龍に囲まれた日本の姿

こんばんは。

今日は、神社のご紹介ではなく、
少し前に買った 「龍の棲む日本」という本の中に
その本の題名でもある古代の日本の姿を描いたという
一枚の日本地図のお話です。

この地図は、
行基式日本図と呼ばれ、
行基の考えた日本の姿を、現した最古の地図のを元にして
描かれたものではないかといわれています。

行基とは、
ブログの中でも何度もその名前が出てきました、
奈良時代の僧で、
あの奈良の大仏の実質上の責任者だったと言われます。

四国八十八か所の中にも
この行基が開いたとされるお寺がいくつも存在します。
この僧は、百済系渡来人の子孫とも言われており、
百済王家の子孫とする文献もあるようです。

韓国の百済、高句麗、新羅の争いを描いたドラマがありますが、
その中でも、百済は、仏教国とわかる場面が
よく見られます。
というのが、王のそばには必ず僧がついています。
政治にも僧が介入し、
中臣鎌足が、蘇我氏を滅ぼすために日本へとやってくるとき
王は鎌足とともに僧を動向させました。

韓国のドラマなので、
この中臣鎌足の出自を、日本ではあまり気にしてはいないかもしれませんが、
この時、一緒にやってきたとされる僧が、
行基の祖ではないかと錯覚さえしてしまうほど、
その内容はぴったりと当てはまります。

行基式地図は、
もうずっと前からその存在は知られていたようなのですが、
地図としては認められていなかったのか、
あまり重視されてこなかったようです。

というのも、日本の周りにあるものが存在し、
また、日本の南と北には、実際には存在しない架空の二つの国が
書かれてありました。

この本は、そんな今まで地図として認められていなかった
この地図の謎を解こうした本です。

でも、この著者の方は、姫のことは知るよしもなく、
単に、日本と龍の関係のみを説明されています。

私は、この地図を初めてみた時、
この龍とは、姫に繋がる龍だと思いました。
この地図を見た瞬間、
どうしても、もっとちゃんとこの地図を見てみたいと思い
早速購入。

そして、この地図をまっさきに探し、
くいいるように地図を見ました。

日本の南にある架空の国とは、
「女人の国」 
そして、一度行ったらかえってこれないという意味のことも書かれてあります。
北にあるとされるもう一つの国は、
その国の名前しか書いていなかったのですが、
その国を見た瞬間、これは姫である龍が追いやられた場所。
古事記でいうなら、黄泉の国にあたるのではないかと
思いました。

しかし、私が一番目についたことは、
この二つの架空の国ではありませんでした。

本に掲載されている写真でも、
その字が小さすぎて、もしかしたら違う字かも?
と思ったのですが、やはり、どう見てもある文字にしか見えません。

まずは、その行基式日本図をご覧ください。

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これが、行基式と言われる日本の姿です。

この地図は静岡県から西しかなく、
東日本は、切り取られたのかありません。

もう、これがなんだかおわかりだと思います。

この西日本を囲む、長細い物体は、「龍」です。
日本が龍の中に存在するという姿です。

しかし、肝心な頭の部分がありません。

この頭の部分がどうなったかなのですが、
行基式日本図の他にも、同じように龍に囲まれた日本の姿があり、
そこに描かれた龍は、自分の口で尾っぽをくわえ、円形となっているのです。
また、そのもう一つに描かれた龍の尾っぽには、
ヤマタノオロチと同じよに、剣がささってあるのです。

それが、これです。
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まるでヤマタノオロチに囲まれた日本の姿です。

そういえば、宇和島市津島の、海に浮かぶ小さな岩島に
祀られた龍の尾っぽにも、同じような剣がささってありました。
南予地方全域で行われる御祭り
牛鬼の尾にも、剣がささっています。

行基式の日本図にが、本当はどんな姿だったのか、
まだわかっていないそうなのですが、おそらくこれと同じように、
龍が尾を噛み、龍の姿は輪になっていたのだろうと言われています。

そして、
先ほども書いたように、私はこの行基式の日本図の中に、
驚くものを発見しました。

それが、これです。

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この写真は、四国が描かれた所を
拡大してみました。

この当時の地図は、

上が 「南」 下が 「北」になります。

よ~く四国の各国の名前をご覧ください。
本来ならば、北(下)に 伊予の国と讃岐の国があるはずです。

それなのに、北側にある国は、
「讃岐と阿波」

讃岐の上(南)に、伊予が書かれ、
阿波の上(南)に、土佐が書かれてあります。

更に、〇で囲った島の名前をご覧ください。

讃岐の前に描かれた島は

「屋島」 

そして、阿波の国と讃岐の間に描かれた島は
なんと

「三嶋(大三島)」なのです。

いくら地図がなかった時代とはいえ、
阿波の国の、小豆島より海岸近くに三島があると考えるはずがありません。

そして本来は瀬戸内海に面しているはずの、伊予の国が、
太平洋に面しているわけはなく、瀬戸内海でも一番島の数が多いとされる
この伊予の国、くるしま海峡のあたりの島々が、一つも描かれていないことが不自然。

阿波の国の目の前に現れた、もう一つの三島。

でも、これが、本来あるはずのない島を、
徳島へともってきたという、行基の考える日本の姿なのではないかと思うのです。

大三島は、古代 「三嶋(御島)」神の島と呼ばれ、
歴代の天皇たちは、ここを訪れていたほど、
古代の人々にとっては、重要な島 「三嶋」 の位置を
阿波へともってきたこの姿こそ、

「大三島の真の祭神」が 徳島へ奪われていったことの証
なのではないかと思うのです。

行基は、もちろんそのことを知っていたはず。

だから行基の心の中で描く四国の姿が
こんな風になったのではないかと。

いつか現物を見ることができなら、ここに書かれた名前を
もう一度しっかりと確かめたいと思います。

そしてもう一つ。
現在でいう豊後水道、愛媛と九州の間の海に、

「西海道八千国」

と書かれたことも、何かを意味しているように思えてなりません。

天逆鉾は、伊勢神宮の酒殿という殿舎に納められているといいます。
そして、この天逆鉾が治められた酒殿は、
弁財天の棲みかだと言われています。

弁財天=龍女=姫

「天逆鉾」 とは 「天を逆さにする鉾」

天逆鉾の本当の意味は、

「本来の天と地を逆さにする鉾」だったのではないでしょうか。

その鉾が治められたその場所にも、弁財天がいるということは、
その逆鉾により、姫は封じ込められたと言えるのかもしれません。

大山祇神社へと「天逆鉾」が運ばれたのも
姫を封じ込めるために、徳居の宮から運ばれていったのだと
やっとその意味が繋がってきました。

1300年間、誰ひとりとして開けたことがなかった大山祇神社の
ある場所。

数年前、1300年ふりに開けられたその中から出てきたものは、
現在日本に存在する鉾の中で、一番古いものかもしれないという

「ヒイラギ鉾」と「鏡」でした。

それらは、きちんと調べられることもなく、
また、閉ざされたその中へ戻されました。

いつかそれらが、きちんと調べられる日がくることを
心から願っている一人です。

それがもしかしたら、姫を封印した、大山祇神社へ運ばれた
「天逆鉾」だったのかもしれません。。。。。。。。。。




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by ldc_nikki | 2012-06-28 23:48 | 古代の謎 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、前回の葛城神社から西、
内子町(旧小田町)に鎮座する三島神社をご紹介します。

久万高原町から、小田町へと抜けるこの山道は
今回初めて通りました。

所どころ狭い所もありましたが、
想像していたよりも、ずっと綺麗な道でした。

先日徳島へ行って思ったのですが、
愛媛は徳島に比べて、山奥でも道がととても整備されています。

本当に人の住んでいない、秘境に行かない限り、
どこも、舗装された綺麗道がついています。

それに比べ、徳島は少し山奥へ入ると、
道がガタガタで、本当にびっくりしました。

今回の道も、山の中は人が通らない山の中。
それでも、山を越えると多くの民家が存在するからなのか、
本当に綺麗な道でした。

今回の三島神社は、以前ご紹介した、
ひろた村(現在の砥部町)にある、三島神社の時にも少しご紹介しましたが、
ひろた村と小田町の境目に位置する二つの三島神社には、
二つの神社をつなげる由緒が書かれてあります。

天応元年(781年)8月21日
桓武帝天応元年
小田町の現在の三島神社へ、大三島より神を勧請した時に、
お隣のひろた村の現在の三島神社があるところへ、
立ち寄り休憩され神谷口としたといいます。

