<   2011年 11月 ( 24 )   > この月の画像一覧

こんばんは。

今日は、先に神社のご紹介です。

今日ご紹介する神社は、西条市(東予市)、本谷温泉の側に鎮座します。

本谷温泉は、、松山の「道後温泉」、今治の「鈍川温泉」と並び「伊予三湯」と称され、古くは第34代舒明天皇(在位629~641年)や、第37代斉明天皇(在位655~661年)が御入浴されたと伝えられており、古くからの名湯として知られています。

実は、この神社に行く前に、とても意味のある神社に参拝しました。

そちらは、また後日ご紹介したいと思っていますが、上記の本谷温泉の歴史の中にも出てきますが、
斉明天皇は、この隣の朝倉村に数多くの伝説が残っていますが、逆に、本谷温泉より東側、西条市には、斉明天皇の息子である、天智天皇にまつわるとても重要な場所があります。

斉明天皇も天智天皇は、ここ愛媛ととても深いかかわりがあると思っています。
それは、斉明天皇が、物部氏と深いかかわりにあったからだとも思います。

最後にお話します、天逆鉾にも関係のある、旧東予市、ここは、両方の勢力が混在し、歴史の裏の舞台として多くの出来事が起こった場所だと、感じています。
だから、空海も、ここに、3つの八十八ヶ所を置いたのだと思います。

今日、ご紹介する神社の由緒は、残念ながら末梢されています。
しかし、口碑によれば往昔より鎮座の古社であると伝えられています。

*大元神社
*西条市河之内甲480
*国常立尊(くにのとこたちのみこと)

ここが、本谷温泉です。
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大元神社鳥居
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久しぶりに出会いました。太陽と月の燈籠。

 「太陽」
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 「月」
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拝殿
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本殿
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境内社 (奈良原神社)
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本谷温泉は何度か来ていますが、瀬織津姫と出会うまでは、こんなに近くに神社があるなんて、考えてもみませんでした。
心が変われば、見えるものも変わる。 景色も、感じ方も、こんなに変わるなんて、心が現実を作っているという意味が、瀬織津姫に出会ってわかるようになりました。

こんなに、神社が美しいということも。。。。
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では、天逆鉾の秘密です。

以前、何度か、ブログの中で、天逆鉾のお話をさせて頂きました。
まだの方は、こちらもご覧ください。
天之逆矛のあった場所は?④  (瀬織津姫の闇の姿)

天逆鉾とは、国譲りの時に、、大国主神を通してニニギに譲り渡され、国家平定に役立てられ、その後、国家の安定を願い矛が二度と振るわれることのないようにとの願いをこめて高千穂峰に突き立てたという伝説が残っています。

また、あの坂本龍馬が、高千穂を訪れた時、この鉾を抜いたという伝説もありますが、
以前のブログでもご紹介したように、これと同じものかどうかは不明ですが、「天之逆矛」 が、愛媛のある場所から、大三島宮へと、運ばれたという伝説が残っていました。

その途中、今治市玉川町に立ち寄ったとされ、そこには、その跡として、今も、神社が鎮座されています。

では、それはいったいどこから、玉川へと立ち寄り、大三島へ渡っていったのか、それを探していて、とうとうその場所と思われる所を、今日ご紹介した、旧東予市に見つけました。

「天之逆矛」が、運ばれたのは、推古天皇の時代。そして時を同じくして、大三島の瀬戸に、大山積神社が建てられました。
大三島瀬戸に鎮座していた、大山祇神社は、現在の宮浦へと移る前にあったと言われる場所ですが、
ここで何度も、お話しているように、瀬織津姫が大山積神へと変えられる前の 「大山積神」 を祀る神社で、本来、現在の大山祇神社の場所に祀られていた瀬織津姫を、消し去る前に、瀬戸にまずは来ていた大山祇神社です。

昨日から、 「蛇」のことが気になって、 今日も、蛇の話をしていた時でした。
急に、どこからともなく、頭の中に、 「天逆鉾」 という言葉が、飛び込んできました。

「え?」 今まで、 蛇、蛇と話していたのに、今のはなんだろう? と思った瞬間、
天逆鉾の意味が、浮かんできたのです。

最近、時々、こんなことがあります。
全く違うことを考えているさなか、 何かが急に浮かぶことが。

今回もそうでした。

これは、ただ、私が思いついたことかもしれませんが、突然 「天逆鉾」 の答えが浮かんできたのです。

「天逆鉾」 とは、 「天を逆さにする鉾」 

どうして、今まで、このことに気づかなかったのでしょう。

もしかしたら、今まで 「天」 という意味がはっきりわかっていなかったからかもしれません。

「天の中心 = 天皇」 「宇宙の根源 = 天皇」 

そう、「天逆鉾」 とは、 「天を逆さにするための鉾」だったのです。

国譲りとは、 「天」 を 逆さにすること。 天と地を入れ替えることだったのです。
ということは、この「天逆鉾」と、 大山祇神社へと運ばれていった 「天逆鉾」は、本当に同一、同じものかもしれません。

でも、一つわからないことは、「天逆鉾」が運ばれた時は、推古天皇の時代。
瀬織津姫が封印されることとなった 天武天皇の時代より、80年ほど前の話で、少しずれています。

ということは、二つの意味が考えられます。
 
◆一つは、まだ、この時は、「大国主、瀬織津姫を祀る側」 にあった 「天之鉾」が、瀬戸の大山積神の所へ運ばれたのではなく、本来祀られていた、宮浦の瀬織津姫の所へ運ばれていった。
しかし、この80年後、 「大国主からニニギ」 に譲られたと伝わるように、瀬織津姫が封印されるその時に、

   「天之鉾から 「天逆鉾」へとなった。

◆もう一つは、「天逆鉾」は、大山積神を祀る側、封印した側が、もっていたもの。
そして、封印する時、 この 「鉾」 を使い、 その立場を入れ替えた。

伝説からすると、最初に書いた説の方が近いかもしれません。

そして、もう一つ。

伝説で書かれた、

「ニニギが、安定を願い矛が二度と振るわれることのないようにとの願いをこめて高千穂峰に突き立てたという伝説」 

これが、もしかしたら、瀬織津姫を祀る氏族と大山積神(アマテラスを祀る)氏族との、契約の時に行われた儀式の一つだったかもしれません。

そして、その場所は、高千穂ではなく 「徳島県 剣山」 です。

「契約の箱」とは、私は、 「契約の剣 天逆鉾」だったのでなないかと思います。

剣山とは、別名 「鶴亀山」 とも呼ばれます。
この場所は、あの 「かごめかごめ」 の歌にも関係の深い場所ということは、以前から思っていました。

でも、世の中で言われている意味と、私は少し違います。

どうして、かごめかごめの歌に、この場所が出てくるのか。
それは、ここが、瀬織津姫の封印に関係する、重要な場所。 「高千穂」 だったからかもしれません。

剣山は、ご存知の通り、徳島県にあります。
しかし、すぐ隣は愛媛、高知、香川と、一番隣接している高い山でもあります。
そして、徳島県の女神の名前は、 「オオゲツヒメ」 食の女神です。
以前から、瀬織津姫と大宜都比売、きっと相対する女神だと思っていました。

その意味も、これで、はっきりとわかりました。

愛媛の女神は 「愛比売」 といい、 「女性の理想の女神 = 瀬織津姫 → アマテラス」

徳島の女神は 「大宜都比売」 といい、「食を代表する女神 =大宜都比売 → 豊受大神」

こういう意味ではないでしょうか。

天皇は、 「天の中心であり、 太陽の神。 そして、日本を食の代表 稲、の神」 でもあり、その日本の象徴の米をアマテラスにも捧げることで、天皇とアマテラスは、永遠に一つになり続ける」

だから、食の女神である、豊受大神が、伊勢神宮にはどうしても必要だったのです。
そして、四国は、その四国全体が、瀬織津姫とニギハヤヒの島だったから、その魂を、陰と陽で4つにわけた。

体は一つで、顔が4つ。

愛媛は瀬織津姫(女性を理想像の女神) 高知は、ニギハヤヒ(男性の理想像の神)
徳島は大宜都比売(食を代表する女神) 香川は、飯依比古(男性の食を代表する神)

4つの陰と陽、日本の国に必要な神、天の中心の神と食の神であらわされた国が、四国だったのではないでしょうか。 それは、四国が、瀬織津姫の封印の時、一番重要な意味をもつ場所だったからです。

でも、その真実もまた、瀬織津姫とともに、古事記で封印され、空海が置いていった、四国八十八か所によってさらに仏の力で封印され、 瀬織津姫が死の国、黄泉の国、三途の川の女神とされ、四国もまた、四(死)(黄泉)の国となったのだと思います。

再生、復活、そして、命を生み出す女神 瀬織津姫が、 死の女神に変えられてしまった真実は、やはりここ四国にあるのだと思います。

最後に。。。。。

私のブログは、瀬織津姫の真実をずっと書いていますが、このブログを読んで、読んでいる方々が、姫のお話の中から、何かを感じ、何かに気づいてくださっていることを知り、本当にありがたく、うれしく思っています。

瀬織津姫の真実を知ることは、もちろん、私の目的の一つでもあります。
でも、それだけではなく、もっともっと大切なものがその向こうにあるような気がしています。

私自身、瀬織津姫さまと出会ったおかげで、多くのことを学び、多くのことに気づき、考え方も、生き方も、いろいろなものが変わってきました。

何かに心が惹かれる。 ふと目がが止まる言葉。
それは、きっと、姫さまからのメッセージなんだろうと、私自身が思ってきました。
それが、私以外にも、同じように、感じてくれている人がいたことを、ほんとにうれしく思います。

本当に、ありがとうございます。
姫さまにも、そしてご覧頂いている皆様にも、心から感謝します。


 

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-30 23:59 | 愛媛県西条市(旧東予市) | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

数日前、寒い日、家族で食事に行っていた時のことです。
私と息子、娘は、丁度出入り口の真正面の席に座りました。

食べていると、一人の男性が、食べ終わって帰って行きました。

そこのお店の入口は、横にスライドする戸。
その戸を、男性は開けたまま帰ってしまい、店の中へ、冷たい風が吹き込んできました。

私は、急いでその戸を閉めに行きました。

息子と、「寒いのに きちんとしめないで行っちゃったね。」 と話ていると、今度は女性が一人かえって行きました。

「今度の人は、ちゃんと閉めてくれるかな?」

そう言ってみていると、その女性もまた、きちんと閉めないまま帰ってしまいました。

お店の人は、厨房からわざわざ出てきて閉めないといけないので、かなり距離があります。
また、私は、閉めに行きました。

「どうして、閉めないのか?」 そう話していると、今度は、表からお客さんが入ってきました。

すると、外から入ってきたその人は、きちんと戸を閉めて入りました。

それからしばらく見ていると、何人も外からお客さんが入ってきましたが、誰ひとりとして、開けたままにする人はいませんでした。

でも、帰っていく人は、びっくりするほど、みんなきちんと閉めないで帰っていくのです。
閉めた人は、たったの一人。

入ってくる人は、約10人中、全ての人がきちんと閉め、
かえっていく人は、7人中、6人は、開けたまま帰っていったのです。

すると、息子が言いました。

「ママ、わかったよ。 外から入ってくる人は、外が寒いからあったかい中に入ってきて、寒いのがいやだから閉めるんだよ。 でも、中から外に出る人は、 外が寒いから、閉めても閉めなくても、自分は寒いのが変わらないから、閉めないんだよ。」 と。

私は、愕然としました。 みんな、自分のことしか頭にないんだ。自分が帰ったあと、中の人たちが寒い思いをすることなど、全く頭になく、自分は1歩外に出たら寒いから、閉めても閉めなくても変わらないんだと。

