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こんばんは。

今日から、西条市へと移ります。
西条、新居浜は、今治市から1時間ほどで行くことができる近い場所なのですが、いつも松山をスタートとしているのでなかなかくることができませんでした。

でも、それも今考えると後からくるところだったからかなと。

今回、西条へ入り、一つわかったことがあります。

それは、時代が大きく変わろうとしている時、姫を祀る「小千家」と争っていた相手は 「賀茂族」だったのではないかということです。

そして、その賀茂族の本拠地は、ここ西条にありました。

もちろん、賀茂族が西条に入ってくる前は、西条も姫を祀る一族が住んでいました。でも、もう早いうちから賀茂族はこの西条周辺に入ってきていました。
しかし、賀茂族の正体は複雑で、その姿がまだはっきりとわかりません。

というのが、賀茂族は一つの氏族だけをさしているのではないかもしれないということです。

三島明神を、徳島県へとさらっていった 「鷲」 もまた賀茂族で、その賀茂族の本拠地は徳島県板野にありました。 

鴨(賀茂)族は、その勢力を少しづつ増していき、701年、その力は最高潮に達したと思います。

今から、約1500年前、雄略天皇の御代、葛城氏本流は滅ぼされました。
そして時を同じくこの時、鴨(賀茂)族は、全国各地に開拓移住したと書かれています。

葛城氏と鴨族との関係は、もう少し調べていかなければいけませんが、今私が思うことは
雄略天皇により、滅ぼされた葛城氏本流は、 「鴨族」となって全国へと散らばっていったのではないかということです。そして、時がくるのをまっていたのではないかと。。。

全国各地に移住した鴨族の一つは、最初、現在の西条市、旧小松町の四国八十八箇所、香園寺の辺りに移り住みます。
しかしここにも、それ以前から祀られる神はいました。それは、2000年前からだと思われます。

ここへ移り住んだ鴨族は、本国から背負ってきた「葛城山麓」 に鎮座の 「高鴨大御神」 の御分霊を、荒野の守神として祀ったことが始まりだといいます。

ここに祀られた神は、土佐一宮高賀茂大社と同神、そして、石鎚山を開いた、役の行者の祖神でもあるといいます。

役の行者については、また後日ふれることとしますが、1500年前に、この地に移り住んだ鴨族、また、徳島県の鴨族は、それぞれ時がくるのをまつかのように少しづつその勢力を蓄えていたのかもしれません。
 

そして、645年。 大化の改新の時、
鴨族は、ここから少し東へ行った、西条市加茂川の近くを、大化の改新の条里制により、

「神野郡賀茂郷」 と制定され、郡司 賀茂氏の本拠地となったのです。

これで、天智天皇の跡が西条に多いことも繋がります。
でも、もしかしたら天智天皇は本当にここで命を落としたのかもしれない。。。。

また、西条市の越智氏族が、後に 「楠」の姓に変わったとされる伝承がることも、この 「鴨族」 そして 「役行者」 に繋がってくるのです。  

これについても、また後日ふれるとしますが、700年前後、この伊予の国での戦いにおいての敵の中心的な場所が、ここ西条にあったのだと私は感じています。

空海が、この場所に4つの四国八十八箇所を置いたことも、納得がいきます。

バラバラにお話することになるので、少しわかりにくいかもしれませんが、その意味が繋がった時、もう一度まとめてお話したいと思いますので、それまで一緒に考えてみてください。

645年、大化の改新より少し前、593年、推古天皇の時代、大山積神は瀬戸へと祀られることになります。
これは、大三島へその勢力が伸びていることをしめします。

この時、天逆鉾が徳威の宮より大三島宮へ奉遷されていることも、気になります。

また、同じ年、佐伯 鞍職が厳島神社を創建します。

これも、あまりにも偶然とはいいがたい出来事です。

厳島神社は、以前にもお話しましたように、この時からさかのぼること200年前、大三島の神を勧請したといいます。

厳島神社もまたこの時から、何かが動き始めたのではないでしょうか。

突如として現れる、越智氏の祖の「鉄人伝説」も、同じころです。

以前から、この時代にきっと何かあると思っていたのですが、この時から少しづつ準備が進められていた。
だから、後の古事記のさまざまな記録が、ここから急激に増えてくるのだと思います。

実は、今、このブログを書き始めてから、一揆に私の中でさまざまなことが繋がってまだ、うまく整理ができていません。
これから、少しづつ整理しながら、もう一度きちんとお話したいと思っています。

では、今日の神社をご紹介します。

今日の神社は、 「飯積神社」 です。

紀元4世紀の新羅征伐から凱旋した神功皇后と夫の仲哀天皇が帰途の道中、この地で自生していた櫟(いちい)の大樹にて笏(しゃく)を作り 新羅征伐で戦死した兵の鎮魂の祭犠を現在の社叢のある場所で奉じたことがこの神社のはじまりとされています。

このとき笏を作られた境内の櫟の樹がこの故事によって神木として祀られており、このため古来では櫟津神社(いちいづじんじゃ)との名称で呼ばれていたと伝わります。

また、ここ飯積神社は、西条祭りの三神社の一つです。
西条祭り三神社とは、 

石岡神社(氷見・橘地区)、伊曽乃神社(神戸・大町・神拝・玉津・西条地区)、飯積神社(玉津・飯岡地区と新居浜市大生院地区)

しかし、同じ西条祭りでも、

■石岡神社と伊曽乃神社は、楽車(地元ではだんじりと称する)御輿屋台(地元ではみこしと称する)

■飯積神社では太鼓台。

ただ、石岡神社の石岡神社では御輿屋台のことをさして「太鼓台」と呼んでいる。

また現在は、この3神社にもう一社加わり、嘉母神社(禎瑞地区)の祭礼も、西条祭りの一つとされるようになったそうです。

どうして、片方はだんじりで、片方は太鼓台なのか。
そして、それと同じように、新居浜と伊予三島は太鼓台なのかも、今度考えてみたいと思います。

話は、神社に戻りますが、ここ飯積神社は、神功皇后が起源になっていると書かれてありますが、
祭神の中に、

「國魂愛比売(くにたまえひめ)」 が祀られてます。

國魂愛比売(くにたまえひめ)とは、 「愛比売命」のことです。
愛媛の女神 「愛比売命」が、こんなところに祀られているとは私もびっくりしました。

ここには、きっと姫が祀られていたのだと思います。

伊予の国における 姫が祀られていた場所には、神功皇后の跡があります。

ここは、神功皇后の時代、紀元前4世紀ころは海だった場所です。
島のように浮かぶこの場所は、船が入る入り口だったのかもしれません。

それぞれの主要な場所へと入るための、伊予の国の海の入口には神宮皇后の跡があります。
唯一ないのは、今治だけです。

神功皇后が立ち寄ったとされる場所は、当時の主要国。封印されていく過程において、重要な場所だったのだと思います。

ここも、きっとその一つではないでしょうか。

*飯積神社 (いいづみじんじゃ)
*西条市下島山甲1883
*主祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと・稲荷神)
*配神 :國魂愛比売(くにたまえひめ)、
      十城別王(とおきわけぎみ)、
      足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)
      気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)

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階段を上がると、まず境内社があります。

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「今宮藤原神社」
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そして、拝殿。
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本殿
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今週末、西条で行われる古事記のお話。
これもまた、不思議なご縁を感じています。

私が賀茂氏の存在の意味に気づいてから、行くとこともきっと偶然ではないと。

安部清明の神社で古事記を伝えている知人と、陰陽師により封印されてしまった姫を追いかけ、古事記の真実を探している私が、龍神のご縁で出会い繋がり、2012年立春の日に会う機会を頂いたことは、偶然ではない気がしているのです。(私の勝手な思い込みだと思いますが^^;)

お互いが不思議とずっと会いたいと願っていて、敵などと思ったこともなく、それどころか、手と手を取り合いたい。そんな気持ちさえこみ上げてくるのも、そろそろ1300年の争いに終止符をうつときなのかもしれない時がきているのかな。なんて一人勝手に思ったりしています。

争うのではなく、けなすのでもなく、ただ本当の姿を知るだけ。
そして、姫の姿を少しでも表の世界へとあらわすことができたら。 

そして、二つの神が、一つになり、本当の姿になるだけ。

古事記も、大切な日本の歴史。
でも、それと同じように、歴史から封印されてしまった神も、それにより命を落としその存在もなくしてしまった多くの人々も、日本の大切な歴史。

どれも、大切なものには変わらないと思いませんか?

