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こんばんは。

今日は昨日ご紹介したお寺 「正善寺」の裏山の上に鎮座する神社

「福岡八幡神社」です。

弘法大師が一夜にして刻んだ、地蔵菩薩を奉るお寺の裏山に鎮座する神社。

ここもその歴史はあまりはっきりしたことがわかっていません。

ただかなり古い神社だと思われ、周敷一の宮の神社とされるほど重要な神社でした。

古代ここは、添神として鎮座していました。

添神? では主神はどこに祀られていたのでしょう?

ここから3kmほどしか離れていない場所に、高鴨神社という名前の神社があり、
神社のすぐ下には、四国八十八ヶ所 「香園寺」があります。

この高鴨神社の由緒では、雄略天皇の御代(456年)、ここに鴨族が移り住んできたといいます。

そして、その場所に高鴨神社が建立されました。

福岡八幡神社は、鴨族が勢力を増し、高鴨神社の添神となったのではないかと思います。

この丹原地域には、次回お話しますが、瀬織津姫を祀っていたであろう神社があります。

でも、そこへ姫を祀っていた一族は滅ぼされ、姫の御神体は、丹原町の山の中、「黒滝神社」へと隠されたのではないかと思います。

丹原町の山奥にある 「黒滝神社」には、石鎚神社との不思議な伝説があるのです。

「石鎚神社」は、役行者により開かれた山。それもまた、姫の封印のためでした。

黒滝の神と石鎚の神は、妹と兄の関係でした。

でもこの兄弟は昔から仲が悪く、喧嘩がたえませんでした。

ある時、黒滝さんが投げた石が石鎚さんの庭まで届き、石鎚さんの投げた石は黒滝さんの拝殿から奥へ1kmのところの大夫池まで届いて神域を侵したため、

以後決定的に敵対関係になってしまったのだそうです。

それから、黒滝神社の氏子 田滝の人々は、石鎚山に登ると、石鎚大神に鎖から投げられるため、参拝をしない習わしとなっているそうです。

本来ここに祀られていた姫は、きっと丹原の奥地へとその御神体を遷さなくてはいけなくなったのでしょう。

この黒滝神社へはまだ行っていないので、今年中には行きたいと思っています。

話を福岡八幡神社に戻しますが、

この神社は、もう一つ不思議なことがあります。

それは、四国は豊臣秀吉の四国攻めにおいて、姫の神社に関わる場所はその多くが、焼き討ちにあい、神社の由来が全くわからなくなっている場所がたくさんあります。

それなのに、ここは、全く逆。

秀吉は、ここを 「守護不入の聖地と定めた」 といいます。

添神を祀り周敷一円の神であったこの神社は、後に岩清水八幡宮の別宮を併祀して武門武将の崇敬を受けるようになりました。

秀吉がここを聖地と定めたのは、岩清水八幡宮だったからなのでしょうか。

でも、今まで行った神社の由来で、秀吉が聖地と定めたとされるのはまだここだけです。

それだけ愛媛ではとても珍しいこと。

その後も、松山藩主は代々に亘り周敷一の宮として祭祀の費用を代官所で賄ったそうです。

鴨族が伊予の国へと移ってきた最初の地。

ここから少しづつ、少しづつ勢力をましていった。

そして国を大きく動かせるだけの力をもつようになっていったのはないでしょうか。

*福岡八幡神社
*西条市丹原町今井5
*祭神
玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
誉田別命 (ほむだわけのみこと)
氣長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)

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長い階段をあがります。
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途中に境内社がありました。
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そして拝殿へ
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拝殿です。 
ここは姫が消されてしまった神社。でも、拝殿に降り注ぐ光はまるで姫の光のようでした。
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そして、本殿のすぐ側にまるで並ぶように稲荷神社が。。。
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ここから瀬戸内海の島々まで見渡せます。
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そして、本殿。ここにも虹色に光が降り注ぎました。
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そして、もう一つ、私の中で今日はっきりと確信したことがあります。

それは、新大和をつくる鍵を握る人物たちは、やはり「百済」です。

大三島に祀られていた姫は 「大山積神」へと変えられました。

大山積神は百済からきた神。

そして、その時姫を祀る重要な山々にいる龍を仏の力追い出した人物 「行基」 もまた 百済の人物でした。

また、中臣 鎌足も、百済系の人物。その後を継いだ、藤原不比等も。

ただ、天武天皇だけはまだはっきりと謎がとけません。

でも、私の中での今の答えは、天智天皇と斉明天皇は、百済系の人物ではありません。

斉明天皇と天智天皇の伝承はもしかしたら、そのほとんどがつくられたものかもしれません。

それは天武天皇との関係を繋げるためです。

斉明天皇も、天智天皇も、越智家と同じ 「秦氏の子孫 = 物部氏の子孫」または、そちら側の人物。

もちろん、他に多くの氏族との血縁がある可能性はあります。

でも、どちらもほんとうは、越智家、物部氏と深い繋がりのあった天皇だったのではないかと私は思います。

斉明天皇の伝承は、百済との密接な関係が書かれたものばかりです。

でも、これもつくられたものかもしれません。

なぜなら、斉明天皇は越智氏と深い関係にあったからです。

天智天皇は、中臣 鎌足に利用され、最後はもしかしたら暗殺されたかもしれません。

それは、以前紹介した天智天皇の崩御された場所が、敵の本拠地とある場所に挟まれた場所だったこともそうなのですが、

今度ご紹介するそのもう一つの場所が、天智天皇の本来の姿を示してくれていると、私はその場所にたった時思いました。

そして、あの大浜八幡神社の由緒にかかれてあることにやっとつながります。

「創立は遠く上古に溯り、乎致命九代の後裔乎致足尼高縄の創建したものにて、応神天皇の御代小千国造に任ぜられ、此の大浜の地に館を造り、東予地方を開拓した乎致命を祖神として斎き祀り、大濱宮(王濱宮)を号し壱千七百余年以前に未開の地を開拓せられた神を敬慕して御祀りしたものにて、伊予一国の中心門族越智・河野氏の産土神なり。 

天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀し、仁和元年神位従五位の下を賜う。

「天智天皇の祖神 門神神」 とは、大島の向かいに祀られていたという 「瀬織津姫」 のことです。

天智天皇の祖神でもあり、乎致命の祖神でもある神は 「瀬織津姫」 

どうしてここに、天智天皇の名前がわざわざ書かれたか。 その意味がやっとわかりました。

天智天皇は、越智家と繋がりのある最後の天皇だったからです。

そして、天智天皇の崩御とともに、越智家も百済系の氏族に、瀬織津姫を渡すことになってしまった。

699年、斉明天皇陵と天智天皇陵が共に改葬され、その真実は封印されました。

そして新たな歴史を証明するために古事記、日本書記と次々と完成させ、各地の神社の伝承も書きかえられていった。 

各地の瀬織津姫を祀る神社は、大山祇神社の大造営が行われていたとされていた19年間の間に、次々と消されていったのではないでしょうか。

そしてそれは伊豆へ、武蔵へ、そして早池峰へ。



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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-29 00:14 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は、朝からバンバンと花火の音が。。。

「今日って何の日だったっけ?

あ!今の時期と言えば御餅まきだ~!」

職場の人に今日は御餅まきの日ですよね?

と聞くと、上司が

「今日は、お稲荷さんの日だよ。うちの神社でもお餅まきがあるよ。」と

すると、次々、「うちの神社も、うちの神社も。。。。」と

そうなんです。

今日は、稲荷神社のお祭り。 「初午祭」の日でした。

2月最初の午の日、今治のお稲荷さんがある神社では、御餅まきが行われます。

初午祭りとは、伏見稲荷神社に初めて神様がおりたった日に行われる行事。

伏見稲荷神社に神様が降りたのは、

和銅4年2月11日、この日が初午の日だったことから、この日に全国の稲荷神社で、初午祭が行われるそうです。

和銅4年とは、711年。 古事記が完成される一年前。

この日、本来は龍を祭っていた伊奈利山に稲荷神が降臨しました。

しかし、山城国風土記逸文には、
秦氏の先祖といわれる 伊侶巨秦公が、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となりました。

伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈ったと書かれてあります。

餅=蛇=太陽と月が一つになったもの。
そしてその餅に矢を放つと、白鳥となって稲荷山に飛んでいった。

こうして、姫は稲荷になったのです。

そして生き抜くために、秦氏の子孫は、先祖の過ちを認めたのではなく、認めざるおえなかったのだと私は思います。

そんな姫の封印された今日、私はまた一つ今治の封印の場所を見つけました。

実は先日、ある川を上っていったのですが、それはそのすぐ側にありました。

ここに気付かせてくださったのが今日だったことも、なんとなく不思議な導きを感じています。

このお話は、また今度させていただきますね。

そこにたどり着くまでの過程も、ぜひ皆さんも一緒に楽しんください。

何かにたどり着くまでには、一つ一つ通らないといけないことがあるということを一緒に感じていただければうれしいなと思いながらいつも書いています。

これは、これまでの道のりもそうですが、あせらず、あわてず、一つ一つ積み重ねていくことが大切だということに、私は何度も何度も気付かされます。 

そして、その過程を楽しむことが続けるコツなのかもしれないと神社をめぐりを始めてわかりました。

これは、人生を生きるコツともいえるかもしれません。

そうすれば、時々ご褒美のように、突然何かにたどり着く。 その繰り返しが、生きるってことかもしれません。

さて、今日のお話は、前回の続き西条市です。

西条市(旧東予市)から、丹原町へと向かいます。

丹原町は、456年、鴨族が移り住んできたといわれる 小松町のすぐお隣。

ここにも不思議な伝説が残る場所が、いくつかあります。

今日はその中の一つ、弘法大師にまつわる伝説が残る、

「正善寺(しょうぜんじ)」 です。

四国別格二十霊場 11番札所の一つ、「正善寺」には、姫の封印に繋がる不思議な伝説が残っています。

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弘法大師は、迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くために四国八十八カ所の御霊場を開こうと四国を巡られておりました。