でも、他の人や、閉めに行くお店の人のことを、まるで考えていない人が、こんなにも多いなんてと、
私も息子も、本当にびっくりしたのです。

今の世の中は、そんな風になってしまったのかと、改めて、考えさせられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、内子町(旧小田町)に鎮座する、とても重要なことが書かれてあった神社をご紹介します。

ここは、以前小田町の大木のある神社としてご紹介した、「広瀬神社」 「三島神社」 と同じ道沿いを、さらに、山奥へと入った場所にあります。

三社とも、そう遠くない位置に鎮座。

また、このあたりは、大山祗の神地だと言いますが、ここには、大山積神の名前はなく、記録にも、それがどうしてなのかわからにと書かれてあります。

神社庁における由来では、興国2年(1341)6月1日、西南の宮満良親王がこの地の山中に逃れた時、大和の国吉野(奈良県)の金峰山より安閑天皇のご分霊を三嶽の古戸の地に祀り所としたのがはじまりと伝えられている。と書かれてありますが、村に伝わる記述では、それよりももっと昔、もしかしたら、あの三島神社や広瀬神社よりも、古い時代から祀られていた可能性があります。

神社の名前は、

「太森神社」

現在の祭神は、
安閑天皇(あんかんてんのう) ・ 伊弉諾命(いざなぎのみこと) ・ 鐃速日命(にぎはやひのみこと)
です。

そして、本来は、二柱の神を祀っていました。

その神の名前は、上記と同じ
伊弉諾命(いざなぎのみこと) ・ 鐃速日命(にぎはやひのみこと)
と書かれてはいるのですが、とても違和感のある、組合せだと、ここに行った時感じました。

そして、家に帰ってから調べてみると、やはり、ここは、イザナミではなく別の神さまが祀られていたと気づきました。

それがどうしてかと言いますと、

この太森神社は、 古くは、饒宮の三地嶽王大権現と呼ばれていました。

そして、こうとも書かれてありました。

 「日の神鐃速日命に授け給うなり、故に鐃宮の伝えを尊む古神社である」


ここでは、ニギハヤヒのことを 「日の神」 と ちゃんと書かれてありました。
更に、このニギハヤヒの宮に伝わる言い伝えを、とても価値ある、尊いものだとも言っています。

その価値ある、尊いものとは、もう一つの記述にあります。

 当国は、大山祗の神地えい州にして、伊弉諾、伊那冊 二尊、日の神と月の神との給う古事あり。

ここは、ニギハヤヒを祀る神社なのにもかかわらず、また、その前に、ちゃんと 「日の神ニギハヤヒ」 と書いているにも関わらず、 祀る神は 「イザナミとイザナギ」 の二尊だと書いてあるのです。

これが、ニギハヤヒと瀬織津姫の関係を、隠していき、名前を消し去った、なによりの証拠となると思います。

そして、一番重要な最後の部分。

「日の神と月の神との給う古事あり。」

今まで、300近い神社を巡ってきましたが、ニギハヤヒと瀬織津姫を 「日の神・月の神」と書いてある神社は一つもありませんでした。

大三島の伝説や、さまざまな歴史をつなぎ、 瀬織津姫を 「月の女神」 と 言ってきましたが、
やっと、その本質部分が書かれてある神社に巡りあったのです。

もちろん、ここには、瀬織津姫の名前はありません。

でも、イザナミは 「月の女神」 ではありません。
また、ニギハヤヒとイザナミを、 一つとして考えることはまずありません。

大山祗の神地えい州にして、伊弉諾、伊那冊 二尊、日の神と月の神との給う古事あり。 と書かれてあるように、下に三島神社が建てたられたにも関わらず、名前は変えられながらも、しっかりと、瀬織津姫の姿を残し続けてきたのです。

この地に住む人々が、なんとしてでも、瀬織津姫を守ろうとしたことが、伝わってくるようでした。

道路から、山へと続く階段をのぼり、まるで、その姿を隠すかのようにつくられたお宮でした。
でも、そこに、今も瀬織津姫は守られているのだと思います。

三島神社から、狭い1本道を山奥へとはいると、道路沿いに、とても古い神を祀る石がありました。
昔は、こんなふうに祀っていたのかもしれません。

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そして、太森神社の入口が見えてきました。

*太森神社
*喜多郡 内子町 上川 1344番地
*祭神
安閑天皇(あんかんてんのう)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
鐃速日命(にぎはやひのみこと)
*主な祭礼
4月 4日(春祭り) 
 7月15日(夏祭り)
10月15日(例祭) 
11月23日(新嘗祭)
12月31日(除夜祭り)
 1月 1日(元旦祭り)

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入口の所に書かれてあった文字が、目に飛び込んできました。

 「皇紀2600年」

今まで、どうしてこのことに気づかなかったのか?
皇紀2600年とは、神武天皇が初代天皇になってから、2600年の記念にたてられたもの。

ということは。。。。。

大山祇神社の、小千命が、植えたと伝わる 2600年の楠木は、初代天皇が、王となった時に植えられた木ということになります。

あの2600年の楠木が、本当に、2600年前に植えられたものかどうかはわかりませんが、
あの木には、その意味が込められていたのです。
そして、もしかしたら、あの木は、その王によって植えられたものかもしれません。

大三島が、2600年に神の島となった時に。

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霧が漂う杜の中、拝殿へ向かって階段が続いています。
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少し上がると、鳥居が見えてきました。
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鳥居をくぐり、また階段を上ります。
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やっと見えてきました。
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雨も降り、薄暗くなってたせいもありますが、まるで、その姿をはっきりと見せたくないかのように、
いつものように鮮明にその姿をうつさせて頂けません。

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不思議なことに、時々、同じような明るさでも、同じような雨の中でも、
映らない時があります。 まだ、その姿をはっきりとは見せてくれないかのように。。。

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どの写真も、何枚とってもうまくとれませんでした。
また、いつかもう一度来て、今度は綺麗な写真を撮って帰りたいと思います。

「日の神と月の神」 を祀る神社。

今も見つかることを恐れているのでしょうか。
それとも、まだ、真実を私が知っていないからでしょうか。

ここに来て、瀬織津姫と月の女神の姿が、より明確になったような気がします。
そして、

  「聖なる水の女神」 だったことが。。。。。








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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-28 23:18 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

先ほど、大阪市長選と知事選の選挙結果がでました。
知事、市長、どちらとも、大阪維新の会が、勝ちました。

まだ、これからどうなっていくのかわかりませんが、少なくとも、自民、民主、そして共産党までが、そろって支持をしていくるような人だけは、ならないでほしいと、思っていました。

権力や、力で、勝ち取ろうとする、そのやり方だけは、どうしても許せません。

そんなことをしなくても、本当に、正しいと思えば、しっかりとその思いを伝え、市民、府民にわかってもらう。
それが、本当だと思います。

新しい人がトップになったとしても、すぐに何もかもがかわるわけではありませんが、
他の地域の人たちたちの見本になれるように、これから頑張ってほしいなと思います。

では、今日のお話は、前回の続き、七夕についてです。

前回は、七夕、そして織姫、彦星は、どこからどうやってはじまったのか、そして、それが、瀬織津姫の習合されるようになったのは、いつからかということをお話しました。

もし、まだ、ご覧になっていない方は、ぜひ、そちらをご覧になってからこちらをお読みください。

では、今日は、瀬織津姫が織姫となった訳をお話したいと思います。
もちろん、これは、私の勝手な解釈です。 これが、本当かどうかはわかりませんが、今の私は、これが瀬織津姫に変えられた理由だと思います。

瀬織津姫は、これまで、水の神、龍神など、さまざまな姿でご紹介してきました。
そして、今私が思っている原点の姿は 「月の女神、再生、復活の女神」。

その月の女神が、どうして、織姫という、星の女神になったのでしょう。

前回、お話した、古事記の中で詠まれた歌の中で、瀬織津姫のことを、既に 淤登多那婆多の女と詠む前に、日本でも、棚機津女というお話があったとされますが、これはほぼ古事記と同時期のものである可能性が高いと思います。

というのも、これからの内容は、全て瀬織津姫が消されて初めてからの姿です。

それが、7月7日が七夕となったのが、奈良時代からですから、おそらく、瀬織津姫が、世の中から消され始め、大祓の祝詞がつくられた、飛鳥時代から、姫を、棚織津女として、お祓いすると信仰ができたのだと思います。

そして、瀬織津姫の魂を鎮めるために、姫への償いのために、7月7日という日に変えたのだと思います。
日本では、7月15日 (旧暦)に行われるお盆に合わせたお盆行事の一環として行う意味合いが強かったのも、消されてしまった姫への供養の思いがこめられていたのかもしれません。

そして、7月7日としたのにも、訳があります。

日本がそれまでもちいていた、太陰太陽暦では、毎年7月7日は、上弦の月の日でした。
上弦の月とは 「半月」のことです。

上弦の運行は太陽に6時間遅れていて、12時にのぼり夜中、24時に沈みます。


この半月を、当時の人々は、船に見立てることもありました。
天の川を、船で渡れる日は、「7月7日」 しかなかったのです。

夜中 24時 には、月は沈み、月明かりが消え、天の川は空いっぱいに広がります。
そして、。午前1時頃には天頂付近に 「天の川」、「牽牛星」、「織女星」の三つが並ぶのです。

だから、神事は、(7月7日午前1時ころ)に行われていました。

そして、この時間のことを (夜明けの晩)というのです。

離ればなれになってしまった、 「月の神 瀬織津姫」 と「太陽の神 ニギハヤヒ」 が、一年に一度出会える日、それが、七夕。  だから、 この星にたとえられたのではないでしょうか。

「7月7日」 この日、この時間でなければ、 天の川、上弦の月(船)、織姫、彦星は 会えなかったのです。
だから、この日この時間に、神事をおこなっていた。

瀬織津姫が、七夕=織姫=ベガ になったのだと思います。

そして、この時間のことを、 「夜明けの晩」 と呼んでいた。
あの、かごめかごめの歌にでてくる 「夜明けの晩」 に。。。。。

更に、偶然なのか、ここまでわかっていたのか、この織姫の星 「ベガ」 には、 もう一つ、まるで瀬織津姫の身の上を映し出すかのような姿があります。

織姫の星は 「こと座 ベガ」 彦星の星は 「わし座のアルタイル」 です。


織姫である こと座 ベガは、今から約1万3000年前には、北極星でした。

「北極星」とは、 星そのものの名前ではなく、天の北極に最も近い輝星を意味します。
北極星は、ある周期で、さまざまな星が 北極星となっているのです。

北極星は地球の自転軸を北極側に延長した線上(天の北極)近くに位置しているため、地球上から見るとほとんど動かず、北の空の星は北極星の周りを回転しているように見えます。

だから、北極星は、全ての星の中心。 北極星を中心にして、その他の星はまわっていると考えられ、天の中心と思われていたのです。

それが起源となり、前回八の意味で出てきました、 宇宙の根源の意味である 「太一」と、同じような意味をもっていました。
「宇宙の根源」 = 「太一」 = 「天皇」 = 「北極星」 

天皇は、太陽の神 「アマテラス」 であり、 「北極星」 でもあります。


そして、ベガは、古代、北極星であった星ですが、今は、北極星ではなくなりました。
「天の中心」 「宇宙の根源」 ではなくなってしまったのです。

北極星という名前は、星が変わっても、中心であることに変わりません。

だから、北極星は、永久に変わることのない 天の中心の「星」 それが、 「天皇」なのです。 


まるで、この古代の中心であった星が、「ベガ」 だったこと知っていたかと思うような偶然です。

更に、少し気になることが。

占星術が成立したと伝わる 「メソポタミア文明」 では、
「りゅう座」 が第一星とされていました。 そして、この時の北極星が 「りゅう座 =りゅう」 だったということです。