どんな歴史も、どんな存在も、全てが繋がっていて、どれも存在しなければ今の私たちは存在していないのだから。

全てが、一番よい未来をつくるために起きてきた出来事だと、全てが必要な存在だと、私は思いたいと思います。
また、そう思うことで、全てのわだかまりが解け、全てを認め合えることができるのではないかと思うのです。

それが一番難しいことでもあるかもしれませんが。。。。
いつかそんな日がくることができたら。。。。。。 心からそう思います。

また、きっと瀬織津姫もそれを願っていると思います。







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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-31 00:42 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日から、伊予路に春を告げるといわれる 「椿まつり」が始まりました。
お天気にも恵まれ、暖かく、初日の今日はものすごい人出でした。

前は通ったのですが、あまりの人の多さで行くのをやめました。

ブログでご紹介しようと思っていたのですが、ご紹介できなくてすみません。
でも、私はやはり普段の椿さん(伊豫豆比古命神社)の方がすきかなと思います。

ぜひ、静かな椿さんにも、行ってみてくださいね。

では、今日のお話です。

今日は、昨日の続き、松山市道後のお話です。

伊佐爾波神社と道後公園の間にあるお寺、「義安寺」です。

道後公園の中に鎮座する、岩崎神社をご紹介した時に少し出てきたお寺です。

岩崎神社のところにある、「大岩」に現れるという、「大蛇」は、その姿を見た人が大蛇の身体は、この義安寺まで届くほどの大きさだったいいます。

私は、その言われを読んだ時に、この「大蛇」は岩崎神社と義安寺で繋がっていると思いました。

すると、そこには思ったとおり、二つを繋ぐ「姫」の泉がありました。

今日は、その泉のお話です。

道後公園の中の岩崎神社のお話をまだ読んでいない方は、ぜひ、そちらからお読みください。
そのすると、今日のお寺の意味がよりわかると思います。

白人大明神 岩崎神社

「義安寺」

四国八十八箇所番外札所でもあるこのお寺は、「河野景通の子・河野彦四郎義安が建立したといわれる河野家ゆかりのお寺です。

天正13年(1585年)河野通直は豊臣秀吉の四国征伐で、小早川隆景の説得により降伏し、道後湯築城の最後の城主であった河野通直は滅ぼされてしまいました。

この時、一族の、譜代の家臣がこのお寺(義安寺)に集結し、ここにある井戸の水を飲み交わして、この後、決して二君に仕えないことを約束し、自刃したといいます。

それ以来、その家臣たちの魂は大きな螢になって、主君を慕いながら義安寺の周辺を夏になると乱舞するのだと言われます。その蛍を 「義安寺蛍」 というといいます。

その水は、 「誓いの泉」 といわれ、今もこのお寺の境内にあります。
そして、あの岩崎神社に現れるという大蛇は、この泉と繋がっていたのです。

現在の道後公園の場所にあった 「湯月城」の真ん中にあった「池」には、姫が祀られていました。
そして、その水とこの泉の水は繋がっていたのです。

河野家一族は、姫の泉の水を飲み、もう二度と過去の過ちを繰り返さないように誓ったのだと思います。
例え、滅びようと、「二君(二つの主人)」に使えることだけはしないと。

河野家(越智家)の最後は、原点である姫へと戻ってきたのだと私はこの泉へ行って思いました。

この時から、約1000年前に始まった一族の争い、その罪を背負ってきた河野家は、この泉で終結させようとしたのではないでしょうか。

今も、枯れることなく沸き続ける 「誓いの泉」 が、それを私たちに伝えているかのように思います。

*義安寺
*愛媛県松山市道後姫塚114
*山号 : 護国山
*本尊 : 釈迦如来

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そして、ここが誓いの泉です。地中から湧き出る水は、姫と繋がっている。
きっとそう思っていたのだと思います。
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この日はちょうど満月でした。
松山から帰路の途中、北条高縄山の上に、輝く満月が見えました。
満月の日に、誓いの泉へと行くことができ、なんだか姫の導きのような気がしました。

姫の月の光がみなさまにも届きますように。。。。。

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-30 00:02 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日は、久しぶりにお寺のご紹介です。

今年に入ってますます、お寺が気になり始めてきました。
姫の封印を解くためには、神社だけでは無理で、お寺の謎も説いていかなくちゃだめだなと強く感じています。

今日は、四国八十八箇所ではありませんが、お寺の中でも、八十八箇所は全て廻らなきゃいけないなと思っています。

今日ご紹介するお寺は、前回お話しました 伊佐爾波神社のすぐ下にあります

宝厳寺(ほうごんじ)です。

このお寺は、異説もありますが、一遍上人の生誕地と言われ。
天智天皇4年(665年)、越智守興が誓願院として創建したことが始まりとされています。
その後、伏見天皇正応五年(一二九二)再建され天台宗を時宗に改められました。

ご本尊は、阿弥陀仏(阿弥陀如来)。

阿弥陀仏の梵名は「アミターバ」また、「アミターユス」といい、

「アミターバ」は、「無限の光をもつもの」 という意味とされ、
「アミターユス」とは、「無限の寿命をもつもの」という意味だといいます。

空間と時間の誓約を受けない仏といわれ、西国の極楽浄土をもつといわれます。

そんなお寺の一角で生まれた、一遍は、河野四郎通信の孫であり、別府七郎左衛門通広の第2子として生まれました。

幼名は松寿丸といいます。

10歳の時に母が死に、父の勧めで仏門へ。天台宗継教寺で出家しました。
13歳で大宰府に渡り、浄土宗西山義を学びますが、25歳の時父が死に、還俗して伊予に戻ってくるのですが、一族同志の争いが原因で32歳で再び出家し、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行したといいます。

また、文永11年(1274年)には四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、念仏札を配り始めました。

しかし紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩みます。

一遍は、それから熊野本宮で参籠をします。

するとその時 、阿弥陀如来の垂迹身とされる 「熊野権現」 が夢に現れ、

「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」とのお告げを受け、この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加し、配り歩いたといわれます。

河野一族の一人として生まれた一遍は、この時、自分の祖先が何をしてきたかということをはっきりと知ってしまったのではないかと思います。
そして、それから、人々の心を救うこととともに、数百年前にしてしまった先祖の罪をわび、更に、その重要な地へと行っていったのだではないかと私は思います。

というのが、一遍は各地の神社へと参拝していったのでした。

このような順番で。

1.熊野那智大社             (和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
2.大隈正八幡宮(鹿児島神宮)    (鹿児島県国分市隼人)
3.厳島神社                (広島県佐伯郡宮島町)
4.吉備津宮ー安仁神社         (岡山県西大寺市藤井)
5.白河関の明神             (福島県白河町旗宿)
6.伊豆三島神社             (静岡県三島市大宮町)
7.美作一ノ宮ー中山神社        (岡山県津山市一宮町)
8.摂津一ノ宮ー住吉神社        (大阪市住吉区)
9.石清水八幡ー男山八幡       (京都市綴喜郡八幡町男山)
10.播磨松原八幡            (兵庫県姫路市白浜町)
11.備後一の宮ー吉備津神社     (広島県芦品郡新市町)
12.厳島神社               (広島県佐伯郡宮島町)
13.伊予大三島神社           (愛媛県越智郡大三島町宮ノ浦)
14.淡路二ノ宮ー大和国魂神社    (兵庫県三原郡三原町幡多)
15.淡路しつき天神 (志筑神社)   (兵庫県津名郡津名町志筑)

どうでしょう。一つ一つの検証は、いつかしてみたいと思いますが、
私は、一遍が参拝したというこの神社の名前を見て、びっくりしました。

全て、瀬織津姫の封印に関わる、重要な神社ばかりです。

一遍は、熊野で過去の重要な秘密を知ってしまったのだと思います。
そして、それが自分が生まれた河野家と深くかかわり、また自分の一族が罪深いことをしてしまったことを。
だから、悩み、苦しみ、瀬織津姫の神社である 「熊野本宮大社」に篭り、祈願をおこなったのではないでしょうか。