その途中、四尾山(おしぶやま)と呼ばれる小山の麓に一夜の仮寝されました。

するとこの山の南方が明るい光が輝き楠木の大木に、童子が現れました。

弘法大師は、

「童子の化身を以て我に示し給う。」と三拝せられて、その夜この楠の大木にご霊力をふるわれ、

延命地蔵大菩薩の御尊像を彫刻されました。

しかし、天邪鬼(あまのじゃく)が鶏の鳴き声をまねて夜明を告げたので、大師は片方の耳を彫り残したまま立ち去ってしまいました。」

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この楠は、樹齢1200年以上、周囲9~10mの大木。

元々は、本堂と大師堂の間に立っておりその中に延命地蔵菩薩が刻まれていたました。生きた木にそのまま刻まれていたので、

「生木地蔵」(いききじぞう)と言われています。

弘法大師は、どうしてこの楠に延命地蔵菩薩を刻まれたのでしょう。

それは、やはりここに封印された後があったからではないでしょうか。

「延命地蔵菩薩」は、

延命地蔵菩薩を深く想い、忘れないようにすれば、十種の幸福をもたらし、八つの恐怖を取り除くといわれます。

★十種の幸福とは

1.女性なら出産できる
2.健康で丈夫になれる
3.人々の病を悉く取り除く
4.寿命を長くする
5.賢くなる
6.財産に溢れるほど恵まれる
7.他の人々から敬愛してもらえる
8.穀物が育つ
9.神々の加護を得られる
10.菩提を得ることが保障される

◆八つの恐怖が取り除かれる
1.風雨は時節にかなったものとなり
2.敵になるような国家が勃興(にわかに勢力を得て盛んになること)せず
3.内乱・内部抗争が起こらず
4.(不吉とされた)日食月食が興らず
5.(各人の運命運勢に影響するとされた)星宿が悪い方向に変化せず
6.鬼神がやってくることはなく
7.飢饉と旱魃が興らず
8.人民が病気にかかることがない

これが、古代の人々が望んでいたことと、恐れていたことです。

ここに住む人たちが、何を望み何に恐れていたのか。

そしてその恐れていたことを見ると、まるで姫を封印した時の様子が見えるかのようです。

同じことが、二度と起こらないようにと、弘法大師は願い、延命地蔵菩薩をほったのではないでしょうか。

それはここに、封印した人々が住んでいたからでしょうか。

でも、一つだけ不思議なことがあります。

宇和町の明石寺では、姫自身である龍女が、山の頂上へと大きな石を運んでいる途中に、やはり後ろで鶏の声を聞き、夜明けがくる(太陽が昇る)と思い石を置いて消えてしまいました。

でも、ここでは空海自身が、天邪鬼がまねた鶏の声で、夜明けがきたと思い立ち去ったとあります。

空海は、地蔵菩薩を彫っている姿を、見られては困ることがここにあったのでしょうか。

しかも、片方の耳を彫らずに立ち去ったとあります。

片方の耳を彫らなかったことに、意味があるような気がしてならないのです。

半分は聞こえ、半分は聞こえない。

全てを聞くことができない、全ては聞けない、延命地蔵菩薩さまをわざと、彫ったのかと。。。。

夜明け(太陽=アマテラス)を祀る一族に見つかってはいけなかったのは、どうしてなのでしょうか。

もしかしたら、この延命地蔵菩薩さまは、片方の声だけが聞こえるという意味だったのかも。

それは、姫を封印されてしまった人々の声だけが。。。

というのが、このお寺の近くにある神社に、まるで姫の封印を語るかのような神社があります。

それは、姫の姿でもあり、姫を祀る一族の姿でもあります。

ここには、封印した一族と封印された一族の両方が隣あわせで暮らしていた。

だから空海は、封印された人々にために、この延命地蔵菩薩をほったのではないかとこの伝説から私は思いました。

四国八十八ヶ所と同じように、四国4県に定められている、

 「四国別格二十霊場」

先日お話した、松山市の文殊院もこの中の一つです。

そして、一番札所は、あの鷲が三島明神をさらっていったといわれる

「徳島県板野郡」

四国別格二十霊場は、四国八十八ヶ所と同じように姫の封印に関わる場所を意味していると思われます。

今年は、行ける範囲で、別格にも行ってみたいと思っています。

これらに行くことで、ここでどんなことがあったのかが見えてくるような気がしています。

そしてその近くに存在する神社と合わせてみることで更にその場所で何が起こったかが見えてくるような気がします。

*正善寺 (四国別格二十霊場 11番札所)
*愛媛県西条市丹原町今井141-1
*本尊 : 生木地蔵菩薩
*開 山 : 弘法大師   
*宗派 : 高野山真言宗
【御詠歌】
一夜にて 願いを立つる  みこころは 幾代かはらぬ  楠のみどりば

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今日は、この曲を選んでみました。

今日の空はとても澄んで、月が光輝いていました。
そして、月の下には、まるで寄り添うかのように明るい星が輝いてました。

海と山と小さな村、そんな場所に暮らしていた古代の人々の目にうつる月や星はもっともっと
神秘的に見えていたのでしょうね。 星と月のあかりだけの世界って、どんな世界なんだろう。。。。。




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by ldc_nikki | 2012-02-27 23:25 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は先日の続き旧東予市です。

今治市と東予市の境目、蛇池から世田山の麓世田薬師へお参りし、そのまま旧東予市市街地へ向かうと、
弘法大師ゆかりの湧き水があります。

番外霊場 「臼井御来迎」

この通りは昔の主要道だったそうなのですが、今はほとんどの人が国道を通るため、ここは地元の人意外ああまり通らないため、この存在はあまり知られていません。

この弘法大師の湧き水より少し今治よりには、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。

この宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、旧東予市でもっとも古く石造文化財として極めて重要なものだそうです。

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またここには、鎌倉時代の作といわれる、

「馬頭観菩薩像」があります。

身丈43.5cm、総丈70cmの木造坐像です。

馬頭観音菩薩とは、衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊(きかい)する菩薩だと云われます。

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馬頭観音菩薩さまに、手を合わせていると、後ろで突然猫の鳴き声が。

後ろを振りかえりふと足元を見ると、どこからやってきたのか、かわいい猫がごろんと横になっていたのです。

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私たちが振り返っても逃げるどころか、ゴロゴロ気持ちよさそうに転がってる。
人になれているのかな?

猫ちゃんにお別れして、車に乗っていこうとすると、起き上がってお見送りをしてくれました^^

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実はこの日の最初の蛇池から海岸へ行く途中も、道路の真ん中にまるで狛犬のように犬が座っていて
車ですぐ側をよけながらゆっくり通りすぎたのですが、その時も全くよけることなく、まっすぐ狛犬のように座ったままでずっと私たちの方をみていた犬がいたのです。

そして、今度は猫。

お見送りしてくれてどうもありがとう♪ 

そういいながら、目的の湧き水へ。

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家と家の間にあるので、普段なら見落としてしまいそうなところにありました。
道路から少し下に降りたところに。

*臼井御来迎

天長6年(829)弘法大師が老母の願いにより、臼の中に加持して五色の御光を影ぜられたという旧跡で、
透き通った水がいまも、こんこんと湧き出ています。

この湧き水の前で、一心に祈れば七色の輝きの中に諸仏の来迎(薬師如来・日光月光菩薩・十二神将・弘法大師)がおがめるといいます。

また、かき混ぜると虹が現れるという言い伝えがあるそうです。

水の中を覗いてみると、かわいいめだかが沢山泳いでいました。

虹が現れるかな。。。。。と かき混ぜてみましたが、残念ながら虹は現れませんでした。

そんなに簡単に現れるはずはないですよね。

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でも、どうしてここに弘法大師の伝説が残っているのでしょう。