龍神=水神としての、姫の姿はもちろんですが、 月の水から水神となった瀬織津姫が龍神となったことよりももっと他にも 「りゅう」 としての姫の姿があるような気がしてならないのです。

それが、もしかしたら、 天の中心(りゅう)と関係があるかもしれないと思うのです。

りゅうにも数多くの姿があります。 時代時代で、その偉大な姿が 「りゅう」 の神格として加わり、その力が、瀬織津姫の姿へと重なっていったのではないかと思います。

話が少しそれましたが、
七夕の意味、そして、織姫が、 どうして瀬織津姫となるのか、これで繋がったでしょうか。

古代中国伝説から、太陰太陽暦7月7日の夜空の特別な日と重なり、上弦の月(船)でなくなったものと繋がれる日でもあり、織姫と彦星が出会える日でもあり、天の川という聖なる水が夜空に現れる日。

それが、瀬織津姫と、習合していったのだと思います。

数々の条件がそろわなければ見ることのできない 「天の川」。

2年前の9月、瀬織津姫と出会って間もないころ、明かりがともる橋の上に天の川を見ました。
私たちの頭の上にだけ雲が次々と消えていき、数時間見え続けた天の川を見た時、これはきっと姫のサインだと思いました。

習合した姿とはいえ、織姫は、瀬織津姫の姿をしっかりとあらわしているかもしれません。
そして、瀬織津姫の一部分なのかもしれません。

今日、大河ドラマの最終回を見ていてふと思いました。

時代時代で、生きていくために、何かを守るために、人間は本当はしてはいけないこと、ある人々にとっては残虐で、悲しいことをしてきました。

でも、それが、その時、そうすることでしかもし方法がなかったのなら、それも時が許したことだったのかもしれません。

私たちは、その悲しいことも、残虐なこともなければ、今の世の中はなく、また違う世界になっていたかもしれず、ここに、私の命は存在しなかったかもしれません。

だから、それはそれで、仕方のないことだったのかもしれないと。

しかし、隠されてしまった歴史があっては、本当の意味で繋がっていることにもなりません。
私たちの命は、1300年以上前から、続いているからです。

もうそろそろ、消し去った真実を表に出してもいい時期なのではないでしょうか。
本当のことを、知ってもいい時期ではないでしょうか。
その方が、より、今を有難いと思い、この1300年を一生懸命生きてきた人々への感謝にも繋がるのではないでしょうか。

隠すこと、嘘をつくこと、だまし続けることはやめ、
また、それを非難したり、そこで争いを起こしたりするのではなく、
両方を認めることができる世の中になってほしいと私は思います。

「月の女神」 も 「太陽の女神」 も。

古事記ができて 1300年。 
そして、偶然にも、織姫である 「ベガ」 が以前北極星であった時から13000年
さらに、そのベガが、次の北極星、天の中心となる時まで 13000年。

なんだか、今ということの時は、とても大切な時だと強く感じます。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-28 00:15 | 古代の謎 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

先ほど、間違ってまだ完成していないのに、投稿してしまってすみませんでした。

今日のお話は、タイトルにもあるように 「七夕(棚機)」

これまでも、瀬織津姫の変えられたさまざまな神の名前を、お話してきましたが、
まだまだ、瀬織津姫が起源となっている名前は、沢山あります。

瀬織津姫のことをご存知のかたは、姫のことを調べれば調べるほど、そのどれが、姫の本当の姿かわからなくなってくるのではないでしょうか。

私も、その一人でした。

水でもあり、龍でもあり、月でもあり、かぐや姫でもあり、星でもあり、航海の神でもあり・・・・・
もう、書いていたらきりがないほど、その姿は、謎にみちています。

でも、その謎も、だんだん解けてきたような気がします。

瀬織津姫さまとは、 原点は、もちろんたった一つ、 一つだけです。

ですが、その時代時代、特に、天武天皇が、日本の神を太陽の神と変えるために、古事記を造ったその時から、 瀬織津姫は、古事記の中だけでなく、他にも、それぞれの人にとっての 「自分にうつる姫の姿」 に変えられてしまったのです。

ですから、どれもが、瀬織津姫であり、 また、どれもが、真の瀬織津姫の姿ではありません。

その物語や、伝説、歌、 昔話、を造った人にとっての瀬織津姫の姿なのです。

しかし、その物語や伝説は、ただ、闇雲につくったわけではなく、それら全てに、ちゃんと理由があるのだということが、最近次々にわかってきました。

「火のないところに煙はたたず」 と昔からのことわざであるように、どんなことにも必ず、そうなる原因があり、根拠になる何かがあり、偶然にも、それがさも最初から姫のことを表していたかのような、伝説が、他の国にあったもりします。 また、 伝説はなくても、 その物語に隠された、まるで暗号のような根拠が、ちりばめられているのだと、今、強く思っています。

今日、お話する 「七夕」 のお話も、もちろん同じで、 今まで、ただ、 「織姫」 が 「瀬織津姫」 と呼ばれただけでも、 ただ、 彦星であるニギハヤヒと会えなくなって、別々の星として、夜空に輝いているからでもありません。

もっと、深い意味が、この中には隠れています。

もしかしたら、まだ、この七夕のお話の裏に隠された意味を、全てわかったわけではないかもしれませんが、
今、私の中で繋がったことを、お話したいと思います。

「七夕」 昔からずっと伝えれてきた、伝説、そして、今では小さい子供から、お年寄りまで、誰でも知っている「織姫様と彦星様が年に一度天の川をわたって出会う日、短冊に願いを込め祈りを捧げる日」
それが、七夕 7月7日。

そして、この織姫さまが 「瀬織津姫」 彦星さまが 「ニギハヤヒ」だということは、 ご存知のかたも多いかと思います。 

夫婦神であった、瀬織津姫とニギハヤヒは、別々に離されたことと、この七夕のお話は、ぴったりと当てはまってしまいます。

でも、このお話もまた、起源はありますが、つくられた物語。
本来あった物語が、姫とニギハヤヒのことを物語っているかのようなお話に、さらに、後から、 瀬織津姫とニギハヤヒの背景に合わせて作られた物語だと思います。

では、どうして、瀬織津姫は、織姫さまにたとえられるようになったのでしょうか。

七夕の起源は中国から渡ってきたと言います。
七夕とは 7月7日を意味しますが、

◆中国の 7月7日は、、太陰太陽暦の7月7日で節句の日でもありました。 

◆そして、日本もまた、本来は 旧暦の 7月7日に行っていました。

現在も旧暦で行っている所もありますが、一般的な七夕は、現在は、太陽暦(新暦)で行います。
しかし、本来の七夕は、 この旧暦の日にすることに意味がありました。
太陽暦では、何の意味もありません。

7月7日を特別な日とされたのは、いつのころからは現在まだわかっていないそうですが、
この日の行事として書かれたもっとも古い文献は

後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』という文献でした。
しかし、この時は、まだ現在の七夕の意味ではなく、「書物を虫干しにしたこと」が、記されているだけでした。

七夕の風俗を記したものとして考える最初の記録は、*東晋時代(317年 - 420年)と考えられる
『西京雑記』に書かれていた、「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」 という記録だといいます。

七夕(7月7日)の伝説とは別に、織女と牽牛の伝説は、古代 「漢」(の時代の『文選』に編纂された
「古詩十九首」が文献として初出とされているそうです。

「古詩十九首」
迢迢牽牛星  皎皎河漢女
繊繊擢素手  札札弄機杼
終日不成章  泣涕零如雨
河漢清且浅  相去復幾許
盈盈一水間  脈脈不得語

迢迢(ちょうちょう)たる牽牛星、皎皎たる河漢の女
(はるか高くにある牽牛星さま、こうこうと白く光り輝く、天の川の姫)

繊繊として素手を擢(ぬ)き、札札として機杼を弄る
(天の川の姫は、細くてしなやかな手で白い糸をえらび、トントンと機織りの器械をあやつります)

終日 章を成さず、泣涕 零(お)つること雨の如し
(しかし、一日じゅう機を織っても布はちっとも模様にならず、涙は雨のようにこぼれ落ちます。)

河漢は清く且(か)つ浅くして、相(あい)去ること復(ま)た幾許(いくばく)か
(天の川は澄んでいて浅いのに、おたがいにまた別れてからどれほどの時間がたったのでしょう。)

盈盈として一水が間(へだ)てれば、脈脈として語るを得ず
(この河の水が満ち溢れてわたしたちを隔てているので、お話しもできずに互いにただ見つめあうだけです)

これが、織姫と彦星の伝説の元となったものだと言われています。

このことからもわかるように、「七夕」 と 「織姫彦星」 は、別々のものだったのです。

その後、中国南北朝時代(439年~589年)の『荊楚歳時記』に
7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれているそうです。

この時から、七夕と織姫彦星は、結び付けられたのではないと言われています。

そして、六朝(六朝時代)・梁代(梁王朝)の殷芸(いんうん)という人が著した『小説』に、

「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」

と、ここで、現在のお話に一番近い物語が書かれたとされますが、 先ほど言いましたように、
これは、 「小説」 物語として書かれたものです。

歴史を重ねながら、さまざまに変化していった、七夕の物語。

そして、日本で初めて、七夕に繋がることばが書かれたのは、やはり、古事記です。

古事記の中に、 
アメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)。
が、七夕の始まりです。

中国でさまざまに変化してきた七夕の姿を、見事にここで、習合させたのだと思います。

古事記の中で、最初に習合された時の意味の中には、「織姫」 のことではなく、ニギハヤヒのことにたとえられています。

アメノワカヒコとは、

アマテラスとスサノオが誓約をしたときに誕生した 五柱の神の一柱の
*「アメノホヒ」 が、葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)(国譲りのこと)のために、
出雲の大国主神の元に遣わされたのですが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らないため、次に使わされた神の名前のことです。

しかし、アメノワカヒコは大国主の娘下照姫命と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻りませんでした。
そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女(なきめ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせました。

すると、その声を聴いた天探女(あめのさぐめ)が、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコにいいます。

アメノワカヒコは、遣された時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いてしまいました。

その矢は高天原まで飛んで行きました。
その為、タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして、その矢を下界に落としました。
すると、その矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、死んでしまったのです。

まず、このお話から説明すると、最初に使わされた、*「アメノホヒ」は、アマテラスとスサノオの誓約の時にアマテラスの勾玉をスサノオがかみ砕いて誕生した神ですが、天武天皇は、この誓約の時に誕生させたにも関わらずまだ、それでは信用できなかったのでしょうか、さらに大きな力を使い、国譲りを完全なものにしようとしたのか、もしくは、現実に裏切ったものがいたのでしょうか。

誓約での誕生の神が、大国主(ニギハヤヒ)+瀬織津姫のところに戻ってしまい、その代わりに使わせたアメノワカヒコを殺してしまいます。
どうして、最初に使わせた 「アメノホヒ」 を 殺さず、 「アメノワカヒコ」 だけを殺したかというと、 
「アメノホヒ」 には、アマテラスの魂も入っていたからなのです。


だから、あえて、「アメノホヒ」 は殺さず、 次に使わせた 「アメノワカヒコ」 だけを 殺します。

また、アメノワカヒコに、不吉な鳥だから射殺すようにと助言をした、天探女は、もちろん瀬織津姫の魂。
また、実は、アメノワカヒコもまた、本当は、瀬織津姫とニギハヤヒの魂をもつ神だったのです。


アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て殯をした。

シタテルヒメの兄の味耜高彦根命も弔いに訪れたが、彼がアメノワカヒコに大変よく似ていたため、アメノワカヒコの父と妻が「アメノワカヒコは生きていた」と言って抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。

アメノワカヒコは 「アメノホヒ」の代わりに、姫の魂をもつものとして殺された。
そして、次にやってきた、「味耜高彦根命」 は、誓約の時誕生した、八柱の一柱。 
宗像三女神の中の、タキリビメの間の子。


誓約で誕生した女神の生んだ子は、裏切りものでない、もう姫の魂はないという証。
でも、元をたどれば、 姫の魂をもつ神であり、同じ姫の魂をもつ 「アメノワカヒコ」 と似ているのは当然のこと。
でも、自分は、違うということを、証明するために、見間違えるなといったのだと思います。


そして、この時、 七夕の織姫が (瀬織津姫) と習合された歌が詠まれます。

「阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦比古泥能 迦尾曾」


「天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 足玉はや み谷 二渡らす 阿冶志貴高日子根の 神そ」

ここで、初めて織姫の名前が出てきます。
残念ながら、今の私の知識では、この歌の解釈があっているとは言えませんが、もしかしたらこんな意味かもしれません。

「天上にいる機織女(瀬織津姫)の、首に掛けておられる連珠の美しい勾玉。
彦星(ニギハヤヒ)の首にかけておられる美しい勾玉。
そのように麗しく谷二つにわたって輝いておられる光こそ、味耜高彦根神よ」

と泣きながらおっしゃったのではないでしょうか。

本当の魂は、おりひめ(瀬織津姫) と ひこぼし(ニギハヤヒ)と同じだと、妹であり、自らもまたこの二柱の神の魂をもつ女神であり、殺された  「アメノワカヒコ」 も そうなんだと。。。。。。

これが、瀬織津姫が日本で初めて、おりひめさまとしてあらわされた姿です。

そして、「おりひめ」 としてあらわされた瀬織津姫には、もっと深い意味がこめられています。

中国の伝説と、姫の境遇を重ねあわせた、七夕の物語。
そして、その七夕の日を、7月7日にしたことにも、意味があった。

少し長くなりましたので、この続きは、 次回にさせて頂きます。

今日も、ありがとうございました。




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by ldc_nikki | 2011-11-26 04:36 | 古代の謎 | Trackback | Comments(3)

こんばんは。

今日は、また一段と寒い一日でした。
先日まで、とても暖かかったので、寒さが余計に厳しく感じます。

そして、今日、また、少し大きめの地震がありました。
茨城県から始まり、 広島県、 福島県、そして、北海道と、次々 マグニチュード5~6クラスの地震が
比較的浅い所で起こっています。

今までと、また、地震の流れが変わってきたような感じもうけます。
身近な変化に、敏感に感じ取れる感覚を持ちたいと思います。

地震を予知することは、とても難しいことです。
もう何年も、地道にデーターをとり、研究している方々もいますが、それでも、はっきりとした予測はできません。

後は、 本来もった、 動物的感覚、 そして、何かが起こった時に、これまでの常識にはまらず、
瞬時に決断できる心をもつことが必要だと、 強く感じます。

空、海、太陽、月、動物、 私たちの身の回りの当たり前の風景から、 何らかの異変を感じれるような素直な心をもてるようになりたいです。

では、今日もまずは、 神社のご紹介からです。

今日、ご紹介する神社は、 今治市の近見山という、山の麓に鎮座する 「大山積神社」 です。

この大山積神社は、 神亀5年、聖武天皇の勅によって大三島大山積大明神を勧請した神社の一社です。

このブログの中でも、何度も出てくる 神亀5年。

ここも、また、その年に勧請された神社です。
また、右別宮と称され、陸地部の別宮のうち最も社格が高いと言われます。

また、ここは、河野氏と長宗我部氏の戦いの舞台となった場所の一つでもあり、
この戦いで、愛媛の多くの神社やお寺に残る古い書物は、焼かれてしまったともいいます。

また、この神社が鎮座する 「近見山」の頂上には、今も、小さな社が置かれいますが、
ここからは、瀬戸内海を一望することができます。 
そして、 大三島の御神体、鷲ヶ頭山を望むことができ、大三島まで渡ることが困難な人々は、
ここから、 参拝していたのではないかとも、言われています。

この近見山は、昔、四国八十八ヶ所 第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺が置かれていた所でもありました。

山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたと伝わる、
巨大なお寺が、この山の上にはあったのです。

聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創したことが、起源と言われているように、
ここ、近見山も、封印された山の一つです。
現在は、そんな面影など、どこにもありませんし、山の中へも人が入ることはない、
入らずの杜のようになっています。

私たちの身近な存在でもある山でもあり、また今だに謎の多い、遠い存在の山ともいえるかもしれません。

*大山積神社
*今治市石井町5丁目421番地
*境内社
杵築神社
*祭神
大山積命(おほやまつみのみこと)
*由緒
神亀5年聖武天皇の勅によって大三島大山積大明神を勧請する。右別宮と称され陸地部の別宮のうち最も社格が高い。

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神社は、ここから少し階段を上った所にありますが、まず、入口にあった 境内社から参拝させて頂きました。

「杵築神社」
祭神は書かれてありませんでしたが、 たぶん 「大国主命」 だと思います。
あの、大浜八幡神社にも、姫の横に、同じ 杵築神社 があります。
ここに、その名前を見ることができて、なんだかうれしくなりました。
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そして、隣には、稲荷神社が。。。。
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これまで、稲荷神社は、ブログにのせたことがありませんでした。
それが、どうしてなのかわかりませんが、 ずっと、載せてはいけないと思っていたのです。
でも、私の中では、この稲荷神社も、また、 「瀬織津姫」 
狐が蛇に化けたのではなく、蛇が狐に化けた姿。 稲荷神社は狐が人々を表面的には騙したように見せかけ、実は、「狐=化ける動物」 なんだよと、訴えている姿なのでした、

それを、考えたのも、また、空海です。

またお話が脱線してしまいました。 では、 大山積神社の拝殿へと参りましょう。

鳥居の中央から、草が生えています。不思議ですね。
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杜の中を歩いて行きます。
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狛犬です。
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そして、拝殿
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神紋はもちろん三島です。
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そして本殿
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神社へ参拝してから、近見山の頂上へと向かいました。
車を降りて、山の中を歩きます。
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思ってい以上に、長い階段。
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やっと、案内板が見えてきました。
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少し歩くと、やっと、頂上へ到着!
小さな社が見えました。 ここから、大三島へ向かって参拝をしていたのでしょうか。
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社の向こうに、大三島があります。
そして、瀬織津姫が鎮座したいたという記述がのこる唯一の島、津島も目の前に。。。。
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この日はあいにくの雨。 大三島の御神体の姿を見ることはできませんでした。
微かに、うっすらとその山の輪郭が見えますが、この海の景色を見たことがない方には、想像すらできないと思いますので、 大三島の姿は見えないかもしれません。

海から一番近い山。 近見山。
そして、この近見山と海の間に、大浜八幡神社もあります。

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そして、今治の町も。。。
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霧で、霞んだ町、山、海、島。。。
今、古代の歴史も霧でかすみ、見えなくなっているかもしれません。
でも、この霧がいつか晴れるように、 少しづつ、その秘密を解明していきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では、最後に、今日の本題ともいえる、 「八咫烏」 についてのお話です。

「八咫烏」 この 言葉は、日本人なら、だれしもが一度や二度は聞いたことがある名前だと思います。

八咫烏とは、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる三本足のカラスのことです。

この三本足の烏は、三足烏(さんそくう、さんぞくう)が起源となっていると思われ、
古事記以外の神話や絵画などに見られる三本の足を持ったカラスのことです。

八咫烏とは、この三足烏に、日本独自の、呪術を使い、より強力な威力をもった、烏に変えられ、神武天皇の元に遣わされたのだと思われます。

烏を太陽の象徴とする神話は、マヤ文明でも見られ、黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もあるそうです。 
この神話の神格もそうですが、 烏とは、太陽の神の使いとされていたのです。
そして、三本の足は、、陰陽では偶数を陰、奇数を陽とする考えかたから、3は奇数であり太陽と同じ陽となるからだと考えられ、三本の足となったのだと言います。

中国神話では、烏は太陽の象徴とされています。

「太陽=烏」 
これは、「天皇=アマテラス=太陽」
太陽の神を意味する、天皇のことを意味することに繋がります。

でも、八咫烏には、この意味だけではありません。

「太陽⇔月」 太陽を陽とすれば、月が陰。
「太陽=烏」 で表される反対の姿は、 「月=兎」
兎は、中国では不老不死の薬の材料を手杵で打って粉にしているとされていました。

烏は、月兎と対比されていたのです。

日烏(火の鳥)の対極は、月兎。

ということは、天武天皇は、 月兎(月)から、烏(太陽)と変えるために、太陽神の使いの烏を、神武天皇の元へとつかわし、真の王へと導いたのです。

そして、そのためには、ただの 三足烏では、だめだったのです。
より強力な意味をもつ、最大の神の力を発揮できる烏ではなければいけなかった。
だから、 三足烏を、八咫烏へと変えたのです。

八咫烏の 「八」 は文字どおり、 最大の神の数 「八」 そして、

「咫」とは、 中国で円周を表す、単位と言われ、
「咫=約一八センチ=8寸」 の意味をもっていました。

ということは、 八咫烏とは、 「八八鳥」 昨日お話した、 陰と陽の 「八」 をもった、最大の数、最大の力をもった、三足烏だということになります。

古事記をつくって、証明したかったことの一つに、
「天皇は太陽神」 だと いうことがあります。

それまでの 「月」 の時代から、 「太陽」 の時代へ変えることも目的だったのです。
古事記ができるまでは、暦も、「月」 を元につくられていました。
それまでは、日初を、月の始まりとする 「太陰暦または太陰太陽暦」 だったものが、太陽暦と変わっていこうとしていたのです。

月を中心に考えていた時代から、 太陽中心への時代へ。

それはまた、 「月である 瀬織津姫」 から 「太陽である アマテラス」 への 変革だった。
日本の神の象徴は、太陽でなければいけなかったのです。

だから、月の女神である 瀬織津姫は封印され、 太陽の神である アマテラスを誕生させる必要があったのです。 

それも、最大の 「8」の呪術をもって、その力を永遠のものにするために。

それまでも、太陽信仰がなくはありません。 縄文時代から、 太陽と月は、どちらも神として、深く信仰されてきました。 
でも、神と通じることができるのは、月。 月の女神の力が、太陽の男神の力よりも、強かったのです。
古代、神事は全て夜、行われていました。 闇の中でも、明るく光り輝く月、そして、その女神の力は、太陽の神へも通じていた。
命の誕生が、月の満ち欠けと関係しているように、命の誕生は、月の力によって生まれ、また、死んでいき、
そして、新たな命となってまた生まれてきたのだと、考えたのではないでしょうか。

月は、再生の象徴、復活の象徴。

人は誰でもいつかは、その命が終わる時がくる。 でも、月の力をえることができれば、終わった命は、また復活しこの世に生まれてくることができると、思っていたのだと思います。

もちろん、太陽もなければ私たち生命は生きていくことができません。 
食物も育たず、 食べることができません。  陰と陽 陽と陰。 
どちらも陰であり、どちらも陽であり、両方がなければ、その命は存在しないということも、知っていたからこそ、 縄文時代、人々は、土器や、さまざまな所に、太陽と月を描いたのだと思います。
 