一遍の後世は、その罪への償いの意味も込め、一人でも多くの人々の心を救おうとしたのではないかと私は思うのです。

そしてそれは、一遍だけではありません。
今度お話しますある伝説も、その意味が奥底にある伝説。

越智家は、姫を祀る一族であったはずなのですが、姫の名前を消されようとしていた時、両方の血を受け継ぐものによって、姫を守るはずが、姫を消し去る側にまわってしまい、それに加担してしまったのです。

もちろん、全てではないと思います。

守り続けたもの、加担してしまったもの、その中での争いもそれはそれは凄い争いだったのではないでしょうか。 しかし、その力に勝つことはとうとうできなかったのです。

私はお寺に行けば行くほど、一族の決裂が見えてくるような気がするのです。
でも、その罪を仏さまが消してくださっているかのようにも見えます。

ここ、宝厳寺の阿弥陀如来さまが、闇に光を照らすように。。。。

これは、私の勝手な妄想かもしれませんが、その事実もいつかもっとはっきりとわかる日がくるような気がします。 そのために、今年は、お寺にも多く行くことになりそうです。

私の祖父は、伊予市の松前で生まれ、祖父の父の勧めで、三津のお寺に入り住職になりました。 
しかし、戦争で、負傷した日本兵の手当てをする役目として、日本兵の命を救うために、フィリピンへと渡り、そして、戦地で、戦うことなく銃撃戦に巻き込まれ、命を落としました。

最近、なぜだかわかりませんが、祖父もきっと何かの罪を償うべくして生まれ、人を救うというお役目を頂いたのかなと思えてきま
した。

私には、人を救うという力がまだありませんが、20歳を過ぎた頃からずっとそういう人間になりたいと思うのも、もしかしたら何か意味があるのかもしれないななどと、ふと思う時があります。 
いつか、私も祖父や、一遍上人のように人を救えることができる人間になれますように。。。。

*宝厳寺(ほうごんじ)豊国山遍照院宝厳寺
*愛媛県松山市道後湯月町
*山号:豊国山
*宗派:時宗
*創建:665年
*開基:越智守興
*本尊:阿弥陀仏

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本堂
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お寺の紋は、「三島紋」ですね。
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明日も、河野家ゆかりの大事なお寺をご紹介したいと思います。

それから、昨日からもう一つブログをスタートしました。

「愛姫伝2」 です。

こちらのブログは、このブログのように難しい歴史のお話はありません。
今まであまり神社やお寺に興味がなかった方にも、読んでいただきたいと思い、作りました。

自然の美しさや、神社の魅力、お寺の魅力、写真や簡単な説明を加えながら伝えていきたいと思っています。

愛姫伝 ヤフーブログ


私は、神社やお寺は、宗教だとは思っていません。
お寺は、多くの宗派があり、それぞれに少しづつ考えが違うものかもしれませんが、私の中では全て一つです。
どれも、私たちの心の中に本当は自然に宿るもの、生まれた時から何も習わなくてももっている心なのではないかと思います。
そして、過去と現在を結ぶ 「糸」 のような存在なのかもしれません。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-29 02:25 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、以前湯月城が築城されるまであったといわれる、神功皇后由来の神社をご紹介します。

道後温泉本館のすぐ近くの小さな山の上に鎮座される 「伊佐爾波神社」

湯月城が築城されるまで、現在の道後公園の場所にあったといわれる、 神功皇后・仲哀天皇由来の神社です。道後のお湯に入られ、神功皇后のお腹に、応神天皇が宿ったといわれています。

道後温泉の湯は、少彦名命が再生されたという起源もあるように、特別な水とされていたのだということが、この由緒から見ることができます。

でも、それは、道後のお湯だけでなく、この伊予の国の地下深くに流れる水は、常世の国の水、再生の水、聖水、神(常世の姫)の水だと考えられていたのではないかと私は思います。

神功皇后が、この伊予の湯に入ったことで、八幡大神ではある応神天皇を身ごもることも、常世の国の水に入ったからだということだったのではないでしょうか。

「月読みの持ちたる変若水」 は、常世の国から流れてくると思われていたといいます。

常世とは、月の女神がすむ場所、そこは、太陽の光ではなく、夜でも月の女神の光によって明るく輝く世界。
そして、そこは海の底からでも、真水(神の水)が出る。

斉明天皇が百済救援に行く途中、伊予の国に寄られ、金剛の滝と呼ばれる飛泉で、みずから米を洗い、御神供としてはるか大山祇神(瀬織津姫)を拝し、病気平癒と戦勝祈願のみそぎをされたといいます。

瀬織津姫の今も残る御神徳 「みそぎ」 の水は元来 常世の国から流れくる 「変若水」のことを言っていたともいいます。

古事記の国生みの時に四国のことを 「伊予の二名洲」といわれました。
「愛比売(えひめ)」だけでなく、「伊予」という名前は、今もこの愛媛のことをさしています。

「伊予」の 「予(よ)」 とは、
古語で 「竹や葦などの茎のふしとふしとの間」のことをいうといいます。

月の姫 かぐや姫は、 竹の節間(よのなか)に篭ってました。
竹の中に、封印されてしまった、瀬織津姫の姿と同じです。
竹の「よ」とは、生まれる場所、再生する場所、蘇る場所 = 常世の世界と通じる場所が 「よ」だったのです。

伊予の 「よ」とは、常世の世界と通じる場所を意味していたから、 
古事記の中で、「伊予(常世の世界)」の国として誕生し、そこに愛比売(愛しい姫)の名前がつけられたのではないでしょうか。

そして、その伊予の国の中洲が、大三島であり、「南海龍女」 と呼ばれた瀬織津姫の島だったのではないかと私は思います。

そして、宇佐神宮へと連れ去られた「越智常世織姫」 もまた、瀬織津姫の御魂。

竜宮城の織姫とは、大山祇神社に祀られた、「南海龍女」 であり、
宇佐神宮へと連れ去れた 「越智常世織姫」 でもある、瀬織津姫。
この瀬戸内海の海こそが、龍宮城のある海だったのではないでしょうか。

そして、姫を祀る一族 「小千ノ(乎致)御子」は、本来は「をち」と言っていました。 

「若がえる」 「甦る(蘇る)」意味を持つ古代の言葉が、「をつ」というといいます。

「小千ノ御子」 = 「をちの御子」 = 「よの御子」 = 「常世の神の御子」だったのです。 

小千命(乎致命)とは、姫を祀る一族の皇子だったということではないでしょうか。。。。。。。。

*伊佐爾波神社
*松山市桜谷町173番地
*足仲彦尊(たらしなかひこのみこと)
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
誉田別尊(ほむだわけのみこと)
市杵島姫尊(いちきしまひめのみこと)
湍津姫尊(たぎつひめのみこと)
田心姫尊(たごりひめのみこと)

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またの名前を、「湯月八幡宮」といいます。
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(境内社:北側)高良玉垂社
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道後温泉がモデルになった、「千と千尋の神隠し」の「お湯」も、再生のお湯でした。
名前を取られてしまった、千尋とハク。
でも、千尋がもう一度あの橋を渡り、外の世界が出ることができたように、姫の真の姿も表の世界へと出ることができますように。

そして、もう一度、この伊予の国も、真の伊予の国 「愛比売」の国に。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-28 02:54 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日は、今治でも朝の気温が氷点下。寒さが苦手なので、この季節は本当につらいです。
でも、日が暮れる時間がだんだんと遅くなり、春が近づいてくるのを感じます。

早く桜の季節にならないかな~と、思う今日このごろです。

今日ご紹介する神社は、今治市杣田(そまだ)に鎮座する、真名井神社です。
今治市の野間から、波方方面へと山越えすると、山を降りてすぐのところにあります。

真名井といえば、瀬織津姫。 

でも、ここも瀬織津姫の名前は消されてしまっています。

現在の祭神は、
多紀理毘売命・狭依毘売命・多岐都毘売命・
天之忍穂耳命・天穂日命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命。

もう、お気づきかと思いますが、この真名井神社の祭神は、五男三女神です。

宮島の厳島神社と同じ、アマテラスとスサノオの誓約のさいに誕生した神々です。

瀬織津姫の、御魂を砕き生まれた神々。

この祭神と神社の名前を見ると、瀬織津姫を本来なら祀っていたはずとわかるのですが、ここに残る由緒を見ると、一見全く繋がらない由来が書かれてあります。

ここは、往古、八王子宮と称していました。
この八王子という名前は、昔、江州坂本日吉山王宮のうち、八王子宮を合祀されたからだと伝えられています。
また八王子を合祀したのは、水が乏しきためだというのです。