ここの湧き水の名前は 「臼井」といいます。

この 「臼」は、瀬織津姫の封印とも深く関わりがあります。

それは、三島明神誕生の物語という、以前お話したもう一つの三島明神の物語の中に出てきます。

あの物語を深く読み解いていくと、その中に暗号のように隠された謎が見えてきます。

その一つが 「臼」 です。

三島に住んでいたという夫婦の子供が生まれてすぐ 「鷲」にさらわれ、その鷲を追って夫婦は、現在の四国中央市と徳島県の境目の山の中にやってきます。

そして、子供を失った夫婦はこの山の中で暮らしはじめます。

17年たったある日、夫婦の子供が本当の両親は別にいることを知り、家来に捜すように命じ、家来は山の中に暮らす夫婦を見つけます。

息子の「玉王」は、連れてくるように命じ、家来たちは山から元二人が暮らしていた三島の家に連れていくのですが、山を降りる前夜、

あまりに汚い格好をしている夫婦を見て、こんな二人が両親なわけがないと思い、逃げないようにと柱につなぐのでした。

その時、ただ柱につないだだけでなく、

母のほうには、「女臼」を 父のほうには「夫臼」を縛りつけ柱につないだのです。

二人に繋いだ「臼」とは、現在のおもちをつく時の臼ではなく、弥生時代から古代の人々が使用していたといわれる、

「摺臼(ずるす)」 という、籾殻を取り除くうすでした。

臼の中に籾を入れて、臼の上に三角形に取り付けられた棒状のものをくるくると回します。
すると、籾がすられることによって、殻がとれる仕組みになっています。

古代、臼は、とても神聖なものでした。

おもちをつく時の臼は 「女」にたとえられ、杵は「男」にたとえられていました。

女と男を合わせることによって作られる 「もち」は、特別な食べ物だったのです。

そして、この籾をいれる臼も、臼である「女」の中にいれて、まるで渦ができるようにかき回す。

私はここにも、特別な意味があったのではないかと思います。

それは、この物語の最後の部分にでてくることで読み取れます。

この老夫婦が、亡くなった後 「三島明神」として現れます。

三島明神とは、この老夫婦のことをさしていたのです。

そして、自分たちをお祀りする時には、

臼でしばり辛い思いをしたからと、御料米は、決して臼を使わず、手で一つ一つ籾をとったものでなければいと誓いをたてられたといいます。

しかし本当は全く逆の意味なのではないでしょうか。

臼を使うことによって、「男と女=太陽と月=再生、誕生」 の意味をもつ米になる。

また摺臼は、女性である臼の体内で、まるで渦のようにかき混ぜなれ、新しい命が誕生する。

摺臼を使ってはならないのは、そうなっては困るからと、あえて使うことを許されなかったのではないでしょうか。

三島明神となった老夫婦の息子 「玉王」が、縛られていた時に母の夢の中に出てきた姿は、

左手に 「月」 右手に 「太陽」 の珠をもっていました。

そして、その後ろには、朱の糸で髪を結んだ天童が付き添ってたっていたのです。

これは、三島明神の子 「玉王」 が鷲にさらわれ、「太陽の子」になったことを意味していると思います。

そして手に持った珠は、その両方の力をみずからのものとしたことも意味しているのではないでしょうか。

これが 「アマテラス」を意味する。

また最後の三島明神の託宣にはこう書かれてあります。

「わが氏子は枇杷の木を粗末にあつかってはならぬ。
わが子玉王は鷲にさらわれたが、枇杷の枝に捨てられ助かったからである。また鷲は鳥の王である。わご子は鷲にさらわれたために、のちに万民の王となった。
その鷲を粗略に思ってよいものだろうか」

と、そういって、鷲にも神明の法を授けて、鷲明神と神号をつけ、伊予の国一宮の御殿の前に社をたてて、大切に敬った。

その後、三島大明神は東征のため東国にわたり、伊豆の国に移り住むことになった。(静岡の三島大社)

その時鷲大明神も同じように東国へ飛び移って、武蔵の国大田庄に住むことになり、この国の鎮守と号して非常に尊敬を受けることになった。(埼玉県 関東最古の大社と称する鷲宮神社)

この物語はかなり長いので、ここで全てをお話することはできませんし、まだ全ての意味がわかったわけでもありません。

いつか全ての謎をといて、お話する日がくればいいなと願っています。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-26 23:29 | 愛媛県西条市(旧東予市) | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

もうすぐ2月も終わり、3月ですね。
3月といえば、ひな祭り。 今日は、商店街の中の貸しスペースに雛人形を飾る準備をしていました。

この辺はひな祭りも七夕も一ヶ月遅れにするため、雛人形はこれから4月3日まで飾られます。

ひな祭りは、桃の節句。

これも起源は、姫なんですよ。 そしておだいりさまとお雛様は、饒速日命と瀬織津姫。
三人官女は、厳島神社の三女神。 五人ばやしは、やはり誓約で生まれた 五男神。
姫の封印によって誕生した神様 五男三女神が、雛人形の中に。

雛人形の起源は「流し雛」だといいます。

流し雛は、身の穢れを水に流して清める行事。
平安時代から始まったとされる流し雛とは、瀬織津姫そのものです。

瀬織津姫である 「雛」 に自分の穢れを海に流してもらうこと。

これは瀬織津姫が祓戸大神とされていたからかもしれませんが、それが起源となり現在の形のひな祭りに変化していったといいます。

女の子の健やかな成長を願いはじめて買う人形は、瀬織津姫。

私たちは、その起源をしならいだけで姫が起源として始まった行事、姫のことを歌った歌、昔話、風習・・・と
姫に見守られながら生きているのですね。

さて、今日は少し前に紹介した 「蛇池」 の続き、西条市のお寺のご紹介です。

夏になるとテレビのニュースの映像で毎年流れてくる 「きうり封じ」 の様子。

「きうり封じ」で有名な、西条市(旧東予市)のお寺 「世田薬師」、ここにも龍にまつわる伝説が残っています。

世田薬師とは、正式な名称ではなく、地元の人々から親しみを込め呼ばれている愛称です。

今治市と旧東予市の境にある世田山の山上に奉られているお薬師さんだからついた名前。

正式には

「山号を世田山」

「院号を医王院」

「寺号を栴檀寺」 といいます。

お寺の山号でもある この 「世田山」 は 標高335mとそんなに高い山ではありませんが、
今治市と東予市の境目にあり、その頂上からは瀬戸内海が一望できる、おにぎり形の山です。

このおにぎり形の山のことを 「宝珠山」 とも言います。

「宝珠」 とは、、十字架が上に付いた球体を意味し、世界(球体)に対するキリスト(十字架)の支配権を象徴する言葉でもあるそうです。

宝珠山で思いつく場所が、あの斉明天皇や、神功皇后の伝説が残る、九州朝倉郡に属していた

「宝珠山村」 

「宝珠」と名のつく場所や、 この「おにぎりの形をした山」 がある場所は、キリスト(男神信仰)に繋がる場所と考えられるかもしれません。

「世田薬師こと、栴檀寺」は、
神亀元年(724)行基四国順錫の折、山上に薬師如来のご来迎を拝し、そのお姿を「栴檀は双葉より芳し」という栴檀の一木に刻み、寺を開いたことから名付けられたと言われています。

724年は、ちょうど聖武天皇が即位された年。

大山祇神社が宮浦へ正遷座され、新しい時代がスタートしたちょうどその時代です。

ご本尊は、薬師如来。身丈9尺の珍しい立像だといいますが、秘仏である為、一般には公開していないそうです。

一度見てみたいものです。

この立像の薬師如来は、特に霊験あらたかと信仰を集め山岳仏教の一拠点として栄えたといわれています。

現在は、世田山の麓に、大師堂と、三宝荒神堂等を移し、奥の院と二つになっています。

今回奥の院までは行っていないのですが、この奥の院にあるといわれる 「龍の彫り物」にまつわる不思議な伝説が残っています。

「世田山の麓にある世田薬師の本道に立派な龍の彫り物があります。
この龍の彫り物は、左甚五郎の作ともいわれている。

昔、この龍が夜になる寺をぬけだし、孫兵衛作にある医王池まで下りて来て水を飲みました。
(この医王池は、先日お話した蛇池のことで、この池には二つの龍の伝説があります)

冬はよいとしても、夏になって田に水がいる時に、龍に水を飲み干されるので大変困り、
ある時、この龍を八つに切って「かすがい」でとめてしまいました。
それから龍が水を飲んで困るという話は聞かなくなったといいます。」

ここでも、龍は 「八つ」 に切られてしまっています。
また更にここでは 「かすがい」 でとめられ二度と動けないようにさせられているのです。

ここに開基された時代といい、この龍の伝説といい、やはりここも瀬織津姫の封印と深く関わっている場所だといえそうです。

というのが、これだけではないのです。

ここにもやはり空海の伝説があり、冒頭でお話した 「きうり封じ」 もまた、瀬織津姫の封印が起源となっていると思われる特殊な行事なのです。

ここ世田薬師で きうり封じが始まったのは、今から約300年前だと伝わりますが、
身体健康、病気平癒を祈祷し行われるこの 「きうり封じ」 の起源は、空海です。

今から約1200年前、弘法大師が薬師如来の本願によって病魔・悪鬼をきゅうりに封じ込め、病を癒し自らの生命力を増進させ無病息災を得られたことが、その始まりと伝えられているのです。

