいたことに、感謝です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日からご紹介する場所は、先日二日間で巡った重信町です。
まだ、全て行ききれていませんが、ここ重信は、数々の歴史が秘められた場所だということに、本当にびっくりしています。

少し前に、玉川のお寺の由緒に書いてあった、天之逆鋒は、ここ重信から大三島へと奉遷されたと思う神社に今回たどりつくことができました。

でも、どうして、重信の神社に、あったのか、誰が、重信へともってきたのか。
まだまだ、謎はいっぱいです。

ただ今回強く思ったことは、ここは、とても重要な場所で、
古代から「水」の源の一つの場所として、信仰されていた場所だということ。

そんな、重信の地を、数回にわけてご紹介したいと思います。

ここ重信町には、高縄半島の中で一番高い山と言われる 東三方ヶ森(ひがしさんぽうがもり)という山があります。 三つの市、東温、今治、西条の市境が交わる位置にそびえています。
そして、その三つの市が交わる点を、三角点とよんでます。
今も、昔と変わらず、豊かな森で覆われ、三つの平野を潤す、水の源です。
南は道後平野一の河川、重信川、北は今治平野に流れ込む蒼社川、東は丹原平野を潤す源なのです。
古代の人々が、もっとも大切におもっていた 「水」 の源です。

今回まず私たちが向かったのは、この東三方ヶ森へと向かう、152号線の道でした。
ここには、「龍神社」 もとは黒滝神社とよばれてた、雨乞いの場所だったといわれる神社があります。

この神社が、何故か気になり、まずいってみることに。
いつものように、はっきりと場所がわからないまま、とりあえず、車を走らせました。

そして、いつものように、行った後、家に帰って気になる場所を調べていると、いろんなことがわかりました。

152号線は、東三方ヶ森の麓へとつくまでに、二つの伝説の山があります。
重信に近い方から、福見山、そして、明神ヶ森その向こうに、東三方ヶ森。

今回、行ってはいないのですが、この福見山には、不思議な伝説があります。

天竺(印度)の法道仙人が開基した。法道は紫雲にのり来朝し、播磨の法華山で修行し、飛鉢の術を会得した。法道仙人がこの山で修行していると、瀬戸の沖合を行く船に鉢が飛んできた。船主が断ると積んでいた米俵が次々と山に飛び去った。船主は慌てて法道仙人に詫びを入れると、米俵が戻ってきた。そういうことで俵飛山と呼ばれた。米俵の一つが川上に落ちたので、以来この地の人が裕福になった。福見と呼ばれ、俵飛山福見寺と称した。

という伝説です。

天竺からやってきたという、法道仙人。
兵庫県に、この伝説が残っていますが、ここ重信にも、法道仙人の伝説があったのです。
この福見寺は、現在も、福見山の山の中にあります。
いつか、行ってみたいです。

そして、もう一つの山、明神ヶ森。
ここは、古代、雨乞いの場所だったといわれいます。 現在、明神ヶ森に行く途中の黒滝川の近くにある
龍神社は、最初は、この森にありました。

神社には、十二躰の御神像があり、雨乞神として霊験あった神社だと言われています。
雨乞神、ここも、もしかしたら、瀬織津姫を祀っていた場所かもしれません。
今回は、残念ながら、龍神社には行くことができませんでした。 というのも、普通の車ではいけるような場所ではなかったのです。 今まで行った中でも、車で行くには、一番の難所かもしれません。
車を変えて、いつか必ず行ってみたいと思っています。
きっと、その前に、行くべき所があるのだと、そう思って今回は、行くのをあきらめました。

でも、その代わりに、全く行く予定ではなかった神社を見つけました。
走っている途中、ふと目に入った神社 「總東風神社(そうこちじんじゃ)」です。
山に入る前のご挨拶と、これから重信をめぐらせていただくためのご挨拶に、参拝させて頂きました。

*總東風神社
*東温市山之内甲630番地
*祭神
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
 建速須佐鳴命(たけはやすさのをのみこと)
 大市比売命(おおいちひめのみこと)
 猿田比古命(さるたひこのみこと)
 大気津比売命(おおげつひめのみこと)
*由緒
創建年代・由緒不詳。江戸時代の社号は「總河内五社大明神」貞享4年(1687)郡代官の木材寄進により神社再建。弘化3年(1846)神殿再建。明治3年(1870)「總東風霊社」と改称したことがあるがその後、現社名に復した。