そして、明治3年、八王子宮から、真名井神社に改称されたといいます。

これを読むと、水の御神徳をえるために勧請した、江州坂本日吉山王宮の八王子宮に祀られていた神が水の神だったからであろうと思いますよね。

しかし、その神は、水の神ではないのです。
ということは、ここにも、姫が封印されているということ。

真名井神社のご紹介の前に、ここへ勧請されたという、神社の謎にせまってみたいと思います。

まずは、「江州坂本日吉山王宮の八王子宮」とは、どこの神社かということですが、
この神社は、滋賀県 比叡山の麓に鎮座します、 

「日吉神社」 のことをさしていました。

日吉神社といえば、以前、庚申堂のお話をした時にも、少しふれましたが、今回はさらに詳しく見てみたいと思います。

日吉神社は、「猿」を神の使いとする神社として知られています。

神社の祭神は、こんな風になっています。

*西本宮大己貴神大宮(大比叡) 釈迦如来

*東本宮大山咋神二宮(小比叡) 薬師如来

*宇佐宮田心姫神  聖真子  阿弥陀如来

*牛尾神社大山咋神荒魂 八王子 千手観音(八王子山頂)

*白山姫神社 白山姫神  客人 十一面観音

*樹下神社鴨玉依姫神  十禅師 地蔵菩薩(東本宮境内(妃))

*三宮神社鴨玉依姫神荒魂三宮 普賢菩薩(八王子山頂)

上記のとおり、主祭神は、
大山咋神(東本宮)
大己貴神(西本宮)
です。

大山咋神とは、大山積神と同体。 大己貴神は、三輪山大神神社の祭神 大物主大神です。

この日吉神社は、牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であったといいます。

現在八王子山山頂には、奥宮(牛尾神社と三宮神社)の2社ありますが、現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものといいます。

ということは、最初に祀られていた神社とは、 現在の奥宮 牛尾神社の祭神、

「大山咋神荒魂」 旧称 「八王子」 ということになります。

そして、本地仏はというと、「千手観音」 です。

もう、気づいたかと思います。

大山咋神荒魂とは、瀬織津姫以外には、考えられません。

まるで、伊勢神宮の内宮と外宮の関係のようです。 ここでは、瀬織津姫は、 「大山咋神荒魂」とされていたのです。

本地仏は、瀬織津姫である 千手観音。
そして、ここ奥宮の姫は、大山積命と同体の、大山咋神荒魂とされ、神社は、「牛」により封印されていたのです。

しかし、ここは天智天皇の時代は、まだ瀬織津姫を祀っていたのかもしれません。
というのも、近江京遷都の翌年、天智天皇は、大津京鎮護のため大神神社の神を勧請したといいます。
大神神社に祀る、饒速日命を勧請したとすれば、天智天皇は、近江に都を移した時に、瀬織津姫と饒速日命を、祀ったのかもしれません。

しかし、その後、平安へ都が移ると、ここは都の鬼門となりました。
そして、最澄により、最澄が比叡山上に延暦寺を建立し天台宗・延暦寺の守護神とされます。

この辺りから、姫は封印されたのかもしれません。

そして、この天台宗が元となり、瀬織津姫の本地仏が千手観音となり、大三島大山祇神社の大山積神の本地仏が、大通智勝仏となっていったのではないかと思います。

真名井神社の神が、水の御神徳を持つ 「八王子」 だとされるのは、
日吉神社の本来の祭神が、瀬織津姫だったからだと、これで繋がってきます。

でも、ここで一つ疑問に思われるかと思います。
どうして、名前を変えながらも、荒魂として奥宮に祭りつづけたかということです。

それは、この時代独特の思想があったからだと思われます。

奈良、平安時代の天皇は、ずっと怨霊に悩まされていました。
それは、自分たちが権力や地位のために殺してしまった人々の怨霊だといわれていますが、その後ろには、もっと大きな力、もっと大きな怨霊の存在があり、本当に恐れていたのは人だけでなく、神だったのです。

平安時代、御霊信仰というものがありました。
それは 強力な怨霊は、朝廷のへの祟りだけでなく、地震や大雨、洪水などの災害や、厄病などを引き起こすのは、怨霊の祟りとみなされていたのです。
そして、その怨霊を鎮めるために、怨霊の魔から逃れる方法として、怨霊を祀り、鎮めていたのです。

それを、御霊信仰といいます。

その祟りについては、また、後日、詳しくお話したいと思いますが、どうして一度封印し、消し去ろうとした姫を、名前は出さずとも、この日吉神社のように祀り続けたり、また、姫を仏に変えてお寺をつくったのか、それは、この時代独特の、考え方によるものだったのです。

怨霊を鎮めるために、怨霊の魔から逃れるために、その怨霊を祀る。
しかも、「鬼門」 といわれる方角に。

そして、今日の神社、真名井神社は、姫の存在があることを知ったうえで、本来姫を祀っていたその場所に、姫の名前を隠しながら祀れる神社、 「八王子宮」 という神社の名前に変えたのではないでしょうか。

しかし、その祀る神は、五男三女神。

大山咋神にも、大山積神にもしなかったことに、姫へのあつい信仰の心が見えるかのようです。

ここ真名井神社も、全国でも珍しい、野間地区の有名なお祭り、継獅子が行われる神社の一社です。

人が人の肩の上にたち、何段も天へ向かって人を継いでいき、その一番上には子供がのぼり舞う。
現在は、3段が主流となっていますが、5段、6段と継いでいっていた時もあるそうです。

豊作を願うお祭りとされていますが、少しでも神に近づくために上へ上へと継いでいったこのお祭りは、消された姫のところに少しでも近づきたかったのかと私は思えてなりません。

*真名井神社
*今治市杣田字町田甲339番地、340番地
*境内社:子守神社

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境内社 「若宮神社」
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拝殿
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本殿
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境内社
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「子守神社」
ここに、姫は祀られているのかもしれません。

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「鳥生神社」
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この山を、子守山とよんだのかもしれません。
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多くの部落の神社がここへ集まったようです。
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稲荷神社
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大輪椿
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2012年がスタートして、もう1ヶ月がこようとしています。
まだ、目に見えた大きな変化はありませんが、少しづつ少しづつ何かが変わり始めているような気がします。
でも、それがどんな方向に行くのかは、まだわかりません。

ただ、動いていく世の中を、じっと見ているしか方法はないのかなとふと思う時があります。

人の心も、これまでと変わることができない人、少しづつ何かに気づき始めている人。
国も同じ。 本当の幸せはどこにあるのか。 今何が必要なのか。 何をしなければいけないのか。
それがわかっている国と、わかっていない国。

今、その流れが二つに分かれていっているような気がします。

日本は、どちらでしょう。

私は、何かにしがみつき、考えかたを変えることができず、あがいているように思えてなりません。

でもこれも、私たちが選んだ人たちがしていること。
何も考えずに、入れた1票、 自分の利益だけを考えて入れた1票、誰にいれても同じだからと何もしなかった1票。

そんな世の中にしてしまった私たちにも、その責任はあるのかもしれません。
まずは、私たち一人一人が、自分中心ではなく、どんな世の中にしていくことがよいのか、真剣に考えることから始めなければ何も変わらないのかもしれません。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-27 00:47 | 愛媛県今治市 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

今日ご紹介する神社は、先日からお話している松山市の空港近くに多く残る神宮皇后のゆかりの地に鎮座される神社です。

前回ご紹介した時に、地図上で、この弁天山付近の神功皇后の神社を記しましたが、ここは、弁天山の南になります。

すぐ近くには、空港。
空港ができる前は、やはりこの辺りもすぐ近くまで海があったのではないかと思います。

ここは、神功皇后御駐蹕の遺跡の岡に鎮座したのが起源と言われ、この岡を伊佐爾波の岡の宮と称えたといます。

伊佐爾波と呼ばれたのは、以前紹介した 伊佐爾波神社と同じです。
伊佐爾波とは、沙庭(さにわ)のことで、神さまを招いて、お告げを聞く清浄な場所のことをいいます。

伊佐爾波の岡にあったとされる遺跡は、もしかしたら古代、姫の祭祀を行う場所だったのかもしれません。

その地を神功皇后に変えられたこの場所は、更に、859年に、八幡宮へと変えられるました。

ここへ、八幡宮を勧請したのは、奈良大安寺の僧侶、行教和尚。

奈良大安寺(だいあんじ)は、聖徳太子が建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が起源とされます。
その後、聖徳太子は、舒明天皇に本格的な寺院にすべきことを告げ、百済川のほとりに百済大寺を建てました。
初めての国家寺院です。
しかし、この辺りまでのことは、現在もまだはっきりとしたことがわかっていないそうです。