年に一回、夏の真っ盛りの土用丑の日に、きうり(胡瓜)に身代りになって頂き病を封じ込め、三年間続けて「きうり封じ」のご祈祷を行うと、病気の『ね』が切れると言われるほどの効力を持つ、特別な秘法。

どうして空海は、きゅうりに悪鬼を閉じ込めようとしたのでしょう。

それは、きゅうりを切った時の切り口が、祗園様(素盞鳴大神)の神紋とそっくりだったからのようです。

だから、日本三大祇園山笠祭りでは、その期間中、博多の人々はきゅうりを一切口にしいないといいます。

京都の祇園祭りの時も、同じような風習が残っているようです。

「祇園祭り」 は、以前も少しふれたように、姫の封印に関わる祭りの一つです。

行基が開いたあと、ここにも空海は訪れていたのです。

奥の院へと行く途中に、空海の伝説が残っている場所があります。

それが、「湧き水」です。

空海によるといわれる 「湧き水」 が、薬師如来が奉られる山の中にありました。

姫の封印と深く関わる場所には、必ずと言っていいほど、封印された姫をまるで解き放つかのように
掘られている 「湧き水」 がここにもちゃんとあったのです。

もう少し暖かくなったら、山の上まで登ってみようと思っています。

伊予の国府を守る最後の砦といわれた 「世田山」 は、
やはり、本来は姫を祀る人々が守っていた場所だったのかもしれません。

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今日は久しぶりにこの曲を選曲してみました。

さよならにさよなら。 時間は螺旋の階段。さよならさえも繋がっている。

ドラえもんの映画の主題歌ですが、 とってもいい曲です。

歌詞を一つ一つ心の刻むように聞いてみてください。

では今日も、素敵な一日になりますように☆




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-25 07:47 | 愛媛県西条市(旧東予市) | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

今日は、前回ご紹介した文殊院の近くに鎮座する 「龍神社」のご紹介です。

この龍神社のある場所の住所は、

「松山市大橋町」 私と同じ名前の住所。

人は、どこかに共通点を見つけるととても親近感が沸くといいます。

ほんとうにそのとおり、住所が名前と同じだけでなんとなく、自分と関係がある場所かな。なんて思ってしまいます。

ここは、前回ご紹介した、文殊院からほぼまっすぐ、松山方面へといったところにあります。

重信川を渡ればすぐ、西林寺や、西林寺の奥の院、「杖ノ淵」があります。

杖ノ淵は、空海の湧き水として有名な場所ですが、ここ龍神社にも、昔は同じように美しい泉があったとされます。

重信町を挟んで、南に、龍神社 「龍神泉」 北に「杖ノ淵」があったのです。

ここ大橋町、松山市ですが、この辺りの市の境界線がとても不思議な線でわけられています。



この赤い印は、ほぼ直線上にあります。

この短い間に、空海由来の場所が 「5箇所」 そしてこの龍神社です。

黒い点線が、隣の市との境界線なのですが、見てのとおり、この神社やお寺があるところがだけが
長細く松山市となり、西側が砥部町、東側が重信町になります。

どうして、ここだけが松山市となったのでしょう。

それも、私は1300年前に意味があるのだと思っています。

この直線をさらに北へ行くと、「久米町」になります。

この久米町が、1300年前の封印の鍵を握る場所の一つだからです。

今治が、新大和の勢力に飲み込まれる前に、松山市は占拠されていたのです。

そして更にその前に、西条が。。。

その証が、この久米町にあります。

そしてこの龍神泉や、杖ノ淵は、当時の人々にとってなくてはならない、「水の源」だったのではないでしょうか。

それが川を挟んで二つあるということにも、もしかしたら意味があるのかもしれません。

龍神社は

「文武天皇元年 (697年)」 越智玉興が、重信川河川淵を開拓し田畑にしようとした時に、泉を掘り、「龍神」を祀ったことが始まりとされています。

そのおかげで、大旱魃が起こっても、この龍神泉と杖ノ淵だけは枯れることがなかったといいます。

その後南海道で大旱魃があった時には、ここで雨乞いの祈願が行われ雨が降ったといいます。

それほど、ここの龍神様には力があったということですね。

ここに龍神が祀られた 697年は、まだ大山祇神社の大造営が始まっていませんでした。

しかし、「与陽盛哀記」の中では、大山祗神社が日本総鎮守の称号を頂いた年が

この697年です。

そしてこの翌年、 

*698年、現在の地に 「伊勢神宮」が成立されました。

またこの年に、筑前国の宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許されたといわれます。

そこにも、意味がありそうですね。

更にその翌年

*699年、斉明天皇陵と天智天皇陵が共に改葬。

*699年、5月24日 役君小角は伊豆大島に流され、

*700年前後、伊予部連馬養、「浦島説話」を書き記しました。

*701年、丹波で大地震があり、

そして、この年

*701年 「大宝律令完成」 により、いよいよ 

「大山祇神社の大造営」が始まったのです。


天武天皇の時代から始まった、日本各地の大地震。

私は、この西日本各地を襲った大地震も、国譲りをすることになった原因の一つではないかと思います。

瀬織津姫は、地震を起こす女神とも言われていました。

だから、茨城県鹿島神宮には、女神を封印する 「要石」 があるのです。

また、豊玉姫と玉依姫がもつ、「干珠満珠」もまた、本来は瀬織津姫を意味するものです。

瀬織津姫と地震が結びつけられたのは、ちょうどこの時代に起こった数々の地震だったのではないでしょうか。

また、この 「干珠満珠」は、日本書記の中で、神功皇后が関門海峡で、住吉神が現れ竜神からもらうようにいわれ、受け取った神宮皇后は、この「干珠満珠」を使って、日本へと攻め込んできた新羅軍をたおしました。

潮の満ち引きを自由に操ることのできる、「干珠満珠」は、

月の引力によって潮が満ち引きすることと同じ力。

「月の女神 瀬織津姫」 の力なのです。

神功皇后は、瀬織津姫の力を全て自分の力に変え、戦い、聖母となったのです。

それは八幡信仰に繋ぐために。

人間が神の力を授かり、神の子を宿し、人間と神が一つになった子供を生むために。

本来の聖母とは、人間ではなく、「女神」 

ここにもまた、全ては、女神から生まれてくると考えた 「女神信仰」と、

男の神の血を受け継ぐ人間。 「男神信仰」 への移り変わりが見えるようです。

姫の封印を決定づけたのは、もしかしたら予期せぬこれらの地震も原因の一つかもしれません。

*龍神社
*松山市大橋町
*祭神
高龗神、大物主神

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「月弓」

日本の形って、不思議ですね。

龍にも見えるし、月にも見えるし、弓にも見える。

百済からやってきたという、「弓月の国」の 「弓月の君」

どうして、「弓月」 とつけられたんだろう?

まるでその名前は、 「日本」 のことをさしているようにも思える。

大きな大陸の東の果てに、大陸から離れていった、欠片 日本。

偶然にも、三日月であり、龍の形になった、日本。

月であり、龍でもある。 まるで日本そのものが、月の姫の国。

そして、東の果て。

太陽が昇るその場所にあるその意味は、

太陽と月、二つの神が一つになった姿。

二つの神が一つになったその意味のように

「誕生」 「再生」 「復活」 

の国なのかもしれません。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-23 07:28 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日は、コメントを入れてくださった方のおかげで、とても素敵なお話を思い出すことができました。

まるで、今の私に 「これを読みなさい」と姫が言っているかのように、改めてこのお話を見て感じました。

今から、1年以上前に書いた記事ですが、「のらねこ学館」の先生の講演を聞いたときのお話でした。

私たちがどれだけ恵まれ、どれだけ幸せか、考えさせられるお話です。

もし、まだ読んでいない方がいらっしゃいましたら、ぜひ読んでみてください。

天使の心

では、今日のお話です。

実は、今日ご紹介するお寺は、今年始めに行ったところで、本当でしたらもうご紹介していなければいけないのに、なぜか飛ばしてしまっていました。

今日このお寺のことを思い出し、書いていないことに気づきました。

四国八十八ヶ所の発祥の地といわれるお寺 

「文殊院」 です。

文殊院は、発祥の地なのになぜか八十八ヶ所の一つには入っていません。

四十七番札所八坂寺と四十六番札所浄瑠璃寺の間にあります。

このお寺 「文殊院」がどうして発祥の地となったのか、まずはそこからお話します。

西暦824年の出来事です。
お大師さま(弘法大師)は、四国霊場最後の見回りの途中、伊予の国荏原の庄(愛媛県松山市恵原町)に、
立ち寄られました。
その時、1人の童子が、お大師さまの前に現れ、
「お大師さま、ありがたい霊場を開くといわれても誰1人仏の道にはいられません。
ここに罪深い人が住んでおります。改心させて来世の鑑(先達)にしてはいかがですか」
と告げると何処となく去って行きました。

すると突然豪雨になり、お大師さまは徳盛寺に宿を請われました。
お大師さまが、本堂でお経を唱えておりますと 文殊菩薩さまが現れました。
先ほど、お大師さまの前に現れた童子は文殊菩薩さまの化身だったことに気付きました。

