<   2011年 12月 ( 19 )   > この月の画像一覧

こんにちは。

2011年も、残りあとわずかになりました。
みなさんにとって、今年はどんな年だったでしょうか。

今年も、あっというまに大晦日。

12月31日に食べるものといえば、年越そば。

年越そばには、1年間の災厄をきるという意味があるそうです。

そばは、麺類の中でも、切れやすいため、災厄をきるために、そばが使われたそうです。

そんなことを、考えながら年越そばを食べると、とてもありがたくいただくことができますね。

家族で、そんな話をしながら食べてみては、いかがでしょうか。

2011年最後のブログは、出雲の地だった道後の神社のお話です。

もう随分前に、一度、道後の神社をご紹介しましたが、今日は、もう一度、道後のお話をさせていただきたいと思います。

道後温泉は、大国主と少彦名命が旅の途中に、少彦名命が病気になり、道後温泉のお湯につかったところ、病気がなおったという伝説があります。

また、道後に温泉があることを、最初に知ったのは、2000年以上前、
一羽の鷺が、足をケガし、湧き出る水の中に足をつけて、傷を治している姿を見つけ、温泉の存在を知ったとこもいわれ、 ここ、伊予の国の道後温泉は、

「日本最古の温泉」 とも言われます。

この二つの伝説は、 まるで、おとぎ話のようなお話ですが、
もしかしたら、こんな伝説がずっと伝わってきているのには、その理由があるのかもしれないと思います。

それは、 ここが、ある時代までは、出雲の国だったからです。

今日ご紹介する、湯神社がある 「冠山」 は、 昔、出雲の土地だったといいます。

そこには、出雲の神を祀る神社が鎮座していました。

この湯神社は、景行天皇が皇后・八坂入姫命とともに当地に行幸した際、道後温泉の守護神として、鷺谷の大禅寺の前に創建されたと伝えられます。

大永年間、大地震が起き、道後の温泉が出なくなりました。
また、湯神社の社殿も崩壊。

その時に、河野通直により現在の地に冠山にあった、出雲崗神社に合祀され、湯月大明神、四社大明神などと称されたといいます。

現在の湯神社の祭神は、

大国主命と少彦名命。

また、本来、出雲崗神社に祀られていた神さまは、

素盞嗚命(すさのおのみこと)稻田姫命(くしなだひめのみこと)

とされています。

ここ道後の地は、姫の封印が始まるまでは、出雲の国として、栄えた村だったのかもしれません。
古代、ここ伊予の国は、日本中で一番温泉の沸き出でる国とされていました。

伊予中の、あちこちから温泉が沸きで、まさに、そこは、人々の心と体を癒し、万病さえも治すといわれる、暖かい水(神の湯)の国だったのです。

伊予の国は、 神の湯(水)の国、そして不老長寿、再生、復活の、月の女神、水の女神が宿る国であったといえるのかもしれません。

その名残の地のひとつが、日本最古の温泉として、今もなお、多くの人々の心と体を癒す道後温泉なのです。

宮崎駿さんが、 千と千尋の神隠しの中で、八百万の神々が入るお風呂として、ここ道後温泉をモデルとしたのも、それに通じるものがあるのかもしれません。

神宮皇后が、応神天皇を宿ることとなった起源がここにあることも。。。。

湯神社のある、冠山から、道後温泉本館を見ることができます。

上から見た、道後温泉

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道後温泉本館の一番高いところには、白鷺がいます。
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白鷺は、北の方角を向いています。
これは、古代の道後温泉の入り口をしめしているといいます。

現在の入り口は西側をむいていますが、
昔入り口があったのは、少彦名命が、温泉に入って再生し、踊ったと伝わる石のあるところが、入り口なんですよ。

また、昔は、入り口が数箇所あり、位によって、入り口が違っていたそうです。

次の写真を見て、何か思い浮かびませんか?
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肉眼では見えにくいのですが、望遠で、少しアップにしたところ、

「あれ?どこかで見たことがある風景」

千と千尋の神隠しの中で、 ハクが、折り紙の鳥に追いかけられ、傷だらけになって、千のいる部屋の中へと入ってくるシーン。

あの時の、あの廊下にそっくりだと思いませんか?

なんだか、ハクと千尋があの中にいるような、そんな錯覚をおぼえるようでした。

もう少しアップで。。。

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すると、もう一つ目に入ったものが。
この廊下の目の前に、 小さな社が見えています。
道後温泉の一番上の建物の、真ん中に、神様をお祭りする、社が。。。

来年は、ここにも、必ず行きたいと思います。

冠山の上には、二つの神社が鎮座しています。

一つは、先ほどお話した、 「湯神社」

そしてもう一社は、 「中嶋神社」 です。

「中嶋神社」 とは、お菓子の神様 田道間守を祀る神社です。

以前、不老不死の果物のお話をした時に紹介しましたが、 ここが、その 田道間守を祀る神社です。

田道間守は、天皇の勅命で、不老不死の果物 「橘」 を探しにいきます。

「橘」 とは、現在のみかんのような柑橘類の果物のことを言います。

10年の月日が流れ、やっとのことで、橘を手に入れた 田道間守は、急いで天皇のものとへと帰りますが、もう天皇は、黄泉の国へと旅立っていかれていました。

まだお菓子のなかった、古い時代、人々は、橘の果汁を使い、お菓子の起源となる食べ物をつくったそうです。

それが起源で、多くのお菓子に携わる人々に、信仰されているといいます。

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中嶋神社 拝殿
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本殿
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そして、こちらが、

「湯神社」 です。

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神紋
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本殿
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道後は、この他にも、たくさんの歴史があります。
来年は、もっと道後も探索してみようと思っています。

今年も残すところ、あと、12時間をきりました。

3月11日おこった、1000年に一度という大地震があった今年は、さまざまなことを気づかされた年だったのではないでしょうか。

本当に、大切なものは何か。

忘れてはいけない、人の心とは何か。

そんなことを、問われた年でもあったような気がします。

今は、一つの節目の時のような気がします。
来年は、私たちの生き方を、もっと問われる一年になるかもしれません。

もののけ姫の中で、エミシ一族の巫女 ヒイ様が言ったように、

「曇りなき眼で見定めよ」

私たち向けてのことばのような気がしてなりません。

一人一人、 

「曇りなき眼で見定めよ」

今年も、一年、本当にありがとうございました。

皆様にとって、2012年が素晴らしい年となりますように、祈りながら、2011年最後のことばとさせていただきます。

どうぞ、よいお年をお迎えください。 

本当に、ありがとうございました。




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by ldc_nikki | 2011-12-31 14:51 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(5)

こんばんは。

昨日は、パソコンが壊れ、今日は、先日頂いた龍の置物が落ちて割
れてしまいました。

急遽、古いノートパソコンを使えるようにして、なんとか今日はブログを更新することができました。

昨日からの立て続けの災難に、少しショックを受けていたのですが、今年は本当に、平和な一年だったので、これくらいのことですんでよかったと思わなきゃと。

今年も、後、2日になりました。

私の家は、今年も、年末31日まで、大忙しです。
今も、まだ、仕事をしています。

大変ですが、年に一度、みんなが帰ってきて、こうして仕事ができることが、ありがたいことだなと思います。

それでは、今日は、前回の続き、神功皇后のご懐妊の秘密 「2」 を、お話したいと思います。

神功皇后の伝説が今も残る、道後に鎮座する、 「伊佐爾波神社」は、現在の道後公園の中の、小高い山の上にありました。

そこは、後に、河野家の城 「湯月城」となり、 神社は現在の場所へ移動したと言われています。

前回ご紹介したように、現在は、湯月城の城跡として整備され、当時の生活の様子を見ることができます。

そして、そんな城跡の中に、河野氏が城を造るにあたり、庭の池のほとりに祠をたてたのが、起源と言われる小さな神社が、今も、残っています。

それが、 「岩崎神社」です。

この神社は、伊佐爾波神社とは、関係ないとされていますが、
私は、まったく関係ないとは思っていません。

というのも、 この祠のあった場所には、 「龍 (大蛇)」 が住んでいたという伝説があるからです。

資料館に入って中を見ていると、一枚の大きなポスターに目がとまりました。

そこには、大きな岩が写っていました。

池のほとりの、大きな岩が、なぜか妙に気になったのです。

この写真の場所がどこなのか、資料館の方に聞いてみました。

すると、 「今から、一緒にご案内しましょうか?」 と言ってくださり、 ボランティアガイドの方に案内していただきながら、 城跡をまわることになりました。

武家屋敷を過ぎ、

「もうすぐ、あのポスターの岩のところにつきますよ。」 

と言われ、あたりをキョロキョロ。

すると、小さな池があり、その向こうに。

「あ!あの岩!」

思わず走って岩の向かいまで行ってみました。

やっぱり、同じ風景。

「これ!あのポスターに写っていた岩は、これですよね?」

「はい、この岩ですよ」

目の前に現れたその岩を見た瞬間、

「ここには、龍(大蛇)がいる!」 

そう思いました。


そして、今回の一番の目的だった、 「岩崎神社」 はこの岩の向こうにあったのです。

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「岩崎神社」

祭神:
小千命
河野家累代の霊
土居備中守の霊
得能備後守の霊

岩を見た瞬間、「大蛇=姫」 の空気を感じたので、岩崎神社に走って向かいました。

すると、山への入り口に、鳥居が見えました。

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そして、由緒書きには、蛇の伝説がありました。

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ここに現れた 「大蛇」 の大きさは、義安寺まであったと書かれています。