しかし、
そのひろた村の三島神社のある場所には、

「駒が瀧」という滝があり、
瀧の絶頂に平坦地があり、天狗の住家と伝えられているのです。

この瀧で雨乞いをすると、
必ず雨が降ったという、駒が瀧には、

岩肌に駒の爪あとがあり

「駒は白馬」 との伝えがあると書かれています。

前回、ここを訪れた時には、この由緒を見てもピンとこなかったのですが、
この途中で休憩した場所は、
姫を祀る場所だったのです。

ひろた村の三島神社の記事はこちら↓
ひろた村 三島神社

この地域は、古代、

「浮穴郡臼杵邑」といっていました。

「臼杵(臼と杵)」 この名前がつく場所は、
姫の封印との関わりの深い場所です。

これについては、今回は深くふれませんが、
この地が、臼杵とつけられたのには、まだまだ何か隠されていると思います。

そう思う理由が、もう一つあります。

この臼杵の三島神社の由緒には、
驚く内容のことが書かれてあります。

「安永10年3月の一千年祭執行の際には、

大三島参議 藤原佐理卿真筆の額字を奉納された。」

ここに三島神社が勧請されて、1000年がたった時
ここで一千年祭が行われたようです。

そして、その時に、
「藤原佐理卿真筆の額字を奉納された」というのです。

この文章からすると、
二つの意味にとれるのですが、
ここにも、大三島の大山祇神社と同じように、
藤原佐理卿真筆の額字が奉納されたというのか、

それとも、
ここから、大三島へ奉納したというのか、

この文章からは、どちらなのかはっきりわかりません。

そして、この神社の由緒では、

「藤原佐理卿は、大三島参議」と書かれてあります。

「参議」とは、
古代の令外官(りょうげのかん)の一つで、
大臣の一つでもあります。

それが、「大三島参議」とは、
いったいどういう意味なのでしょうか。

「大三島の大臣?」とも言わんばかりです。

以前、藤原佐理についてもふれましたが、
この藤原佐理とは、現在の大山祇神社の鳥居に書かれた

「神額」を書いた人物としても有名で、
大山祇神社には、その現物が保存されています。

その「神額」には、伝説の物語があり、
この臼杵の地とは全く縁もない物語です。

その物語はこちらです。↓
大西町 「素鵞神社」

この大西町に伝わる伝説も、
大三島に伝わるものとは、少し違い、
大西では、本当は違う人が書いたと言い伝えられているようですが、
大三島では、藤原佐理のものとして、保存されています。

この小田町の三島神社の由緒が言う
「藤原佐理卿真筆の額字」が、その伝説のものなのかどうかは、
まだはっきりと調べていませんが、
そんなにいくつもあるとも考えられず、
あの「神額」も、
本来言い伝えられている伝説と、全く違う事実が存在していた可能性が出てきました。

それが、大三島から遠く離れた、
この山の中の神社にあることに本当に驚きました。

*三島神社
*喜多郡内子町臼杵2070
*祭神
 大山積命(おほやまつみのみこと)
 松王小児命(相殿)


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こうして神社を周りながら、一つ一つ神社の由緒を調べていくと、
これだけの範囲、全てを封印していったのかと思うと、
想像を超えるものがあります。

昭和が始まっても、まだ続いていたこの封印の発端は、
あの卑弥呼が存在した時期から、もう既に始まっていたのではないかと
最近は思うようになりました。

どんどん、古代へとさかのぼる
神の封印の歴史。

これまで、そこまで考えてもみなかった沖縄に、
その封印の歴史を説く鍵があることがわかってきました。

沖縄地方でしかとれない、
「ゴホウラ貝」 という貝があります。

その貝は、弥生時代二度に渡り、その貝を使った腕輪が
はめられるようになります。

ゴホウラ貝は、沖縄で別名 「世直しの牛貝」とよばれていました。

この腕輪が日本で見られるようになるのは、
一度目は、弥生時代前期末期、最初に現れたのは

「北九州」だったといいます。
そしてそれらは、九州と山口県にまで広がりました。

しかし、一度、この腕輪は見られなくなり、
次に現れるのが、弥生時代末期。

この第二期に現れたゴホウラ貝は、
ここ今治からだったといいます。

そして、この貝が今まで見つかっている場所を挙げると、
その場所が、大山祇神社と深い関係のある場所、
また、神功皇后の伝説と関係のある場所に繋がっているのです。

今治市、広島市、岡山県瀬戸内市、岡山市、香川県三豊市、
そして神戸市。

これらの名前で、真っ先におもいつくのが、
孝霊天皇(こうれいてんのう)です。

あの卑弥呼とも言われる、ももそひめの父でもあり、
伊予皇子の父でもある、孝霊天皇(こうれいてんのう)。

大山祇神社とも密接な関係にあり、
越智家の祖は、饒速日尊とも孝霊天皇とも言われ、
ここには、岡山の吉備津彦の名前も登場します。

岡山吉備津彦神社の祭神は、
以前は、吉備津彦とされていなかったことが最近わかり、
南北朝時代には、吉備津彦は誤りで、吉備津武彦と書かれてあります。

やはり、先日吉備津彦神社へ行って思ったことは
間違いではないのでないと。

吉備津彦とは、本来の原初やまとの皇子で、
後にここを支配した人々によって、
その吉備津彦の名前だけを、利用されたということが。

桃太郎の鬼退治伝説の本当の意味は、
原初大和と擬制大和との戦いのことだったと。

ゴホウラ貝が示す場所は、
古事記により、完全に封印される前の時代、
その発端が始まった時に、姫を祀る一族が腕にはめていたものだったのではないでしょうか。

天智天皇が歌った歌。
神代の時代より、ずっと続いていた、天の香具山の取り合い。
それは、第一期、紀元前後から、既に始まっていたのかもしれません。
一時は収まったに思えた戦乱の世は、
弥生時代後期に再度始まり、卑弥呼の時代に入る。

それから、古事記が編纂されるまで、
幾度となく繰り返された戦争。

そして、とうとう古事記の編纂により、
権力争いだけでなく、

女神をも封印されてしまったのかもしれません。




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by ldc_nikki | 2012-06-27 23:50 | 愛媛県小田町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、久万高原町の神社です。

久万高原町はこれまでも沢山ご紹介してきましたが、
ここは、久万高原町の西、内子町との境目にあります。

以前からずっと気になっていた神社だったのですが、
なぜか、その由緒をしっかりと読んでいませんでした。

どうして今まで気づかなかったのか
不思議なくらいです。

ここは、神社の名前の通り

「葛城氏」 と深い関係にあります。

葛城氏とは、古代豪族の一つで、
大和葛城地方、現在の奈良県御所市・葛城市に本拠地を置いていたとされ
武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔だと言われています。

武内宿禰とは、
歴史上もっとも長く生きた人物とされており、その年齢は
300歳前後になります。

もちろん、一人の人間が300歳まで生きるわけもなく、
その歴史は、まだまだ謎に包まれたままです。

武内宿禰が使えた天皇は、
景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代にの渡り、
仲哀、応神天皇の時代には、
神宮皇后の伝説の中にも、たびたび名前が登場します。

子孫には、
紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏など、
歴史上に名を残す一族が並べられます

この中に蘇我氏が入っていますが、
蘇我氏は、百済来た渡来人だという説もあり、
先日見た韓国の映画の中では、
蘇我氏=百済人 とされていました。

韓国の歴史ドラマの中で登場する 「蘇我氏」
どちらが正しいとも言えませんが、
仏教を日本に伝えた一族が蘇我氏ならば、
蘇我氏が百済人だという、韓国のドラマの説の方が
正しいのではないかと思えてしまいます。

百済は、新羅、高句麗、百済の中でも、
特に仏教国で、政治に僧が必ず加わっている姿が描かれています。

日本で、国が大きく変わった700年前後、
その政治の中には、必ずと言っていいほど、「役行者」や「僧」の姿がありました。

だからもし、蘇我氏が武内宿禰の子孫だとするならば、
武内宿禰もまた、百済人だということになるかもしれません。
武内宿禰は、応神天皇の時代、渡来人を率いて韓人池を造ったともされており、
このことから、百済と関係が深かったのではないかと思わされます。

紀元前84年~仁徳天皇55年(367年)の間に生きたとされるということは、
この間に、卑弥呼の存在もあったということにもなります。

ここで一つ気になるのが、年齢の約300歳とされること。

300歳と言って思い出される人物とは、
あの 浦島太郎です。

私は、この浦島太郎が最初に書かれたのは、
以前もお話したように、700年前後。
古事記ができる少し前に、その原文が書かれたといいます。

お話の内容は、以前も書きましたが、今の浦島太郎とは違います。

浦嶋子という若者が、亀に変身した神女(龍宮の姫)とともに、
蓬莱山へ行くというお話です。
そして、元の世界へ戻った時には、300年の月日が流れていました。

私は、この亀に姿を変えられた神女が瀬織津姫のことだと思っています。
でも、この浦嶋子が何を意味しているのかは、
まだはっきりとわかっていません。

この浦島太郎の元なるものをつくった人物は、
伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)といい、越智氏の研究の本の中では、
この人物も、本来は伊予の国出身ではないかと書かれています。
この浦島伝説を書いた時は、丹後にいた 伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)でしたが、
この人物は、今で言う、大学教授のような人で、
古事記をつくるにあたっても、この人物が協力しているともいいます。