月=命の源、全ての生命を誕生させることができる神もまた、 「女」 「女神」でなければいけません。

たとえそれが、太陽の神だとしても、全ての根源となる最高の神は、 
「女」 「女神」 でなければいけなかった。

それまでは、 「月=女神」 「太陽=男神」 であったものが、 「太陽=女神」 となってしまったから、
瀬織津姫は、封印しなければならなくなったのです。 対極するものは、全て、 「陰と陽 陽と陰」
「女神=男神」 でなければいけなかったからです。

「月」 そのものは、 「月読み」という名前で 誕生させましたが、月に力を与えるわけにはいかなかったため、 「闇を守る神」 と させられた。
月もまた、 「闇を照らす光(太陽)」から、ただの闇へと変えられてしまったのだと。

そして、私が月の力の中で、一番重要だと思うことは、もう一つあります。

月の輝きは、太陽の光によって照らされています。
夜、光輝くのは、 月と太陽が、一つになっているからこその姿。 月は昼間は光輝くことはなく、月と太陽が一つになる時は、夜しかなかったのです。

だから、「陰(女)と陽(男)」 が、一つになり、生命が誕生するのは、夜。
そして、その生命を生むのは、 「女=月」 だったのです。

月である女神に、命を育むための太陽の光があてられ、太陽と月は一つになった。

そして、生命を誕生させるために必要な、 「羊水=聖なる水」 は月の中に存在し、月は、その聖なる水の中で命を育てる。 
一度は、終わってしまった命も、太陽と月が交わることによって、また誕生することができる。

それが、月の本当の力、月の本当の意味だったのではないでしょうか。

命の誕生、命の根源は、「月」 そして、 それは 「女性」 
その最高で最大の女神こそ、瀬織津姫だったのではないでしょうか。

古事記によって、日本は、「月」 「女神」 そして、「女帝」 「人間の女性」 も封印してしまったのだと。 

今、なんだか、私の中でほんの少しですが、新しい未来が見えてきた気がします。
そして、ほんとうにこれを書いている今、 初めて、姫の姿が私の頭の中に、その姿をほんの少し見せてくれたような気がしています。

今まで、遠い遠い存在で、その姿が、私には全く見えなかったのですが、やっと、ほんの少し、私の中にあらわれてきてくれたような気がします。

姫さま、本当に、ありがとうございます。

(追伸) 最後に、これで、「兎」の存在の意味も、わかったでしょうか。
因幡の白兎の意味が。。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-25 00:58 | 愛媛県今治市 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

昨日お話した、
「56番札所 泰山寺」に、新たなことが今わかりました。

第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺の 「金輪山」 とは、
陰陽道では8番目の星を金輪星のことだったのです。

この金輪山は、「8」でもって、封印されたお寺。
そして、この裏山も。 ということは、この山には封印しなければいけない何かがあったということになります。


では、まず今日は、神社のご紹介から。

今日の神社は、今治市に鎮座する 「伊加奈志神社」 です。

この神社が鎮座する場所は、昨日お話した、四国八十八か所の近くを流れる蒼社川(総社川)を挟んで反対側にあります。
この辺は、越智家また、賀茂氏と繋がりの深い場所です。
伊加奈志神社は、伊予国総社の論社でもあります。

小高い山の上に造られた、一角の平地に建てられ、その姿は外からみることはできませんが、神域そのものです。

近くには、四国八十八ヶ所の栄福寺と仙遊寺があります。

姫に繋がる場所の近くには、必ずと言ってもいいほど、八十八ヶ所がおかれてあります。

話が少しそれますが、 「八十八」 ここにも 「八」 の数字がつかわれています。
ここにも、キーワードとなる 「八」 が使われていることも含め
やはり、姫を封印したといえるかもしれません。

「八」 には、昨日もお話したように、神に通じる力、その威力が一番強い数であり、「八」の源の「一」は、全ての根源であります。
でも、この 「八」 には、その全く逆の意味 「封印」をするための呪文でもあると思うのです。
それが 「八」 そのものの意味なのか、 「8」「8」と二つ並べることによるのか、どのような使い方で封印の意味になるのかは、まだわかっていません。

でも、空海が瀬織津姫を封印したのであれば この 「八十八」「88」に、なんらかの意味があると思えます。
その意味は、いつかわかる時まで待ちたいと思います。

神社のお話に戻りますが、
この 伊加奈志神社の祭神は、

「五柱命(天地創造神)」
「五十日足彦命(いかたらしひこのみこと、垂仁天皇の皇子)」
「伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)」 です。

そして、この神社の名前は 「伊迦賀色許男命」に由来するといいます。
伊迦賀色許男命は、ニギハヤヒの五世の子孫で物部氏の遠祖です。

国造として派遣された物部氏の系統の一族が祖神である、伊迦賀色許男命を祀ったのが起源という説があるそうなのですが、同じ物部氏の子孫、越智家が祀る神社の中で、伊迦賀色許男命を祀る神社は、他にまだみたことがありません。

どうして、ここだけ伊迦賀色許男命を祀ったのか、それがとても疑問です。

五柱命は、天地創造神の神のことで、

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ)
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
天之常立神(あめのとこたちのかみ)

これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼びます。

また、ここで 「八」の お話になりますが、

古事記の中では、重要な神の誕生は、そのほとんどが 「八柱」 として誕生されるようにできています。
それなのに、この天地創造の神、 古事記の中でも特に重要とされるこの神々は 「八」 ではありません。

でも、これにはもっと深い意味があり、この後に誕生する、神世七代を含めて考えると、「八」の数字が見えてくるのです。

《神世七代》

国之常立神(くにのとこたちのかみ)
豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)

「別天津神」では性別がはっきりとしていないと言われますが、ここで、男女の神が現れます。

しかし、別天津神も、男女(陰と陽)にわけて考えることができ、それを並べてみるとこうなります。

             (陽神)
           高御産巣日神   
            天之常立神          
        宇摩志阿斯訶備比古遅神     
            宇比邇神
             角杙神
           意富斗能地神
            淤母陀琉神
            伊邪那岐神

              (陰神)
            神産巣日神
            国之常立神
             豊雲野神
            須比智邇神
              活杙神
            大斗乃弁神
           阿夜訶志古泥神
            伊邪那美神

もう、お気づきでしょうか。
一番最初の、天之御中主神を除けば、国生みをするイザナギとイザナミまでの神々をひとくくりに考えると
陽と陰が、見事に 八柱づつとなります。

そして、天之御中主神はいうと、この神が全ての根源。
全ての神々の根源だから、この神を、陽と陰 に 「八」 づつ 作り上げたのが、
天地開闢の時に生まれた神々だったのです。

そして、もう一つの姿は、天之御中主神=瀬織津姫
瀬織津姫を封印するために、姫の力を使いながら、新しい神を生まれさせたしくみ(呪術)の始まりだったのです。
「1」=「陽8」+「陰8」
陽の8という最大の力と 陰の8という最大の力、これ以上ない 「8」 の力でもって、姫の封印は始まり、
新しい神への 「最大の力」 このどちらも、得ようとしたのではないのでしょうか。

瀬織津姫の力だけを取り込み、その姿は消し去り、本来の 「八」 以上の力をもった
「八」 の 王 「八」 の神の誕生の物語が、 古事記だったのだと思いました。

古事記については、さらに、細かく、これからも解読していきたいと思いますが、
古事記を造った意味は、 単なる歴史の編成、証明だけでなく、「絶大なる力」をえるための 「呪術」が組み込まれていたのだと思います。

それでは、 伊加奈志神社です。

*伊加奈志神社
*今治市五十嵐山ノ上甲634番地
*祭神
五柱命(天地創造神)
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと、垂仁天皇の皇子)
伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)
*境内社
山之神
大己貴神社
厳島神社
*由緒
延喜式神明帳所載によれば、伊予国二十四座越智郡七社の内の一社である。
浄寂寺文書中、貞治5年12月8日附古文書に記載がある。
安政5年正月19日、炎上のため古記録宝物等ことごとく焼失した。今治藩主の祈願所であった。

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この階段を上っていきます。
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参道に綺麗な花が咲いていました。
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この青く光っている所が、拝殿です。
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杜の中に拝殿が見えてきました。
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本殿
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御神木
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山の木々に囲まれた物部氏の神社。
ここに来させていただいたのことに、心から感謝しています。
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最後に、タイトルにもしています 「八重言代主神」の神についてです。

八重言代主神とは、事代主とも、八重事代主神とも言われますが、
このブログでも、お話しました、伊豆の三島神社に祀られる神です。

大国主の子とされています、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったと言われていますが、伊豆ではなぜか、 瀬織津姫が大山積神となり、大山積神が事代主になりました。

伊豆の三宅島で三島明神になったとする伝承があり、
富士山の神とともに10の島を生み、現在の三嶋大社(静岡県三島市)に鎮座されたと伝わります。

しかし、この神様もまた、瀬織津姫の代わりに現れた神様です。

大山祇神社の十七社の一の宮、諸山積神社の諸山積神が三島にわたり、事代主に変わりました。
そして、この諸山積神もまた、瀬織津姫です。

事代主神の、正式名、古事記での名前は、
「八重言代主神」 
ここでも、また 「八」の数字がつかわれています。

そして、この言葉をそのまま訳すと、

「八つの名前(言葉)を重ねた (主)の代わりの神」という意味になります。

八つの名前とは、 アマテラスとスサノオが誓約のさいに誕生した 八柱の神のことだと思います。

そして、この神は、越智家ではなく、葛城氏の神です。
越智家では、大山積神と言いましたが、葛城氏では、八重言代主神とされたのではないかと思います。

八重事代主神とも書きますが、 「事」と「言」 は、同じ意味。
言葉(言霊) は、 現実(事)を生む。 この変えられた字は、言霊の意味をそのまま神にあてはめられたものだと思います。

「八」 の意味がわかり、事代主の意味がより鮮明になり、事代主もまた、瀬織津姫に繋がる神だという確信にもなりました。

「言」=「事」 

私たちは、言葉がどんなに大切なもので、 こうして話す言葉が、現実を生み、神に通じているということを、
もっと考えなければいけないと思います。


今日の動画は、昨日お話した、宇佐神宮です。
姫の魂を封印するために、作られた「八幡神」 ここにも八の意味が隠されています。
 


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by ldc_nikki | 2011-11-24 00:22 | 愛媛県今治市 | Trackback | Comments(2)

改めまして、こんばんは。

今日2回目の記事になります。
もしよかったら、まだの方は本日1回目の記事もご覧ください^^

明日は、これと言って予定がないので、今日はもう一つ書いてみたいと思います。

それにしても、寒いですね。
今ブログを書いている部屋には、暖房がなく、ストーブもないので寒がりの私には、ちょっときついですが、
ひざ掛けと、ストールと、温かいカフェオレで、なんとか頑張っています。

皆さんも、急に寒くなりましたので、風邪などひかないようにお気をつけください。

今日2つめのお話は、 「鬼門」 についてと、 久しぶりに 四国八十八か所のご紹介です。

「鬼門」 

家をたてたり、トイレの位置を決めたり、風水でよく使われる 鬼門ですが、
文字の通り、 「鬼が出入りする方角」 として、 さけられる方角ですね。

これもまた、陰陽道の考えかたと言われますが、 古代中国の書物『山海経』にある物語が元となっていると言われます。

しかし、不思議なことに、現在は、日本独特の考えだと言われています。
また、日本の中でも、沖縄には 「鬼門」 という 考えはないそうです。

鬼門とは 「北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位」 のことをさし、またこの反対側として
裏鬼門  「南西(坤、ひつじさる)の方角」 があります。

陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明されていますが、「鬼」 ということばに反応してしまうため、それが、どうしてそうなったのかが知りたくなりました。

そして、調べていると、 この考えは日本だけのものということがわかり、また沖縄ではないということがわかり余計に、この秘密が知りたくなりました。

ちょうど、そんなことを考えている時に、一つの文章に出会いました。

 「八の数は神道の尚(とうと)ぶ所なり。 但し、殊に八を尚ぶのは、艮(ごん)(東北)・八世の卦であるからだ。これ即ち鬼門にて諸神鬼の出入りする所なり。 故に八の数をもって殊に神道の尚ぶ所となす。」

これは、鎌倉時代の神道史家である 卜部懐県賢(うらべかねたか)が書いた文です。

ここにも、でてくる 「卦」の文字。 「八世の卦」 とは、 「八卦」 のことではないかと思ったのです。
そして、「八」 が神道尚ぶ所のは、【艮(ごん)(東北)】が八卦の中の一つであり、 この場所が即ち、鬼門となるということです。
それ故に、 神道は 八を尚ぶと。

【艮(ごん)(東北)】とは、八卦の 7番目にあたり、山・止・狗・手・少男・相続・関節・骨格・節度などを象徴し、
方位としては東北(地支では丑と寅の間)を示します。
そして、急激に暗闇から明るくなる時間帯(1時から5時まで)なので停止・再出発の意味もあるといいます。

東北は 「再出発のために、終わりを迎える場所」 と いう意味を 「鬼」 と合わせたということになります。

そして、ここでいう 「東北」 とは、 「東北地方」 のことを表しているのだと思います。

では、どこを基準に東北とするのかというと、 当時の都 「長岡京」 または 「平安京」。

鬼門という概念が、いつ生まれたかによって、その中心となる場所は若干違いますが、どちらにしても、ほぼ東北となる場所は、 東北地方のどこかになるのです。

東北というと、 最後まで瀬織津姫を守り続けた場所とも考えられ、また、最後まで朝廷に背いた「蝦夷」 がいた場所でもあります。
そして、 この蝦夷を征伐しに行ったのが、 「坂上 田村麻呂」です。

田村麻呂は、四人の副使(副将軍)の一人ではありましたが、中心的な役割を果たしたと言われます。

そして、この田村麻呂後に、「蝦夷」 を倒したことで、 「鬼」 を 退治した英雄として、さまざまな伝説が語り継がれるようになります。
「蝦夷」には、悪路王という伝説の人物がいて、この悪路王が、悪鬼羅刹にすり替えられ、高丸・赤頭とともに「三鬼」と呼ばれる鬼に転じられたというのです。

そして、田村麻呂といえば、毘沙門天の加護を得て、その鬼を倒したと言われるようになったのです。

毘沙門天とは、インド神話の財宝神クベーラを前身とする神で、もともとは、武神ではありませんでした。
それが、中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになったと言われます。

そして、日本では、「邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗る姿」 でつくられています。

この鬼形の上にのる姿は、 「蝦夷=鬼」を征伐したことが原点ではないかと私は思います。
そして、東北では、 この毘沙門天を祀るところが、多く、田村麻呂の伝説も多く伝わっています。

このことが発端となり、東北以外でも、鬼退治の伝説がさまざまな所で作られるようになったようです。

「東北=蝦夷=鬼」 = 「艮(ごん)(東北)」 = 「鬼門」 となっていったと考えられます。

表の鬼門は 「東北」 として表現されているのは、「瀬織津姫」の名前が最後まで残りつづけ、今もなお
「早池峰の女神」 として祀られる場所、 鬼の住む場所だからなのかもしれません。

他の地方に比べ、 「瀬織津姫」 の名前は消されることなく、残っている所が多いこと、
また、 その東北を鬼門とすることで、 「門」 を閉じ、 瀬織津姫を早池峰の山へと封印してしまったのかもしれません。

早池峰の神とすることで、瀬織津姫の名前は残るものの、早池峰の山の神としてその山から出ることのないように、鬼門の地、 停止の地に、封印されてしまったのではないかと思ったのです。

そして、 鬼門の反対側にある 裏鬼門とは、 「四国」 のことです。
これも、偶然にも、そのちょうど反対側にあたる 「四国」 が 裏にあたり、ここもまた、 「裏の鬼の出入り口」となるのです。

「裏」 とは、 瀬織津姫の名前が表に出ていないことを表します。
裏の鬼の場所。 そして、 瀬織津姫の裏が隠されている場所です。

そして、その場所を封印したのが、もしかすれば、 「四国八十八か所」 かもしれません。

本当は、空海は、姫の存在を守るために、後世にその後を残すために、四国八十八か所を造ったと思いたいのですが、 もしかしたら、 空海は、姫を存在を仏によって、封印してしまったのかもしれません。
でも、その封印こそが、 後の世への目印にもなるのだと、 空海の心の奥底で、思っていたと信じたいです。

更に、裏鬼門 「南西」 の位置に、もう一か所 封印する場所が必要だった所が、 大分県です。

大分県に関しては、もっと調べないといけない場所ですが、 全国一、大山積神を祀る神社が多いのも、
「大分県」。 そして、 姫を封印するために、つくられた神社と言ってもいい、 「宇佐八幡神社」

宇佐八幡神社は、朝廷からも、崇拝されて、稲荷神社の次に日本で多く祀られる神社となりました。

この宇佐八幡神社は 神仏習合の神とも言われ、 大分県国東半島は、神仏習合発祥の地ともされます。

仏と神を習合させることにより、 瀬織津姫を封印させてしまった発祥の地なのだと思えるのです。

表鬼門の東北と、裏鬼門の大分。 
二つの裏と表の鬼門を 封印し、鬼がもう一度この世界にでることのないように、呪文をかけられているのかもしれません。
そして、八十八か所も同じように。。。。。

更に、鬼門とは違うかもしれませんが、日本は龍体と考えなれていますが、
その龍体がはしる 「中央構造線」 の東の端、 茨城県には 地震をとめると言われる 「鹿島神宮の石」があります。
鹿島神宮も、瀬織津姫を封印するために祀られた神社の一つ、
そして、偶然にも、 宇佐神宮のある 「大分県」 も中央構造線沿いにあたるのです。

龍の通る道と言われ、 その道は地震を引き起こす場所でもあり、それは、「ナマズ=龍」 が暴れるからだと地震もまた、 瀬織津姫である 龍の存在が引き起こしていると考えられていました。

だからこそ、神宮皇后が、豊玉姫から受け取ったとされる 「満珠干珠」 は、津波を意のままにできると言われる珠。
津波とは 地震によって引き起こされるものであり、その力もまた、神宮皇后によって、封印された。
その神宮皇后を祀る神社もまた、 「八幡神社」 です。

こうしてみていくと、 全てが繋がってきます。

「鬼門」 とは、 瀬織津姫である 「鬼」 を封印するための 「門」 である反面、
鬼が復活してくるかもしれない 「門」 でもあるため、 恐れられていたのです。

鬼門という概念は、 おそらく 平安時代に造られたもので、 だから、 その影響を受けることがなかった沖縄には、鬼門という概念はなかったのです。

このことからもわかるように、今の日本は、この神の封印から始まった文化も多く引き継がれ世の中がつくられているということです。

「鬼」 は、 ある人間たちによっての邪魔者の姿。
鬼門もまた、同じ。 だから、本当は、鬼門なんてないのです。 そして、 鬼門の封印をとくこともまた、よい世の中をつくるために必要なことなのかもしれません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、今日のご紹介 四国八十八ヶ所 56番札所 泰山寺です。

泰山寺は、愛媛県今治市にあるお寺で、弘法大師の開基とされています。

弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころのことです。
今も流れる蒼社川は、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたたといいます。
村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていました。

この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。

大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけました。
これが、このお寺の起源とされます。

この泰山寺という名前は、一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれています。

もともとは、 現在のお寺の裏山 「金輪山」に建てられ、、七堂伽藍を備え10坊を持つ大きなお寺でしたが、
兵火により衰退し、現在の場所に移築されました。

この山号 「金輪山」 は、どうしてこの名前が付けられたのかは不明ですが、
この泰山寺の裏の山は、 古代 「鉄」 を作っていた場所であるとも言われ、ここから少し南へ行った山の中で、 「たたら製鉄」 が見つかりました。

また、スサノオの伝説が残る山もすぐ隣接してあり、 この辺一体が、 「鉄」 の 町だった可能性がとても高いことから、 このような名前がついたのではないかとも思います。

また、このお寺のご本尊は、 

「地蔵菩薩」 です。 大師自らが掘ったものです。

地蔵菩薩とは、大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられた名前。

そして、、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、
弥勒菩薩の代わりに、 六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされます。

また、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いていると言われ、地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入るとも言われます。
地蔵菩薩が与えた水のみ、黄泉の世界に住む鬼たちは、水を飲むことができると言われています。

空海は、鉄の町であり、出雲とも関係の深かったこの地を封印する代わりに、 地蔵菩薩をつくり、鬼たちの供養、鬼たちの魂を鎮めようとしたのでしょうか。

また、お寺の名前にも付けられている、「勅王院」 も、とても気になる名前です。
どうして、ここに 王の勅命による院とつけられたのでしょう。

それだけ、ここは、特別な場所だったのかもしれません。

そして、一つだけはっきりと言えることは、 
空海が八十八ヶ所と定めた場所は、瀬織津姫に繋がるということです。

【追加】
11月24日、今日、新たなことがわかりました。

この 「金輪山」
陰陽道では8番目の星を金輪星というそうです。

この金輪山は、「8」でもって、封印されたお寺だったのです。
そして、この裏山も。 ということは、この山には封印しなければいけない何かがあったということになります。


第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺

本 尊: 地蔵菩薩(伝弘法大師作)
開 基: 弘法大師
創 建: 弘仁6年(815)
住 所: 愛媛県今治市小泉1-9-18

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                               【弁財天】
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                               【大師堂】
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                                【本堂】
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今治の中で、唯一まだ来ていなかったお寺。
家からそう遠くないお寺なのに、 今までなかなかくる機会がありませんでした。

でも、これも、きっと、今行くことに意味があったような気がします。

考えてみれば、このあたりは、小さいころよく遊んだ場所でもあります。
祖母がこの近くに住んでいたので、 よく、遊びにきていました。
見渡す限り 田んぼで、 家はほとんどありませんでした。 

春にはレンゲが一面に咲き、 レンゲを積んで、首飾りをつくりました。
夏は、あぜ道の横を流れる小さな川で、 めだかやオタマジャクシをとっていました。
秋にはつくしを探しにきて、 冬は、たこあげをしました。

今は、そんな風景はどこにもありません。

今より何もない時代でしたが、 子供の頃の方が、幸せだったような気がします。

ブログを書いていたら、ふと、あの光景が目に浮かんできました。

日本の食べ物の象徴 「米」 今でも、神社の神事では、お田植え際があり、収穫祭があります。
そして、神々の名前は変えられても、 「稲の神 食の神」 として、豊受大神が祀られ、アマテラスと共に、崇拝されています。 
豊受神もまた、瀬織津姫のもう一つの姿であり、 オオゲツヒメでもあります。

その田んぼが、日本からどんどん消えていってしまっているこの光景を、姫はどんな思いで見ているのでしょう。 女神も、言霊も、 田んぼも、その他 古代の日本の文化、思想が、消えていってしまうことは、日本がなくなってしまうことに繋がるのかもしれないと思いませんか。。。。。。






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-23 03:33 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(5)