「義安寺」 とは、 河野家が滅びる時、ここにある泉を飲み交わし、自害したと伝わる、
「誓いの泉」 がある場所です。

この龍こそ、表向きには、その存在を隠していますが、
河野家が、祖神として祀り続けた神のことだったのではないでしょうか。

そして、この神功皇后ゆかりの地には、 「大蛇」 を祀る 「岩」 がある。

応神天皇が、 神功皇后のお腹の中に宿ることになったのは、 ここにいる神の御神徳によるものだったということは、 やはり、その大蛇の代わりに、この世で 「八幡神」 となることになった、応神天皇は、瀬織津姫の代わりに、現れた神ということにもなると思います。

また、ここに祀られる祭神ですが、

まず、小千命は、その名前の前に

「白人明神」 と書かれてあります。

実は、小千命は、「白蛇」 とも言われていて、 「白色」 にあらわされることがわかってきました。

北条市と松山市の境目に鎮座する、勝岡八幡宮に残る伝説では、 
ここに、小千命の城 「白人城」 があったといいます。

「白人明神」 「白蛇」 「白人城」 そして、 河野家、越智家の神 「三島明神」 の 神使は、

「鷺 = 白」  でした。

どうして、小千命が、白人明神と呼ばれるのか、ずっと疑問でしたが、少しその意味が見えてきました。

私の見解ですが、

小千命、越智家、河野家の 本当の祖神は、

「白い神」 だったのではないでしょうか。

「白とは月」 白兎、白蛇、白龍、月の姫の姿は、白だったからです。

そして、新大和側はというと、 「黒」 でした。

それは、太陽は 赤ではなく 「黒」 の意味もあったのです。

ヤタガラスは、太陽の黒点をあらわすという、カラス。

そして、カラスの対照としてあらわされるのが、 「白い鷺」

そして、「鷲」 もまた 「黒い鳥」

鷲のお話は、またさせていただきますが、神功皇后が戦った相手は、

「白熊龍鷲」 

鷲なのに、白? と思っていた 謎がやっとわかったのです。

神功皇后の敵、 それは、 新大和(藤原氏) に逆らい、月の姫を守ろうとした一族は、みな 「白」 に表わされたいたということではないでしょうか。

また、白人城も同じ、 

「月の姫」 を守り続ける一族の城だから、 「白人城」 なのだと。

それを、物語るかのようなある伝説がありますが、そのお話は、また後日させていただきます。


そして、ここに祭られるその他の祭神は、その名が太平記に出てきます。

まだ、簡単にしか読んでいないのですが、 どうも、この太平記もまた、嘘や謎が多くあるようです。

「土居備中守」は、太平記の中では、敵同士ということになっているようなのですが、
それなら、どうして、ここ、河野氏の城に祭られるのでしょうか。

その謎は、久万高原町のありました。 

土居備前通郷が一子義通を従えて新田義貞の軍にあったが、敗戦して北国へ逃げる途中、義通に命じ本国伊予に帰り挙兵すべしと遺言して逝去した。

義通は伊予に帰国し土居備中と名乗り、逃れたと。

備中土居とは、この 「義通」 のことで、 さらにこの 「義通」 の本国は、 「伊予」にあったのです。

このように、古事記ができた時代だけでなく、 その後の歴史の中にも、まだまだ隠されている部分がたくさんあるようです。

話が、少しそれてしまいましたが、

ここ岩崎神社は、小千命を祀るだけでなく、「月の姫 = 真の三島明神」 を祀っていたのではないでしょうか。

瀬織津姫を封印され、神功皇后や応神天皇由来の神社が建てられていたこの場所を、取り返し、
もう一度、真の神を この 「湯月(弓月)城」 の 武家屋敷の庭の中に祀ったのではないかと思うのです。

屋敷の中の庭ならば、その存在を外に知れることは、少なかったでしょうし、また、もしかしたら、ここだけでなく、 河野氏の城の中には、こっそりと、 姫を祭っていたのかもしれません。

そして、もっと昔、 大国主の時代は、ここは、出雲の国だったということも重要なことに繋がると思っています。

今は、ここが出雲の土地だったということは、ほとんど知られていないことです。

でも、この 「湯月(弓月)」 とよばれるこの地区は、出雲の土地。

そして、道後温泉を見つけた鳥は 「鷺」 だということから、「湯月」 の隣には、 「鷺」 と呼ばれる地区が今でもあります。

道後温泉本館の上に立つ、「鷺」 は、 道後のシンボルとして今も羽ばたいています。

今は、出雲の面影はありませんが、神功皇后に宿った神が、この温泉に入ったことと、今お話したことは、とても深い関係にあると思います。

岩崎神社へと向かう階段、そして、神功皇后ゆかりの地もこの山の上です。
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この岩は、先ほどの池のほとりの岩に繋がっています。
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岩崎神社
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神社から、さらに山の上へと向かいます。
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一番上の展望台にやってきました。
ここからは、松山の町が一望できます。
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これが、松山城です。
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現在の天皇陛下が、皇太子さまの時にこられたさいの、石碑です。
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この山の上が、神功皇后の伝説の地です。(姫に繋がる場所)
ここに、仮宮を建て、道後のお湯に入ったと。。。。。

また、この湯月城の中には、

「一遍上人 ゆかりの、湯釜」 があります。
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湯釜の周りには、 「南無阿弥陀仏」の文字が、彫られています。
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神功皇后にまつわる場所の最初のご紹介は、偶然にも、神功皇后が聖母となる、始まりの地となりました。

神功皇后が、八幡神の聖母となったのは、 この地で、「神の湯」 に入ったから。
その裏の意味は、

「再生、復活の女神、 全ての聖母、瀬織津姫を祭るこの場所から湧き出る 「温泉」 」 

にあったのでした。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-12-30 03:53 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(0)

こんにちは。

昨日は、「99年の愛」 というドラマを見ていたら、ついつい最後まで見てしまいました。

あのドラマを見ていて思ったのですが、
いつの時代も、力の強いものが、時代を動かし、多くの人はその時代の波に翻弄される。

でも、そんな中でも、懸命にその波に逆らように立ち向かっていくものもいると。

あのドラマを見ていて、日本中で、大変革が行われようとしていた、1300年前も、同じようなことが、起こっていたのだと、想像してしまいます。

命を惜しむことなく、敵に向かっていったもの。

生きて、守っていくことを考えたもの。
自分を捨て、強いものの中へ入っていったもの。

それは、それぞれの生き方であって、誰も責めることはできないのかもしれない。

家族を守り、愛する人を守るためには、そうすることしかできなかったのかもしれないと、昨日のドラマを想いながら、考えていました。

でも、一つだけ思うことは、人間は、何千年もの間、何度も何度も、同じ過ちを犯し、争いを続けてきました。

今は、多くの国で戦争は無くなったものの、資本主義という新たな渦の中で、力のあるものとないものの中で、同じようなことが起きているような気がしています。

そして、それ以上に、人間そのものが、自然を支配する側にたってしまったことが、大きな過ちかもしれません。

闇と光。

宮崎駿監督のあることばが、私の頭の中を何度も、何度も、巡っています。

*心を光で満たすことが人間中心主義の破壊と生命倫理の崩壊につながるのなら、逆に心に闇を持つことが破壊の抑制と生命倫理の再生につながるのではないか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それでは今日から2回に分けて、松山市の道後公園内にある、湯月城のお話をさせて頂きます。

道後公園とは、 道後温泉のすぐ近くにあり、私たちが小さいころは、この中に
動物園がありました。

動物園が、現在の砥部へと移転し、ここは、日本庭園になる予定だったらしいのですが、
公園の中から、次々と、ここにお城があった頃のものと思われるものが出土し、当時を再現する方向に変わっていったそうです。

現在は、お城こそないものの、 当時の生活を垣間見ることができるような姿になっています。

まずは、湯月城の簡単な歴史から。

湯月城(湯築城 ゆづきじょう)は、 14世紀前半、河野氏によって築城されました。

東に追手門、周りに二重の堀をめぐらせた平山城であったといいます。

しかし、1585年(天正13年)、四国征伐をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が伊予に侵攻して湯築城は、約1ヶ月の篭城の後に降伏しました。

そして、1587年(天正15年)、福島正則が城主となるが、正則が国分山城に居城を移したため、廃城となってしまいました。

現在も、この湯月城があったこの場所には、堀があり、真ん中は小高い山になっていて、そこから、松山市内を一望することができます。

私は、いつもこの近くを通っていますが、現在のようになってからは、初めてここに入りました。
そして、この場所が、とても意味のある場所だということを知りました。

「湯月城」 

この名前のごとく、このあたりは道後温泉の町として、道後温泉本館はもちろんのこと、現在も多くの温泉旅館が立ち並びます。

ボランティアガイドの方に、
「どうしてこのお城は、(湯月)という名前なんでしょうか。」

と尋ねたのですが、やはり答えは、 
「このあたりは、昔から温泉がわき出てていたから、(湯月)という地名だったんですよ。」ということでした。

でも、私は、 この「湯月」 という名前が、単に温泉のことをあらわしているだけとは、思えませんでした。

私の中では、 「弓月」 と 「湯月」 が 共通する意味をもつのではないかと、思っていたからです。

もしかして、そんな答えが返ってくるかな。 と思ったのですが、やはり違っていました。

「弓月」 とは、 ちょうど応神天皇の時代に、 日本にやってきたという 「弓月君」 のことで、ちょうど、このころ、 この伊予の国では、 「小千命」 が国造りを始めました。

