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こんばんは。

今日から10月がスタート。 月日がたつのは早いもので、今年も残り3か月となりました。
今年は、いろんな意味で、来年を迎えるにあたっての、準備? のような気がします。。。。

何の準備かといわれると、 う~ん。。。。。。 なんと言っていいのか、わかりませんが、
私自身のことも含め、 浮かんでくる言葉は、 「準備」 

残り3か月、1日1日を大事に過ごしていきたいと思います。

さて、今日は前回の続き 「3」 「三」 

越智家の神紋が 「三」 というだけでなく、 この数字には、 まるで謎ときのような、暗号のような、そんな気がしています。

今日は、 昨日のキーワードの意味を、 といてみたいと思います。

1.三つの山の御神体 
2.三柱の神      
3、三つの島 
4、太陽 ・ 月 ・ 星
5.三位一体
6.三貴子
7.三島とは・・・・



1.三つの山の御神体

大三島に鎮座する、大山祇神社は、現在大三島町宮浦という場所に鎮座しますが、大山祇神社には、三つの御神体があると言われます。

一つは、 神社の西南にそびえる、鷲ヶ頭[わしがず]山。
鷲ヶ頭は、古来神野山といわれました。 大三島の中で一番高い山で、芸与諸島 の最高峰です。
船で来島海峡を通っていると、ピラミッド型をしたこの山は、すぐわかり、船の人々の目印にもなっているのではないかと思います。

頂上に向かう途中には、「えぼし岩」と呼ばれる、巨石があり、古代、祭祀場だったのではないかと思います。

二つめは、 神社本殿のすぐ裏にある、小高い小さな山、小見[おみ]山です。
小見山は、 神社のすぐ裏、 奥ノ院があるところです。
大山祇神社奥ノ院といわれ、ここには、昔、神宮寺というお寺がありました。

このお寺は、神社の守護寺として建てられたお寺で、一一三五年に建てられました。
当初は「神供寺」とよばれ、四国霊場八十八ヶ寺の第五十五番札所・月光山神宮寺とされていた時もありました。
現在は、この場所は、祖霊社となっていますが、 とてもこのことからも、とても重要な場所の一つだと言えます。
神宮寺は、「月光山」とつけられていますが、 この 「月光」 は、 瀬織津姫の山を現しているものと思われます。
瀬織津姫は、水の女神ですが、 月の女神でもあったのです。
後ほど月の女神については、お話しますが、 奥ノ院神宮寺もまた、 瀬織津姫の面影を残したお寺だったのです。

そして、最後、三つめは、南山(安神山)です。

この三つの山は、 繋がっていると言ってもいいほど、隣合わせにあり、 その道沿いには、さまざまな姫の跡が残っています。
最初に、お話しました巨石もその一つですが、 
先ほどの奥ノ院に行く途中には、 「樹齢3000年」 と言われる、大楠があります。

以前ブログでもご紹介しましたが、この大楠は、 「生樹の御門」 と呼ばれ、
2本の太い幹の間がトンネルのようになっていて、人が木の中をくぐることができます。
お寺があったころは、この木をくぐり参拝していたそうです。

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そして、この生樹の御門は、不老長寿の木という伝説もあります。

この 「不老長寿」 の御神徳は、 あとでお話する7つのキーワードの中にもでてきますが、
大三島=不老長寿の島 に繋がる、 大切なキーワードの一つです。

そして、いよいよ三番目の山 「安神山」 です。
安神山は、 昔は 「荒神山」 と呼ばれていました。 どうして、この御神体である、 安神山が、荒神山とよばれるようになったか。。。。 
ここに、 大山祇神社創建の秘密があります。

安神山と、一つめの鷲ヶ頭の間に、 滝山という山があります。
ここには、 「入り日の滝」 があります。 
ここには本尊を十一面観音とする滝山寺があります。 
「滝」 「十一面観音」 これもまた、瀬織津姫の姿です。

向かって左側が荒々しく流れる男滝、右側がしなやかに流れる女滝。
この滝は、古代から、夕日にあたって虹ができる場所と言われます。
現在は、水量はわずかですが、古代は、この滝を、豊富な水が落ちてきていたのだと思います。

そして、ここもまた、古代から人々が姫の滝として、崇めていた場所だと。

一番重要な、安神山のお話にもどりますが、 安神山には、古代、龍が住んでいたといいます。
しかし、その龍は、今はいません。 そのいなくなった 龍こそが、 瀬織津姫のことです。

大宝元年、(701年) 越智玉澄は天皇の勅命によって、 瀬戸に鎮座していた、大山祇神社を現在の宮浦へと遷宮し始めます。 
しかし、移転さきには、龍(大蛇)が先に住んでいて移転ができなかったと言います。
そこで、天皇は、この龍(大蛇)を追放するために、この南山安神山の頂上に、五龍王を祀りました。
そして、龍は、横島へと逃げていったと伝わります。

この安神山に住んでいたという龍こそが、瀬織津姫のことなのだと思います。

瀬織津姫(龍)が、飛び去ったといわれる 「横島」 方面には、今も瀬織津姫の別名の女神たちが、島々に祀られています。

701年、 大山祇神社の大造営が始まり、 16年の年月をかけ完成、 完成後さらに3年の年月をへて、
正遷座されました。

この間の19年間、 倭の国は、 さまざまな大変革が起きていました。
まず西国を中心に瀬織津姫を祀る神社は、焼かれ、御神体を奪われ、さまざまな文献も焼き尽くされました。
そして、その波は、蝦夷の国へと流れます。
最後まで、抵抗したのが、蝦夷と言われますが、 その蝦夷でも瀬織津姫の名前は神社から消されていったのです。