こんばんは。

今日は、二つの新たな謎について書きたいと思いますが、
少し長くなりそうですので、別々の記事で書きたいと思います。

まずは、先日のヤマタノオロチについて、前回から新たに私なりに考えた 「ヤマタ」 の意味について書いてみたいと思います。

前回の記事を合わせて、ご覧いただけると嬉しいです。

ヤマタノオロチとスサノオ命そして草薙剣の魂

前回は 「ヤマタ」 はアマテラスとスサノオのの誓約のさいに誕生した神々を例にしてお話しました。

また、「オロチ」 は 「遠知姫」 と習合させました。

この考えは、どちらも変わっていないのですが、 さらに、この 「ヤマタ」 がどうして、 八柱の神と同じなのかについて、考えてみたいと思います。

前回の ヤマタノオロチの最後の部分で 「8」 の数字の意味がわかればもっと深い意味がわかるのではないと書きましたが、 やはり 「8」 には、 思っていた以上に 複雑な意味があるようです。

まだ、 全て理解したわけではありませんが、 ヤマタノオロチがどうして、 8つの頭と8本の尾が必要で、
更に、これを退治するさいに、八塩折之酒と8つの垣と8つの門がひつようだったのか。。。。

ここまで、8にこだわる必要があるのかと、思うほど、このお話の中には 「8」 という数字が並びます。

私は、 どうしても この 「8」 に意味があるのだと思っていました。
でも、今まで、漠然としかその意味がわかりませんでしたが、 先日と届いた 「八の暗号」 の中に、思ったとおり、その意味に繋がる、天智天皇が考えた 「8」 の 意味、そして、日本の古来の 「8」 の意味が書かれてありました。

この本の、「8」 の 意味と、 古事記の解釈や、 天智天皇が造ろうとした、新しいヤマトの意味に対する考えは、私とは全く違うものでしたが、 この 「8」 の 根源の意味は、たぶん、これから、さまざまなものを解いていく上で、 かかわってくるものだと思います。


古事記は、「8」 の、 日本古来からの聖数としての意味と、 中国から伝わってきたと思われる 「八卦」 の 考えを見事に習合させていました。

日本は、古代、 数を数える時に、 「ひ、 ふ、 み、 よ、 いつ、 む、 や、」 と数えていました。

「ひふみ式」 で読むと、 8=「や」
そして、「や」 は 「弥(や)」 に通じる数字となります。

「弥」とは、「弥栄」 の 「や」 といい、完全、無限、大きいなど、数の中で、最高の数字ということになります。
また、「や」を、発音してみると、「や=8」 だけが、 口を大きくあけて読む数となります。

日本人は、古代から、言霊を信じると言われ、今の時代でも、多くの人が、
「言ったことは、現実になるから、悪いことばは使わないように」 と幸せなれる本などで、書いていますが、
この考えは、 古き時代から、日本ではとても重要な教えでした。

また、万葉集の中では、 「日本は言霊の幸はふ国」 とうたわれています。

今の時代では考えられませんが、 日本は言霊国、ことばが幸せをもたらすと考えていたのです。

ですから、 口を一番大きくあけて読む、 「や」 という言葉の中には、より強い言霊の威力があると考えられていたといいます。

だから、古代から 「8」 は聖なる数字。 神と通じ、 その思いが一番強く届き、そして、幸せをもたらす数字だったのです。

でも、 天智天皇が考えた 「8」 の意味は、 この古代からの意味にさらに 「八卦」 を習合させたのです。

八卦(はっけ、はっか)は、古代中国から伝わる易で八つの図柄で表されます。
卦は爻と呼ばれる記号を3つ組み合わた三爻によりできたもので、爻には─陽(剛)と--陰(柔)の2種類があり、組み合わせにより八卦ができるとされます。

そして、八卦は伏羲が天地自然に象って作ったという伝説があり、卦の形はさまざまな事物事象を表しているとされます。

どんなものに表されたかというと、

「自然」 「性情」 「家族 「身体」 「方位」です。

これは、後でお話する内容にも、繋がってくる、基本となる 八卦の形です。

古事記は、この二つの 「八」 の意味が習合し、またもしかしたら、これが原点となりさらなる思想が重なり、できた物語だと思います。

この二つの原点は、 この 「八の暗号」 にも書かれてありますが、ここからは私独自の考えになります。
というのも、 この著者の方は、 「封印された女神」 の存在には全くきづいていないからです。

原点とする考えは同じでも、 視点が変われば、解釈の仕方も少し変わってくるということに改めて気づきました。 もちろん、共感できる部分も、沢山あります。 でも、 到着地点が全く違うため、暗号の解き方が、私とは全く違います。

「同じものでも、見方が変われば、違うものに見える。」

ということが、よくわかりました。 ですから、どちらが、本当かなんてことはわかりませんし、また、それは、相手を否定することでもありません。 ただ、自分なりに、こうでもない、あ~でもないと考えていくことが楽しくて、いろいろな考えがあるからこそ、新たな発見もあるんだと思っています。

では、私の 「ヤマタノオロチと八」 の今の考えですが、
八卦には、「太極」 を 原点とした考えかたがあります。

八卦の順序には「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を「伏羲八卦次序」、後者を「文王八卦次序」といいます。

この、「太極」 を 原点とした考えかたは、前者のを「伏羲八卦次序」になります。
 
「太極」 とは、中国の思想で、万物の根源であり、ここから陰陽の二元が生ずるとする考え方です。

また、太極は、道家の生成論として用いられた 「太一」 と類似されます。
「太一」 とは、古代中国における宇宙の根元を表す哲学的概念、また、天の中心に位置する星官(星座)、またはその神格を意味します。

天智天皇の考えた 「八卦」 とは、 この「太一」の概念をさらに習合させたものとなっているようです。

「太一」は、道家の生成論として用いられた考えですが、これが、陰陽思想とも結び付けられるようになります。

ヤマタノオロチの意味の中には、 これら全ての意味が習合されているのです。

「太極」「太一」ともに、宇宙の根源、万物の根源を意味しますが、
この根源は、 「八卦」 は

◆「太極から陰陽両儀が生まれ、陰と陽それぞれから新しい陰陽が生じることによって新しい陰陽が生じる」と
考えられていたのです。

そして、
◆「太極」「太一」=宇宙の根源 
◆「太一」=「天の中心に位置する星官(星座)、またはその神格」=「北極神」=「天皇大帝」=「天皇」

「北極神」については、また後日、ふれてみたいと思いますが、

これに、日本古来の 「8(や)」

の意味を習合させ、 「1」=「8」 であり、また 「1」 は 陰陽を合わせることで、新しい 「8」 と なる。
  
アマテラスとスサノオの誓約のさいに誕生した 「八柱の神」も、陰と陽を合わせることにより、生まれた
「8」だったのです。 そして、さらに、これを 「3」 と 「5」 にわけた理由は、これは、また後日、
詳しく書いてみたいと思います。

そして、ヤマタノオロチ 「悪(陰)の龍(姫の魂) また、 八俣=「八の原点」=「(旧)やまと」 を
「八塩折之酒の酒」=(陽) を飲ませ、 「8つの垣、8つの門」=陽を作って、
「自らの魂」(陰)を 自らの手で切り刻んだ。 

こうすることにより、 「旧やまとの魂」に 「陽の酒、門、垣」で合わせ、さらに 姫の陰の魂、スサノオ自らの陰の魂の両方を切り刻み、 その中から出てきた 「草薙剣 (陰の魂)」 を、 アマテラスに渡すことによって、
「陰と陽」 は一つになり、 新たな 「魂」 の誕生を意味するとともに、その実権を、譲ったことにもなった。

八卦の大きな意味と、 万物には全て 「陰と陽」 があり、それを合わせることにより、新しい魂が生まれるといった独特な思想が、 古事記の中には、あちらこちらにちりばめれているのではないかと思うのです。

どうして、わざわざ、何度も、「大山積神」 と 「アマテラス」 の子孫を、結びつけるのか、その意味がこれでやっとわかってきた気がします。

また、「大山積神」 の原点も、 この作業をしなければ、本当の、 「大山積神」 になれなかったかもしれません。

名前は変えても、「大山積神の魂は(陰であり、旧ヤマトの神)」は 瀬織津姫だったから。

古事記は、 この 「八」 の意味を中心に、 
もしかしら、もっと多くの思想が合わさっているのかもしれません。

現代でいう、「大学教授」 のような、 歴史や、古代文明、古代宗教のスペシャリストたちが、集まり、
その知恵を結集させて、作り上げた、ある意味、史上最大の 「古代文明の習合物語」と言えるかも。

これから、少しづつ、古代のあらゆる思想、あらゆる文明、 そして、さまざまな 「八」 の意味を考えて、
歴史の謎を、といていけたらいいなと思います。

ただ、冒頭にも書きましたように、 視点が変われば、物事の解釈は驚くほどに違います。
だから、 どれが本当かなんてわからないかもしれません。

でも、間違いながら、 悩みながら、 一つづつ、前に進んでいくことが、きっと何かに繋がるんだろうなとおもいます。 
そして、その中から、それ以上に、もっと大きなことを学んでいけるのかもしれません。

では、ひとまず、 本日の 第1話 を終了します。

次のお話は、 「鬼門」 についてです。

【愛姫伝 第三章 瀬織津姫物語】



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by ldc_nikki | 2011-11-22 23:30 | 古代の謎 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

さきほど、先日注文をしていた、 「八の暗号」 の本が届きました。

神社や、神様のことを調べていると、驚くほど何度も目にする 「八」 の数字。
この「八」 の意味が、ずっと気になってしかたありませんでした。 

アマテラスとスサノオの誓約のさいに生まれた 「八柱の神」

あの空海も、自らが開基したお寺の守護神としてこの神々を祀るほど、この神々は、古事記の中に出てくる数多くの神様の中でも、特に意味する神々なのではないかと思っていました。

もちろん、このこと以外にも、ヤマタノオロチや、八咫烏、そして、八上比売。。。。まだまだ、この暗号がつかわれた言葉は、数えきれないほど。

この本を読めば、古事記の意味が、今まで以上に深く読み解くことができると、読む前から、
心臓がドキドキ。

たぶん、一度や二度読んだだけでは、全てを理解することはできないかもしれません。

何度も何度も読み返し、その意味を、私なりに繋げていきたいと思っています。

何か、自分の中で繋がった時は、 ここで、お話をさせていただきたいと思っています。

それから、もし、まだ神社に祀られる神様や、古事記のことをあまり知らない方がいらっしゃいましたら、
ぜひ、一度、古事記のお話を読んでみてください。

私の知人で、 古事記をお子様でもわかるように、とても読みやすい本を出版されている方がいっらしゃいます。 この本を読めば、 楽しく、古事記を読むことができ、私の話と一緒に謎解きをしていただけると思います。

古事記のものがたりはこちらから購入することができます。

古事記は、作られたお話で、姫を封印し、新たな時代を造るために書かれたものですが、
これが、今の日本の原点でもあり、また、とても大切なことも書かれているとも思います。

以前も、お話しましたが、 私は、古事記の全てを否定しているわけではありません。

この古事記の中には、今の人間にとって忘れ去られた大切なものもがつまっているとも思います。

だからこそ、古事記の本当の意味を知りたいとも思うのです。

そして、それほどまでに、封印しなければならなかった、姫の姿をより深く知り、そして、もう一度この世界に真の姿をよみがえらせることができれば、古事記に書かれた神々とともに、どちらも必要な神々であり、全てが一つだということに繋がり、本当に大切なものに出会えるような気がしています。