いろいろ調べているうちに、 「弓月」 と 「小千命」 は、 何か繋がっているのではないかと思い始めたのです。

「弓月」 とは、秦氏の子孫へと繋がっていくとされており、 ここにも、この時代の隠された謎があるような気がしています。

「弓月」 

この名前は、 「弓月君」 だけでなく、 国としても存在していました。

中央アジアのカザフスタン~シンチャンウイグル自治区の一部にあたる国 「弓月国」です。

この国の存在は、中国の古文書の中に記されているそうで、実際に存在していた国だったようです。
シルクロードの北方ルート上に属したこの 「弓月国」 が、秦氏の故郷ではないかという説もあります。

秦氏は、 何度かに分かれて日本にやってきたのではないかと言われ、
それぞれが、同じ 秦一族かどうかは、今はまだはっきりとしていません。

でも、その中のどれか、 特に、この 「弓月君」 が日本にやってきたと言われるその時の秦氏族は、もしかしたらここからやってきたのかもしれません。

河野家、越智家、小千命、この中にも、 その血を受け継がないものがいた可能性 (越智玉澄等) があると思いますが、 もしかしたら、越智家は、秦一族と何らかの関係があったことは、間違いないと思っています。

ですから、この 「湯月城」 の本当の名前は 「弓月城」

秦氏の故郷、 弓月に存在した 「弓月城」 と同じ意味をもつ城だったのではないかと思います。

そのことに繋がる神社のお話は次回でお話しますが、 河野家の城をこの地に移したことには、とても深いがあり、 それはここが、大変重要な場所だったからです。

湯月城が築城される前、 ここには、 ある神社がありました。

それが、 

「伊佐爾波神社」 です。

現在は、道後公園の向かいの山、 松山市桜谷」 にあります。

伊佐爾波神社は、湯月八幡宮とも言われた神社でした。

この神社が、この湯月城が築城される前に、この地にあったのです。

ここには、とても神功皇后にまつわる、古い伝説があります。

仲哀天皇、神功皇后とともに道後温泉に行幸のとき沙庭を立てて天神の勅を請奉りました。
それが、起源となり、
沙庭神社、即ち伊佐爾波の神社と称しました。

神功皇后はこの地に行宮を建て、そこに湯殿を設け、温泉を汲んで浴されました。
すると、この温泉のご利益で、御懐妊になり、後の 「応神天皇」 の御誕生があったといいます。

応神天皇が誕生したのは、 この地の温泉に入ったから、この地で天神の勅を請奉ったことが、皇子誕生の起源だというのです。

ここは、八幡神誕生の起源ともいえる場所ということにもなります。

どうしてここが、それほどまでに重要な場所で、 この道後温泉の湯が、神の誕生と繋がっているのか、そして、この地に、河野家が城を築き、その名を 「湯月 (弓月)」 とつけたのか。
まだその謎は、はっきりとわかっていませんが、ここもまた、鍵の握る場所だということには変わりないと思われます。

また、次回にお話する、この地に現在も残る神社のお話の中にも、小千命の隠された姿を見ることができます。

今日は、まず、湯月城の様子を、ご紹介したいと思います。
 
ここは、湯月城資料館です。

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河野氏系図
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湯月城模型
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武家屋敷
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出土されたもの
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展示品
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上流武士が住んでいた所
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そして、この敷地の真ん中に、神功皇后の伝説が残る山があります。

続きは、明日。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-12-27 22:52 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

クリスマスも終わり、いよいよ、今年も残り後わずかとなってきました。

クリスマスは、前回にお話したように、 太陽の神 ミトラスが再び生まれる日でした。
そして、月もまた、今年は、丁度新月となりました。

今年のクリスマスは、月も生まれ変わる日でした。

太陽の神と、月の神、今年は両方の神が、生まれ変わる日となったのも、不思議な巡り合わせを感じます。

2012年のことは、いろいろと言われていますが、
いろんなことが、新しく生まれ変わる年となるのかもしれませんね。。。。。。

今日も、まずは、神社のご紹介からさせて頂きます。

今日、ご紹介する神社は、
前回の神社の鎮座する 317号線を松山方面へと走り、奥道後を越え、松山市内の入口に鎮座される

「素鵞神社」 です。

御祭神は、須佐之男命(すさのをのみこと)。

愛媛は、スサノオを祀る神社がとても多いのですが、 ここ「素鵞神社」 は、
山城国愛宕郡八坂郷の祇園の神を勧請されたと伝わります。

山城国愛宕郡八坂郷の祇園の神とは、

「八坂神社」 のことを言います。

八坂神社と言えば、あの、映画 「鬼神伝」 の中で、ヤマタノオロチが封印された場所となっていました。

八坂神社の中にあった、池の中に封印された 「ヤマタノオロチ」 が、封印から解き放たれ、
その後ろに、 スサノオの姿が。。。。。。

今日は、そんな八坂神社にまつわるお話をさせていだこうと思いますが、
まず、 八坂神社から勧請された、 松山市に鎮座する 「素鵞神社」をご紹介したいと思います。

*素鵞神社
*祭神:須佐之男命(すさのをのみこと)
*松山市宿野町241番地
*由緒
勝加城主河野主殿が山城国愛宕郡八坂郷の祇園の神を勧請し、祇園天王宮と称えた。後に菊ヶ森城主枝松式部小輔が社殿を造営した。
明治4年素鵞神社と改称した。

交通量の多い、道沿いに、神社へ入る、細長い階段があります。
一歩、足を踏み入れると、不思議と空気が変わります。

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鳥居をくぐり、 階段をさらに上ると、拝殿が見えてきました。

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小高い山の上に、スサノオを祀る、素鵞神社はありました。

拝殿
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本殿
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この日最後の神社でした。
参拝が終わり、神社を出ると、綺麗な夕焼けが広がっていました。

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ここ、素鵞神社 は、冒頭でもお話しましたように、
現在の京都市に鎮座される、 有名な 八坂神社から勧請されました。

私も、20代初めのころ、何度から八坂神社には行ったことがありますが、
若い女性たちにも、とても人気のある神社の一つです。

しかし、それだけでなく、 ここもまた、 瀬織津姫の封印に関わる、重要な場所の一つです。

八坂神社の起源は、

斉明天皇2年(656年)、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を祀ったのが、始まりと言われます。

しかし、本当は、もっと前から、ここには、神様が祀られていたと思われます。

それが、瀬織津姫です。

この八坂神社のことではありませんが、

美並村半在八坂神社(現在の岐阜県)の御神像 「牛頭天王像」は、円空が彫ったものとして有名ですが、
円空は、 この 牛頭天王像を、女神として 彫っています。

円空は、 この牛頭天皇もまた、瀬織津姫の封印の姿だということをわかっていたのかもしれません。

八坂神社の現在の祭神は、

中間 -- 素戔嗚尊(スサノヲノミコト)
東間 -- 櫛稲田姫命(クシ(イ)ナダヒメノミコト)
西間 -- 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)

となっていますが、本来は、

中の座 -- 牛頭天王(ゴズテンノウ)
東の座 -- 八王子(ハチオウジ)
西の座 -- 頗梨采女(ハリサイニョ)

として、祀られていました。
牛頭天皇は、スサノオ。

東間に祀られる、櫛稲田姫命は、本来の、西の座に祀られていた、頗梨采女と同一だと言われます。

これは、頗梨采女は牛頭天王の后神ですから、
素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視されたとされたといいますが、この 「頗梨采女」が、瀬織津姫の封印に関わる 重要な姿の一つでもあります。