そんな、古事記編纂の意味を知っていたと思われるこの人物が書いた
浦嶋伝説は、単なる物語ではなく、その当時のことを何かにたとえ書き残したとしか
考えられません。

物語では、蓬莱山で、神女と浦嶋子は夫婦の契りを交わしたかのようなことが書かれてありますが、
もちろんそんなことは嘘で、このことは、もっと深い意味を込めていると私には思えます。

そして、蓬莱山ですごした 300年という月日は、
本来は、たった数年の出来事を、300年の出来事として記録された
嘘の歴史のことをあらわしているように思えるのです。

武内宿禰の中で最初に出てくる 
景行天皇の時代は、創作だとされる説もあり実在されない天皇との見方が強い天皇です。

しかし、ここ伊予の国では、
ちょうどこの時代に神を祀る由緒が多数残っています。
また、熊野速玉大社もこの時代になります。

このことから、
私は、この時代から300年に渡る古事記に書かれたことは、
全てではないかもしれませんが、嘘ではないかと考えています。
そして、これより約100年後に、邪馬台国連合が、姿を現し始めてたといいます。

日本の歴史で、空白の100年と言われる時代がありますが、
私は、空白の300年ではないかと思うのです。

沖縄に伝わる、「赤碗の世直し」の伝説を調べられている著者が書いている
ちょうどその時代の大和の国の実像が、はるかに現実に近いのではないかと
最近思えています。

「赤碗の世直し」については、また機会があればもう少しお話したいと思いますが
世の中が乱れ、戦乱の時代だったこの時代、
二度にわたって、大きな世直しと言われる、今でいう社会運動のようなものがあったのではないかと
いいます。

それは、女性が立ち上がった、
新しい世の中をつくるための、女性たちの戦いの始まりです。

それが、後に卑弥呼に繋がっていくと。

その大和で始まった世直しは、沖縄の女性たちへも伝わっていたのです、

それが「赤碗の世直し」として、
現在も歌い続けられている歌です。

丁度その時代に生きたとされる 武内宿禰の伝承は、
全てを隠すためのものと、今に繋がるための物語。
そして、神功皇后の伝説をつくるための物語でもあったのではないでしょうか。

そして、神功皇后は、
その時代に女性たちが行った世直しのことが、
まるで一人の皇妃がしたことのように、変えられてしまったのではないかと思います。

一度は北九州から始まり、いったん終息したかに思えた世の中は
再度戦乱の世に入り、二度目は瀬戸内海で始まったのではないかといいます。

これは、単なる説ではなく、
世直しの証となる、平和をかたどったあるものが、多くのその世直しの地から
出土されています。

私はこの説が全て正しいとは思いませんが、
これに近いことが、北九州から瀬戸内海へそして大和へとどんどん広まっていったのでは
ないかという気がしています。

だから、邪馬台国とは邪馬台国連合。
その跡が、北九州とも、四国とも、大和とも言われるは、
その場所が一つの場所で行われていたことではないからではないかと思います。

そして元へ戻りますが、
その時代が、人間が生きていられるはずのない 300歳という年まで生きた
葛城氏の祖、武内宿禰の時代です。

葛城氏は、456年いったん滅びたとされています。
しかし、それは本当に滅びたのではありませんでした。

葛城氏と加茂氏の繋がりから考えると、
葛城氏と加茂氏は、時に同じではないかと思うほど、
神も同じ神を祀り、同じ動きをします。

丁度、葛城氏が滅んだ時と同じ年、
456年、伊予の国に、加茂族が移り住んできます。
(滅んだ葛城氏が、加茂族として移り住んだかのように、
その年代はぴったりとあてはまります。)
小松町の神社の伝説では、この時加茂一族は全国に散らばり
移り住んだといいます。

またここが、愛媛で一番最初に 「お寺」 が建立された場所と言われる
小松町、現在の西条市です。

葛城氏=蘇我氏=百済=仏教=加茂氏

葛城氏と加茂氏は、
その名前は違うように思えますが、
繋がっていたのではないでしょうか。

そして、今日ご紹介する神社も、
葛城氏と加茂族が繋がっていることをあらわしているかのような、
由緒が残っています。

この由緒を読んでも、
きっと歴史に興味がない人にとって、また神社に祀られている神様のことなんて
全く興味のない人にとっては、なんとも思わない由緒かもしれません。

でも、この由緒が、
私からすれば、全てを物語っているかのような由緒です。

先日の天狗のお話のところでも、書きました 「役行者」は、
役 小角(えん の おづの)という名前を持ち、
加茂族から出た一人でした。

そして生まれた場所が、
大和国葛城上郡茅原、この地名の通り、「葛城氏」の土地です。

役行者=加茂族=葛城上群=葛城氏

葛城氏と加茂族は、その役割は違っても、
本来は、同じものたちではないかとも思えます。

久万高原町 葛城神社 現在の祭神は、

「一言主命」

この神は、加茂家の神です。

古事記の中では、「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」
と書かれ、
日本書記では、「天皇と共に狩りを楽しんだ」 と書かれ、当時の加茂氏の位置が
わかるかのようですが、

『続日本紀』天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流されたと
書かれてあります。

さらに、
822年の『日本霊異記』では、
一言主は役行者(賀茂氏)に使役される神にまで地位が低下します。

こうして、中臣家=藤原家の力がだんだんと強くなるごとに、
姫の封印に大いに活躍したはずの加茂族の地位はどんどん低下していったのではないでしょうか。

そして、それは、同じ徳島の忌部氏も同じ道を辿っていきます。

加茂族と忌部氏は、同じように姫の封印の時は、
その力を発揮するのでは、同じように、藤原氏にどんどんその勢力を
奪われてしまったと思います。

この久万高原町に葛城神社を建立した時は、
まだまだ加茂家の力が強い時でした。

そして、
天武天皇、朱雀元年8月
小千玉興公が大和国葛城山から役小角を迎えて
山野の地を拓いて移民の法を設けたときに、

往古からの饒宮、または古宮と称した饒速日命を祀った社

へ大和葛城山から一言主命、味鉏高彦根命を奉還して鎮護の神として祀った。

この神社は、
本来饒速日尊を祀る神社でした。ということは、姫が祀られていた神社だとも言えます。

しかし、 「葛城山」 から 

「役小角(役行者)」 を迎え、姫を封印し、

本来祀られていた神を消し、加茂族の神 

「一言主命、味鉏高彦根命」 を祀った神社だったのです。

これだけ、そのことを忠実に由緒に書いてあるのに、
誰もこのことを不思議だと思わない時代なのだと
改めて感じました。

ここは、役行者、加茂族、そして葛城氏によって
封印された神社だったということが、
この由緒から、はっきりと読み取ることができます。

そして、これと同じようなことが、
伊予の国だけでなく、全国で次々と行われていったのです。

ある所では、御神体を持って山奥へ逃げ、
ある所では、最後まで守り続けた人々が殺され、
ある所では、追ってが来る前に、全てを隠したといいます。

村を挙げて戦った所や、
女性が、兵を率いてその命をなげうって守ろうとした
伝説もあります。

更には、もっと昔、二度にわたって世直しをしようとした
女性たち。

その多くの事実は、
権力者によって、全て封印されてしまい、
その証拠を焼き尽くされてしまいました。

しかし、その事実は、今もなお沖縄のある地域で神歌として
歌い継がれていたのです。

「水と太陽の霊も寄りつく私たちの崇める神は、ヤマトの中心の国のお生まれである。
この神を崇めるのは今や沖縄だけになってしまったが、
スジを曲げないでこの神にお仕えし、ご御招請しよう。
大和・山城から伝わった赤碗の世直し(碗)に、神酒を溢れるほどに注いで捧げます。」

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by ldc_nikki | 2012-06-25 22:22 | 愛媛県久万高原町 | Trackback | Comments(1)

受け継ぐ

こんばんは。

今日、古代エジプト文明のテレビをしていました。

今まで、ほとんど解明されてこなかった
一般庶民の生活や、人々の思い。

まだまだ解明され始めたばかりで、
本当のことはわからないけれど、
3000年前に、一般庶民の一人がその半生をかけて書き綴ったことの中に、
今の私たちに向けてのメッセージがあるように思いました。

500人に親切をして一人しか気づいてくれなくても、その行いは無駄ではない。

上司の言うことは聞け。どんなに口うるさいことを言っても、
その中に、ためになることがあると思え。

子供の頃は勉強をせよ。
そうしないとだめな大人になる。

古代エジプト人、3300年前に、一般庶民の人が書いた文です。

3300年前も、今の人も同じ悩みを抱え、同じようにストレスを感じ生きていました。
どんな暮らしをしようと、どんなに発展したように思えても、
人間の思うことは、ずっと変わっていない。
そして、どうすればよりよい人生になるかを、古代の人々も考えていたといいます。