この村には、大庄屋で悪鬼長者と村人に恐れられている
「河野衛門三郎」 が住んでおりました。
 
 お大師さまは、衛門三郎の門前で托鉢の修行を、数回、7日間行いましたが欲深い衛門三郎は、追い帰してしまいました。

翌日の事です。腹を立てた衛門三郎は、竹箒でお大師さまをたたくと、手に持っていました鉄鉢に当たって八つに割れました。

すると、光明を放ちながら南の空に飛んでいきました。

南の山々を見ますと、山の中腹から雲が湧き出てきました。

不思議に思い、山に登ってみますと、八つの窪みが出来ておりました。

三鈷でご祈念しました。すると、

1番目の窪みからは風が吹き、

2番目、3番目のくぼみから水が湧き出て来ました。

この水を八降山八窪弘法大師御加持水として涸れることなく、いまも文珠院の山中に湧いています。

衛門三郎には、「男の子5人と女の子3人」 おりました。
お大師さまをたたいた翌日、長男が熱を出して病気になりました。
しかし、いくら介抱しても、あくる日に亡くなってしまいました。

そして次男坊と、次々「八日の間に8人」 の子供達が亡くなってしまいました。

衛門三郎は毎日毎日泣き暮らしておりました。

ある日、お大師さまは罪の無い子供達を不憫に思い、山の麓に行き手に持っております錫杖で土を跳ねますと、その夜、土が大空高く飛んで行き、お墓の上に積み重なっていきました。
(このお墓が八塚と呼ばれ、今も文殊院の境外地に松山市の文化財に指定され残っています。)

お大師さまは、文珠院にて、衛門三郎8人の子供菩提供養の為に、延命子育地蔵菩薩さまと自分の姿を刻み供養をしました。
 又、法華経一字一石を写され、5番目の子供の塚に埋め、子供の供養を行なって文殊院を後に旅立ちました。
 ある晩のことです。

 衛門三郎の枕元に

「汝8人の子供が亡くなったのは、汝の罪悪が深い為に亡くなった。
一心に四国寺院を巡拝しなさい、その時私が会って汝の罪を許してあげよう、夢々うたがってはいけません。」とお大師さまが夢枕に立たれました。

衛門三郎は子供のお位牌の前で、奥さんに、

「お大師さまに会って罪を許していただくまでは家には帰って来ません」
と別れの水盃をいたし、

 白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って旅立ちました。
 
 この姿が、本来のお遍路さんの姿だそうです。

 衛門三郎は、文殊院にお大師さまを訪ねてきましたが、旅立ったあとでした。 

紙に自分の住所、氏名、年月日を書き、お大師さまがこの札を見ると、衛門三郎がお参りした事がわかりますようにと、お札をお堂に張りました。

(このお札を「せば札」といい、現在のお納札のいわれとなっています。)

ある日、野宿をしていますと乞食が現れて、年貢が払えなかったために
家、田畑をとって追い出され、こういう姿になったと、罵られ叩かれますが、ただ謝るばかりです。

(これが改心の姿)

 雨にも負けず、風にも、雪にも負けず難行苦行の毎日です。

やがて、8年の歳月がたちました。

その間、歩き続けたのですが、四国寺院を20回しか巡る事ができませんでした。

それでもお大師さまに巡り会えませんでした。
 
西暦832年(閏年)、
「徳島の切幡寺から逆に巡るともしかしたらお大師さまに会えると思い逆回りを始めました。」

 自分の家の前に帰って来た時、茶店で一休みしていますと、子供のお墓から煙が立ちのぼっておりました。
茶店の婆さんに尋ねますと、衛門三郎に衛門三郎さんのお話をして聞かせました。

「奥さんは家、田畑を村人に施して、三番目の塚に小屋を建て、子供の供養をしながら、ご主人の帰りを待っておりましたが、ふとした病がもとで亡くなって村人が寄って野辺の送りをする所です」

といわれました。
家に帰って一目妻に会って別れをしたいのですが、

「ここで帰ると今までの苦労が無駄になる」と心に言い聞かせ、その夜お墓の前で手を合せて村人に見られないように旅立ちました。

そしてとうとう、徳島県の焼山寺の麓へ差し掛かると足腰立たず、倒れてしまいました。

このままお大師さまに会うことができず、死んで行かなければならないのかと嘆き悲しんでおりました。

「衛門三郎殿、衛門三郎殿」

という声に目を見開きますと、8年前に叩いたお大師さまが立っておられました。

 お大師さまは、「よくここまで歩んで来ましたね、今までの罪はもう無くなっています。

しかし、貴殿の生命はもう尽きようとしています。何か願い事が有るならば1つだけ、叶えてあげましょう」と言われました。

衛門三郎は「できる事でしたら、一国のお殿さまの嫡男に生まれ変わらして下さい」とたのみました。

お大師さまが、小石に「衛門三郎再来」と書き手に握らせますと、衛門三郎は亡くなりました。 

お大師さまは、衛門三郎が持っていました金剛杖をお墓の上に逆に立てご供養いたしました。

 「お大師さまは、文殊院に衛門三郎のお位牌を持って来られ、子供のお位牌と一緒に本堂で衛門三郎家の悪い先祖の因縁を切るために、因縁切りの法を権修しました。」
 
しばらくたった、ある日のことです。愛媛、松山の道後に昔、湯月城がありました。

河野伊予守左右衛門介越智息利候の奥さんが妊娠し、玉のような男の子が誕生しました。

名前を、息方君と名付けました。

若君の右の手が、いくらたっても開きません。

若君3歳の春の事です。桜の花見の席で南に(文殊院)向かって両手を合せ(合掌)、南無大師遍照金剛とさんべんお唱えになりました。

すると、右の手がぱっと開き、その手の中から小さな玉の石が出て来ました。

家臣が拾って見ますと、「衛門三郎再来」と書かれていました。

その石を安養寺へ持って行って納めました。後に、安養寺を石手寺と改めました。

(これが、四国八十八ヶ所 石手寺の由来でもあります。)

若君は、衛門三郎の生い立ちを聞きました。そして、民、百姓に喜ばれる政ごと(政治)をしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これが、四国八十八ヶ所を巡るようになった由来です。

このお話の主人公 「河野衛門三郎」は、このお話の中では、

「大庄屋で悪鬼長者」ですが、名前は 「河野」 越智家の子孫、河野家の一人です。

私は、このお話はただの庄屋のお話ではなく、「越智家」 が行ってきたことの罪のお話だと思います。

「越智家」 は、本来は伊予の国を守らなくてはいけない立場でした。

それが、どうしてか、敵の見方についてしまったのです。

もちろん一族全部ではなかったと思います。でも、大国主の国譲りのお話のように、敵に国を譲ってしまったのです。

そして、その子孫 「河野家」の中に、その罪を祓おうとした人がいたのではないかと思うのです。

この庄屋の子供は 「男の子が5人、女の子が3人」 

まるでこれは、アマテラスとスサノオの誓約の時に生まれた 「神」の数と同じです。

そして両方合わせて 「8人」 

そして、「8日間」 で、みんな死んでしまいました。

ここでも、「8」 の 意味が組み込まれています。

文殊院の本尊でもある 「文殊菩薩さま」は、 人々の罪を祓ってくださる仏さまです。

一族が犯した罪を祓ってくれた仏さま。

弘法大師が、四国八十八ヶ所を廻った最初のお寺 1番札所では、弘法大師自身が、祓い清めてから出発しました。

しかし、八十八ヶ所を人々が廻るようになった起源は、

1番札所ではなく、 ここ、 「文殊院」の「河野家」 だったのです。

四国八十八ヶ所は、姫のために作られたお寺です。

一見封印のように思える 「88のお寺」 は、本当は、封印ではなく、鎮魂。魂を沈め祀る意味もあったのだと私は思っています。

だから、ここを巡る意味は、 「これまでの罪を詫び、祓い、清め、懺悔」 をすることなのだと、このお話は語っているのではないでしょうか。

そして、この文殊院がある場所。

ここにも、きっと意味があると思います。ほぼ直線状に、砥部から松山市内へと続く遍路道。

浄瑠璃時、八坂寺、西林寺、そして、西林寺奥の院の、弘法大師の湧き水。

この短い間に、3つのお寺が連なるこの場所は、きっと姫が封印されることとなった大きな出来事があったところではないかと思うのです。 

それは、昨日松山の考古博物館に行き、更に強く思うようになりました。

21回目にめぐりあえたことも、その数に意味があり、
また、めぐりあえた場所 「徳島県 焼山寺」は、 邪馬台国があった場所とも言われる 「神山町」
のお寺です。

ここには大蛇がいて、弘法大師はこの大蛇を倒すために訪れます。
そして洞窟の中へと、閉じ込めてしまった場所です。 

阿波の三大難所 

「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」

の一の山が、神山町。  もう、この三つの場所を見て、気付いた方もいると思います。

ここにも、 「鶴」 と 「龍(亀)」 が出てくるのです。

そして、一の山とされた 「神山町」 はもっとも重要な場所です。

ここで、越智家の子孫 「河野衛門三郎」は、また生まれ変わることを約束され死んでいったのです。

そして、本来の 「小千家」 の姿にもどった河野家に生まれ変わった場所は

「湯月城」 でした。 しかし、この伝説の時代に湯月城はまだなかったとされています。

ということは、本来の小千家に戻った河野家の一部の子孫は最初 
「湯月」には城はなかったかもしれません。

でも、その地に住んでいた。 そして、もう一度姫を祀ったのではないでしょうか。

そして、その子孫が 北条の河野家と争い、 「湯月」に城を造った。

そして最後は、「二度とどんなことがあっても、二つの当主に仕えることのないようにと誓い、
姫の泉の水を飲んで、自害した」 のではないでしょうか。

この物語は、ただの庄屋の物語ではありません。

河野家が後の世に、なんらかのヒントを残すために、また自分たちの祖先が行ってきたことがいけなかったことだと気付いたからこそ、この物語はこのお寺に残され、1200年の時を越えても、昔話として受け継がれてきたのだと思います。