頗梨采女(はりさいじょ、はりさいにょ)とは、仏教由来の神ですが、
日本では、

行疫神(疫病を流行らせる神)とされています。

疫病を流行らさせる神と言えば、前回の藤原氏の話のことと重なります。
次々と、流行病で命を落としていった、藤原氏族や、 豪族たち。

この時、 瀬織津姫は、 疫病を流行らさせる神、 瀬織津姫の祟りと思われていました。

その姿が、この  「頗梨采女」 だったのです。

平安時代、次々に広がる流行病を鎮めるために始まった、 「祇園祭り」 が、瀬織津姫の御霊を鎮めるための祀りだったということにも、繋がってきます。

そして、「頗梨采女」と、 伊予の国の瀬織津姫 大山祇神社の瀬織津姫に繋がる、重要な記述があります。

それが、 「祇園牛頭天王御縁起」です。

祇園牛頭天王御縁起の中で、頗梨采女は、
南海の沙竭羅竜宮城に住み、金毘羅女、婦命女の2人の姉がおり、竜王の第3女とされているのです。

「南海の沙竭羅竜宮城」、 頗梨采女も、竜宮城に住む 「女」 と されています。

南海道とは、 紀伊、淡路、阿波(あわ)、讃岐(さぬき)、伊予、土佐の六か国をさします。

ですから、南海とは、 現在の瀬戸内海をさす言葉だと思われます。

龍宮城は、 南海にあった、そして、 そこには、瀬織津姫が住んでいた(祀られていた)ということが、こんなところにも、書かれてありました。

実は、この南海の龍女のことは、 大三島の大山祇神社にも、その名前が出てきていたのです。

大山祇神社は、701年から大造営が始まり、716年に完成し、
719年に、正遷座されたと伝わりますが、

この716年完成した時のことを、 神社に残る、古文書の中に、次のように書かれています。

 「四十四代目の元正天皇は霊亀二年(西暦七十六年)(丙辰の年)に本社の御神殿と大巳貴神社と事代主神社と大市姫神社と荒神の社の合計五つを建てた。」

この文章の詳しい説明は、また、いつかしたいと思いますが、

この中の、 「大市姫神社の祭神 大市姫」 のことを、

またの名を 「南海龍女」 と呼ぶと書いています。

更には、 この 「南海龍女」 の神社を、 

「祓殿」 と呼んだ。 とも書かれているのです。


今まで、このことに、どうして誰も気づかなかったのか、不思議です。

大山祇神社の古文書の中には、瀬織津姫の名前はないものの、
こんなにも、明確な、ヒントを残しておいてくれたのです。

また、八坂神社の中にも、もう一つ、瀬織津姫の封印された姿があります。

クシナダヒメと同じく 東間に祀られる 「蛇毒気神(ダドクケノカミ)」 。

これは、ヤマタノオロチが変化したものと伝わっているそうなのですが、

これも 「瀬織津姫」 のことをさすと思われます。

東間に祀られる、 クシナダヒメ = 頗梨采女 = 「蛇毒気神(ダドクケノカミ)」 = ヤマタノオロチ

ということになります。

八坂神社 (祇園神社)があった都は、もともと、瀬織津姫を祀る人々が暮らしていた所なのでしょう。
しかし、その人々もまた、この地から離れなければいけなかった。

八坂神社の、東間の中に、仏の力で封印された、瀬織津姫。

その封印の姿を知った、円空。

八坂神社の本殿の下には、龍穴と呼ばれる深い井戸があり、龍脈が二条の神泉苑と繋がっていると言います。

そして、神泉苑には、竜神(善女竜王)が住むといわれますが、
ここは、空海が、 仏の力で、封印した場所。

姫は、この龍穴の中に、平安京の表と裏の両方の入口を閉められ、閉じ込められたのかもしれません。




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by ldc_nikki | 2011-12-26 00:41 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

今日は、クリスマスイブですね。

私は、キリスト教の幼稚園だったので、一年でこの日が一番の大イベントの日でした。
毎年必ず行っていた、イエスキリストの誕生の物語。

クリスマスは、イエスキリストの誕生日だとずっと思っていました。

でも、本当は、聖書の中にも、キリストの誕生日は書かれていないそうです。

そして、クリスマスイブの 12月24日。

この日にかかわる伝承で、一つ、気になることがあります。

12月25日は、ミトラ教(ミスラス教)での冬至のお祝いの日。

ミトラ教とは、古代ローマで繁栄した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教のこと。

ミトラ教(ミスラス教)は、紀元前1世紀より5世紀にかけて発展した宗教と言われていますが、その実体は、今もよくわかっていないそうです。

そして、このミトラ教での、12月25日とは、「冬至」 
太陽神ミトラスが冬至に「再び生まれる」という。
だから、12月24日は、太陽神ミトラスが、一度死ぬ日でもあるのです。

そして、この習慣をキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったといいます。

クリスマスの原点は、ミトラ教。そして古代ローマ。

日本では冬至はもう終わりましたが、クリスマスもまた、起源は同じ意味を持つ日。

太陽は、一足早く、新しい出発の日を迎えるのですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、先に、神社のご紹介からさせて頂きます。

今日、ご紹介する神社は、 松山市に鎮座する 「河内神社」

愛媛には、 「河内神社」 という名前の神社が、各地にあります。

そして、南予の内子町や双海町では、 瀬織津姫のことを、 「河内大明神」 と して、河内神社に祀っています。

そんなこともあって、愛媛で 「河内」 と名のつく神社を発見すると、
姫が隠されている場所かなと、思ってしまいます。

ここ、玉川町から松山へと向かう、 国道317号線沿いに鎮座される 「河内神社」 も、
もしかしたら、ここでも姫の何かがわかるかも? と思っていました。

でも、祭神は
「天児屋根命(あめのこやねのみこと) 」

何かが、違う。。。。。。

愛媛における 河内神社に祀られる神が、天児屋根命(あめのこやねのみこと) というのは、やっぱり変。

帰って、いろいろ調べていると、
また、一つ、 重要なことがわかりました。

それは、神社をご紹介した後に、お話させて頂きます。

まずは、神社の写真から。

*河内神社
*松山市大井野町甲127番地
*天児屋根命(あめのこやねのみこと)
*慶長の頃、大野多門が当社に心願をこめ、冥助を得て大阿沼を干潟とし、井河と伊予川、由流宜川とを合わせて従前の流域を改めた際、報賽のため神田等を献納したという。

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拝殿
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神紋は、三島紋
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御神木
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山の奥深くに切り開かられた土地。 山里。
人は、人間がつくった山里を見ると、懐かしさを感じるという。
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神社のすぐ向かいには、綺麗な川が流れていました。
そして、川辺に茂る木々は、赤や黄色に色づいていました。
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ここ松山市の山の中に鎮座する 河内神社に祀られる神の名は

「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」

天児屋根命は、春日権現(かすがごんげん)とも呼ばれ、春日大社の祭神でもあります。

アマテラスが天の岩戸に隠れたさいに、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した神。

アマテラスが、この世に現れるために、力を貸した一族ともいえるかもしれません。

そして、天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされます。

「天児屋根命」 は、春日大社に祀られる神。

春日大社には、四柱の神が、祀られています。

第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神。

「天児屋根命」は、上記のように、第三殿に祀られます。

春日大社の起源は、 710年。

大山祇神社の大造営が始まって ちょうど10年後。
大造営真っ只中の時です。

そして、奈良・平城京に遷都された年でもあります。

春日大社の起源は、
藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まりとされています。

春日大社の起源として、初めて、祀られた春日神とは、天児屋根命ではなく、
「鹿島神」 だったのです。

では、天児屋根命はいつ祀られることになったのでしょう。

それから、58年後の、 「768年」

藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したことが、始まり、

天児屋根命は、春日大社に祀られる前は、
「枚岡神社」 に祀られていた神でした。

枚岡神社とは、
大阪府東大阪市出雲井町に鎮座される神社です。

この住所を見て、あれ? 
と思ったことと思います。

そうなんです。 ここは、出雲の土地だった場所です。

ここでは、春日大社と順番が違い、
第一殿に天児屋根大神、第二殿に比売大神、第三殿に武甕槌大神、第四殿に斎主大神(経津主神)
が祀られています。

八幡神社などでもよく見かける、 「比売大神」 という神様。

春日大社では、第四殿に祀られ、枚岡神社では、第二殿に祀られています。

そして、この比売大神のことを、それぞれの神社では、このように言われています。

◆枚岡神社では、(天児屋根大神の后神)

◆春日大社では、(もともと 「瀬織津姫」が祀られていたという説もある)

枚岡神社は、 この住所から見てもわかるように、本来は出雲の土地でした。
そして、本来祀られていたのは、 ニギハヤヒと瀬織津姫。

それを、天児屋根大神と比売大神に変えられたのです。
だから、春日大社の第四殿に祀られる神が、もともと瀬織津姫となったと言われているのだと思います。

そのことを表すかのように、先日少しお話した、春日大社に残る

「春日鹿曼荼羅」

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鹿の鞍上に神木の榊を立て、その枝一つ一つから、五人の十一面観音が描かれています。

「五」

十一面観音は、瀬織津姫です。
そして、それは 「5」 封印された、神の姿でもあります。

鹿の中には、仏の姿になった、瀬織津姫が、「5」 封印されていることをあらわしているのではないでしょうか。
 
封印した氏族 藤原氏は、なぜ、瀬織津姫を春日大社に祀ったのでしょう。

春日大社に、最初に 瀬織津姫を 比売大神として祀ったのは、
藤原永手でした。

藤原永手は、藤原北家の一人でした。

藤原家は、北家と南家に分かれていて、 この二つは、対立関係にありました。

藤原家には、この他、「式家」「京家」 の二つがあり、全部で四家ありました。

藤原北家は、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系
藤原南家は、、右大臣藤原不比等の長男藤原武智麻呂を祖とする家系です。

北家、「藤原永手」 と、 南家 「藤原仲麻呂」 との対立です。
これは、同じ一族内での、権力争いだと思います。

藤原家は、藤原不比等が亡くなった後、
737年、天然痘蔓延により、藤原四兄弟があいついで亡くなります。

この天然痘は、藤原氏族だけでなく、多くの大臣・大納言などの、議政官もなくなってしまいます。

この頃から、陰陽道も盛んになっていくのですが、 たぶん、このことは、
瀬織津姫の祟り、 瀬織津姫が、悪霊となり、藤原家を呪っていると思われたのではないかと思います。

四兄弟が亡くなった後、 国政は橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになるのですが、
孝謙天皇の時代になると、藤原仲麻呂の発言力が増すようになります。

しかし、その後、右大臣・藤原豊成が薨去した天平宝字9年(765年)以後、
藤原 永手が、太政官の筆頭公卿の地位をえることになります。

古事記が創られた奈良時代は、 同じ一族の中で、多くの争いが起こりました。

そんなことが続いたからでしょうか、
筆頭公卿の地位を得た、3年後、 768年に、 春日大社を建立することにしたのではないかと思います。

姫の御霊を鎮めるために。

少し、話がそれますが、 上記に出てきた、橘諸兄(たちばな の もろえ)は、
元皇族、葛城王のことです。

実は、この 「橘諸兄」 もまた、瀬織津姫と深いかかわりのある人物です。
それは、また今度、お話させていただきたいと思いますが、だんだん、真実が少しづつ表に現れ始めたような気がします。

古事記、日本書記で書かれた内容の真実が、少しづつ、見えてきたような気がしています。

今、私が考える 古事記の姿は、

上巻、天地開闢や、国生み、神生みは、アマテラスを祖神とするために造られただけでなく、姫を
「8」 「5」 の数で封印し、 また、「死から新たな力が生み出される力」 をあらわし、また、「8」 の力で、これ以上ない、神の力をえるために書かれた 「呪文」 の 物語。