また、エジプト文明が、3000年もの間
繁栄してきたのは、

世界中のどの民よりも、
多くのことを記録し、それを後世に伝えてたからだといいます。

何よりも、物事を受け継ぐことが重要だと考えたのです。

そして、それは、権力者が残した記録だけでは
真の歴史はわかりませんでした。

庶民が何を考え、どんな生活をし、どんなことを感じていたか、
それを知ることで、本当の歴史はわかる。

日本は、エジプト文明が繁栄した 3000年の歴史の半分
1300年前の歴史さえ、本当のことが隠され、
受け継がれていません。

真の歴史を知ることが、どれかだけ大切か、
エジプト文明が教えてくれているかのようです。

そして、もう一つ。
権力者の力だけでは、国の繁栄はなかったこと。
繁栄を継続させるには、
庶民の声を聞くことが、一番大切だということを、
わかっていたからだと。

「受け継ぐ」 ということが、
どれだけ大切なことか。

それは、よいことも悪いことも同じように大切だということ。

嘘を受け継いでも、
何の意味もないこと。

都合の悪いことは隠し、封印する。
悪いことは言わず、よいことばかりを強調する。
見て見ぬふりをする。
本当のことは言わない。
庶民の声は全く届かない

1300年前の歴史も、
これまで行ってきた戦争も、
そして、今の問題 原発も。

小さなことから大きなことまで、
裏で何が起こっていても、ずっと隠され続けてきています。

そのことに、
そろそろ気づかないといけない時なのかもしれません。



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by ldc_nikki | 2012-06-24 23:41 | 日記 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、今治市波方町宮崎に鎮座する 「御崎神社」です。

ここは、以前にも一度ご紹介した神社なのですが、
その時は、すぐ近くまで行き、御崎神社に繋がる参道を通っていませんでした。

そこで、今回もう一度、
ご紹介させて頂きます^^

今治市波方町 「宮崎」

ここは、縄文時代から人が住んでいたと伝わる場所の一つです。
また中世には、海賊が滞在する場所ともされていたと言われ、
この宮崎には、海賊だった人々のお墓もあるようです。

しかし、今行くと、かなりの絶壁。

こんな所に人が住んでいたなんて。。。
と思ってしまいますが、私たちと古代の人々の感覚は
全く違っていたのでしょうね。

ここは、高縄半島との一番北側に位置し、
愛媛県の最北端でもあります。
正確には、大隅半島が最北端になります。
(ここには、弘法大師の伝説があります)




一説によると、
この宮崎という地名は、大山祇神社とも繋がるのではないかとも言われています。

宮崎の宮とは、大山祇神社のことを指すとも。

宮崎の鼻には、現在最先端に灯台があります。
この御崎神社は本来、その灯台のあったところに鎮座されていたといいます。

しかし、その時は現在の名前ではなく、
香取神社と呼ばれていました。

そして、キーワードの年、

神亀5年(728)に、
ここに、二つの神社が合祀されて御崎神社が建立されました。

この年代から見て、
この場所に移された時に、神さまの変更があったと考えられます。

現在の祭神は 「猿田彦神」 とされることが
更にそれを物語っていると思います。

そして、この御崎神社には、冒頭でもお話したように、
山桃が植えられた参道があります。
現在は、舗装された道ができたため、車でも御崎神社へ行くことができますが、
昔は、この参道を通って参拝に行っていたといいます。

樹齢数百年と言われるこのやまももの木は、
この山の中に、約300メートルも続いています。
民家もない山の中は、まるでもののけの世界です。

御崎神社から更に灯台の方へ行くと、
七五三ケ浦という海岸があります。
この辺りに、縄文時代の遺跡が多数存在するそうです。
ここは、とても美しい海岸で、
私も昔はここまでよく泳ぎにきていました。
当時は、この場所がそんな場所などとは考えてもいなかったのですが、
今治とは思えないこの景色が好きで、
よく来ていた場所です。

でも、今考えると 「七五三」とはすごい名前ですね。
七五三の起源については、まだ確信がありませんので
はっきりとわかった時にお話したいと思います。

七五三ケ浦を過ぎ、
灯台があります。
この灯台には、映画の撮影のためにこの地を訪れた森繁久弥さんが
あまりの美しさに感動し、詠んだ歌が刻まれた石碑があります。

今回はここまで行っていないのですが、
この灯台をさらに歩いて進むと、
そこには一本のロープが下へとぶら下がっているそうです。
それは、下の海岸へと降りるためのロープのようで、
古代の人々は、もしかしたらこんなロープをつたって
下へと降りていたのかもしれないと想像させられます。

まずは、御崎神社に続く参道と、参道の手前にある
海の中の鳥居からご覧ください。

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この鳥居の向こうに見える山の中を通って神社に向かいます。
参道の入口が、この鳥居の方向にあるのだと思います。

ここが、参道の入り口。

別名 「やまもものこみち」です。

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小さな狛犬にお出迎えされ
山の中へと入っていきます。

参道の地面は、多くの落ち葉で埋め尽くされ、
まるで葉っぱのじゅうたんです。
そのおかげで、地面がふわふわして、コンクリートの道を歩くよりも
ずっと歩きやすい。
この落ち葉がまた栄養となって地面へと吸収されていく。
こうして自然は循環しているんだなと、感じる場所です。

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小鳥たちのさえずり、心地よい風、
こんな場所が市内からすぐのところに残っていることに
感謝です。

3分の2くらい進むと、
神社の名前が刻まれた石碑があります。
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約300メートルの参道の両側に
まるでトンネルのように植えられた山桃。

一瞬、黄泉の国から伊邪那岐命が逃げて帰るその姿を
想像してしまうようなそんな場所です。

古事記のあの場面を再現するかのように、
ここに山桃が植えられたのかと思ってしまいます。

黄泉の国とは、姫のいる場所を示す所でもあり、
その帰る途中、追いかけてきた鬼女たちを、
桃で追い返す。
桃には、邪気を祓う力や不老不死を与える力があるとされていました。

ここでもまた、姫は自分で自分を退散させられてしまったのですね。

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参道を抜けると、
神社の鳥居の前に出ます。

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境内へ入ると、まっさきに目つくのが、
この牛。

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昭和30年ころまでは、
田植えの終わった近郊の農家が、牛馬を休ませて、
この神社に参詣し、また牛のわらじを造って奉納し、
牛馬の護札をうけて畜舎に飾って農作業の安全と豊作を願ったと言います。

拝殿
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神紋は、やはり三島紋

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でも拝殿には、本来の神社に由来する神紋であろうものが
二つ一緒にかかげられていました。

一つは 「十六菊紋」
もう一つは 「五三の鬼桐」

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今、古代の沖縄と大和の関係について調べています。
古事記の中で、日本国とされていなかった沖縄。

しかし、その沖縄にも、
大和で起こったことを伝えるさまざまな伝承があることがわかってきました。

沖縄の神は、
本来の倭が伝えた神だったのです。
そして、封印された本来の神を、
唯一沖縄だけが、ずっと祭りつづけていました。

そして、どうして沖縄だけが
残ったのか。
それを物語る歌が、今もある一部の人々の間で
歌われつづけているということです。

沖縄生まれで、ここ愛媛に移り住み
長年くらしていた 名護博さんという方が
「赤碗の世直し」という本を書かれています。

数年まえに、知人から突然渡された一冊の本。
まだ、何もわからなかった当時、私はその本の意味が全く理解できませんでした。
でも、今やっとその意味が繋がってきました。

世の中を戦いのない世界にしようと、
立ち上がった女性たちがいました。
それが、卑弥呼を中心にした邪馬台国連合。

その女性たちの想いは、
ここ沖縄にも伝わっていたのです。

う-とーと-  いづがぎー あめーらわん 
てだがぎー ほくらって 神の生まりたちや
大和のふそ(ん)の御獄 
うちなーならわん よかるならわん すぢが元たてて
親の神は うんつけーしやびら
大和から下たる 赤碗のよのーし
中盛らち 御酌しゃびら 
やしろから下たる 黒碗のよのーし
端盛らち 御酌しゃびら

「水と太陽の霊も寄りつく私たちの崇める神は、ヤマトの中心の国のお生まれである。
この神を崇めるのは今や沖縄だけになってしまったが、スジを曲げないでこの神にお仕えし、ご御招請しよう。大和・山城から伝わった赤碗の世直し(碗)に、神酒を溢れるほどに注いで捧げます。」

ここ日本では、女性が 「鬼」とされ、数多くの伝説に伝えられてきました。
その鬼女とは、女神の姿でもありました。

しかし、沖縄では、
戦いで命を奪う 男性を 「鬼」 とし、
女性たちの間で、代々その伝承を受けついできました。

なんだか、この歌が、この女性たちが立ち上がったこの時代が、
今の世の中にかぶります。

「戦争」という命の戦いは、今日本ではありませんが、
その代わり、
「お金、権力」 という新たな男性社会の争いが、まるで戦争のように、
行われているような気がします。

私が、今していることは、単に古代の謎を解きあかしているのではなく、
もう一度、本来の争いのない、命を中心にした世界へと
還るためにどうしてもしなければいけないことのように思います。

そして、女性たちが、
男性と同じような戦いをするのではなく、
女性にしかできない戦いを始める時ではないかとも思うのです。

命を守るために。。。。。。。




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by ldc_nikki | 2012-06-23 23:10 | 愛媛県今治市(旧波方町) | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は二回目のお話になりますが、
松山市にある、「伊豫豆比古命神社」、別名椿神社をご紹介します。