由緒に書いてありますが、ここは、創建の年代はわかりませんでした。
そして、ここには、大山積神のお名前はありません。
神社の中も、聞いたことがありません。
でも、拝殿を見てびっくり。 ここも、三島の神紋だったのです。

三島の神紋ならば、ここも、大山積神の名前があるはずなのですが、ありません。
でも、よ~く考えると、つながりのある神々ばかりです。

・宇迦之御魂神は、母が、大山積神の子、大市比売命。十六王子の、東南を司る神であり、スサノオの妻。
・大市比売命は、宇迦之御魂神の母でスサノオの妻。十六王子の東を司る神。

・建速須佐鳴命は、大市比売命の夫であり、宇迦之御魂神の父。

・猿田比古命は、まだはっきりと大山積との関係がわかっていませんが、十六王子の中の西南を司る神。
 そして、この十六王子として、大山祇神社では、御前神社に鎮座しています。
 御崎神社は、ちょうど大三島の西南の方向にあり、三島に渡る船着場、潮待ち場とされていたとと伝わる、 
 今治市波方の宮崎の鼻と言われる場所に、御崎神社として猿田比古命を祀る神社があります。

・大気津比売命は、今気になっている姫さまのひとりで、十六王子の中の、東を司る神。
 イザナギとイザナミの国生みの中の徳島県(阿波国)の女神。
 食物の神とされて、稲荷神として祀られることもあるのですが、スサノオと大市比売命の子、大年神の妻
 とも言われています。

なんだか、ややこしなりましたので、簡単に説明をすると、猿田比古命以外は、全て家族。
大山積の子→(大市比売命)と建速須佐鳴命の子→宇迦之御魂神・(大年神の妻)→(大気津比売命)。
というわけです。

このつながりは、もちろん事実とは違うと思います。
でも、大山積神となんらかの関係のある神々には、違いはないのかなと。

でも、今回初めて、徳島(阿波の国)の女神の場所へとくることができました。
実は、少し前、(オオゲツヒメ)というハンドルネームの方と出会いました。

今まで全く気にならなかったのに姫の名前だったのですが、それから、とても気になっていたのです。
だから、今回、このタイミングで、姫の神社に来れたことにも、何だかとても意味があるような気がしています。

オオゲツヒメとセオリツヒメ。 
これから、何か、わかってくるのかも?
楽しみです。

では、そんな不思議な三島の神紋をかかげる神社を紹介します。

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本殿の扉に、はっきりと三島の神紋が。
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ここにも
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境内社
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最後は、何も書いていなかったのですが、とても気になった石です。
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今回の、重信最初の神社でした。
これから、東三方ヶ森への登山口近くまで向かいました。
続きは、また次回で。


「わからないから楽しい」

皆さんには、夢はありますか?
何か、いつかこんなことができたらいいな。とか、こんなこをしてみたいな。とか。

もしかしたら、もう今さら夢なんかもってなんて思っていませんか?

夢は、叶うまで、いろんな出来事が楽しい。 もちろん叶った時は、もっと楽しい。
また、夢はなかなか、簡単に叶うものではないから、途中で不安になったり、諦めようと思ったり、辛くなったり、しんどくなったりもします。

でも、人生は、いろんなことがあるから、楽しい。
どんな風にも、想像し、変えることができるから楽しい。

叶うまでに、何かにたどり着くまでに、いろんな人に出会い、いろんな場面に遭遇し、いろんなことを考え、いろんなことを経験する。 ドキドキしたり、わくわくしたり、 時には泣いたり、怒ったり。
いろんなことがあるから、人生で、
自分で作れるし、何度だってやりなおせるから、また新しい何かが生まれる。

全てが決まっていたら、人は、生きている意味を見失ってしまう。
何かに向かって、走しることが、人生なんだと、私は思います。

私も、何度も、沢山のものを失いました。 何度も0からスタートしました。
でも、そのたびに、新しい何かが始まり、また新しい出会いがあり、新しい道ができました。
明日は、何が起こるんだろう。
どんな出会いがあるんだろう。
これから、どんな展開になるんだろう。

同じ生きるなら、少しでも、そんな気持ちになれたら、もっともっと人生は楽しいものになるような気がします。
命は、いつか必ず消える時がくるのだから、限られた命を、どうか精一杯楽しんで、乗り越えていってほしい。
大切な命を、精一杯楽しんで。






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-21 22:50 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