そして、中巻は、
「神武天皇」 = 「悪又は鬼である 姫を封印した過程」

「神武天皇」が行った、東遷とは、姫を封印し、消し去るために行われた数多くの出来事を、
物語にしたものだと、思います。

そして、その大きな舞台となった場所が、 「徳島」 にあると、思っています。

また、 応神天皇(八幡神) を 偉大な神にするために、つくられた物語が、

「神功皇后」 の伝説。

そして、東は、 鬼退治として表現された、

「坂上 田村麻呂」 の伝説。

数々の伝説は、全て、瀬織津姫の封印のためのもの。

これらを、 これから来年にかけて、少しづつ、謎解きをしていきたいと思います。

人々が住む、都や山里に、いつでも神さまを感じることができるようにとつくられた 神社。

でも、本当に、神が宿る場所は、人が入らない、原生林の生い茂る森の中。

そして、天と地が繋がる場所は、 「中州」 
海に囲まれた、 神の住む 「島」

水と森とがせめぎ合う場所であり、 龍宮の海の中央。

そして、空海が、封印した 四国は、その中に封印しなければいけなかった、秘密が存在するから。

少しづつ、少しづつ、 その封印をといていけたらいいな。。。。。。。。

 


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by ldc_nikki | 2011-12-24 02:26 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(2)

もののけ姫の神

こんばんは。

今、改めて、もののけ姫を見ています。

蝦夷の末裔、「アシタカ」

モロに育てられた 「サン」

そして、森の神、 「しし神(鹿神)」

瀬織津姫のことを調べ初めてから、もののけ姫の味方が以前と変わりました。

「タタリ」の古い語源は「立ち現れる」

神の世界から、神々が、何らかの形で俗世に降りて来るという意味だそうです。

それが、「タタリ」

どこかに、自分の心の中に罪を感じていたから、「タタリ」 に変わってしまったのかもしれません。

しし神のあらわれる泉は、世と死が、せめぎ合う場所。

死んでいくもの、再生していくもの。 

それが、 神の世界と、俗世の境目、 天と地を結ぶ場所。

そして、そこが、 月の聖なる泉。

瀬織津姫と繋がる場所。

瀬織津姫と、しし神は、同じ意味をもつ神かもしれないと。

今度、春日神社のお話をしますが、ここでは、鹿が神の使い。

『春日鹿曼陀羅』 は、 神鏡に映る十一面観音と鹿を描いていました。

これが、どういう意味をもつのか。

ここにも、姫の姿が見えているような気がします。

生と死、破壊と再生 陰と陽。

その意味が、映画の中から、見える気がします。



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by ldc_nikki | 2011-12-21 00:03 | 古代の謎 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日は、少し前にお話した丹生都姫とも関係の深い場所、玉川町のお話です。

「丹」

とは、水銀のとれる所をあらわし、そこに祀られる、

「丹生都姫命」 は、 瀬織津姫のことだというお話をしました。

愛媛にも、この 「丹」 の つく地名が多くあります。

そこは、中央構造線に位置した場所で、 「丹」 だけでなく、豊富な鉱山、そして砂金もとれる所です。

現在も、今治市の隣、現在は、西条市になっていますが、

「丹原」 や、 壬生川(丹生川) などは、今もその面影を残しています。

そして、今日、ご紹介する 今治市(旧玉川町) も、古代は、「丹生」 と呼ばれていました。

そして、今治市と(旧)朝倉村との境に鎮座する、 重要な神社の祭神は、今は、スサノオが祀られていますが、 本来は、 「丹生都姫」 だったと、 村史は語っています。

今治は、 「丹」 に由来する山々に囲まれていることが、調べていくうちにわかってきました。

今日、ご紹介する 玉川は、それだけでなく、大国主や少彦名命の伝説や、スサノオの伝説、さらには、新大和朝廷とも、深いかかわりのある場所。

もう二年以上前ですが、玉川の奥地に入った時、まるでそこはジブリの世界でした。
薄暗く生い茂る木々に、美しい川、 まるで、もののけ姫の世界です。

そんな深い山の麓に、 まるで、昔にタイムスリップしたような里山があります。

そこは、昔、新大和政権に移った後、伊勢神宮の領地でした。

豊かな土壌と、豊な水、水害や山崩れが起きにくい山をもつその場所が、選ばれたと説明されていますが、
私は、それ以上に、ここが、古代の大和の人々の住む場所であり、重要な場所を占領されてしまったことに由来すると思っています。

伊勢神宮の外宮、「豊受大神」 の もとへと、奉納されていた、玉川の古代米。

今日、ご紹介する神社は、その元、伊勢神宮の領地に鎮座する 「王子神社」

そこは、玉川町奈良之木。 玉川から、朝倉へと山を越えて行く途中にあります。

そして、そのすぐ側の山は、 今も、「神の森(みこのもり)」 と呼ばれています。

昔から、どうしてここが、 「神の森」 と呼ばれているのかずっと気になっていたのですが、ここは、
本当に、 神の森でした。

持統天皇がここに、アマテラスをお祀りする前、 ここには、ニギハヤヒと、瀬織津姫が祀られていたと思われます。 
それを、今も伝えるかのように、この奈良之木から、さらに山奥へと入り、奈良原山の頂上には、今も、瀬織津姫が祀られていた後があります。

そこには、 今も春になると、見事な花を咲かせる、 「千疋桜」 があります。

奈良原山を占拠され、この地を守ってきた人々もまた、時代の渦の中へと巻き込まれていったのだろうと思います。

今は、だんだんと人も少なくなり、ここで、そんな歴史があったことなど、 忘れさられようとしています。

でも、お隣の朝倉の小さなパン屋さんで、偶然見つけた 「神の森の食パン」 の話を聞いて、
何も知らなくても、何かを感じ、その歴史を絶やさないように、神様の導きを感じました。

では、神社の写真を紹介しながらお話の続きをさせて頂きます。

*王子神社
*今治市玉川町字松ノ木丁592番地 (住所は違いますが、ここを奈良之木といいます)
*祭神
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
大新川神(おおしんかわのかみ)
*由緒
持統天皇4年の春、国司小千宿禰玉興が当地を開いたとき、天照皇大神、饒速日神、大新川命をこの地に奉斎したものという。
 後に南北朝の末、長慶天皇、同妃、皇子と共にこの地に御潜匿になられた由縁によって、同妃並びに皇子の霊を合祀したという。

この神社は、元は別の場所にありましたが、現在は、この山の中に祀られています。
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小さな川を渡り、あぜ道を通り山の中へ。
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鳥居が見えてきました。
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階段を上ると、すぐ拝殿があります。
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鳥居に刻まれた絵が、とても気になりました。
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ここも、神紋は、「三島紋」 です。
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境内社 「山神社」
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ここに祀られている、大新川神とは、ニギハヤヒの末裔、小千命の祖祖父にあたる人です。
村史には、 伊勢神宮の領地となった時、時の天皇が、ここにアマテラスをお祀りしたと書かれてありました。

そこに、ニギハヤヒの名前があり、少しほっとしました。

時が流れ、瀬織津姫の名前は書くことができなくても、ニギハヤヒが一緒に祀られていることで、ここに住む人々が、本当の神を忘れていたなかったのだと。

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龍に守られた 神紋もまた、何かを伝えたいかのように見えます。
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ここが、伊勢神宮へと奉納する お米が作られていた 奈良之木土居(ならのきどえ)です。
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玉川の隣の、朝倉で、なんとなく立ち寄ったパン屋さんで、目に飛び込んできた パンの名前。
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早速買って帰ろうと思ったのですが、売り切れ。
お店の人に聞いてみると、このパンは、早くても前日に予約をしないと、できないそう。

でも、なんとか、夜まででいいので、つくってもらえないかと聞いてみたら、
パン職人の人に聞いてきてくれ、つくってくれることに。

そして、出来上がる夜7時。 
パンを取りに行きました。

すると、パンを作ってくれた、お店のご主人が待っててくれました。

せっかくなので、いろいろお話を聞いてみることにしました。

このご主人は、 古代米でパンを作りたいと思い、 一度絶えてしまっていた、神の森の古代米を復活させたそうなのです。
でも、ここが、伊勢神宮の領地で、 奉納をしていたことは、全く知りませんでした。
もちろん、その前が、瀬織津姫を祀っていたことも。。。。

ご主人は、 そのことを知らず、それでも、ここで作った古代米を使いたいと思い、知り合いの農家さんにお願いして、 古代米を作ってもらうことにしたそうなのです。
それが、2年ほど前。 ちょうど、私が、神社巡りを始めたころです。

まるで、神さまの導きで、古代米を復活させたようにさえ感じました。

出来立ての、古代米のパンは、ご主人の想いがいっぱいつまった、最高に美味しい食パンでした。

子供たちも、おいしい美味しいと、あっという間に、食べてしまい、また買ってきてほしいとねだられています。

不思議なもので、 神の森で作ったお米というだけで、 少し神様に近づいたような錯覚をおぼえます。

時の天皇が、豊受大神(稲の神)を祀り、 神のお米を食べることで、アマテラスと一体になろうとした気持ちが少しわかるような気がしました。

でも、本当は、ここでつくったからではなく、全てのお米、全ての食物が、神さまに通じている。

今の世の中は、それをすっかり忘れてしまっているんだ、と改めて、体で気づかされたような気がしました。

姫さまは、それを私に、伝えたかったのも。

これが、神の森の古代米でつくった 食パンです。

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そして、ここが、神の森です。
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パン屋さんの名前は、