毎年、旧暦の1月7・8・9日に開催される、「椿祭」で有名な
「伊豫豆比古命神社」。
県内外から、多くの人が訪れるこの椿祭は、
商売繁盛の御祭りとして、三日間、多くの人にぎわいます。

私も何度も行ったことがありますが、
本当に前に進めないほどの沢山に人です。

だから、初めて椿さん以外の日にこの神社に行った時は、
まるで別の神社にきているかのように、全く景色が違っていました。

以前、一度ブログでご紹介していますので、
まだ、読んでいない方は、是非こちらもお読みください。


2300年の歴史 「伊豫豆比古命神社」


この記事にも書いているように、
こちらの神社の起源では、

伊豫豆比古命・伊豫豆比売命という二柱の神様が、舟山という現在も境内にある岩に御舟を寄せ、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)が纜(ともづな)を繋いでお迎えした。』

とされています。

しかし、この記述と、もう一つの
伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の伝説がある神社の伝説と
食い違いがあります。

この二つの神社は、
とても重要な意味があると思っているのですが、
まだ確信にいたっていません。

伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の伝説が残るもう一つの神社とは、
あの、日本最古の政庁の遺跡が発見された場所の近くにあります。

その神社の名前が、

「日尾八幡神社」

こちらの記事も、もしよかったらご覧ください。


ご神体に導かれ   「日尾八幡神社・龍神社」 


この記事にも書いているように、
ここを訪れたのは、本当に偶然でした。

日尾八幡神社は、記事にもあるように、
大変多くの神様が祀られています。

その中に、表向きには隠されるように祀られているのが、

中玉殿に祀られる
   伊予比売命(いよずひめのかみ)
   饒速日命(にぎはやひこのみこと)

です。

これを見ただけでも、どうして、この二柱の神さまが一緒に祀られているのか
不思議。

ここに祀られる 伊予比売命は、記事でも書いているように、
本来はここにはありませんでした。

現在の久米から小野川を遡った山の上にあったといいます。
久米郡神戸郷古天野神山(現在の小野村大字小屋峠)

伊予比売命と、伊予比古命、二柱の御神体は、
小野村の小屋峠に祀られていたのですが、
洪水により社殿が崩壊し、平井谷明神ヶ鼻に遷座されたといいます。

しかし、再び、洪水にあい、
二つの御神体は、別々の場所へと流されてしまったのです。

男神の伊予豆比古命は天山村の縦淵流れ着き、
現在の神社、伊予豆比古命神社に遷られました。

そして、女神の、伊予比売命は、
日瀬里(現在の久米窪田)の龍神淵にて引き上げられ、
この日尾八幡神社に祀られているといいます。

「伊豫豆比古命神社」では、二柱の神が訪れた場所とされ、
「日尾八幡神社」では、その御神体が別々に流されて
その男神のほうだけが、伊豫豆比古命神社に祀られていると伝えています。

これが、一体何を意味するのでしょう。

まだ、私の想像でしかありませんが、
この流されてきた川 「小野川」は、
久米の政庁を通り、その向こうには、あの天の香具山の片方の山

「天山」があります。

そして、十六弁八重表菊の神紋の
伊豫豆比古命神社。

この松山でも一番の歴史の秘密を握る場所に伝わる二つの
姫の伝説は、その時代のことをあらわしているのではないかと思うのです。

ご神体が別々に流れてきたのではなく、
ここで、別々に引き裂かれたと言ったほうがいいかもしれません。

2300年前とは、この山の上に姫が祀られた時であり、
この「伊豫豆比古命神社」の場所に船をつけてやってきた
伊豫豆比古命と伊豫豆比売命とは、
もしかしたら、全く別のことを意味していて、
2300年前から祀られる姫のことではないのでは最近思っています。

昔は、この辺りまで海だったと伝わり、
舟山という現在も境内にある岩にその船を繋いだ。

この場所に祀られる神
「潮鳴栲綱翁神」は、私には姫が祀られているように思えてなりません。
まるで、祓大神の意味と同じく、
この神にまず参拝してから、本殿へと向かう習わしとなっており、
天山への入口とも言えるこの場所で、まるで禊が行われたのではないかとさえ
思うのです。

この川から天山へとやってきた一族。
ここが、天山を奪うためにやってきたその場所なのではないかと。

古事記の中に、何度も書かれてある天の香具山。

天照皇大神が天の岩戸に閉じこもった時、神々は、多くのものを用意しました。

まず、常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、
天の安の河の川上にある堅い石(いわ)を取り、

天の金山の鉄を取って、

鍛冶の天津麻羅を探しだし、
イシコリドメノミコトに命じて鏡を作らせ、
タマノオヤノミコトに命じて八尺の勾玉を数多く長い緒に通した玉飾りを作らせ、
アメノコヤノミコトとフトタマノミコトをお呼びになって、

「天の香具山の雄鹿の肩の骨をそっくり抜き取ってきて、
天の香具山の桜の皮を燃やして、
鹿の骨を焼いて占わせ、
天の香具山の茂った榊を根こそぎ掘り取ってきて、
その上方の枝に八尺の勾玉を数多く長い緒に貫き通した玉飾りをつけ、
中ほどの枝に八尺の鏡をかけ、
下方の枝には白い幣(ぬき)と青い幣(ぬき)をさげた」

この天の香具山にあったとされる多くの品々に
どんな意味があったのかは、これから一つ一つ解き明かしていきたいと
思いますが、
この天の香具山を手にするものが、
全てを手にすることに繋がるとされていたのだと思います。

天の香具山の天の山、
それは、神の棲む世界、常世の国。
女神の魂が宿る国、伊予の国のことを意味していたのだと
思います。

持統天皇が歌った歌。

「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山」

この歌が、そのことをあらわした歌。

この歌の解釈を、きっと私のように解釈している人はいないと思います。
でも、私は、この持統天皇が歌ったうた。
これが、持統天皇が望んだ世界なのだと、私は思います。

そして、もう一つの香具山(奈良)は、
元いた人々を追い出し、
新しい世界をつくるための場所に降りたる山。

だから、今言われている藤原京の跡とは、
本当は藤原京の跡ではなく、
消された一族の都跡。

そして、今度ご紹介する 
徳島県にある 

「天の元山」 とは、
奈良へと移り住む前に、その一族が天降った場所。

そこが、本当の藤原京があった 阿波の国。

元山とは、その一族にとっての元山だったのではないでしょうか。

先日も書きましたが、
ある一つの出来事には、双方、二つの見方がある。

ここに書かれた歴史は、
勝者から見る、
天の元山、天山、香具山という三つの山だったのではないでしょうか。

*伊豫豆比古命神社(椿神社)
*松山市居相二丁目2番1号
*祭神
伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)
伊豫豆比売命(いよずひめのみこと)
伊与主命(いよぬしのみこと)
*境内社
勝軍八幡神社(誉田別命)
御倉神社(宇迦之御霊神)
児守神社(天之水分命・木花開耶姫命)
奏者社(潮鳴栲綱翁神)

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伊豫豆比古命神社の境内にある大きな楠。
この木にも、雌狸が棲んでいるそうです。

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拝殿
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神紋
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三つの椿
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そしてここが、(潮鳴栲綱翁神) を祀る 奏者社

この拝殿に参拝をして、
岩の中に足を踏み入れようとした時、偶然なのか、
黒いアゲハ蝶が飛んできました。 不思議ですね。。。。
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そしてここにも子守神社があります。
子守神社とは、籠神社のこと。

籠の中に閉じ込めらた神、
天之水分命・木花開耶姫命です。




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by ldc_nikki | 2012-06-20 22:04 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は久しぶりに内子町の神社です。

内子町とお隣中山町の境目にある二つの三島神社。

この二つの三島神社は、
思った以上に、古くからの歴史があります。

紀元前92年ころ。
第10代崇神天皇5年、
谷野神社上宮(本社)に大山積見神を、矢野郷の開祖神十二柱の神と共に祀った。

そして、下宮(現小藪三島神社)には鹿屋奴比賣神を祀ったといいます。

本社谷の神社上宮とは、
現在の川中にある三島神社のことで、
下宮(現小藪三島神社)とは、現在立山に鎮座する
三島神社のことです。

この時代に、大山積神はまだ祀られているはずがなく、
ここに祀られた二つの神の伝説がもし本当であれば、
ここには、饒速日尊と瀬織津姫が祀られていたことになります。

崇神天皇の御代。
それは、大三島の姫が、今治市朝倉にある多伎宮へと祀られたとされる時と
同じころになります。

現在、ここは内子町となっていますが、
すぐお隣の中山町とは、目と鼻の先。
現在の境界線とも言えるこの場所は、中山町と一つに考えても
いい場所です。

もうずっと前になりますが、
中山町には、現在も 「月の海」と呼ばれる場所があります。
山の中にも関わらず、この名前が付けられていることは、
よほど月に繋がる何かがあったのではないかと思われます。