私は、神社に行くようになってから、とても重要な場所で、時々動物に出会うことがあります。
それも、不思議な出会いかたで。

こんなことを話たら、そんなのどこにもいるよ。といわれるかもしれませんが、
私は、そうは思えないのです。

初めて、そのことに、なんとなく気付いたのは、まだ瀬織津姫を知って本当に間もない頃でした。
ずっと前にも、話したことがあるので、聞いたかたもいらっしゃると思いますがが。
私は、当時、まだ今の仕事ではなく、司会の仕事をしていました。

ちょうどその時は、衆議院議員の選挙中。 あちこちの交差点で、車を止め、演説をしている時でした。
「あれ?黒い蝶がいる、珍しいな~ こんな場所に」
緑があるわけでもなく、大きな道路の交差点に、真っ黒い蝶が飛んできたのです。
そして、次の場所へ。  また車を止めて演説。 すると、またそこにも、さっきと同じ黒い蝶が。。
そして、また次の場所でも。

その日は、何度も、車を止めるたびに、飛んできたのです。
その時は、不思議な日だったな~。 と思うだけで、まだ気付いていませんでした。

それから、姫の神社がわかり、神社に行き始めてからです。
その神社に行くと必ず、また、黒い蝶が出てくるのです。 何度も通っているうちに、蝶と姫は関係があるのかもしれないと思い始めたのです。
それからです。 道に迷い、どちらへ行っていいかわからない時、車の前に蝶が現れまるで、私たちを導くように、先導し、その蝶についていくとたどりついたり。
ある時は、山の中で、蛇が出てこないかと一人、待っていると、ず~っと、私のすぐ側で、じっと止まって守ってくれたり。 
ある時は、神社の待合所のようなところで待っていると、外からす~っと入ってきて、足の上に止まったり。
そのうち蝶だけではなくなり、いろんな昆虫や動物が現れるようになりました。
姫の鎮座する、山の中の滝に行った時、地図にも載っていない場所で、道があっているかどうかもわからなくて、ほんとに、あってるのかな。。と話ていたら、猪の子どもが目の前に現れて、まるで、姫の滝はこっちだと案内するかのように、何度も後ろを振り向きながら、山へと上がっていきました。
その後、無事姫の滝へとたどりつき、滝のすぐ側の拝殿で参拝していると、今度は、山の上から、さっきみた猪より少し大きな猪が現れ、私達を確認するかのように見たと思ったらそのまま山へと入っていきました。

これだけでは、ありません。 もう、幾度となく、こんな出来事があります。
そして、今日ご紹介する、高縄山のお寺に行く途中では、うさぎが目の前に現れました。
また、今度お話する、重信町へ行った時でした。

二日間、重信町のとても意味のある、三島明神のお寺や、神社を10社近く巡り、最後から二つ目の神社に行った時でした。 ほとんどの神社は、塀があると本殿の中へと入ることができないのですが、ここは、塀の中へ入り、すぐ側まで行くことができました。
そして、本殿から出て、本殿の真裏に回ったときでした。 一匹の蛇が、私の前に現れたのです。
でも、私の方へ向かってくるのではなく、そのまま、一度止まり、山へと帰っていったのです。
神社で、それも本殿のすぐ側で、蛇にあうなんて、初めてでした。

もちろんその神社も、三島明神、(瀬織津姫とニギハヤヒ)が祀られている神社でした。
瀬織津姫とニギハヤヒは、龍神、また、大蛇とも言われます。
あの蛇は、姫の神使だったのかも。。。。  (考えすぎ!) と言われるかもしれませんが、そう思いたい。ですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、北条の高縄山にある、越智家、河野家の菩提寺、「高縄寺」です。

高縄寺は、伊予の海を見渡せる、標高986メートルの高縄山の山頂にあり、山頂からは美しい瀬戸内海を一望することができます。
この山は、越智家、河野家にとって、とても重要な山でした。
越智、河野家は、「水」へのこだわりがとても強かったと言われています。
「河野」という名前を、そんな「水」にまつわる伝説から生まれたとされています。

越智玉興が、河内の国(大阪)から伊予の国へともどる途中、岡山のある海岸近くで、一艘の船に出会います。 その船にのっていたの、は玉興の異母兄弟、のちの河野性を名乗り、数々の歴史をつくっていく玉澄でした。 
玉澄は、備中沖で船の飲料水が無くなり困っていました。
玉興は、三島大明神に祈願し弓で海潮を攪拌しました。すると「不思議の清水」が湧いてきて、助かりました。
この水で皆は救われたといい、備中沖を「水島ノ渡」と名づけたといわれます。
この不思議の清水の源は、越智氏の領地・伊与国の高縄山である。この山は「観音菩薩霊験ノ地」。
ゆえに高縄山の麓を「河野ノ邑」と名づけ、玉興は玉澄を養子とし、以後、河野を名乗るようにといったことから、「河野家」はじまったとされます。