今治市朝倉にある 「月原ベーカリー」です。

「月の原のパン屋さん」 

パン屋さんの名前に、「月」 の文字が。。。。。。 これも、偶然なのかな。。。。。。。

私だけは、 月の女神、 瀬織津姫の、ご縁だと思いたいなと思います。 




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by ldc_nikki | 2011-12-19 23:35 | 愛媛県今治市(旧玉川) | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、初めて、高知県の神社へと参拝しました。
今回は、全く調べないで高知県へと向かいました。

唯一、行く途中、本屋さんに立ち寄り、高知県の道路地図にざっと目を通し、なんとなく、気になる神社の位置だけ、 数社確認し、本は買わずに、高知へ。

途中、何か所か行きたい地名があったのですが、分かれ道で、思いついた方へと曲がり、
山の中へ。

また今日、とても素敵な方々出会い、 そして、意味のある神社、意味のある場所に出会いました。

今年最後の、遠出となった今日。

来年に繋がる意味のある場所に、行った気がします。

今日のお話は、また、後日、させて頂きます。お楽しみに。

今日の神社は、松山市に鎮座する 「明見神社」 です。

ここは、明見と書いて みょうけんと読みますが、一般的に目にするみょうけんとは、

「妙見」 と いう字で書かれます。

「妙見」 ということば、地名や、山の名前で時々見かけます。
そういえば、先日ご紹介した、大西町の神社の近くにあった、古墳の名前も 

「妙見山古墳」 

不思議なのですが、大西町の神社を調べている時には、 「妙見山古墳」 の名前を見ても、全く気になりませんでした。

それが、今回の神社の番になって、突然、物凄く、この 「妙見」 という言葉が気になり始めました。

今まで、あまり、気にしたことがなかったので、今回神社をご紹介するあたって、少し 「妙見」 について調べてみることにしました。

すると、今まで聞いたことがない、「女王伝説」 にたどり着きました。

そして、その伝説もまた、 瀬織津姫と関係のある伝説だとわかりました。

更に、その伝説から、 妙見と瀬織津姫の封印の繋がりも。 

今日は、そんな 「妙見」のお話を、交えながら、お話させて頂きます。

「妙見」

妙見とは、「妙見大菩薩」 のことで、神社の祀られる神様ではなく、 
真言密教の 「菩薩」 仏さまの姿のことです。

そして、北辰 「北極星 または 北斗七星」 の象徴でもある、星信仰の仏さまのことです。
 
北極星と言えば、あの 「8」 の暗号のところでも、お話したことを、思い出されると思います。

「北極星」 は 「天皇」 のことを表す星。 全ての星の中心をあらわす星です。

伊勢神宮には、この北極星とともに、北斗七星も描かれています。

「8」 の暗号の本では、この北斗七星は、天皇の乗る 「車」 として表現されています。

でも、私は、この本を読んだ時、 なんとなくこの 「車」 という表現に違和感を感じていて、納得が言っていませんでした。

ですから、ここでも、そのお話は、今までさけていました。

というのが、 「7」 という数字は、 現代の世の中では、 ラッキーナンバーのように言われていますが、
古代のいくつかの思想では、 あまり縁起のいい数だとされていませんでした。
更に、古事記の中の 「8」 の 意味を元に考えると、 「7」 は 終わり、 死を意味する数字でもあるのです。

「7」で終わり、 「8」 で始まる。

始まりのための、終わりの数なのです。

その 「7」 という数が、 天皇の乗る車に表現されるのは、やはり変だと思っていたのです。

妙見大菩薩とは、冒頭でも書いたように、北極星のこととも言われるのですが、
兵庫県養父市妙見山 日光院では、妙見大菩薩は、 「北斗七星」 のことだと、はっきりと書かれています。

妙見菩薩とは、 星宿信仰での、「北」 を意味する 菩薩。
ですから、 北をしめす、北極星や北斗七星を、 妙見菩薩の象徴とされていました。

ですが、いろいろ調べてみましたが、
北極星と北斗七星の、両方を妙見菩薩とされることに、疑問を抱いている人は見当たりませんでした。

どうして、ある所では、北極星にあらわされ、ある所では北斗七星にあらわされているのか、私には理解ができませんでした。

でも、兵庫県の日光院での、由来を読み、私なりの考え方でその疑問が解けました。

古代、中国の思想では、 北極星は天の中、そして、北斗七星は、天帝の帝車、天帝の強力な補佐官と考えられていました。

どちらも、北をさしていることには変わりないのですが、
北斗七星は、2番目です。

伊勢神宮で、北斗七星が描かれたものが、姫と意味していたかどうかは、まだはっきりと断言できません。

しかし、上記の妙見大菩薩をまつる、 兵庫県養父市妙見山 日光院での由緒の中に、こんな一文があります。

「但馬妙見日光院の妙見信仰の歴史も古いのですが、我が国においてその妙見信仰を理論的に説かれたのが真言宗の祖、弘法大師空海なのです。故に平安時代以降、当山は真言宗に属しているのです。」

ここ、日光院の妙見大菩薩は、 空海がその意味を理論的に説いた仏の姿なのです。

空海は、 北をしめす星、北極星と北斗七星が、 
妙見菩薩と呼ばれることの意味と、瀬織津姫の封印の意味とのあいだに、繋がりを見つけたのだと思うのです。

天皇=北極星。 そして、 二番目である 北斗七星とは 「瀬織津姫」 に値する。

更に、 「7」 は、始まりの前の終わりを意味する数字。

姫の封印にも使われた数字です。

東西南北の方位の四神(守護神)のうち、北は 「玄武」 をあらわします。

「玄武」 とは、 亀の体に、蛇がまきついた姿の神です。

「亀」 と 「蛇」 この両方ともが、 姫の姿でもあるのです。

国津神(瀬織津姫やニギハヤヒなど)の神社の神紋は、 全て、亀甲。
亀の甲羅の中に閉じ込めた形になっています。

「浦嶋説話」 浦島太郎の原作ともいえるあの物語の中で、
瀬織津姫である、 「神女」 は、 「亀女」 そう、亀の姿としてあらわされているのです。

浦嶋子が釣り上げた5匹の亀が、浦嶋子が眠ってしまい目が覚めた時、 美しい神女の姿に変わっていたと書かれています。

姫は、封印である 「5」 匹の亀に姿を変えられてしまっていたのです。

そして、もうご存知の通り、 瀬織津姫の本来の姿は 「龍」 「蛇」です。

北をさす、 「玄武」 の姿は、 「亀」 と 「蛇」 の両方をあわせもった姿、 

封印された 「瀬織津姫」 の姿と同じなのです。

そのことに、気がついた 「弘法大師空海」 は、 妙見菩薩は、 瀬織津姫でもあるとわかったのではないでしょうか。

伊勢神宮に描かれた 北斗七星が、姫をあらわしているかどうかは、これから、さらに検証していく必要があると思いますが、 ここに、 「8」 の封印の意味が、重ねられている可能性は十分にあると思っています。

また、だからこそ、姫は亀の姿に変えられたのではないかとも思います。

ですから、妙見菩薩を、北斗七星にたとえている場所は、 空海のたどり着いた姫の姿です。

そして、それを証明できるもっと大きな秘密がこの、日光院の妙見大菩薩にはあります。

ここは、明治以前は石原山帝釈寺日光院と称していました。
しかし、明治の廃仏毀釈によって日光院がある日突然、神社になったそうです。

その神社の名前が、 「名草神社」

そして、現在日光院 「名草神社」 その本殿に、「名草彦命」 を祀っています。

こちらの由緒では、起源は、飛鳥時代、 古事記ができるよりも前です。

その後、天正年間(1570~1580)ころまで、とても栄え、そのころには、
塔中に成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊の十カ寺を有し、別に求聞持堂、護摩堂、仁王門など全備し、また、西方五十丁山上に、奥の院(現在の名草神社の地)を有し、石原全山にわたる構想実に雄大な山陰随一の一大霊場だったそうです。

それが、秀吉の山陰攻めの兵火にあい、妙見尊本殿、薬師本堂のみを残し衰微しました。

その後、奥の院に妙見大菩薩を奉持して登り日光院を妙見山の山腹に移転復興したといいます。

そこは、現在神社 「名草神社」 として残っていますが、その神社に、明治時代までは、
日光院として、「妙見さん」 は祀られていました。

これは、この時は、神仏習合、 神の姿と仏の姿を一つとして、祀られていたものが、 別々にしなければいけなくなった明治時代に、神の姿である、「名草彦命」 だけが残ったことをあらわしています。