この後、大安寺も、天武天皇と関わりがあるお寺となっていくのですが、ここでもまだ、その内容が一つではありません。

『日本書紀』には、天武天皇2年(673年)12月17日に美濃王と紀訶多麻呂が造高市大寺司に任命されたとあり、高市大寺が今の大官大寺だとする記述がありますが、

一方「大安寺資材帳」には、その同じ日に御野王(「みののおおきみ」で美濃王と同じ)と紀訶多麻呂が造寺司に任命され、このときに寺を百済の地から高市の地に移したとあります。

673年は天武天皇が壬申の乱に勝利した翌年。

資材帳によれば、さらに、天武天皇6年(677年)9月に高市大寺を改称して大官大寺としたとされますが、これもさまざまな調査から、本当だったかどうか定かではありません。

これを見るだけでも、この時代に書かれたものは、数々の謎があり、本当はどうだったのかわかりません。

そして、平城京への遷都とともに、寺も新都へ移転していきます。
大官大寺も平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となったといわれますが、その年もなぜかはっきりとしたことがわかっていませんが、霊亀2年(716年)の移転とみるのが通説とされているそうです。

716年は、大山祇神社が、完成したとされる年(実際は、宮浦には社殿は建てられていません)です。
平城京遷都が 710年。このころ、西日本では、新しい大和誕生のために、数々の準備がされていたことがわかります。

そして、この大安寺は、南都七大寺の1つとして、朝廷の保護を受けれるようになりました。

御本尊は、十一面観音。
高野山真言宗のお寺として。

大同二年(807)、大安寺の僧、 「行教和尚」は、九州 宇佐八幡宮へ詣で、大安寺の鎮守社として八幡神を勧請されたのが、石清水八幡宮の起源だとされます。

その時、白い鳩が道案内についてきてくれたといい 行教和尚は、、「これは大安寺八幡宮を守るためにきてくれたのだ」といい、この白い鳩を飼ったといいます。

そして、(859年)の夏、行教和尚は、「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託をうけ、
山城国男山へ遷座します。 これが、現在の石清水八幡宮だといいます。

石清水八幡宮は、以前も少しふれましたが、京都の南西の裏鬼門を守護する神。

ご神託を受けたとされる、「859年」 平安へと遷座する前に、行教和尚は、この伊予の国の、
伊佐爾波の岡に祀る神と八幡神をあわせました。

八幡神については、またいつかお話したいと思いますが、瀬織津姫と深い関わりのある神。

神功皇后の由来といい、宇佐八幡宮に伝わる伝承といい、瀬織津姫、また越智家とも深い関わりのある神です。

なんのために、これだけ多くの姫の神社を八幡神社にしなけらばいけなかったのか。
それも封印のためなのか、それとも、もっと違う意味があったのか、まだ私の中ではっきりとしたものが見えません。
ただ、大山祇神社へ大山積神を祀り姫を消し去ろうとした意味とは、少し違うのではないかと思っています。

閉じ込めた龍を解き放つために始まった、放生会。
姫大神としての、瀬織津姫。

「越智常世織姫」 として、さらわれていった姫の姿が、私には、今もそこにあるような気がします。

今日、古伝が語る古代史―宇佐家伝承 という本が手元に届きました。

これを読んだら、もしかしたらその謎が少しわかるかもしれません。

宇佐家と越智家。八幡神と瀬織津姫。

その秘密が、解けることを祈っています。

*生石八幡神社 (しょうせきはちまんじんじゃ)
*松山市高岡町917番地
*足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
誉田別尊(ほむだわけのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
*往古、神功皇后御駐蹕の遺跡の岡に鎮座し、伊佐爾波の岡の宮と称えたという。 貞観元年(西暦859年)奈良大安寺の行教和尚が八幡山に八幡宮を勧請し、岡の宮と合わせて生石八幡宮と称えた。
 延長元年(西暦923年)越智良利が水田を寄進し、高山に鎮座の三女神を合祀した。その後越智親経は、国司、源頼義の命で社殿を改築、以来河野代々の尊崇があった。

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素鵞神社
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加茂神社
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高良玉垂八幡神社
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松尾神社
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住吉神社
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そして、ここには不思議な伝説と特殊神事があります。

年頭無鼓の行事といい、この神社では1月1日~1月6日迄、全ての神事に太鼓を使用しないそうです。

それは、923年(三女神を合祀したころ)から行われているそうなのですが、この神事がおこなわれるようになったのには、ある伝説があるからだそうです。

古の昔、一人の神職が夜間に参拝してはいけないという習慣を怪しく思い、ある1月6日の夜、大小の刀をもち一人で神社の付近に行きたいまつをたいていたちょうどその時、一人の白髪の老女が現れ、神前にひざまずいて言った。
「自分は僭越にも大神さまの尊き勢力下の時を犯して、ここを魔界としたが尚これをけがす者がおり、自分の勢力を奪おうとするは憤慨極まるものである。」
目にものを言わそうと、神職の側にきたので、神職は持っていた太刀をぬくと、この大小の刀を噛み砕いた後さらに刀の柄に行った時、止める金具にある金の鶏が<東天紅>と鳴くと、老女は驚き、ああ私の勢力下の時は過ぎてしまったと大きな魔物に化身して飛び去ってしまったと。

この最後の部分。 金の鶏が鳴いた声 「東天紅」 とは、夜明けを意味する言葉だといいます。
923年、越智良利が三女神を祀ったときからはじまったといわれるこの神事は、夜明けを意味していたのかもしれません。

大神さまの神域を犯してしまい魔界となってしまったこの場所を、もう一度姫を祀る場所へと戻したのかもしれません。
名前はここにはありませんが、 この 「三女神」 がそれを意味しているのかもしれないと。

「東天紅」 夜明け。 新しい光がさし、元の姫の伊佐爾波の岡へと戻ったんだと、私は思いたいなと思います。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-26 00:01 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(2)

神紋の意味

こんばんは。

今日は、寒いですね。 愛媛は雪は降っていませんが、凍るような寒さです。
明日から、一段と寒くなるようですので、どうぞお身体に気をつけてください。

伊予路に春を告げるといわれる、「椿祭り」

今年は、例年より少し早く、今度の日曜日1月29日から三日間開催されます。

愛媛の人が、みんな口をそろえて言う言葉。

「やっぱり、椿さんがあるころが一番寒いね。昔の人はよう言うたもんやね~。」

この時期、何度も聞く会話です。

本当に、その言葉とおり、今年も、椿さんの前後が一番寒くなりそうです。

椿さんは、「立春に近い上弦の月の初期」に月齢が定められています。
現在は、旧暦正月8日を例祭日として、その前後の3日間で開催されますが、昔は旧暦の正月8日だけだったそうです。

椿神社は、以前にもご紹介していますように、姫と饒速日命が本来の祭神だったのではないかと私は思っています。

今でも、旧暦で行われています、椿さんは、現在は商売繁盛のお祭りとなっていますが、このお祭りの本当の意味は、月の女神を信仰していた一族の、新しい年を迎える祭りだったのではないでしょうか。

上弦の月とは、半月のこと。

正確には、半月は 弦月といい、上弦と下弦の二つがあります。
上弦の月は、上半分が輝いている姿をいい、下弦の月は、下半分が輝いている姿をいいます。

弦月の名は、輝いている半円部分を、弓とそれに張った弦になぞらえたもので、弓張(ゆみはり)、弓張月(ゆみはりづき)ともいいます。

まるで、284年、日本にやってきたとされる 「弓月の君」 のことをあらわしているかのようです。

「弓月」は、百済からやってきたとされていますが、本当は、百済の人間ではないと私は思っています。

起源前、200~300年ころ、日本に渡ってきたとされる、「徐福」 と、本来は同じ神を祀る一族に近い存在だったのではないかと。

そこに、小千(乎知)(越智)(河野)の、秘密があるのではないかと思っています。

小千(乎知)(越智)(河野)が本当に祀っていた 「三島明神」とは、「月の神」だったのです。
その証拠は、神紋にもありました。

三島明神を祀る神社の神紋は、「三文字」 

これは、シュメール神話の神 「月神シン」のを表わす楔形文字とも言われ、また、シュメール語での「水」の文字にも似ています。
また、現在は、「折敷に三文字紋」となっていますが、本来は、「明治神社誌料」によると折敷ではなく、角切菱(亀甲)。