高縄山は、美しい湧き水の豊富な山だったのかもしれません。
その名残も、今回見ることが出来ました。

以前に、少しお話しましたが、大山積神の本地仏は、「大通智勝仏」といいます。
法華経の中にでてくる仏で、「東西南北四方八方を守護する」仏といわれます。
そして、この「大通智勝仏」には、十六王子があり、分身のように、東西南北に鎮座し、守っていると。
その中で、瀬織津姫は、闇靇神と共に、西方を守護し、その仏徳的表現は「度一切世間苦悩」。
これは、瀬織津姫が祀られるという、白山信仰の中の姫と同じなのです。
白山信仰では、「瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」

そして、この高縄山の本地仏は、十一面千手観音菩薩です。
河野家の菩提寺であれば、普通に考えると、本地仏は、「大通智勝仏」のはずです。
それなのに、十一面千手観音菩薩。 
大山積神を含め、この十六王子の中で、十一面千手観音菩薩と考えられるのは、瀬織津姫をおいて他にはいないのです。

高縄山 高縄寺は、越智玉澄、玉興の父である、越智守興が建立したと伝えられます。
世の中が変わろうとしていたその時、この水の豊富な、高縄山に、高縄寺を建立し、十一面千手観音菩薩をおかれた本地仏とし、それ以降、現在もその信仰は続いています。

越智守興までは、今治を中心にした国つくりを行ってきた越智家が、新たに、北条を中心として、新しい「河野」性で、繁栄を願ったその証かもしれません。
また、ちょうど時を同じくして、朝倉村にあった、あの夏姫と越智守興の子 、斎名天皇が「伊予皇子」名づけた子どもの健康を願ったと伝わるお寺の仏像を、ここ北条へとうつしています。

北条の町、そして、瀬戸内海の海を一望でき、水に恵まれたこの高縄山に、名前を消された瀬織津姫の本地仏「十一面千手観音菩薩」をおいたことに、越智家のさまざまな想いが込められているような気がします。


では、高縄山と高縄寺です。
お寺につく、少し手前で、高縄山の水信仰とも思える場所を見つけました。
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ここが、河野川の源流。源のようです。今では、水がなくなってしまっています。
歴史とともに、全てが忘れ去られているような、悲しい想いがこみ上げてきました。
もともと、高縄寺は、今の場所ではなく、山腹にあったといわれています。 もしかしたら、この源流の近くだったのかもしれないと思いました。

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そして、高縄寺です。
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山頂のすぐ近くにお寺はあります。お寺の周りには、大きな杉が沢山あります。
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その中でも、ひときわ目をひく 「子持ち杉」
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そして、ここにも、ちゃんと三島の神紋がありました。
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越智、河野家のゆかりの地には、弘法大師の姿があります。
空海も、きっと全てをわかっていたのだと、思います。 わかった上で、その地を訪れていたのだと。
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姫が守る山
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姫が守る海
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そして、姫の季節桜
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高縄寺では、今度の日曜日、桜祭りが行われます。
そして、その日は、年に数回しかない 御開帳の日。 姫の仏の姿 「十一面千手観音菩薩」に会える日です。
ちょうど、私たちがお寺についた時、住職さんんと奥様が帰ってきて、教えていただきました。
今度の日曜日は、姫に会いに、もう一度行ってみようと思っています。
満開の桜が咲いているだろう高縄寺に。。。
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今日も、ありがとうございました。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-19 23:29 | 愛媛県松山市北条 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

愛姫伝第六章を、つくりました。
今回は、「神様を巡る伊予の旅」です。

伊予の国は、神々の神話の中では、あまり語られることがありませんでした。

私自身も、こうして自分の足で愛媛を巡り、調べ、歴史を知るまで、正直無縁の場所だと思ってまいりました。
でも、伊予の国、愛媛は、古代の歴史を語るうえで、はずすことのできない大切な場所だということがわかってきました。

神の名前は、変えられ、わからなくなった現在も、「三島明神」として、多くの神社、お寺が、原点を消し去ることはなく、今も尚、その形をどこかに残そうとし、受け継いでいる。