現在は、元は一つだったものを、同じ領地の中に、「お寺 と 神社」 別々にまつっています。

このお寺では、 名草神社の 名草彦命と、妙見大菩薩とは、全く関係ないものと説明しています。

でも、 実は、この 「名草彦命」 が 瀬織津姫のことをあらわしている証拠なのです。

空海が、この妙見大菩薩を、瀬織津姫の仏とといたその想いを、ずっと受け継いできた証拠なのです。

「名草彦命」

私も、全く聞いたことがない 神さまの名前でした。
でも、この神を調べることによって、 もう一人の封印された女王の名前が出てきたのです。

それが、

「名草姫」 です。

和歌山県に伝わる、名草戸畔(なぐさとべ)の伝承です。

名草戸畔(なぐさとべ) 「名草姫」 とは、現在の和歌山県に
およそ二千年前に実在したと思われる 女性首長、 女王のこと。

名草姫は、 神武天皇の東征の犠牲者の一人として、地域の伝承として今も語り継がれています。

最後まで、戦うことを選び、 神武軍に殺されてしまった姫。
その伝説は、 日本書紀に、たった一文であらわされていました。

それは、瀬織津姫の封印のさいに、抵抗した氏族のことをあらわしたかのような伝説です。

日本書記では、たった一文でしたが、地元では、しっかりとそのことを伝えてきていたのです。

そして、「名草彦命」は、「名草姫」 の夫であり、「丹生都姫命」 の 子供だったのです。


先日、丹生都姫と瀬織津姫のことが、繋がり、ここで、やっとお話することができました。
そして、このタイミングで、 この名草姫の伝説を知ることに。

まるで、丹生都姫の真実を明らかにする日を待ちわびていたかのように、突然に、現れた 

「名草姫」 と 「名草彦命」 でした。

もう前回の、丹生都姫を読んだかたは、おわかりだと思います。

名草彦命は、 「丹生都姫」 の子供。 でも、 これは、 真の子供という意味ではなく、 「名草姫」 の伝説が、 瀬織津姫の封印に関わることだということを、どこかにしめすための、「仮の姿」

名草彦命 とは、 瀬織津姫の存在を、しめした姿なのです。

日本書紀にたった一文だけ出てきた姫の名前 「名草姫」
更に、その姫の名前ではなく、 地元の伝承として残された、 「夫」 の名前を ここ、日光院の妙見大菩薩と習合させていたのです。

この 日光院の住職さんでさえ、 その真の姿を見ることはできていません。

誰にも、真を知られることのないように、
しかし、 後の世で、 この真実を、見つけることができるようにと、たった一つだけ、残してくれた

「名草彦命」 という 神様の名前。

空海が、その真実を知った 「妙見大菩薩」 の姿が、 瀬織津姫であったことは、
きっと、まだ、認めてはもらえないと思います。

無名の私のようなものが言っても。。。。

でも、私の中では、また新たな真実が見えたと思っています。

毎回、何かが繋がる度に、 今のこの世の中は、古事記がつくられたあの時代に封印され、新しい歴史がつくられ、新しい信仰が生まれ、新しい風習がつくられ、それを 1300年たった今でも、続いているのだということに気づかされます。

それはそれで、絶えることなく、受け継がれた人々の想いの強さを感じ、凄いことだと思います。

しかし、そんな中で、まるで、「点」 のように、各地に隠されながら受け継がれた伝説が存在することに、
さらに重く、強い想いも感じます。

人の歴史というものは、 何年、何百年、何千年たとうとも、繋がっているのですね。

でも、それは、恨みや、憎しみで繋がっているのではなく、 ただ、その存在を忘れないでほしい、二度と同じ過ちを繰り返さないでほしいという気持ちがあるからのではないでしょうか。

今を生きる私たちは、それを間違ってはいけないのだと思います。
 
世界中で、 たくさんの過ちを人間は犯してきました。

それを、今でも引きずり、恨み続けている人も大勢います。

それを引きずり、争いを続け、今、この瞬間も戦いをいどもうとしている人さえいるかもしれません。

歴史は、忘れてはいけません。
そして、それは、できることなら、真の姿で伝えなければいけません。

でも、その歴史に縛られ、その歴史を恨み続けることも、あってはなりません。

明るい未来をつくるために、 歴史は、あるのだと、そのために繋がっているのだと私は思います。

*明見神社
*天鏡命(あめのかがみのみこと)
*松山市米野町131番地

ここ、松山市の妙見神社は、今治市玉川町から、山を越えて松山へと行く国道317号線沿いにあります。

峠のトンネルを抜けて、すぐの小さな部落の山の中に、鎮座されています。

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小さな橋を渡ると、その向こうに鳥居が見えてきます。
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入口の鳥居です。
畑の中を通り、静かな山の中へ。 
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二本の御神木が、まるで鳥居のようにたっています。
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拝殿
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神紋は、ここも、「三島」 です。
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本殿
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ここにも、神の依り代 竹林がありました。
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古代、神様が降臨し、ここで松杉を拓き、霊地を作り清水を掬い汚穢祓除したと伝わる
この場所。

参拝が終わり、後ろを振り向くと、鳥居の向こうに、まぶしい光が。

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人々の生活を、少し高いこの場所から見守り続ける 神様。
そんな神様が、今にも、空から降りてくるかのような、光の柱が空から、目の前にさしていました。

こんなに、近くに、光の柱を見ることはあまりありません。
光の柱の中に、私たちも入っていくかのようでした。

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愛姫伝第14章 動画をアップしました。
今回のテーマは 「祈り」 です。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-12-18 03:56 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は、まず、ツイッターでも少しお話しました、10円玉の秘密です。

職場の友達が、

「ねぇねぇ知ってる~? 十円玉に描かれた平等院鳳凰堂の屋根の上にのっている、鳳凰には、雌と雄があるんだって。」

十円玉は、昭和26年に初めてつくられたのですが、
この最初の年に、つくられた十円玉の鳳凰は、雌でした。

しかし、本物の平等院鳳凰堂の鳳凰は、雄。

それで、翌年の 27年の途中から、雄に変更されたそうです。

ですから、26年と、27年の一部の十円玉だけ、 雌の鳳凰が描かれているそうです。

その話を聞いて、早速、別の職場の人が、今日、26年と27年の、十円玉を持ってきて検証。

なんと、もってきた全ての十円玉が、雌の鳳凰でした。

雌の鳳凰は、体が小型で、足が長いのが特徴。
雄の鳳凰は、体が大型で、足が短いのが特徴です。

皆さんも、もしもっていたら、確認してみてください。

写真にとると、少し見えにくいのですが、 これが、 26年につくられた、雌の鳳凰です。
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昨日の続きのお話ですが、そのお話をする前に、やはり現地に行き、自分の目で確かめてきたいと思いますので、この週末、行ってから、続きをお話したいと思います。

今日は、先日の続きの、大西町の神社と、 万葉集の中のあることばに注目したいと思います。

今日の神社は、先日の眞名井神社から、少し南へ行ったところに鎮座する、

「客大名神社」 です。

ここは、藤山健康文化公園内の標高80mの丘陵上にある、妙見山古墳の横を通り、山の中へ少し入った所にあります。

車を止め、みかん畑の中を歩いて、山の中へ。

木々に囲まれ、少しわかりにくい所でしたが、神社がある場所は、不思議となんとなく、まわりと違う空気を感じるようになりました。

山に隠れるように、鎮座する、客大名神社は、

「白山神社」 でした。

「客神社」 については、先日も少し出てきましたが、隠された神々が祀られているといわれる神社。

でも、白山神社を、 客神社としているところは、初めてでした。

白山神社の祭神は、

「菊理姫命 ( くくりひめ ) 」 です。 仏の姿では、十一面観音と言われ、あの円空さまが、瀬織津姫を探す旅に出られることとなる、きっかけの女神さまでもあります。

古事記の中では、イザナミが黄泉の国へ行ってしまった後、 イザナギが黄泉の国へと追いかけていくのですが、 変わりはてた姿に驚き、 逃げ帰る途中 口論となったのですが、 この菊理姫命の御働きで、無事、イザナギは帰ることができたと言います。

そんなお話から、 菊理姫命は、縁結びの神様 また、争いを治める神さまと言われています。

しかし、本当の姿は、 瀬織津姫。

その本当の姿を知った円空は、その生涯を、瀬織津姫が封印されてしまった場所を探し、十一面観音や、善女竜王を掘りながら、姫の魂を鎮めるために旅をしていったのでした。

その、菊理姫命が、ここでは、客大明神として祀られていました。

ここも、神社庁には、登録されていない神社。 

このあたりの地区は、瀬織津姫の名前はないものの、その名前を変えながらも、姫さまのことをずっと守り続けてきたんだと思います。

それだけ、姫さまに対する想いの深い人々が、住んでいた場所なのかもしれません。

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そして、ここも、神紋は、「三島紋」 でした。
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神社へ行くと、竹林をよく見かけます。
ここも、まわりは、竹で覆われていました。

竹は、古くから、神の依り代とされ、邪気を祓う神聖な木と言われていました。

かぐや姫も、竹の中から生まれるように。。。。。

以前お話した、生け花の起源も竹。 

しかし、姫、そして、ニギハヤヒは、この竹で編まれた 籠の中に・・・・・。

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万葉集の中で、持統天皇が、天武天皇のことを想い、詠った歌の中に、こんなものがあります。


向南山 陣雲之 青雲之 星離去 月矣離而

(さきつみねやま たなびくくもが あおくもが
ほしやさからん つきはなれおり)

現代語訳
遥かに望める吉野山に 瑞兆の雲がたなびく
この日輪に輝く白雲は 「星や月」 を大きく凌いでいることだ
早くから 大王にふさわしい盛徳を具えられていた皇太弟の大海人皇子さまは
天智天皇後の皇位継承の混乱を避けて吉野へ移られましたが
皇子に心を寄せる人々が集まり 漸く 帝位に就かれたのだった

この中の、

「星離去」 (星やさがらん)=星は遠ざかっている とよめますが

こんな解釈があるようです。
 
「星」が主語 「離去」が述語になり 「去」趨勢(すうせい) をあらわす

「離」は居る位置(格)が違うこと 

◆「星」 は、 青雲の明るさとは比較できないくらい劣ることを意味し、

「月矣離而」 は 「月離而矣」 で (月はなるのみ)