また、この「月の海」と呼ばれる山の名前

「泰皇山」 

泰氏に繋がる山と言わんばかりの名前です。

泰氏とは、現在いろいろな説がありますが、
私は、泰氏と呼ばれる氏族は一つではないと思っています。

また、大きな間違いの一つは、
現在泰氏のお寺や神社と言われる場所の多くが、
「養子」によって、その姿を変えた場所だということです。

それが、泰氏の本来の姿を見えなくしてしまった
大きな原因の一つです。

神社の由緒に戻りますが、
更にその下には、

「上宮に大山積見神を祀り、
下宮に鹿屋奴比賣神を祀った(このニ柱の神は夫婦神といわれる」

大山積神と夫婦神とされている 鹿屋奴比賣神。
ここでのこの二柱の神は、
ニギハヤヒと瀬織津姫のことをさしている言葉だと。

本当に、崇神天皇ころに祀られたものならば、
その時代から、ここ中山町と内子町には、
同じ一族が住んでいたということになります。

そして、内子町には、
もうずっと前にたどっていった、少彦名命の足跡
多く残ります。

どうして少彦名命の足跡が、内子と大洲に多く残されているのか、
その本当の姿がなんだったのか。
ずっと頭から離れないことの一つ。

でも、ここも太古の昔から姫が祀られた一つだとしたら、
きっといつか少彦名命の姿にたどり着けるような
そんな気がします。

小さな神さま。
道後温泉で蘇った、お酒が大好きで、竹の間を飛ぶように
駆け抜けた少彦名命の姿に。。。。。。

*三島神社(立山)
*喜多郡内子町立山4784
*祭神
 鹿屋奴比賣神(かやぬひめのかみ)
 雷公神(いかづちこうしん)
 高龗神(たかおかみのかみ)

712年、和銅5年
古事記が完成したその年に、
ここに、雷公神(いかづちこうしん)高龗神(たかおかみのかみ)が祀られたというのは、
全く年代があわず、この年には、まだ大山祇神社にも、
この二つの神さまは祀られていませんでした。

この二つの神様が祀られたことを意味するものは、
ここが、その年に、封印されたということです。

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今は小さな神社ですが、
私は、後で行った大山祇神社が祀られている三島神社よりも
この場所の方がとても落ち着く気がしました。
開けていない山の中だったからかもしれませんが、
ここには、今も封印された姫が祀られている。

そんな気がしました。

そんな姫の空気を感じながら参道を歩き、
拝殿へとついた時、私の前を、
一匹の黒い蝶が横切って行きました。

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姫が祀られる場所は、いつも山の奥。
ひっそりと、その土地の人々にしかわからない山の中に
静かに祀られています。

でも、決してその姿を表に出さずとも、
やさしく、強く、見守ってくださっているような気がします。

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先日、久しぶりに聞いたユーミン。
なんだか、懐かしい。。。。。



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by ldc_nikki | 2012-06-18 23:52 | 愛媛県内子町 | Trackback | Comments(0)

天狗 

こんばんは。

昨日 6月15日は、弘法大師(空海)の生誕の日と言われます。
本当に生まれた日ではないということなのですが、
生誕祭がおこなわれるということです。

そんな今日、
一つ、今までずっとわからなかった神様の意味が
わかりました。

と言っても、私が勝手に思っていることなのですが^^;

今日のブログのタイトルにもあるように、
それは天狗の正体です。

以前にも、天狗のことにふれたことがありましたが、
今日は、更に詳しく天狗のお話をさせていただきたいと思います。

まず、天狗について
もう一度簡単におさらいをしておきたいと思います。

天狗とは、
皆さんご存知の、あの赤い顔で、鼻の長い、山にすむとされる
ある時は、神であり、ある時は妖怪。

現在天狗と言えば、上記のような様相を思い浮かべますが、
本来の天狗とは、その姿形は少し違います。

その姿は、まるでカラスのような鳥の顔をしており、
カラス天狗がその形に似ているといいます。
しかし、その姿は時に、光り輝く鳥の姿として現れ、金色の鷲として描かれることも
あるといいます。

天狗は中国が由来と言われますが、
天狗の元となる姿は、インドにありました。

仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天(かるらてん)が変化したものともいわれ、
迦楼羅天(かるらてん)とは、インド神話のガルダが仏教に取り込まれ、
仏法守護の神となったと言います。

日本の天狗は
このガルダ、また、迦楼羅天を元とし日本独自に変化させた姿です。

仏教の守護となった神、またインド神話のガルダが
そのまま日本の天狗になったわけではないのですが、
このガルダや迦楼羅天が、日本の天狗の姿に変化したのには、
大きな理由があったと思われます。

その大きな理由とは、

「迦楼羅天は、龍を常食としており、
龍や蛇を踏みつけている姿で描かれていることにあります。」

迦楼羅天とは、
毒蛇=雨風を起こす悪龍を食らう霊鳥として信仰されていたのです。

瀬織津姫の姿は、ご存知の通り 「龍」
水の神、生命の源である水の女神、聖母、それは龍の姿でした。

その龍を封じ込めるために一番最適なものとして、
この迦楼羅天は、選ばれたのではないかと思います。

迦楼羅天は、口から金の火を吹き、
赤い翼を広げると336万里(1344万km)にも達するといいます。
日本を囲っていた龍よりも、更に大きな姿です。

その迦楼羅天の威力を、ある人間がもちい
天狗の姿へと変貌していったのです。

その人間とは、これまでも何度かお話してきました、

「役行者(えんのぎょうじゃ)」です。

役行者は、、姓が役公(えだちノきみ)で、名を小角(おづぬ)
飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖です。

父は高鴨神に奉仕する高加茂朝臣(たかかもノあそん)で、
加茂役君(かもノえだちノきみ)、加茂間賀介麻(まかげまろ)、
又の名を大角(おおづぬ)。

このことでもわかるように、役行者とは、

「鴨(加茂)」一族だったのです。

鴨(加茂)とは、先日もお話したように、姫を封印するために、
その勢力を発揮した一族であり、忌部氏とも繋がりの深い一族です。

そして、母は渡都岐比売(とときひめ)、又の名を白専女(しらとうめ)、
刀自女(とらめ)と云って、
第25代武烈天皇の御代滅ぼされた大臣物部真鳥の娘です。

役行者とは、鴨族と、物部氏の間に誕生した子供だったのです。

ここでも、二つの敵対する氏族の婚姻があったのです。

そして、役行者が誕生する時の秘話にこんな記述があります。

「633年(舒明天皇5年)11月1日母が24歳の時、熊野に参詣し、
月を飲み込んだ夢を見て受胎した。」

後に後付けされたと思われるこの伝説を見てわかるように、
役行者とは、母が月を飲み込み生まれた子供。
月をわが物にした人間だと言えるのです。

後に、役行者は、各地の重要な山々へ入り、開山していきます。

しかし、その開山とは、修験の山を開いたのではなく、
山の神(姫神=龍)を、封じ込め、また自分の思いのままに操れるように
していくことが目的でした。

そしてそれは、時を同じくして新たな神を誕生させ、
新しい権力の象徴をつくり、新しい世の中をつくるためにも、
どうしてもしなくてはならないことの一つでもありました。

ここで、二つの一族の目的は一致し、
力を合わせて姫の封印に取り掛かったのだと思います。

そして役行者が開山したとされる山々には、
必ずと言っていいほど、あるものが存在していました。

それが、 「天狗」です。

日本の修験の山々には、必ず存在する天狗。

その中でも神の名前がついている天狗がいます。
その天狗たちを、日本八大天狗と言います。

 ・京都・・・愛宕山の太郎坊
 ・近江比良山・・・次郎坊
 ・鞍馬・・・・僧正坊
 ・熊野大峯・・・・前鬼・後鬼
 ・神奈川・・・・・大山伯耆坊 (清光坊ともいう)
 ・香川・・・・白峰相模坊
 ・大分・・・・英彦山豊前坊
 ・長野・・・・飯縄山飯網
これが、日本八大天狗と言われる天狗です。

この他、日本全国には沢山の天狗がいるとされます。

そんな中一つ、この八大天狗の中に入っていない 「別格」の天狗がいます。

その天狗の名前は、

「決起坊」 

この天狗が、伊予の国、西日本最高峰と言われる 石鎚山にいるとされる
天狗です。

そしてこの天狗が、役行者自身だったのです。

決起坊とは、役行者の天狗名でもあり、
その存在は、特別なもの、別格とされていました。

そして石鎚山は、大天狗様、小天狗様、十二八天狗様、うまな天狗様、すうまんき天狗様、
すべての天狗さま、
また、八百万の神々、仏菩薩、摩訶薩の雲集される浄土であるとされていたのです。

役行者は、ここ今治から石鎚山の姫をわが物にするために、
出発し石鎚山にこもり、自分の分身でもある天狗を置き、
また、自分自身も天狗のなったのです。

全国の天狗を招くために詠むとされる、
江戸時代に書かれた「天狗経」と呼ばれるものがあります。
ここには、全部で48の天狗が書かれていますが
この天狗たちは、四国石鎚山修験系と言われるそうです。