これは、バビロニアのマルドゥクの紋と同じです。

バビロニアのマルドゥクとは、シュメール初期王朝時代より信仰されていた神ではありますが、この神が重要な神となるのは、バビロニア神話の時代、バビロンが都市となってからです。

バビロニアは、シュメール文明とアッカドを征服してできた王国。
この時、シュメール文明で信仰されていた 「水・龍」神は、「太陽・牛」により主神が変更されてしまいました。

まるで、古事記の中で日本で行われたことと同じです。

バビロニアでは、「菊」の神紋は、「太陽の神(アン)」を意味します。

出雲大社の神紋は、二重亀甲に剣花角

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伊勢神宮の神紋は、花菱

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花の形は少し違いますが、出雲大社は、亀甲(バビロニアの神)の中に閉じ込められています。
しかも、他の神紋よりもさらに頑丈に、二重に閉じ込められています。

また、厳島神社の神紋は、三盛亀甲に花菱
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伊勢神宮の花菱が三つ(三女神)が、亀甲(バビロニアの神)の中に閉じ込められています。

亀甲は、亀にもたとえられ、浦島太郎の原作とも言われるお話の中では、瀬織津姫である(神女)は、亀に姿を変えていました。

三島明神も、出雲大社も、厳島神社も、全て、真の姿は亀甲の中に閉じ込められているのです。

それは、月の女神であり、伊勢神宮に祀られていた真の女神であり、月と太陽の間に新たに誕生した、姫の分身(三日月)の姿。

それらは、バビロニアが消し去ったシュメール神の最高神 「ナンム女神」と同じ意味を持つ女神の封印(瀬織津姫を祀る一族の神社)を意味するものだったのではないでしょうか。


バビロニアと、天武天皇また、藤原不比等が、どういう繋がりがあったかは、まだこれから調べなくてはいけませんが、少なくとも、バビロニアがシュメールの神にしたことと同じことがこの日本でも行われ、更には、その神紋を利用しているということが言えるかもしれないと思います。

そして、もう一つ、シュメール神話からも繋がる 「水」 の意味が、空海が行った、各地井戸を掘り、地下から水を出したことに繋がるのです。

世界最古の文明といわれる メソポタミア文明 シュメール神話の時代から、始まった 
「女神(月・水・聖母・龍)と男神(太陽・権力・牛)」の信仰の戦いは、女神を守るためにその地を離れた人々を、何度も何度も襲い、ついに、この日本で、決定的に封印されてしまったのかもしれません。

そして日本は、女神を封印しただけでなく、「古事記という術」により、人が神と同じ存在になろうとしたのかもしれません。 

「陰陽道・道教・仏・8の暗号」 ありとあらゆる術を使って。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-25 00:00 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、東国原前知事の講演会に行ってきました。

すごい人気で、チケットは発売1週間で完売。
会場は、満席。

どんなお話をしてくれるのか、私もずっと楽しみにしていました。

登場してきてまずしたことは、その場の雰囲気を和ますトーク。
少し緊張した雰囲気の会場が、一揆にやわらかくなり、始まって1分もたたないうちに、会場の人たちを引き込んでしまいました。

さすがでした。

それから、1時間半、息をつくひまもなくお話は続き、その間、周りの人を見ていると誰一人として退屈することも、飽きることもなく、それどころ、涙を流しながら笑い、会場のみんなの顔はずっと笑顔でした。

でも、その中に、時々出てくる 強い思い、これからの展望をきっちりと話す。
自分の体験を例に、ピンチの後には必ずチャンスが巡ってくるもの。というメッセージが込めれていました。

今まで、いろいろな講演を見てきましたが、人を引き込む力は今まで見てきたなかで、一番だと思いました。

今日は、とてもいい勉強になりました。

昨日は、写真展の様子をとってきましたので、今日はその様子をご紹介したいと思います。

愛媛男女共同参画センターのロビーで開催中の、愛姫伝写真展。

そんなに豪華なものではありませんが、今回、こちらでさせていただけたことを、本当に感謝しています。

写真展の準備をして以来、会場に行くことができなかったのですが、昨日行ってびっくり!

私がつくったはずのない、「愛姫伝」の案内がはられてあったのです。

写真には、番号が1~20までつけてあるのですが、その1番の写真の横に、会場の人がつくってくれた手作りの案内表示が。。。。

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会場の方が、作ってはっておいてくれていました。
そして、もう一つ、写真展の中央に、龍と姫の人形をおいているのですが、そこにも。。。

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「作品に手を触れないでください」の案内がおかれてありました。
わざわざ、つくっておいてくださり、その気持ちに感激でした。 

会場のみなさま、本当にありがとうございました。

この龍は、私の神社の相棒がつくったもの、龍を囲む姫たちは、私がつくったものです。
姫を守る龍として、私がお願いしてつくってもらった龍なのですが、この龍には、まるで姫の魂がやどっているかのようです。

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ここには、愛姫伝フォトブックがおいてあります。
この中には、会場になり写真も数点入っています。 霧で覆われた湖に浮かぶ島。
城川町の山の上にあるお寺。
河野家の、誓いの泉。

これからも、どこかの写真展には出してみたいなと思っているものです。

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写真の下には、神社の説明があります。

全てを伝えるのは少し難しかったのですが、一番伝えたいことをまとめています。

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そして、今回の写真の場所を、大きな愛媛県地図に記してあります。

こうして見ると、愛媛も広いです。
いつか、愛媛県の全てにまわってみたい。

そして、この写真展も、愛媛県のいろいろなところでしてみたいなと思っています。
また、いつか、愛媛県以外でも、日本のいろいろな土地で、できればいいなというのが、一つの夢でもあります。

いつか叶う時がくるかな~。

写真展を出て、北条へ向かい、参拝した後海へ。

ちょうど夕日が沈む前、地平線の上に、沢山の光がおりていました。
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いつも美しい夕日を見せてくれる海岸ですが、この日の夕日はまたいつも違う光のような気がしました。
そして、このまま帰ろうかと思ったのですが、なぜか鹿島の近くに行きたくなり、そのまま鹿島への船つき場へ行ってみると、今度は鹿島の向こうに光の柱がおりていました。

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夕焼け色に染まる雲の間から、広がる光の柱。

思わず、手を合わしてしまいます。その光がただの偶然でも、この一瞬の光景に出会えたことに、感謝。

遠い昔の人たちも、この海にふりそそぐ光を、同じような思い出見つめていたのでしょうね。
そして、その中に、神を見たのかもしれません。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-23 23:34 | お知らせ | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日は、まず、北条の(私が思う瀬織津姫の)神社 「國津比古命神社」の歴史を研究しているサイトをご紹介させていただきます。

北条に鎮座する、
「國津比古命神社」「櫛玉比賣命神社」は、姫の名前を表には出さずとも、その存在をずっと受け継いできた神社だと私は思っています。

私が始めてここを訪れたのは、もう1年半くらい前になります。

鹿島に行った帰り、どこかの神社に行こうと道路地図に書かれた 「國津比古命神社」という名前に目が留まり、初めて参拝し、その更に上に鎮座される、「櫛玉比賣命神社」についた時、間違いなくここも瀬織津姫だと思ったことを今でも忘れません。

夕日が沈む時刻、姫の拝殿を写真にとると、信じられないくらいの光で拝殿が包まれカメラが変になったのかと思うほどでした。

その時の写真がこれです。

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そしてその帰り道、神社を出てまっすぐ国道へと出ようと車を走らせると、向こうに見える鹿島の上に、
雲から沢山の光の柱が降りてきました。

これが、その時の写真です。
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この光を見た時、瀬織津姫の存在を確信したことを、今でもはっきりと覚えています。