どちらが悪いのでもなく、 どちらも必要であり、 どちらも認めるものである。

そんなことを、最近、強く感じ始めました。

きっと、姫さまも、過去にしてしまった罪を憎むのではなく、ただ、それを願っているだけのような気さえするのです。

封印をとくことができれば、真の光が、私たちに降り注ぐのかもしれません。。。。。。。。。


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今日、ご紹介する神社は、新居浜市別子に鎮座する神社です。

四国中央市から、銅山川沿いを新居浜方面へ走ると、旧別子村につきます。
ここも、平家の落人伝説が残る村。 

そして、今日ご紹介する神社は、 
平家側についた、新田一族が祀る 「新田神社」です。

新田義貞公戦死後、その子義宗公は、応永三年伊予に入り、川之江市川滝に住み応永五年この地に卒し、随行した一族の者が川滝下山に新田神社を創建したが、その後新田氏の子孫の者が嶺南に逃れ住み、伊予三島市金砂の中之川に、富郷の上猿田に、また富郷の徳丸及び寺野部落に、更に別子の弟地方面にも居を構えて、それぞれその地に新田神社を創建して氏神としたもので、

弟地 (今日ご紹介する) の新田神社も新田一族の落人によって祀られたものと伝えられています。

現在は、どんどん人口が少なくなってしまった 別子村。

ここに、ひっそりと鎮座する 新田神社には、室町時代後期に制作されたであろう、
本三面の銅製の仏像が祀られているそうです。

この三面の仏像が、何を意味するものなのかは不明のようですが、
もしかしたら、 この仏像も、三柱の神、 その起源は、一つの神を意味するものなのかもしれません。

ここは、全く行く予定ではなかったのですが、
大雨の中、ふと目についた鳥居に吸い込まれるように、神社へと向かいました。

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新田神社と一緒に、大山祇神社の名前が刻まれていました。
村史によれば、ここは大山祇神社を祀る土地でもあるようです。

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                                【拝殿】
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                                【本殿】
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                                【参道】
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雨の降る中でしたが、とても素敵な神社に出会えた気がしました。
ここで生きた多くの人々の魂また、ここに眠っているような。

神社を後にし、帰路へついたのですが、 帰り道、 霧が漂う銅山川の向こうに、小さな滝を見つけました。

山の土の中で、浄化された水が、少しづつ集まり、一つの滝となって川へと流れおちる。
山があるからこそ、その中に蓄えられた水が少しづつ、命の源となっていく。

海は、生命の母。 そして、山は、命を育む母である。

瀧を見ていると、そんな言葉が、浮かんできました。

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海も山も、私たちの、命の母なのだと。。。。。。。

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「愛姫伝」 神々の島



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by ldc_nikki | 2011-11-21 00:19 | 愛媛県新居浜市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、ヤマタノオロチについていろいろ調べてながら考えていたら、いつのまにか、どんどん過去へとさかのぼり、とうとう紀元前6000年ころまで、さかのぼってしまいました。

でも、さすがに、頭の中はごちゃごちゃ。
自分の中で、全く納得のいかないまま、時間が過ぎてしまいました。

やっぱり、一度にさかのぼっても、だめですね。

瀬織津姫のことを考えていると、最終的には、日本人のルーツまで考えてしまいます。
でも、そこまでかんがえていると、 まださらに過去へとさかのぼることになり、 最終的には、人間が生まれたことにたどり着いてしまいます。

だから、それを考えることは、今は必要ないのかなと。

今は、1300年前に、何が起こり、どうして姫が消されなくてはいけなかったのか。
古事記には、どんな意味があるのか。
私たちは、今、何を知り、これから先、どう生きていくことがいいのか。

そして、 消されてしまった姫の姿を、きちんとこの世に伝えることができるように。

また、私たちは、 過去があって今があるということを、歴史から知り、感じ、学ぶために、少しでも正確な過去をもう一度、よみがえらせたいと。

また、もう一つ、最近強く思うことは、誰かを非難したり、犯した過ちを責めたりすることは、とても簡単なことですが、どんなことにも、必ず理由があり、それぞれの立場でしか、みることができない世界があるということも、考えなければ、全てを理解したとは言えないのではないかと。。。。。。

また、それを知ることが、 真実により近づけるのかもしれないとも。。。。

昨日、ツイッターである方が、 「ヤマタノオロチ」 について、つぶやいていました。
そのつぶやきは、現在、一般的に伝わる 「荒ぶる神」 としての 「ヤマタノオロチ」の姿としてでした。

そのつぶやきを見た時、 「本当は、荒ぶる神ではないんだよ」 という思いが湧き上がり、思わずそのツイートに返信してしまいました。
でも、その思いを短い文章ではうまく伝えることはできませんでした。

その時、もう一度、一つ一つ、 ヤマタノオロチの物語の意味を考えてみようと思いました。
そして、一つ一つ、その意味を考えていると、また、一つ大きな疑問にぶつかりました。

<ヤマタノオロチ>
ヤマタノオロチは、 古事記と日本書紀の両方に、書かれていますが、

古事記では、 「高志之八俣遠呂知」 と書かれ、
日本書紀では、 「八岐大蛇」 と書かれています。

改めて、この字をみた時に、はっとしました。

日本書紀は、 古事記に書かれた内容に不備な所があったり、 あまりにもあからさまに書かれてあるものを、さらに訂正して、作り直された物語です。

古事記の中で、書かれている ヤマタノオロチは 「高志之八俣遠呂知」 と書かれてありますが、
この意味を私なりに、考えてみると、

(八つの頭を持つ (遠知(越智)(龍))は、高い志にいたるための陰の姿) と読めるのです。

先日、お話した 「夏姫」 と 同一かもしれないと言った、天武天皇の側室である姫の名前は

「遠智姫」 

ヤマタノオロチのにつけられた、「オロチ」 は 「遠呂知」 と書かれてあります。

「越智」 の 「智」 は、本来は 「知」 と書かれてあり、 大山祇神社が宮浦へと移った時に、お告げがあり
「知」 の下に、 「日」 をつけて 「智」 とせよとありました。

このオロチの本当の姿は 「オチ」 に通じるものだったということをしめしているのかもしれないと思ったのです。 「知」 とは、 霊が宿るという意味もあり、 「遠知(越知)」 という名前の意味も、何らかの 「霊(魂)」がう宿るという意味を含んでいたのかもしれません。

そして、それは、姫を祀る氏族だったということに、繋がるのかもしれません。

でも、日本書紀では、 この 「オロチ」 を 「大蛇」 と書きかえています。

しかし、「オチ」 と繋がる字はなくなってしまうかわりに、 「オチ」 が 「大蛇」 だったということが、逆にはっきりとしめされる形となっています。

「八つに分かれた龍の姿は オチであり、姫であると」 

そして、少しだけ最初の文を読み解いてみると。

 高天原を追放された須佐之男命は、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(とりかみ、現奥出雲町鳥上)に降り立った。
川上から箸が流れてきたので、川上に人がいると思って川を上ってみると、美しい娘を間にして老夫婦が泣いていた。
その夫婦は (*大山津見神) の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は (*櫛名田比売くしなだひめ))といった。


高原原において、アマテラスとスサノオは、誓約により、「瀬織津姫」の魂をくだき、新しい神(アマテラスとスサノオの両方の魂をもつ神) として誕生させましたが、三女神は、スサノオの子とされていたからでしょうか、地上へと追放されたスサノオは、もう一度、この地上で、「瀬織津姫」 の魂を、消さなければいけなくなりました。

それが、このヤマタノオロチです。

「八つの頭とは、誓約により誕生した神の数と同じ 「8」 」です。

そして、そこに現れた 「櫛名田比売」 とは、 大山積神の子の娘。 大山積神の血を受け継ぐ姫でした。

夫婦には8人の娘がいたが、毎年、高志から八俣遠呂智いう8つの頭と8本の尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤で、背中には苔や木が生え、腹は血でただれ、8つの谷、8つの峰にまたがるほど巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまった。
今年も八俣遠呂智のやって来る時期が近付き、このままでは最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうので泣いているのであった。

須佐之男命は、櫛名田比売を妻としてもらいうけることを条件に、八俣遠呂智退治を請け負った。まず、須佐之男命は櫛名田比売を隠すため、彼女を櫛に変えて自分の髪に挿した。
そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、垣を作って8つの門を作り、それぞれに醸した酒を満たした酒桶を置くようにいった。準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔ってその場で寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣を抜いてそれを切り刻んだ。

尾を切り刻んだとき剣の刃が欠けた。剣で尾を裂いてみると大刀が出てきた。これは不思議なものだと思い、天照御大神にこの大刀を献上した。これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。


「櫛名田比売」の名前に 「櫛」 という文字が付けられたことにも深い意味があるようにおもいます。

「櫛」は、古来、「別れ」を招く呪力を持っているとされいます。
また、魂が宿るものともされ、「分身」 の意味ももっているといいます。

ここには、多くの意味がありとても複雑です。

櫛名田比売の櫛は、 「大山積神の魂を持つ姫」 という意味が、根源にあると思います。
でも、ヤマタノオロチを退治するさいに、 スサノオの髪に、櫛にかえてさします。

これは、「大山積神の魂」 を スサノオに宿らせようとする意味と、スサノオの魂(瀬織津姫の魂)を、逆にその櫛に宿らせ、別れを招く意味も含まれているのかもしれません。

そして、自らの魂(荒ぶる神=瀬織津姫)である、 「ヤマタノオロチ」 を切ることで、 完全な別れを迎えた。
こうすることによって、 スサノオの魂は、 「荒ぶる神=瀬織津姫」 ではなくなったのです。

でも、まだ、これだけでは終わっていません。

ヤマタノオロチの尾を切り刻んだ時に、尾を裂いてみると大刀が出てきた。
この大刀こそが、最後の、「瀬織津姫の魂、根源の魂」 ではないでしょうか。

そして、その大刀を、アマテラスに渡すことで、その大いなる神の力と、全ての象徴となる神の権限を、アマテラスに譲ってしまったのです。

ヤマタノオロチを眠らせるために置いた 「7つの酒」 は、 
「天地創造の完成、そして新しい神の誕生のための最後のお酒」 という意味で、ヤマタノオロチは、そのお酒によって眠らされ、そして、切り刻まれ、新しい世の中、新しい神の誕生となる 「8」 に 繋がるのだと思います。

ただ、もう少し詳しく調べないといけないことがあります。

それは、 「8」 の意味です。 

この物語にも、何度となく使われる 「8」 の数字。
「8」 は、 ここだけでなく、 古事記の他の文面でも数多く使われ、また、 神社の名前や、神の名前など、あちらこちらにでてきます。

「8」 は古代の聖数といいますが、 もっともっと深い意味があると思うのです。
それが、わかれば、 この物語の意味が、もっとはっきりとしてくるような気がします。
もちろん、古事記の意味も。

実は、今日、「8」 の 古代の意味について、詳しくわかるものはないかと探していた所、一冊の本に出会いまいした。 まだ、手元に届いていませんが、 この本で、 古代の人々の 「8」 に対する考えがはっきりすれば、私の中で、もっと何かが繋がる気がします。

また、それが、わかれば、ここでお話したいと思います。

でも、今回私の中ではっきりしたことは、 「草薙剣」 には、 

「瀬織津姫の根源の魂」が宿っているということです。

あの3.11の震災の日、 草薙剣が御神体の、熱田神宮に初めて参拝に行き、その足で瀬織津姫の復活の歌をレコーディングさせて頂いたことに、 考えていた以上に深い意味があるのではないかと思わずにはいられません。

でも、私には、何の力もありませんから、もちろんただの偶然だと思います。。。。。。。。

                             【熱田神宮】
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                        【熱田神宮内 姫の御神木】
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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-19 04:04 | 古代の謎 | Trackback | Comments(2)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。