日本は、今、戦後最大の危機に遭遇していると言われています。
しかし、それでも、今の世の中は、昔に比べるととても恵まれているのかもしれません。

贅沢な暮らしになれ、便利な暮らしになれ、何不自由のない生活になれてしまった私たちは、全てのものがあたり前に存在していると、勘違いしてしまっていたかもしれません。

今のような、平和で、何不自由のない生活がおくれるようになるまで、多くの人々が、前に進むために、命を落とし、犠牲になり、何度も試練も乗り越えてきました。

言い方をかえれば、試練がなければ、今の世の中はなかったかもしれません。
未来の私たちのために、多くの人が試練を乗り越え、前を向いて進んだように、私たちも、未来の人々のために、もっとよい世の中をつくらなければいけないのだと、今回の地震は物語っているようにも思えます。

でも、今回の地震で、一つ思ったことは、日本の人々は、「誰かのためになりたい、何かの役にたちたいと思う心や、自分のことより人のことを気遣う心」を、なくしてしまったわけではなかったのです。
その心は、眠っていただけで、ニギハヤヒと瀬織津姫が願った 「一願成就」の心は、受け継がれていました。

変えなくてはいけないもの、変えてはいけないもの。
神々が鎮座する神社は、そんなことも、私たちに教えてくれるような気がします。

「神々を巡る伊予の旅」 です。







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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-18 00:45 | 歌・動画 | Trackback | Comments(7)

こんばんは。
今日は、午後から松山の隣、東温市に行ってきました。
旧川内町と重信町が合併してできた市です。 この重信町は、今まであまり目に止まらなかったのですが、先日から突然気になりはじめ、今日はじめて訪れました。

この町も、とても古い歴史があり、伊予の歴史を語るうえで、はずせない場所のようです。
今日一日では、とても周りきれず、明日も引き続き、重信へ行ってみようと思っています。

今日のお話は、また後日させて頂きます。

今日は、松山市に鎮座する、「椿さん」の愛称で有名な神社  「伊豫豆比古命神社」です。
毎年、旧暦の1月7・8・9日に開催される、「椿祭」。
愛媛県だけでなく、全国から訪れるます。 私も、椿さんの時に、何度も訪れていますが、実は、神社巡りを本格的に初めてからは、一度も来ていませんでした。

今回、椿さんの日以外に、初めてここに訪れました。
椿さんの日は、多くのお店や、前に進めないほどの人ごみで、境内がどんなになっているのかがほとんどわからなかったので、初めて目に入るものばかりでした。

「椿祭」とは、商売繁昌のお祭りです。
どうして、椿さんと言われるようになったかといいますと。
今から約2300年前、伊豫豆比古命・伊豫豆比売命という二柱の神様が、舟山という現在も境内にある岩に御舟を寄せ、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)が纜(ともづな)を繋いでお迎えした。』
という伝説があります。
この伝説から、神社周辺は一面の海原であったと言われています。

『津(海の船着場)の脇の神社、すなわち「つわき神社」が時間の経過と共に「つばき神社」と言われるようになったという説と、
境内に沢山の椿があるため、「椿の神社」つまり「椿神社」と呼ばれるとの説話があるそうです。

伊豫豆比古命・伊豫豆比売命という二柱の神様は、伊豫村大明神ともいわれていたそうで、伊予の国の神のことをいうのではないかと思います。
この辺は、入り江、あるいは海であった可能性が高く、その意味でも ここも、「津」の神、瀬織津姫ではないかと思います。

伊予の国は、ニギハヤヒの子孫が国つくりをおこなった国、ですから、伊予の国の神とは、
瀬織津姫と、ニギハヤヒということなるのではないかと思うのです。
また、以前お話した、「伊予神社」 とも関係のある神社の可能性が高く、ここも、伊予の国がつくられる上での大きな意味をもつ場所であったのでしょう。

また、伊豫豆比古命・伊豫豆比売命のほかに、
伊与主命(いよぬしのみこと)
愛比売命(えひめのみこと)
が、祀られています。

伊与主命(いよぬしのみこと)は、伊予の国造の祖。
また、愛比売命(えひめのみこと) は、古事記・日本書紀にも記されているイザナギとイザナミが国生みをおこなったさいに、生まれてた四国の中の、愛媛の女神、愛比売命。