そして、この神社のことを紹介しているホームページ、ブログと出会いました。

この神社では、今でも行われてる大切な神事があります。

ぜひ、みなさんにもその存在を知っていただきたく思いますので、今日は、まずそちらのサイトをご紹介させていただきます。

風早物部饒速日王国

徒然なるままに

今年は、この神事について深く研究されるそうですので、その研究の結果が私も楽しみしています。

少しづつ、少しづく、姫の存在があきらかになっていっていると、感じます。

私も、そのためにお役にたてればと、あらためて感じております。

では、今日のお話です。

今日は、先日神功皇后ゆかりの地です。
前々回、前回、そして今回と、この三社は全てそう遠くない地区にあります。
松山空港一体で、この辺りには、もう大分前にお話しました、「福水神社も含め」数多くの神功皇后の跡が残る地域です。

この辺り一体は、この松山地域の古代の玄関口、船がつくところではなかったのかと思っています。
今日ご紹介する神社は、まさにその入り口、弁天山の麓に鎮座される神社。

松山市内から、松山空港への行く間に、トンネルがあります。
そのトンネルの山が、弁天山です。

初めて、その山が弁天山だと知った時からずっと気になっていた山でした。
どうして、ここに 「弁天」 と名前がつけられたのか、その由来が書かれたものは今も見つけることができませんが、この山一体に、姫を祀る一族がいたことは、間違いないと思っています。

弁天山から、福水神社、そして総合公園の辺りは、今は住宅ができ平地になったところも多く存在しますが、昔は、その山々は、全て連なっていたといいます。
そして、海は今よりも上にあり、海からすぐ山があるような地形でした。

現在空港になっているあたりは、埋め立てで、空港のすぐ北側にある 「忽那山」は 本来は島で、その島のおかげで波よけとなり、船がつけやすい状態であったのではないかといいます。
また、ここから、道後方面へと川があり、川を上って道後へと向かっていたのではないかとも言います。

今日ご紹介する神社は、本来は、この「忽那山」または、弁天山のどこかに祀られていたものだと思います。
そこには、瀬織津姫が祀られ、松山の入り口となり姫を祀る一族の国だった。
そこを封印するために、神功皇后の跡地とされた。

でも、九州と大きく違うところは、九州は神功皇后が戦った場所とされているのに、ここ松山には、戦いの場所は全くありません。 戦いの場所として残るのは、昨日のお話ように、神功皇后ではなく、神武天皇の子孫、
久米氏。

同じように、姫を封印されてしまった、九州と伊予の国の違いは、どこにあるのか。

これから、その違いをもっと深く追求していきたいと思います。

私の中で、その一番のキーワードとなると思っているのが、 

「八幡大神」 の存在です。

宇佐氏と越智氏。 大分と伊予。 ここに神功皇后の秘密があるのではないかと思っています。

*清水八幡神社
*松山市別府町838
*祭神
品陀和氣命(ほむだわけのみこと)
帯仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
武内大神(たけしうちのおほかみ)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)

清水八幡神社は、神功皇后が、三韓を討ち都へと帰る途中、この神社に軍装の脇当を納めたことにより、脇宮八幡宮と称したといわれています。

ここに書かれているように、神功皇后がここに立ち寄った時には、それ以前からの神が祀られていたことになります。

そして、変えられた名前が、 「脇宮八幡宮」 。

さらにその後、皇后御駐踵の際、御料の清水を奉ったことにより、後に清水八幡宮と改称したといいます。

この「皇后」 が、神功皇后だとすれば、ここに二度訪れ、一度名前を変えたにも関わらず、さらに、「清水(瀬織津姫)」との関わりをしめすかのような名前にしてあります。

清水八幡神社は、元はここではなく、10町余を離れた八坂瑠という地に奉斎されていましたが、
そこに大岩があって大蛇が潜み、参詣者を驚ろかすので今の地に奉遷したといいます。

10町とは、約1キロあまり先。

1キロあまり先とは、「忽那山」または、弁天山のどこかに祀られていたと考えられます。

そしてそこには、大蛇(瀬織津姫)がいたということです。

神社の名前を変え、祭神の名前を変えても、なおそこには、姫の魂があり、人々はその祟りを恐れていました。 それは、ここだけではなく、都も同じこと。

だから、陰陽師という存在ができ、陰陽師の力にすがっていたのです。

また、空海も同じ。 仏の力で、なんとかその「怨霊」を封じ込めようとしたのです。

人の罪とは、どんなことをしても、自分自身の心の中に住み着くもの。
それは、いくら拝んでもなくなることはありません。
殺人を犯し、逃亡する人と同じように、自分の罪を認め、それをあきらかにしなければ、何年たとうと、何百年たとうと、その罪は受け継がれていくのです。

だから、「怨霊」 がいる、何か悪いことがおこるたびに、そのせいにしてしまうのだと私は思います。

「怨霊」 とは、 自分の中に宿るものなのです。
自分の心がつくるものなのだと私は思います。



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清水神社から見える 弁天山
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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-22 12:22 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

写真展も無事スタートし、ほっと一息。

写真展スタートの日、朝早く四国中央市からわざわざ来てくださった方がいらっしゃり、感激でした。

いろいろお話させていただき、本当に感謝しています。

その後、今回の会場担当の方とお話をさせていただいたら、なんと、中島町出身で、龍に昔からご縁があるとおっしゃり、とても興味を持ってくださり、夏には船でつれて行ってくださるとのこと。

さらには、島の宮司さんともお友達で、紹介してくださるとのこと。

本当に、ありがたいです。

毎日でも、会場にいていろんな方とお話をさせていただきたいのですが、仕事があるためいくことができません。 本当に残念です。

何かありましたら、お気軽にコメントへお寄せください。

コメントを投稿するさいに、非公開を選んでいただきますと、他の方に見えなくすることもできますので、どうぞご遠慮なくお寄せください。

また、肝心の会場の写真ですが、いろいろお話をしていたら、すっかり撮るのを忘れてしまい、宇和へと向かう途中に思い出したしだいです。 だめですね。

この週末に行く予定ですので、その時に撮ってきたいと思います。


今日からは、また頭を切り替えて神社の歴史をご紹介させていただきたいと思います。

今日ご紹介する神社は、弥生時代に起源をもつ、とても古い神社です。
前回ご紹介した、神功皇后の跡の神社からすぐ近く、車だと数分のところにあります。

この辺いったいは、前回もお話したように、弥生時代の遺跡や古墳時代初期のものと思われる古墳が見つかっている場所です。

かなり大きな豪族が住んでいた場所だとされ、古代の謎がひしめいている場所でもあります。

そんな場所に神功皇后が訪れたとされ、今日の神社はさらにそれより昔、紀元前にさかのぼります。

神武天皇の第二皇子神八井耳尊の御子

「健磐龍命」 の子孫が伊予にきて健磐龍命を祀り、阿蘇宮としたとされています。

健磐龍命(たけいわたつのみこと)とは、阿蘇神社の主祭神です。

神武天皇の孫ということにはなっていますが、神武天皇の後、天皇の位を受け継ぐのは、健磐龍命の父、
神八井耳尊ではなく、弟の綏靖天皇(神沼河耳命)です。

そして、その後も、綏靖天皇(神沼河耳命)側の子孫が王となっていきました。

どうして、兄ではなく弟が跡を継ぐことになったのかといいますと、

神八井耳尊と神沼河耳命には、もう一人の弟と、彦八井耳命と腹違いの兄がいました。

その兄の名が、手研耳命(たぎしみみのみこと)です。

神武天皇が崩御後、兄(手研耳命)は、
腹違いの弟の母である、媛蹈鞴五十鈴媛命を妻にし、腹違いの弟 3人を殺そうと計画を立てました。

しかしその計画を知った、神八井耳尊と神沼河耳命は、母の歌よりそのことを察知し、現在の奈良県北葛城郡王寺町にいる、手研耳を襲いました。

この時、神八井耳は恐怖で手足が震えおののいて矢を放てず、代わりに神沼河耳命が矢を射て殺しました。

矢を打つことができなかった神八井耳尊は、それを恥じ、天神地祇を掌り、神渟名川耳が天皇として即位することになったといいます。

そして、その後、神八井耳尊の子孫たちは、多くの土地へと分かれて国造りの祖となっていくことになります。

その中の一人、健磐龍命の第三子、健岩古命が伊予の国へやってきて、久米部、山部小楯の遠祖になっていったといわれています。

私は、今どうしてもはっきりとしないのが、この久米の祖となった健岩古命です。

久米部とは、応神天皇の時代に、伊予主命が国つくりになったとされる場所であり、椿神社と愛称で親しまれている、伊豫豆比古命神社の主祭神、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命が最初に祀られていた場所で、この二柱の神は、久米氏の祖として祀られていました。