全ての天狗の原点は、石鎚山にあったのです。

西日本の一番高い場所、石鎚山の天狗岳に今も残る
天狗の姿。
それは、役行者だったのです。

そして、ある事に気付いたのです。

瓊瓊杵尊を先導したと伝わる 猿田彦の正体です。

伊勢神宮は、徳島県の忌部氏が創建したと伝えられ、
徳島からその祭祀を司るために、伊勢へと渡りました。

猿田彦の総本社、
椿大神社(つばきおおかみやしろ)は、三重県鈴鹿市にあります。
椿大神社は、
猿田彦大神の末裔の行満大明神を開祖とする修験神道の中心地となったといいます。

また猿田彦は、
行満大明神は修験道の開祖であり、役行者を導いたといいます。

徳島県、大麻比古神社という神社があります、。

ここは、主祭神 を大麻比古神とし、配神を、猿田彦大神とします。

しかし、室町時代成立の『大日本国一宮記』に書かれてる祭神が猿田彦大神
とされています。

どうして、麻に関係する神社に、猿田彦が祀られているのか、
ずっと不思議でなりませんでした。
導きの神として、数多くの神社に祀られる猿田彦の存在も
ずっと謎の存在でした。

そして、以上のことから、猿田彦の存在がわかりました。

猿田彦神とは、役行者だったのです。

猿田彦神が、天狗の顔をしていること、
瓊瓊杵尊を先導したこと、
それは、加茂家である、役行者のことだった。

加茂家は、忌部氏とともに、
姫の封印にその大きな力を発揮した一族であり、
中心的存在。

また、役行者と忌部氏もまた、
共に、(瓊瓊杵尊=神武天皇)新大和をつくるために、
先頭となって活躍したものたちです。

だから、徳島県一宮とされる、
大麻比古神社へ、ともに祀られたのではないでしょうか。

同じものでも、同じ人でも、見方が変われば
その姿は全く別のものとなる。

その言葉の通り、天狗もまた、ある時は修験者を助け、見方のなり、
ある時は、その姿は鬼となり、人をだまし、人を傷つける。

修験道の人々にとっては、天狗は神のような存在でした。
しかし、密教においては、その天狗の姿は「悪」と伝えれていました。

密教=空海。
空海が、創ったとされる満濃池には、龍が天狗に襲われるという伝説が残るように、
天狗は常に龍を狙っていたのです。

天狗の伝説が神のように描かれたり、鬼神と重ねられたり、
天狗の姿は一見複雑な姿のように思えますが、
それは、天狗を見る人のそれぞれの立場によっての姿だっただけなのです。

現代でも同じ、
原発は経済のため、利益のために、必要(善)だという人もいれば、
原発は、人も地球も全てを壊してしまう恐ろしいもの(悪)だという人もいる。

それぞれの立場で、それぞれの善悪。
これが、この時代を読み解くために、見極めなければいけない
大きな謎なのだろうと私は思います。

昨日、「龍の棲む日本」 という本が届きました。
この本に描かれた日本の姿は、役行者とほぼ同時期にいたとされる僧
「行基作」とされる日本の姿です。
この地図とも言える、日本の姿もまた、行基の目に映っている日本という国の姿でした。

この本のお話は、後日ふれてみたいと思いますが、
各地に残る伝説も、神々の伝説も、そして古事記も。
全てが、書いた人間の感情、また目に映る光景がそのまま文となり、
絵となり、伝説となっているのだと思います。

最後に、一つ書き忘れていたことがありました。
それは、あの徳島県神山町に鎮座される、上一宮大粟神社の伝説です。

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神社の拝殿の中に、天狗のお面が飾られてありました。
宮司さんに、ここに天狗が置かれてあるのはどうしてですかと
お聞きしたところ。

ここには、天狗がよく現れるという言い伝えがあります。
先々代の宮司さんが、そのお話をしていたそうです。

ここにと言われてたので、この山にですか。
とお聞きしたら、

「いえ、この神社にです」 と。

どうして神社に天狗が? 

その理由は。。。。。。

上一宮大粟神社には、役行者が祀られていたのです。

そして、その他にもいくつかの重要な神々が、
大宜都比売の周りに祀られているといいます。
その訳は、 「結び」

これらの神々が揃って、
大宜都比売は大宜都比売となれるのだと。。。。。

もう、お気づきでしょうか。。。。
この意味に。。。。。。。




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by ldc_nikki | 2012-06-17 04:09 | 古代の謎 | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は、県外の神社のお話です。

ゴールデンウィークに、岡山県の蒜山に行ってきました。
この日は、子供たちがメインだったため、
神社を巡るというわけにはいかなかったのですが、
蒜山に行くなら、一か所だけどうしても行ってみたいところがあったので、
子供たちの了解を得、なんとか行くことができました。

広い草原が広がる、蒜山高原。
ゴールデンウィークも、多くの観光客でにぎわっていました。
しかし、蒜山高原の牧場やレジャー施設とは反対側へ行くと、
車の数もぐっと少なくなり、その雰囲気はまったく違います。

神社の近くにハーブ園がありますが、
それでも、神社の方へと入ると、そこは別世界でした。

神社へと続く桜並木の入口には、
日本一大きいと言われる石の鳥居があります。
そこから続く桜並木を通り、神社へと入っていきました。

ここは、各地に残る高天原伝説の一つ、

茅部神社です。

高天原(たかあまはら)とは、古事記の中に記される、
天津神(あまつかみ)が住むとされる場所です。

伊弉諾が黄泉の国から逃げ帰った後、禊をして多くの神々が誕生しますが、
その最後に、伊邪那岐命の左目から
天照皇大神が誕生し、そしてその右目から月読が誕生し、その鼻からスサノオ命が
誕生します。

そして、天照皇大神は、高天原を治めるように命じられるのです。

その天照皇大神が治めるとされる場所が、
「高天原」 です。

少し余談になりますが、この誕生された順番が、その力の意味を物語っているます。

神道では、左が始まりまた上であり、右が終わりであり下である。

太陽の神は始まりの神で、月読は終わりの神というわけです。

また物事には全て陰と陽があり、陰陽の考えかたから、
太陽は陽で、月は陰とされています。
そして、物事は全て、男と女、すなわち、陽と陰で成り立っているため、
天照皇大神が女となると、月読は男とならなけばならないため、
本来ならば、月は女神の住む場所にも関わらず、
古事記では、男とされてしまっているのです。

でも、よ~く考えると、もうこの時点で、
とても矛盾していることがよくわかります。

陽=男 ではあれば 太陽=陽=男でなければなりません。

にも関わらず、 太陽=陽=女 となっているのです。

そして、 月=陰=男 というわけです。

この部分だけ、陽を女とし、陰を男としたのは、
以前もお話したように、天照皇大神が女でなければいけない理由が、
神と人間が一つになることにあります。

日本書記では、月読についての書かれ方がさまざまで、
古事記とはまた違うものになっていますが、このお話は、またの機会にお話したいと思います。

話は、高天原のに戻りますが、
各地に高天原の伝説が残りますが、その代表的な場所と言えば、
やはり、宮崎県の宮崎県高千穂町です。

その他、奈良県御所市、熊本県山都町、そして、
徳島県の神山や剣山一体も高天原と呼ばれる一つです。

そして、今日ご紹介する岡山県、蒜山。
ここにも、天の岩戸と呼ばれる岩があり、
ここに鎮座する神社、茅部神社の側には、真名井の滝と呼ばれる滝もあります。

各地に、高天原に繋がる地名が残されていることから、
それぞれの地で、本当はここが高天原だったのではないかと言われているのです。

しかし、本来高天原と呼ばれるようになった理由は、
それぞれの地で、少しその意味あいが違うように思います。

その多くは、ここに祀られていた神こそが、
本来の天津神であったからではないかと思います。
そしてその場所は、その地方の人々にとっても、特に重要な姫を祀る場所だった場所。

ここ、蒜山もその一つだと思います。

しかし、宮崎と徳島だけは、ほんの少し意味が違います。

本来の神が祀られていた場所には変わりないのですが、
宮崎は、ある一族が天降った最初の場所であり、
徳島は、新しい世の中の始まりが、そこにあったからです。

蒜山は、岡山県と鳥取県との境目に位置し、
まだその詳細ははっきりとしていませんが、
この蒜山から鳥取県へと向かう道が、因幡街道と呼ばれることが、
一つの古代のルートを表しているような気がしています。

今回は、天の岩戸と呼ばれる岩、そして真名井の滝までは行くことができませんでしたが、
その入口でもある、この茅部神社は、
想像以上に、神秘的な姫を想像させる神社でした。

境内に入る鳥居の前に立ったとたん、
子供たちまでが、歓声を上げるほど、この日は神々しい雰囲気が漂い、
私も思わず息をのむほどの光景でした。

この神社の御神体の一つとも言える滝が、
真名井の滝と呼ばれることが、姫のいたことを伝えています。

*茅部神社
*岡山県真庭市蒜山西
*祭神 天照大神 御年神 他二十一柱
*境内社 
  ・足王神社 
  祭神 足名槌命 手名槌命 天兒屋根命 倉稲魂命
  ・荒魂神社
  祭神 素盞鳴命
 