いつか、この真実に気付いてくれる人が現れるのを待っていたのだと、私はこの物語を読んだ時思いました。

「剣山」 に隠された 「鶴」 と 「亀」 の秘密。

その秘密が、「かごめかごめ」となって受け継がれていったように。。。。。。

「かごめかごめ」 の歌もまた、 「姫の封印」 伝える歌。

去年もこのお話にふれたことがありましたが、その時は、どうしても一つだけ自分の中で納得がいかないことがありました。 それが 「鶴」 でした。

「鶴」 とは何なのかが、どうしてもわからなかったのです。

だから、それがはっきりとわかるまで、お話するのはやめようと思っていました。

でも、先日やっとその意味がわかりました。

もちろん、これは私の勝手な思い込みかもしれません。

でも、そうすると、全ての意味が繋がるのです。

「鶴」 も 「亀」 も、どちらも、 「瀬織津姫であり、饒速日命」 のことだったのです。

「かごめかごめ かごの中の鳥は 

いついつ出会う

夜明けの晩に

鶴と亀がすっべた

後ろの正面だ~れ。 」

「かごめかごめ」 は、 籠目紋でもあり、籠の意味でもあります。

また、「篭」 は閉じ込められるもの。

「瀬織津姫」が閉じ込められた 「篭神社」 はその姿をあらわしています。

篭の中の鳥 とは、 瀬織津姫のことです。

鳥には、神としての二つの姿があります。

それが、 「水鳥」 と 「猛禽類」 です。

姫を祀る 女神信仰の部族は、太古の昔より、聖なる水は、地上と空の両方にあると信じていました。

だから、「空=鳥」 も 「蛇=地」 どちらも同じ、女神がいたのです。

そしてそれは 「水鳥」だったのです。 鶴、鷺、白鳥。 これらは、女神信仰の証です。

そして、「猛禽類」 これは 鷹、鷲などの、肉を食べる鳥です。

これらの鳥は、男神信仰の部族が神使としていた、鳥です。

その姿は、勇ましく、強く、攻撃的。 男性を表す鳥です。 

だから、 かごの中の鳥は、 「水鳥」 = 「鶴」でもあったのです。

「亀」 は、神紋にも表されているように、 国津神が閉じ込められた姿です。

浦島太郎の原作 「浦嶋子」の前に現れた 「姫=神女」 は、 亀にその姿を変えられていました。

亀の姿で、浦嶋子(浦島太郎)の前に現れたのです。

そして二人は、常世の国(竜宮城)へとむかったのです。

亀に姿を変えられた、神女は、 「竜宮の姫」=「乙姫」 それが瀬織津姫の姿です。

そして、饒速日命も同じです。瀬織津姫と饒速日命は 二人(柱)で一つなのです。

また、かごめの意味は、瀬織津姫と饒速日命が出会う意味と、お互いの隠された姿と、真の姿がいつ出会うかという意味にもなります。

だから、 「いついつ出会う」 なのです。

そして 「夜明けの晩」

これは、月と太陽が一つになる時間。

しかも、あの本来の七夕の日の夜中 1時ころの時間 「宵の明星」 

その時のその時間が、「夜明けの晩」 と呼ばれ、 またその時二つが一つになった時に落ちてくる

聖なる水を 「をち水」 という。

月と太陽が出会える時、ぴったりと一つになる時は 「夜明けの晩」 だけなのです。

だから、 

「夜明けの晩に」 になのです。

そして、「鶴」 である 瀬織津姫と饒速日命、 「亀」である 瀬織津姫と饒速日命が、

もし滑ったとすれば、その顔が反対を向き、真の姿が見えるのではないかという思いを込めて

歌ったのではないでしょうか。

「後ろの正面」 

それは、 変えられてしまった 瀬織津姫と饒速日命の 「もう一つの姿」が 今は表の顔になっているからです。

本当の姿こそ 

「後ろの正面」 なのです。

後ろの正面だ~れ。 

その本当の姿は、 月の女神、太陽の神の瀬織津姫と饒速日命なのです。

今日は、かごめのお話をする予定ではなかったのですが、勢いあまってそのまま書き綴ってしまいました。

これが、私の考える、

「四国八十八ヶ所」 と 「かごめかごめ」 の 本当の姿です。

人それぞれ考えかたは違うかもしれませんが、私がたどり着いた姿は、どちらもやはり瀬織津姫でした。

1300年の時を越えて、語り継がれた、童謡や、昔話。

あの時代を生きた人々はどんな思いで、その出来事を歌や伝説に残したのでしょう。

自由に生きることができる私たちには、想像もつかない心の葛藤があったのではないかと思えてなりません。

それは、誰もが知るお話だけではありません。

各地に残る地方の伝説や、昔話。

おじいちゃん、おばあちゃんが話してくれたお話の中にも、きっともっともっとあるはずだと思います。

みなさんのふるさとにも、もしかしたら、よ~く考えると姫のことを伝える伝説があるかもしれません。

そのお話が、途切れることのないように、子供へ孫へと受け継いでいかれることを

心から願っています。

*文殊院(もんじゅいん) (愛媛県松山市恵原町308)真言宗醍醐派
*山号・・・・・大法山。
*本尊・・・・・地蔵菩薩、文殊菩薩、弘法大師
*創建・・・・・伝・天長元年(824年)

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-20 23:46 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(9)

蛇池 

こんばんは。

今日は、松山の考古博物館に行ってきました。
毎週松山に行っているのに、今まで一度も行っていませんでした。 

今日は最初にこれもまたいつも通っている場所なのに、一度も行っていなかった 「天山神社」へ行き

神社に行った後、突然思い立ち、博物館へ。

すると、ちょうど「祈りの器」という特別展をしていて、それを見たあと、学芸員の方に少しお話を聞いて、本を二冊買い帰ってきました。

このお話はまた後日させていただこうとおもうのですが、ここで一つのヒントを頂きました。

学芸員の方も、親身にお話を聞いてくださり、いつまでもまた聞きにきてくださいと。

ありがたいです^^ (出会いに感謝)

やっぱり、神社だけではわからないこともあるので、これからは、少し考古学の勉強もしなくては^^などと思っています。

では、今日は、今治市桜井に残る、一つの龍伝説のお話です。

ここは、今治市と旧東予市との境目にある小さな池。

この近くには、今度お話しますお寺があるのですが、この池やお寺には「龍」の伝説があります。

この池は、蛇池湿地帯と呼ばれ、約86種類もの植物が自生しています。
その中には愛媛県絶滅危惧種に指定されているものも多数存在して、わずか50アールほどしかないこの土地でこれほどの植物群が見られることは奇跡だといいます。

昔は、松山地方にも多くあったと思われる、湿地地帯。
ここは、そんな古代の自然がそのまま残る、とても貴重な場所だといいます。

そして、ここにはいつのころからか伝わる 「龍女」の伝説があります。

この龍女も、もしかしたら姫が消された姿の一つかもしれません。

昔、医王池(蛇池)に一匹の女龍が棲んでいて、時々竜宮の乙姫を思わせるような美しい女性に化けて姿を現わし村人達を喜ばせていた。

どんな日照りの年でもこの池は水に不自由をすることがありませんでした。

ある年、数十日間干天が続き、田畑の作物は枯死状態になっていました。

それでも里人は女龍のために少しばかりの池の水をのこしていました。

日照りが続きました。

里人たちは残した水を眺めながら、女龍様にお願いしてこの水を頂こうと話し合っていた。

これを聞いて女龍は「この池を出て海へ行こう」と池の東北の隅から山を越して海岸へでていったといいいます。

そして、「蛇越し池」の名はこれから付いたとそうです。

この池のすぐ側に、そんなに高くない山があり、それを越えるとすぐ海岸があります。

龍は、この山を越え、海へと出ていったのです。

この池のすぐ側には、三島神社があります。

今回は、神社へは行っていないのですが、この峠は、今治へと入るために越える 「最後の砦」でもあります。

この地では、数々の戦いが行われてきました。

この伝説もまた、そんな戦いの中で生まれた伝説の一つかもしれません。

蛇池

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そして、この海が龍女が出て行ったといわれる海です。

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-19 23:40 | 愛媛県今治市 | Trackback | Comments(0)