ここ高家八幡神社の話をそのまま受け取れば、久米氏の祖は、健磐龍命(阿蘇の神)であり、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命もまた、健磐龍命の祖ということになります。

伊豫豆比古命神社の起源は、2千数百年前。紀元前の時代。
一説には、この時祀られていた場所は、久米部(現在の小野町)の山の上に、久米氏の祖として、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命は祀られていましたが、その後大雨で社殿が崩壊し、山の中腹くらいのところに新しい社殿を建て、そこでまた洪水にあいその時に、御神体は別々に流され、伊豫豆比古命は、伊豫豆比古命神社に祀られ、伊豫豆比売命は、日尾八幡神社に祀られ、今も別々の場所で祭られているといいます。

この起源からいうと、神武天皇の時代とそう代わりなく、伊豫豆比古命は、阿蘇からやってきた健磐龍命が祀った神と同じということになります。

ということは、物部氏が祀る、饒速日命、瀬織津姫とは別の神ということになってしまうのですが、もう一つ、ひっかかることがあります。

ここ松山市近辺における、久米氏山部氏の祖の由来が残る場所は、更に東へといった、東温市まで続きます。

旧川内町、吉井神社は、久米主命がここを訪れ、当地にいた野蛮な民族(古那)を倒し、平定したのち祖神をたてたといいます。

ということは、川内町に祀る久米氏の祖も、元をたどれば、健磐龍命(阿蘇神)へと繋がります。

しかし、川内町の隣、久米(小野)と川内の間にある重信町は、饒速日命を祭る、浮島神社があり、ここは、饒速日命の御子が御降誕した場所といわれています。

もし、本当に2000年以上前にここを訪れた健磐龍命が、久米氏の祖となったのなら、本来なら、この辺り一体の住古の神社は、久米氏の祖となっていなければいけないのに、間に挟まれた重信町の一角だけ、どうして饒速日命の御子が降誕したといわれるような神社があるのでしょうか。

また、2000年以上前に久米小野の山奥に祭られていたという、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命は、どうして久米の祖だとされなかったのでしょうか。

神武天皇より更に前、神の時代へとさかのぼると、久米氏は、
高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があったといわれます。

ここ、伊予の国へときた 久米氏山部の祖とされる健磐龍命(阿蘇神)は、神武天皇の孫ということにはなっていますが、二つの神のどちらになるのでしょうか。

私は、数日前から、この系図がどうしても納得がいかず、この記事を書くことができませんでした。

今もはっきりとわかったわけではないのですが、ここに、大きな秘密が隠されているのだと思います。

神武天皇は、ニニギノミコトの母は、高皇産霊尊の娘 「栲幡千千姫命」です。

造化三神の中の神で、

■二番目に誕生した 高皇産霊尊

■三番目に誕生した 神産巣日神

神産巣日神は独身神といわれますが、久米氏の片方は、この神産巣日神を祖とする。

そして、二番目に誕生した 高皇産霊尊は、男女の区別はないといいながらも、結び神(男と女)両方を持つ神といわれ、娘がいる。

そして、その娘が、アマテラスの子と結婚し、ニニギと繋がる。

久米氏の二つの祖とは、ニニギ(大和)へと繋がる一族と、饒速日命(倭)へと繋がる二つの祖になるということになります。

そして、いよいよこの伊予の国へときた 「久米」 ですが、

★今日の神社 「高家八幡神社」 の由緒に書かれてあった、

「伊予にいた賊を倒し平定し祖神を祀る」 

★川内町 「吉井神社」の由緒に書かれてあった、

「久米主命が、この地を訪れて、野蛮な民族(古那)を倒し、平定した時、ひもろぎをたて、天神地祇及び祖神を奉斎された」

これがしめすように、ここに訪れた 久米氏とは、倭ではなく 大和側。
しかも、それは2000年前ではなく、姫の封印の時です。

久米小野の山奥に祭られていた2000年前に祀られていた神は、この時訪れた久米氏の神ではありません。

そして、両社にでてくる 「賊」 と 「古那」 は同じものをあらわし、それが、姫を祀る一族、元々ここにいた一族のことです。

では、阿蘇神、「健磐龍命」は、どうなるのかといいますと、これも伊予の国と同じではないかと思っています。

この地が、久米部とつけられたのは、701年。
大山祇神社の大造営が始まったとされる年です。 まさに、封印が一揆に加速した時です。

ここで、なんとなく見えてきたような気がします。

神武天皇は2000年前のことではありません。

神功皇后と神武天皇の二つの跡が残るこの辺り一体は、激しい争いが起こった場所だと想像されます。

そして日尾八幡神社へと別々に祀られた姫もまた、その争いの中隠されたのかもしれません。

それから、最後に、
二つのうち久米氏のうちの一つ、神皇産霊神を祖とする久米氏は、「熊襲」

これが、九州で神功皇后と争ったとされる、熊襲ではないでしょうか。

*高家八幡神社
*松山市北斎院町295番地
*祭神
健磐龍命(たけいわたつのみこと)
應神天皇(おうじんてんのう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
三女神(さんじょしん)

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拝殿
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鬼瓦
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本殿
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境内社
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来月 2月4日。
節分の次の日に、西条市で古事記ものがたりの著者 宮崎みどりさんの講演があります。

宮崎みどりさんとは、奈良吉野のダムの中に沈んだ、丹生川上神社上社がご縁で出会いました。
私は、当時まだ、神話のことがほとんどわからず、古事記のことも、あまり知りませんでした。
出会った時は、私も古事記の紙芝居を作ろうと思ったくらいでした。

今は、古事記の謎を解く側になってしまったのですが、なぜかそれでも宮崎さんとのご縁が続いています。

それは、不思議と瀬織津姫である 龍神のご縁のような気がするのです。

ちょうど同じころ出会った友人がいます。
その女の子と初めて出会った時、不思議と自分と似ているなと感じていました。
年も大分下、もちろんそれまで会ったことすらない子でした。

しばらくなかなか打ち解けなかったのですが、私が、その子を含め7人の姫の人形を造り始めてから仲良くなり、いろいろ話を聞いていると、おじい様が、丹生川上神社上社の宮司さんだったというのです。

そして、丹生川上神社のことを調べている時に、みどりさんに出会いました。それも偶然まったく違うところで。
であってから、みどりさんは、神社がダムに沈む時、最後の神事をされた中心的存在で、更に、そこで巫女もつとめていたことを知りました。

私の友人で、お孫さんがいるというと、「龍神さんのご縁かもしれませんね」 と大変驚いていました。

あれから2年。

初めて、愛媛へとやってきます。 それも西条に。

そして、その講演に、私の友人も一緒に行くことになりました。

今も、みどりさんたちがつくった巨大な龍が沈むダム。 
そして、亡くなった宮司さんのお孫さんとの対面。 こんなこともあるんだなと、本当に不思議な気持ちです。

愛媛と大阪。 

繋がりは、龍神だけ。 それだけで、全く見ず知らずの二人がこうして出会うことができる奇跡を心から感謝したいと思います。

2月4日 西条市で行われる 古事記のお話。
もし、興味がある方は、ぜひ、コメントへご連絡ください。

否定をしている私が言うのも、なんだか変ですが、古事記は、封印のためのものであったとしても、今の日本の原点。 今の日本がつくられた軌跡です。
だからこそ、ただ否定するのではなく、それはそれで、知り、その存在は認めることが、次への1歩になるんだろうと私は思います。

どんなことも、知ること。受け入れること。それがどうしてそうなったのかを、きちんと考え見ることが、本当の未来へと第1歩のような気がしています。

*2月4日 
*13:30~16:00
西条市福祉センター 3階 集会室
大人1000円 子供500円

ぜひ、私と一緒に、古事記のお話を聞いてみませんか。 

今日も、長い文章を最後までありがとうございました。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-01-21 02:16 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(0)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。