日本一大きい石の鳥居
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桜並木の参道
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拝殿
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本殿
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この道を登ると天の岩戸へ。
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そして反対側にも、山へと入る道があり
そこには、鳥居が建てられてありました。
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この鳥居の向こうには何かあるのでしょう。
案内板も何もなかったので、わかりませんでした。
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そしてこの鳥居のすぐ側にある
境内社 荒魂神社。
この小さな社が一番、気になる場所でした。
ここに祀られる祭神は、スサノオ命。

でもなぜか、ここに姫がいるような気がしました。
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大草原が広がる蒜山。
ここにもまだまだ知られていない歴史が沢山眠っていることでしょう。
いつかここに祀られて姫が、どうしていなくなってしまったのか。
その真実の姿を見ることができますように。

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by ldc_nikki | 2012-06-14 23:59 | 県外編 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

この間の日曜日、念願の徳島県へと行ってきました。

普段の日曜日は、子供の用事で
どこか遠くまで行くことは無理なのですが、
珍しく、全てお休みになり、さらに子供はお爺ちゃんと釣りへ。

こんな日はめったにない。
ということで、急遽、ず~っと行きたかった神山へと行くことにしました。

目的の神社は、上一宮大栗神社。
ここだけは、必ず行くことに決め、後は行ってから考えようと思い、
その他の予定は全く考えず出発!

神山へと着いたのはお昼すぎ。
ご飯も食べず、ひたすら閃くままに、6箇所まわってきました。

何も考えずに行く方が、不思議と
意味のある場所に行くことができるし、出会いにも恵まれる。
本当に、心の赴くままに行くことが、大切だなと
神社に行き始めて思うようになりました。

今回ぜひとも叶えたかった、宮司さんとのお話。
後で徳島の方から聞いてびっくりしたのですが、
上一宮大栗神社の宮司さんは、
地元では、1000回行って2回会えればいい。と言われるほど、
なかなかお目にかかることが難しいとのこと。

そんな方と、初めて徳島へと行って会うことができ、
約1時間もお話ができました。

黄金の狐のお話を聞き、ぜひとも自分の耳で伺ってみたかった
神社の伝説。
まだまだ、伺いたいことは沢山ありましたが、
今回、また一つ確信にいたるとても大事な伝説を伺うことができました。

本当にいつもいつも思うことですが、
「時がくれば必ず行くことができる。」
それを実感した、今回の徳島入りでした。

徳島へ入るためには、
きっとそのための私自身の準備が必要だったのだと
改めて感じました。
あの黄金の伝説も一つ。
あのお話を知らずにもし徳島へ行っていたら、
今回の宮司さんとのお話も、実現していなかったかもしれません。
また、もしお会いしていたとしても、
大事なことを聞けなかったかもしれなません。

次の進むためには、
次に進むために必要なことをクリアしなければいけない。
間を飛ばしても、それは本当に進んだことにはならない。

そんなことを、神社に行き始めて教えていただいた気がします。

それは、神社に限らず、私たち人生においても同じことなのだと。

一日一日を大切にし、今できることを一生懸命していれば、
きっと次へと近づいていく。 決して、どんなことも無駄ではないことを、
神社は教えてくれました。

今回も、そんなことを強く思う徳島の旅となりました。

徳島のお話はまだ少し先になりますが、
今回の徳島のお話もさせていただきたいと思いますので、
しばらくお待ちくださいませ。

ただ、徳島については、
まだはっきりと全てをお話できないかもしれません。
だんだんと、とても繊細な問題へと入ってきたからです。

また、はっきりと全てが繋がるまでは、
間違っていることもあるかもしれません。

だから、少しづつ、少しづつ、
真実に近づいていけたらいいなと思っています。
そして、ブログをご覧の皆様も、
一緒に、考えて、一緒に前へと進んで行っていただければ
うれしいなと思います。

いつも書いていることですが、
歴史の真実を知ることは、誰かを非難するためでもなく、
何かを壊そうとするためでもなく、
その全てを否定するためでもありません。

過去があるから、今があり、今があるから未来がある。
その繋がりの真実を知ることは、私たちが今生きている意味を
知ることに繋がると思うのです。
そして、これからの未来に、何が必要かを知ることにも
繋がると私は信じています。

全てを受け入れてこそ、次へと本当の明日へと進むことができると
信じているからです。

そしてそれは、私たちそれぞれにも当てはまること。
今の自分を全て受け入れてこそ、次へと進むことができる。

それができないから、人を恨んだり、憎んだり、誰かのせいにしたり、
世の中のせいにしたりしてしまう。
また、真実を隠そうとするから、
何かにずっと怯えながら生きていかなければならないのだと思うのです。
その気持ちが、心のどこかに潜んでいる限り、
本当の幸せには繋がらないと。

また、今の世の中も、自分自身も、何が足らないのか、
何が間違っていたのかを知ることが、次への一歩に繋がると。

瀬織津姫の復活とは、瀬織津姫が封印されたことにより、
失ってしまった大事な心を取り戻すことなのだと、
私は思っています。

そして、それが新しい人の生き方へと繋がるのだと。

「倭が危機に陥った時、黄金の狐を呼び戻し倭を救う。」

大宜都比売が黄金の狐へと戻る時。
それは、まさに今の時代のことではなかと思えてなりません。

今日ご紹介する神社は、
以前にも一度ご紹介した、旧北条市の小さな島に鎮座する

「鹿島神社」 です。

もう一か月以上の、5月3日。
鹿島神社で春の御祭りがありました。

鹿島神社の春の御祭りは、
えひめの無形文化財にもなっている、
「櫂練」が行われます。

また、この次の日、鹿島の目の前にある小さな岩に結ばれた注連縄の
一年に一度の締め変えが行われます。

今日は、そんな鹿島の御祭りの様子を交えながら、
鹿島神社のお話をさせていただきます。

鹿島神社は、茨城県鹿島神宮と同じ
武甕槌大神を祀る神社です。

この島は、神功皇后が三韓征討に行く途中立ち寄り、
武甕槌神、経津主神を勧請奉斎した神社で戦勝と道中の安全を
祈願して出陣したと伝えられています。

また、ここにも鹿島神宮と同じ、
地震をおさえる石 「要石」が置かれてあります。
ここ北条の鹿島では、この要石は、地底にする大鯰の頭を押させているという
伝説が残っていますが、この大鯰とは、本来は龍のことだったと思われます。

古代、日本では、龍が日本の中に潜んでいる考えていました。

それは、姫にも繋がり、
日本という国は、本来姫によって守られた島だったのではないかと思います。

日本には、中央構造線という大きな断層がありますが、
この断層が 「龍脈」と考えられ、九州から四国を通り、紀伊半島、伊豆、
そしてその最北が、茨城県だと言われています。

茨城県の鹿島神宮に置かれた要石は、
この龍脈の頭の部分に置かれているのです。

四国八十八か所のお寺の中の伝説にも登場する 
「行基菩薩」が書いたと伝わる日本最古の地図があります。
その地図については、後日詳しくお話したいと思っていますが、
この地図は、西日本の周りを大蛇か龍のようなものが
まるで取り囲むように描かれています。

西日本は、龍の身体の中にすっぽりと入っていたのです。
(しかし、絵の中に書かれた龍はなぜか、頭と尾が切られています)

姫を封印し、地底へと封印してしまった後、
日本は次々と、地震がおきます。

それは、当時の人々にとっては、姫が地底から出ようと暴れている姿に思えたのでしょう。
また、姫が怒り狂い、地底の奥底で暴れていると考えたのでしょう。

だから、それをおさえるために
要石は置かれたのではないでしょうか。
日本の龍脈のその端に。

そして、姫のその中心があるとされていたこの愛媛にも、
同じように、その要石は置かれていました。
その場所は、河野家が誕生した北条の島に。

行基が書いたとされるこの絵図を見た時、
当時の人々が、日本をどのように見ていたがわかったような気がしました。

龍に囲まれた日本。
日本そのものが、龍によって守られた島、
それは、本来姫によって守られていた島だと認めていたのです。

本来その地図に描かれた龍は、
頭と尾が一つになり、まるで円を描くように輪になっていたのではないかと
言われています。

しかし、その絵の龍は、
その頭と尾を切り取られ、
輪は切り離されてしまいました。

それが最初から描かれていなかったのか、または後で切り取られたかは
まだわかっていません。

でも、切り取られた姿が
今の姿なのではないでしょうか。

地底に閉じ込められた龍(姫)を、水として地上へと出そうとした
弘法大師空海。
それが、各地に残る湧水を出す伝説なのだと、
この絵を見て改めてそう思いました。

*鹿島神社
*松山市北条辻1595

 「鹿島の櫂練」

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鹿島神社拝殿
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宮入
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そしてこれが、北条鹿島の要石

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-06-12 23:57 | 愛媛県松山市北条 | Trackback | Comments(6)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。