彦狭島命の御所地

こんばんは。

今日は寒いですね。また真冬に逆戻りです。
みなさんは、風邪など引いていませんか?
今治でもインフルエンザが流行っていましたが、やっと落ち着いてきたようです。

しかし、2月ももう終わり、暖かい春も後1ヶ月でやってきますね。
春の気配を感じさせる梅の花が今治でも咲き始めているようです。

今日のご紹介は、弥生時代からの跡が残る、彦狭島命の御所地跡です。

伊予神社からすぐのところ、谷神山の麓に、彦狭島命の居住地ではないかといわれるところがあります。

小高い岡の上。 ここに立つと、松山平野の隅々までが見渡せ、その風景は見とれてしまうほどです。

ここはまたの名前を、今岡御所跡といい、以前はここに今岡神社がありました。

現在は、伊曽能神社の末社として吹揚神社に合祀されています。

この今岡御所とは、人皇7代孝霊天皇の皇子、彦狭島命が館を構えていたところだと伝わり、この彦狭島命のまたの名前を、「伊予皇子」といいます。

伊予皇子は、もう前回紹介した伊予神社ではなく、もう一つの伊予神社に祀られえおり、小千命の父でもあります。

そして、伊予皇子はここにおかれてあった説明文の中で 「大小千命」 と 書かれてありました。

「小千命」 とは、 現在は名前のように使われていますが、私は名前ではないかと思いはじめています。

というのが、今から2600年前に大山祇神社に楠を植えた人物も 「小千命」とよばれ、応神天皇の時、越智郡の国造りとなった人物も 「小千命」とよばれます。

そして、伊予皇子のことは 「大小千命」 

やはり、「小千命」 とは名前ではなかったのではないでしょうか。

「小千命」 は 「乎致命(こちまたはをち)」 とも読みます。

本来は、大浜八幡神社に書かれる系図の中にもあるように、「乎致(こち又はをち)命」がのちに
(小千(おち)命)となったのではないかと思います。

それは、 「をつ」 の古代の意味は 「若返る」「蘇る」という意味だといいます。
「をち水」 が、常世の国から流れてくる 「若返りの水」と よばれるように。
ということは、 乎致(をち)命 とは、「蘇る、再生」の意味をもつ 名前だったことになるのです。

さらに 「伊予皇子」 の 「予(よ)」。

古代、竹の節と節の間の空間を 「よ」と言いました。

かぐや姫は、この竹の節と節の間に宿り誕生しました。 この竹の節と節の間の「よ」とは、

生命の誕生する空間をさしていたのです。

それは、あの世(予) と この世(予) を結ぶ入り口だったのです。

「よ」 とは、 神と人間の世界を結ぶ空間だったのです。

乎致(をち)命とは、再生復活の意味の命を持つ 「王」 
そしてその王は 「常世の国」 「橘の国」 「あの世とこの世を結ぶ空間が存在する国」 の 「王」

それが、この(をち)命の意味だったのではないでしょうか。

だから、この地を治めた 「彦狭島命」もまた 「大小千命」 と呼ばれたのではないでしょうか。

そして 小千命の祖といわれ、モモソヒメの父といわれる 「孝霊天皇」もまた同じです。

これは名前ではないのではと、私は思うのです。

紀元前290年に天皇となった 「孝霊天皇」とは、「再生、復活の女神(霊)を敬愛していた王」

そしてモモソヒメもまた、「再生、復活の女神と一体になった姫」 だから、その父は、「孝霊天皇」なのです。

「再生、復活の女神(霊)を敬愛していた王」、そしてその子孫は、「をちの命」であり、その子孫なのではないでしょうか。

そして、小千命が 「饒速日命」の子孫だというのは、 「再生、復活の女神の夫(日の神)が饒速日命だったからです。

「孝霊天皇」=「伊予皇子」=「乎致(をち)命」=「彦狭島命」=「小千命」=「饒速日命」

これらは、一見バラバラのように思えますが、「瀬織津姫」を中心にして考えると、全てが一つになるのです。

そして「大市姫」 も、現在は 「おおいちひめ」と読まれますが、 「おち姫」ともよめます。

この時代、日本では漢字はまだ意味とおりではありませんでした。

となると、「おち姫」 とも十分考えられると思いませんか?

更に、もっと言えば、斉明天皇の古墳といわれる 「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」も同じ意味ではないかと、私は思っています。

斉明天皇は、歴史もまた歴史の中で変えられた女帝ではないかと、私は思うのです。

「斉明天皇」 「天智天皇」 は 「越智(こち)姫」=瀬織津姫を祀っていた天皇だったのだと、私は思えてならないのです。

先日、再度西条に行ってきたのですが、ある所に立った瞬間、私は更にそのことを確信しました。

歴史の先生方には、全く信用されない話かもしれませんが、私の中では、

瀬織津姫と同じように、「斉明天皇」「天智天皇」 の 真の姿は、隠されてしまったのだと思います。

現在、多くの重要な神社が、藤原家の子孫、新大和側の天皇の子孫が奉仕していることをご存知でしょうか。

大三島もしかりです。

ある大三島にある神社の宮司さんの息子さんが私の話聞き、生まれて初めて神社に残る系図を見たそうなのですが、本来の宮司さんの名前は抹消され、そこに書かれていたのは 「桓武天皇」からの家系だったそうです。

桓武天皇の時代は、十六皇子が七つの島に祀られた時です。

実は、その神社は、その中の一つとも考えられている場所なのですが、そこに書かれてあったのは、
「桓武天皇」 の名前でした。

多くの神社の伝承は、きっとこうして塗り替えられていったのです。

口伝で秘かに伝え続けた神社以外の場所は、本来の伝承は抹消され、新しい伝承へと一族によって書き換えられていったのではないでしょうか。

特に、神武天皇や神功皇后の由来が残る場所は、そっくり塗りかえられていると私は思います。

ただ、塗り替えられた中にも、ほんの少しヒントが隠されていたり、どうしても消せない内容もあります。

それを一つ一つ、検証していくしか方法はないのかもしれません。

大山祇神社を瀬戸から宮浦へと遷している間の16年間、正確にいえば、姫を封印するための準備期間(というのも、この間に本当は社殿などつくられていなかったからです)、藤原不比等は、数多くの場所に訪れていたことが、わかっています。

それは、一つ一つ、それ以前に関わるものを、抹消していたのではないでしょうか。

ここ、今岡御所跡地からは、多くの出土品があるといいます。

その中には、織物を織るための、糸をつぐむ石製紡錘車もあったそうです。

またこの岡のある山の名前を 「茶臼山」 という。

茶臼とは、「男と女が逆になっていることを表すそうです」

この意味を、みなさんはどう考えるでしょうか・・・・・・。

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イザナミ神とイザナギ神は、最初は「神」でした。

しかし、島生みを命じられた時、イザナミ命、イザナギ命と、「神」 から 「命」 のその名は
変わりました。

「命」とついた意味は、この地上で、お役目を 「命」じられたからです。

命を授かることは、ここに生まれる理由があったからだと、古事記は語っています。

古事記は、封印の意味もありますが、古代からの人間の考えがしっかりと書かれてあります。

私たちは、「命」を授かった人間。 名前を命名(命の名)された時から、それぞれのお役目が始まっったことをいつまでも忘れないように心に命じたいと思います。



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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-18 03:38 | 愛媛県伊予市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日の神社は、「伊豫神社」です。

今回で伊豫神社へきたのは、3回目です。

一度目も二度目も、ここに姫が祀られていると信じていましたが、今回ここにきてその気持ちはさらに強くなりました。
 
伊豫神社という名前の神社は、近くにここを含め二つあります。

そしてその両方には、「愛比売」が祀られています。

「愛比売」とは、伊予の国の女神の名前ですが、一説には、これが卑弥呼の後を継いだ 「イヨ」だといいます。

愛比売が降臨したと伝わる 「谷上山」は、この伊豫神社からすぐの山です。

この山の麓には、古代の遺跡があり、今回はその場所へも行ってきました。

ここに、「イヨ」 が女王となった城があったのでしょうか。

ここ伊予市上野に祀られる「伊豫神社」は、戦火で全て焼き尽くされ、そのほとんどがなくなってしまったといわれます。

宮司さんに、電話をして少しお話を伺ったのですが、宮司さんさえ、本当のことは何もわからないそうです。

しかし、神社庁には、この伊豫神社の由緒が書かれてあります。

その内容です。

往昔、神戸郷御谷山に、大山積神によって天御中主神を祀る古社があり、後に国造が此処を初めとして山の麓の朝日の面に天照大神を、夕日の面に月夜見大神を奉斎し、是を弥邑の神(伊予村神)の創祀と伝えられている。