月離れおり=月は離れているしかない 

「月」が主語 「矣離而」「離而矣」は述語になる 「而矣=耳 のみ」限定をあらわす

◆「月」は、離れているしかない

そして、この場合の 「星」 「月」は、

天智天皇亡き後、天武天皇と皇位をあらそった

「大友皇子ら近江がた」 のことを表すとも言います。

大海人皇子(天武天皇) が「壬申の乱」を制して、
天照大神(日 太陽神 皇祖神)の皇統を受け継ぎ、
「月、星」 である、天智天皇の息子「大友皇子、近江がた」 は、離れるしかない。

持統天皇は、
近江がた (天智天皇) のことを、 「月や星」 とあらわし、
天武天皇を、 アマテラス 「太陽」 とあらわしているとも訳されるそうです。

天智天皇から 天武天皇へと変わり、
月から、太陽へと、変わった。

そして、瀬織津姫(月) から、 アマテラス(太陽)へと変わったということが、
この万葉集からも、読み取ることができるようです。

 


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by ldc_nikki | 2011-12-16 00:52 | 古代の謎 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日もまず、神社のご紹介から。

今日ご紹介する神社は、昨日ご紹介した神社のすぐ近くに鎮座される、

「眞名井神社」 です。

ここは、神社庁に登録されていないし、 神社にも何も由緒が書かれてありませんでしたので、詳しいことはまだ何もわかっていません。

でも、眞名井神社とは、以前もご紹介しましたが、瀬織津姫と深いかかわりのある神社。

そして、ここに祀られる祭神

「五男三女神」 も、 瀬織津姫封印の鍵をにぎる神様です。

宗像神社や、宮島の厳島神社の所で、詳しくご紹介しましたが、アマテラスとスサノオの誓約のさいに、誕生した神様です。

そして、古事記では、この中の 一柱、

「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」が、ニニギの父となります。

厳島神社では、 客神として、主祭神である、三女神に参拝する前に、必ず参拝しなければいけない神として、入口に祀られています。

詳しい説明は、「客神社と厳島神社のつながり保内町 客神社」の所でしていますので、 よかったらお読みください。

「客神社と厳島神社のつながり保内町 客神社」

卑弥呼の時代に祀られた瀬織津姫の神社のすぐ近くに、祀られる 眞名井神社。
何か、とても深い意味があるような気がします。
そして、この境内の中に、もう一社、不思議な神社がありました。

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拝殿です。
どうして、神社庁に登録されていないのか、不思議なくらい立派な神社です。
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そして、ここにも、三島の神紋があります。
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そして、この拝殿の裏側の、神域の中に、その不思議なもう一つの神社がありました。

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神社の名前は、 

「おつぐろさん」

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「おつぐろさん」  ってどんな意味なのでしょう?

少し調べてみたのですが、全く見つからず、まだ、どんな意味があるのかわかっていません。
でも、このおつぐろさんを祀っている氏子の方々の、名前が刻まれていました。

「御手洗氏子中」 

そうなんです。 このおつぐろさんを、氏神さまとしている人たちは、 「御手洗」 瀬織津姫の祓いの意味と同じ意味をもつ名前だったのです。

「乙」? 「黒」? さん という意味なのかと一瞬思ったのですが。。。。

「乙」 は二番目という意味があり、 「乙姫さま」 の乙でもあります。

そして、 「黒」 

姫を色にたとえるならば、 本来なら、 「白」 

白蛇、白兎、月、鷺。 瀬織津姫の真の姿は、 「白」 ですが、 それを、わざと、「闇の世界」 「黒」にして隠したのではないかと、思いました。

今度、折をみて、大西の方に、聞いてみようと思っています。
もっと、詳しくわかれば、また、お話させて頂きます。

ただの私の勘ですが、このあたり一帯は、瀬織津姫を消されたさいに、抵抗した人たちが住んでいた場所ではないかと思います。 
そして、残った人々が、秘かに姫を祀り続けた場所だと、そんな気がします。

今日の新聞に、大三島のみかんのことが、掲載されていました。
その記事を見て、びっくり。

みかんの写真と共に、大きく書かれた文字 「不老不死」 

そこは、大三島の中で、唯一、「小みかん」 という小さなみかんを栽培されている農家さんでした。
不老不死の果物と言われた、小みかんは、 「河野通直が、大山祇神社から贈られてきた、このみかんを食べて、病気が治った」 と記していたのです。

ここ数日、みかんと、不老不死のことばかりを考えていただけに、この記事とのシンクロに、驚きました。

「不老不死 = 瀬織津姫」 

ここ数カ月、このことばが、頭から離れることはありません。

今日は、私が二年前から、ずっと気になっていた、もう一人の姫神と、瀬織津姫の関係がやっとつながったお話をさせて頂きます。

今の職場で働き始めて、もうすぐ丸二年。
そこで、七人の姫に出会いました。 どうして、姫かといいますと、その出会いがきっかけで、
七人+一人=八人 の地球の循環を意味する姫を、つくったことにあります。

その中の一人の女の子のおじい様は、
奈良県は吉野、今はダムの中に沈む、 丹生川上神社上社の元宮司さん。

まだ、この時初めて、この神社の存在を知り、調べてみると、ここには、丹生都姫という、美しい名前の姫神さまが祀られていたことを知りました。

それから、ずっと、気になっていたのですが、 その半年くらいたった時、 突然、私もツイッターを初めてみようかなという気持ちになり、 さっそく登録。

そして、登録して間もないころでした。
まるで、その方に出会うために、ツイッターを始めたのかと思うくらい、偶然見つけた、
丹生川上神社上社の名前。

その方は、以前も少し紹介した、古事記を世の中に広めようと、自費で、お子様でも読めるように訳した、
古事記ものがたりの本を出版されている方。

その方が、この、丹生川上神社上社が、ダムの中へと沈む前に、神社の鎮魂の祭を開催され、そこで巫女をされていたのでした。

その様子を写真で見た時、 ここもきっと瀬織津姫と繋がっている。 と直感的に思いました。

でも、その時は、何の根拠もありませんでした。
ただただ、その中に、沈んでいく龍の姿が、とても悲しく、でも、力強く見えたのでした。

あれから、二年。

やっと、ここ、丹生川上神社上社の姫神さま 丹生都姫さまと、瀬織津姫さまが、同じだったことがわかりました。そして、あの龍もまた、姫の姿。 そして、あの時、つくった水の姫、姫を守る神として造ってもらった、白龍もまた、瀬織津姫だったと、繋がったのです。

二柱の姫さまを結びつけたものは、

「不老不死の仙薬」 です。

古代の人々、日本で、不老不死の伝説と言えば、 「徐福」 が、不老不死の薬を求めて日本に旅だったのは、不老不死の薬をつくるために必要なものが、ある場所だったのかもしれません。

不老不死の体をもつためには、ある仙薬が必要だとされていました。
西洋では、錬金術、中国では、錬丹術とよばれる 術を使い、古代の人々は、不老不死の仙薬をつくろうとしていました。

西洋では、「錬金術」 字の意味するように、 「金」をつくることが目的になっていったのですが、
中国では、「錬丹術」 といい、 不老不死を目的として、 同じような手法で、その仙薬をつくろうとしていました。

そして、そのどちらにも、必要だったもの、不老不死の体をもつために、どうしても必要とされていたのものが

「丹(に)」でした。

丹とは、丹砂、またの名を、「辰砂(しんしゃ)」 といい、硫化水銀のことです。

不老不死の仙薬をつくるためには、この丹砂が必要不可欠でした。

また、古代の祭祀にも、この 「丹」 は、かかせないものだったのです。

「水銀」 は、金属でありながら水のような性質を持っていることから、

「あらゆる鉱物の母」 と呼ばれていました。

そして、その水銀に、火を加えることにより、新たな力(不老不死)が誕生されると思われていたのです。

それを、太陽の王と月の王妃の合体によって生まれた子供と呼んでいたのです。

水銀とは 「月の水」 そして、 火 とは 「太陽」 

ここにもまた、 月と太陽の関係がありました。

古代の人々は、月の力と太陽の力を統合し、 不老不死の力をえようとしていました。

その月の水とは、 「水銀」 そして、それは、 「丹(に)」 の中にあったのです。

「丹砂 = 水銀」 は、火を加えることにより、 その色は 「白」 から 「赤」へと変わっていきました。

「赤」 とは 「大」 いなる 「火」の色をあらわします。

そして、加熱させ固まっていく、その赤い土は、 悪霊を防ぎ追いはらう呪力を持ち、
その過程の中で、吹き出す液体は、 不老不死の力をもつと思われていたのです。

悪霊を防ぐために、顔に赤い土を塗り、その土を使い祭祀を行い、神に通じるために、仙薬を飲み、不老不死の体をえようとしていたのが、 古代の人々と 神とのつながりだったのではないでしょうか。

「月の聖なる水」 「不老不死の力」 「再生、復活の女神」

新しい命を生み出す 「おおいなる 水の母」 それが、瀬織津姫。

そして、不老不死の力をえるために、もう一つ必要だった 「丹」 の女神として、後につけられた名前、
「丹生都比売」 の、本来の姿、 真の姿は、 「瀬織津姫」 だったのだではないでしょうか。

そしてまた、「丹」 が付けられた名前の地域は、 「丹砂」 を産出されていた場所だともいえます。

吉野の丹生川上神社も、その重要な場所、

そして、愛媛の重要な場所に繋がります。 

そのお話は、次回につづく。

最後に 一言。

毎日「笑顔」であいさつするだけで、 人と人は仲よくなれる。
自分も元気になるし、 相手も元気になる。
明日もまた、 元気に、笑顔で、 「おはよう」 と 始めよう。 

 


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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-12-15 00:44 | 愛媛県今治市(旧大西町) | Trackback | Comments(2)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。