大政奉還が行なわれて幕政が閉じられ、廃藩置県の実施を見て明治を迎えたとき、この女神の名前、愛比売命から、愛媛県が誕生しました。
都道府県名に御神名を冠されたのは、愛媛県のみだそうです。

愛媛の重要な 四柱の神様を祀る、 「伊豫豆比古命神社」をご紹介します。

*伊豫豆比古命神社(椿神社)
*松山市居相二丁目2番1号
*祭神
伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)
伊豫豆比売命(いよずひめのみこと)
伊与主命(いよぬしのみこと)
*境内社
勝軍八幡神社(誉田別命)
御倉神社(宇迦之御霊神)
児守神社(天之水分命・木花開耶姫命)
奏者社(潮鳴栲綱翁神)

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そして、私が一番気になっているお宮はこちら
奏者社(潮鳴栲綱翁神) です。
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こんな伝承があります。
当初は、梅本村小野谷に鎮座していたが、洪水で当地に流れてきたと。

現在の場所に、社殿を造営したのは、大化の改新の年 (645年)。
梅本村とは、ここから、東の方へいった、東温市と松山市の境目にある村で、現在もその地名は残っています。
梅本町と北の山の方へあがると、小野という地名が今も残っています。
実は、この梅本町のすぐ隣の東温市の牛斑というところには、三島の伝説が残る重量な場所があります。
また、小野へ行く途中、「山ノ神」 という地名があり、今日とても気になっていたところでした。
このブログを書く前に、調べていると、小野に鎮座されていたという記述を見つけました。
もし、これが事実なら、現在の場所へ遷されたのにも、もしかしたら重要な秘密があるかもしれません。

また、小野には、観音山と言われる山もあります。

「645年」 という、一つの節目の年に、造営された神社だとしたら、
この岩に祀られている、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ、そして、「津の宮」という名前は、瀬織津姫にまつわるものかもしれません。

大三島に、大きな波が押し寄せる前に、ここ、松山で時代の変動が始まっていたのかもしれません。
それが、先日の玉川の神社、「御鉾神社」の、「訓見郡徳威の宮より大三島宮へ天之逆矛を奉遷した」という
伝承に繋がるのかも。
というのも、この元あった場所という、梅本村一帯(東温市)に、その徳威の宮があったからです。

そんなつながりがあったとは、全く知らず、 「伊豫豆比古命神社」のお話をする日に、東温市へと向かったことが、偶然とは思えない導きを感じています。

毎回ですが、この何度も起こるシンクロに、自分でも驚いています。

必要な時に、必要な場所へといく。 必要な時に、必要な情報が入ってくる。
本当に不思議です。

よく「何のためにこんなことをしているの」といわれることがありますが、どうしてか私にもわからないのです。
気持ちに素直に動いているだけ。
でも、理由もなくただ、自分の気持ちに素直に進んでいる今が、一番、前に進んでいるような気がします。
こんなにも、偶然と思えることが重なったことは、今までにないからです。

だから、今強く思うことは、最低限生活するために、何らかの仕事をしないといけません。
でも、それが、自分の思うようなしごとでなくても、それはそれで一生懸命しながら、自分のできる範囲で自分の気持ちが求めているものを、してみると、何かが変わってくる。

それが、何の意味もないことに思えても、何かを得ようとするのではなく、利益や損得を考えず何かをしてみることは、大事なのではないかと思うのです。

無理をしない、できないときはやらない。 無理やり全てを変えようとしない。
今の生活を大事にしながら進めることです。
今の自分にできることを、始めること。 それが、遠い道のりのようで、一番の近道のように思います。
小さなシンクロや、小さなラッキーに気付き、楽しみながら。。。。。

ちなみに、私の最初のころの楽しみは、スーパーやショッピングセンターに買い物に行った時、どんなに込んでいても、入り口に近い場所が必ずあいているか、ちょうど目の前で車が出るところで、とめれないことがなかったこと^^ それは、今でも変わらず、続いています^^
それだけで、 「今日もツイテル」 と うれしくなったものでした。
どんな時でも、小さなラッキーを見つけれる心を忘れずにいたいですね。

最後に、
「伊豫豆比古命神社」から帰る前、ちょうど夕日が沈む前で、拝殿の横に太陽が見えました。
こんな、なんでもない光景ですが、小さな隙間から、太陽が見えるこの瞬間にここにいれたことが、とてもラッキーに思えます。 こんな、小さなラッキーが神社での、私の楽しみの一つです。
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今日も、ありがとうございました。







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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-17 00:59 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(24)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。