ここに書かれた 「神戸郷」 という地名は、ここだけではなく多くの場所に見られます。

伊予の国の中にも、野間郡神戸郷、新居郡神戸郷、久米部神戸郷、そしてここ上野宮神戸郷です。

野間郡には、野間神社があり、新居郡とは西条のことで加茂一族の本拠地とされるところが後に半分にわかれ神戸郷となります。

そして久米部神戸郷とは、伊予比売命が紀元2600年前に祀られていたとされる場所です。

これを見ると、神戸郷とは、ただの地名ではないような気がします。

これも姫に関係する場所だったのではないでしょうか。

そして、この次のところです。

「御谷山に、大山積神によって天御中主神を祀る古社があり」

御谷山とは、現在の谷上山のことではないかと宮司さんは言っていました。

ということは、愛比売が祀られていた場所、愛比売が降臨した場所です。

ここに、「大山積神」によって 祀られたという意味不明な文章。

神が神を祀る? と普通で考えると全く理解ができない文章かもしれません。

でも、これが、姫を封印した証です。

「大山積神」 とは、姫を封印するために祀った神です。

ということは、姫が 「天御中主神」を祀っていたことになります。

更に、この奥には、もう一人の姫の姿があります。

それが 「イヨ」なのではないでしょうか。

大山祇神社が現在の宮浦へと遷座された時、大山積神以外に祀った神がいると書かれています。

◆その中に記された姫の名前が 「大市姫」 そしてこの 「大市姫」のまたの名を 「南海龍女」とよび、この神社を祓殿とよぶと書かれているのです。

そして、丹後 「籠神社」 の 「日本最古の系図」 の中には、

◆彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、書かれた
「日女命(ひめのみこと)」は、脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」
と書かれています。

これを合わせてみると、

「大市姫」とは = 「日女命」 = 「倭迹迹日百襲姫命」= 「南海龍女」 ということになります。

とすると、こうなります。

「日女命」 とは、一見 「太陽の女神」を想像しますが、 「南海龍女」 であるとされるところから、

「日の神の女」 ということになります。

それは、太陽の神、本来のアマテラスである 「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」の女。

そしてそれは、人間と神の結婚(巫女)の姿の、「大市姫」 「倭迹迹日百襲姫命」。

さらに、太陽の神と結婚をした巫女は、太陽の神の女 「月の女神」となるということになります。

「月の女神」とは 「瀬織津姫」のこと、そしてそれは、 「龍女」 です。

「大市姫」 「倭迹迹日百襲姫命」は、人間でありながら「巫女」となり、「瀬織津姫」と繋がり一つになったのではないでしょうか。

そう考えると、これら全ての名前が 全て 「瀬織津姫」に繋がってくるのです。

そして、「イヨ」 もまた、瀬織津姫と繋がるための 「巫女」 になった少女。

その「イヨ」がこの 「谷上山」に降臨し、 ここに古代より祀られる 

「天御中主神」=「瀬織津姫」の巫女になったのではないでしょうか。

そしてこの 「イヨ」 は 伊予皇子の娘、 卑弥呼は伊予皇子の姉だったのではないでしょうか。

二人の「姫」 を生んだ 「伊予の国」 は、こうして後の世に、「愛比売」と呼ばれる女神の国となったのではないでしょうか。

「瀬織津姫」という最高の女神を祀り、その女神と一つになろうとした 「二人の姫」 

それが、この橘の国と呼ばれた 「伊予の国」の姿なのではないかと、私は思います。

でも。まだまだ卑弥呼の姿は、見え始めたばかり。
その場所がどこだったのかは、まだはっきりとわかりません。

そして、もう一つの謎、「狗奴国」

この謎も、まだまだこれからです。

ただ、卑弥呼と愛比売と瀬織津姫が繋がっていると私は思っています。

あ!もう一つ忘れるところでした。

「後に国造が此処を初めとして山の麓の朝日の面に天照大神を、夕日の面に月夜見大神を奉斎し、是を弥邑の神(伊予村神)の創祀と伝えられている。」

山の麓の朝日の面に饒速日命を、そして夕日の面に瀬織津姫を祀っていた場所は、




この谷上山の西と東にあり、その西側には現在「稲荷」があります。

そして東側には、伊曽能神社があります。

伊曽能神社には、現在アマテラスが祀られており、伊豫神社の宮司さんも、ここのことではないかとおっしゃっていました。
(というのも、伊豫神社の宮司さんは、この伊曽能神社の宮司さんでもあります。)

そして、ここ伊豫神社には、伊豫稲荷神社と同じように、「月夜見」の石? が置かれてあります。

これは、伊豫神社の末社 「祇園神社」に置かれてあったものだそうなのですが、これも本来姫が祀られていた場所にあったものではないか、そんな気がします。

*伊豫神社
*伊予市上野2485
*月夜見命(つくよみのみこと)

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伊豫神社拝殿
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八大竜王社 (正一位時雨神社)
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愛比売を祀る 「弥光井神社 」またの名前を 「真名井神社」

ここには湧水があり、「田の神」として祀られていたといいます。

「愛比売」は 「田の神」 としても祀られていたことは、瀬織津姫が 「豊受大神」になったことに繋がりますね。

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そして、境内に祭られた 「磐境」です。

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明日は、邪馬台国、「イヨ」に繋がる、今岡御所跡です。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-17 00:04 | 愛媛県伊予市 | Trackback | Comments(0)

伊予稲荷神社

こんばんは。

昨日は、稲荷神の説明をさせていただきました。

今日は、その稲荷神を祀る、「正一位 伊予稲荷神社」 をご紹介します。

伊予稲荷神社は、伊予市の 「稲荷」 というところにあります。

住所も 「稲荷」と呼ばれるほど、住古より稲荷信仰が盛んなところだったのでしょう。

しかし、昨日もお話したように、「狐」にされる前ここに祀られていた神は 「蛇」。 やはり、ここも瀬織津姫の封印に深く関わったところだと思われます。

そして、卑弥呼にも。。。

稲荷神社の近くにある 「谷上山」は、愛媛の女神 「愛比売」が降臨したところだと伝わります。

以前、この谷神上には行きましたが、今はその場所がどこだったのかわからなくなっていますが、この山は、古代、姫が祀られていたことは間違いないと思われます。

それは、この次にご紹介する神社の時に詳しくお話しますが、この稲荷神社が祀られる山から北西にかけての山々には、それに繋がる足跡が残っています。

伊予稲荷神社は、
弘仁年間(810~823)に、山城国伏見稲荷社より勧請されたと伝わり、伏見稲荷の分祀としては最も古い時代の分祀だといいます。

この時代の天皇は、「嵯峨天皇(さがてんのう」で、空海が生きた時代と重なります。

この神社は、伊予七福まいりの一社でもあり、七福まいりでは、「恵比寿さん」となっていて、本殿右手の恵比寿社に恵比寿神をおまつりしています。

「予陽塵介集」には「当社の如き大社は四国地にあらず」と称(たた)えられているように、住古は、伊予の国の中でも、もっとも重要な神社の一つとして考えられていたことがわかります。

祭神は、

宇迦能魂神(うかのみたまのかみ)
爾々芸命(ににぎのみこと)
伊邪那伎命(いざなぎのみこと)
大宮能売命(おほみやのめのみこと)
菊理比売命(くくりひめのみこと)

この中で、あまり知られていない神様がいます。

「大宮能売命」です。

この神様は、古事記や日本書記には出てくることのない神様なのですが、
『古語拾遺』の中で語られていて,天の石戸から出てきた天照大神が移り住む宮殿に仕えたとされています。

また、大殿祭といって、宮殿の平安を祈る儀式の中でよまれる 「大殿祭の祝詞」の中にでてくる神様でもあります。

大殿祭とは、神今食(じんごんじき)・新嘗祭(しんじようさい)・大嘗祭の前後の定例の行事や、臨時に宮殿の新築・移居・斎宮・斎院の卜定のあとに行う神事のことです。

そして大宮能売命は、神祇官八神(宮中八神)の中の一柱として、宮廷の天皇の大殿内に祀られているのです。

ここで、出入りの者を監視し悪霊の侵入を防いで,親王や諸臣たちが過ちを犯すことなく,心安らかに仕えるように見守っているといいます。

だから、「物事がうまく運ぶように、導いてくださる神様」だといわれています。

この神は、『古語拾遺』と大殿祭祝詞は忌部氏に関係して、忌部氏の伝承で重要視しされていたといわれます。

ここにニニギやイザナギと一緒に祀られ、稲荷神を守護しているのでしょうか。

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拝殿
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亀石
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年に一度だけ 大雨の日に小石を産むといわれる亀石。
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そして、ここから狐が祭られる 「久美社」に行きます。

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金毛九尾の狐の霊を祀るとう社。
この拝殿には、「ダーキニー」の姿が描かれています。

そして、最後に、

夜泣き石
風のおさまった月のない夜、すすり泣く声がするという 「夜泣き石」は、
「郡の素封家宮内の庭にあったといわれます。

一見どこかのお屋敷の庭の中とも読めるこの一文。
でも、私は、封印された一族が住む、本来の宮内に祀られてあった石とも思えます。

「月のない夜」 はまるで、姫が消された姿ですね。

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この岡の上には、本当は姫が祀られそこには、姫を祀る一族の国があったのかもしれません。

海の上に遠く浮かぶ島が見えるこの岡の上に。。。。
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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-16 00:00 | 愛媛県伊予市 | Trackback | Comments(0)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。