大三島の三つの山の御神体、 現在の大山祇神社が創建されるずっと前から、三神体は、古代から信仰されていた山々です。
そして、それはどうして、三つの山でなければいけなかったのか、 それは、 それぞれの山に祀られる神があり、その三柱の神々を合わせて一つだったからです。

その神々のお話は、 次回の、 

2.三柱の神でお話したいと思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それでは、今日の神社です。
今日は、久しぶりに 内子町に鎮座される神社です。

              宇都宮神

ここは、旧五十崎町になります。
高速道路 内子インターから 車で10分ほどの、竜王とよばれる山の上に鎮座します。

ここには、室町時代から戦国時代まで、竜王城というお城があったといいます。
このお城は、河野氏一族の居城であったのですが、秀吉の四国征伐ともない廃城となりました。

どうして、ここが竜王とよばれるようになったかは、まだわかりませんが、
ここに推古天皇の時代から鎮座していた、五十崎森之宮には、瀬織津姫が祀られていました。

現在は合祀され、 宇都宮神社と名前を改めましたが、 今も、 ここには、 「姫大神」として、瀬織津姫は祀られています。

内子町は、大国主と少彦名命の伝説が色濃く残る場所。
太古の昔、少彦名命が国つくりをおこなった場所でもあり、 少彦名命の屋敷があったと伝わる場所もすぐ近くです。

想像以上に、太古の昔から、ここには瀬織津姫が祀られていたかもしれません。

ここを訪れた日は、行く途中、前も見えないほどの大雨でしたが、 神社についた時には、雨も小雨になり、傘がなくても大丈夫なくらいになりました。
神社の宮司さんとも、少しお話ができ、あまりにもすごい雨なので、心配していましたが、
きちんと参拝させていただき、心から感謝でした。

*宇都宮神社(五十崎森之宮)
*喜多郡内子町五十崎甲1571
*祭神
 大己貴命(おほなむちのみこと)
 (姫大神 : 瀬織津姫)
*天正4年龍王城主宇都宮綱實氏神を勧進し五十崎森之宮を合祀、宇都宮神社と改称する。処領内山区十一村の郷社となる。
 明治40年神社条例により町内各社を合祀した。

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境内社から。。。
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深い森の中に、鎮座する境内社もが祀られている場所も、とても神聖なところでした。
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そして、拝殿です。
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最後に、本殿です。
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今日も最後まで、ありがとうございました。
素敵な週末をお過ごしください。。。。。。

3月11日、春を目の前にして起きた、東日本大震災。
春が過ぎ、夏が過ぎ、そして、秋がきて、 もうすぐ寒い冬がやってくる。

美しい山々、 美しい海、 綺麗な空気、 子供たちの笑い声。。。。。
まだまだ、 元の生活に戻るまでには、 多くの時間が必要かもしれません。

でも、いつかきっと、 また、 以前のように、
美しいふるさとで、笑顔あふれる日々がおくれると信じています。

希望を失わなければ、 きっと。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-10-01 02:11 | 愛媛県内子町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。
先ほど、間違って、まだ書いてもいないのに、投稿してしまいまして、申し訳ございませんでした。

さて、 今日ご紹介する神社は、 前回の続き、 玉川町に鎮座する 三島家の神社ですが、
今回から、数回にわけて、 大山祇神社や、 三島神社の神紋について 今、私が思うことを書いてみたいと思います。

これから、調べていくうちに、 また、違う考え方がでてくるかもしれませんが、
やっと、 この神紋と、さまざまなことが繋がってきましたので、 一度、書いてみたいと思います。


              亀甲波三文字

大山祇神社を含め、越智家三島家に関わる神社には、すべて、この三文字の神紋が刻まれています。

現在大山祇神社の祭神、大山積命は 「三島明神」とも呼ばれていますが、三島明神とは、三島家が祀る神であり、 原点は、大山積命ではありません。

三島明神も、その神を祀る、大三島も、 そして、神紋にも  「三」 という文字が入っています。
そのこともからもわかるように、 越智家にとって、 そして、 大山祇神社にとっても、

「三」 という数が、 とても重要なのだろうと思っていましたが、 その 「三」 の意味が少しづつ見えてきました。

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上記の写真は、亀甲になっていませんが、
明治神社誌料によれば、三島の神紋は本来、亀甲だったと書かれてあります。

家紋(神紋)とは、ある説によれば、平安時代に発祥したとされていますが、起源は、古代バビロニアにあるとも言われます。
バビロニアとは、 メソポタミア(現在のイラク)南部を占める地域のことです。
(とうとう、 姫の原点を探す旅は、メソポタミア文明にまでさかのぼってきました)

古代バビロニアの神殿遺跡には、は菊花紋を始め花菱、亀甲、舞鶴、揚羽蝶、三桝、三階菱、四目結、九曜などが見られるそうです。

そして、この三文字は、 「月神 シン」 を表わす楔形文字と、同じだというのです。

瀬織津姫は、月神とも言われていますので、これだけでも、十分関係があると思うのですが、
私は、三島のこの 「三」 には、 もっと深い意味があるのだと思っています。

今、私が、この 「三」 という数と結びつくこといくつかあります。

1.三つの山の御神体 
2.三柱の神      
3、三つの島 
4、太陽 ・ 月 ・ 星
5.三位一体
6.三貴子
7.三島とは・・・・

今日、ぱっと思いついたことは、この7つのキーワードです。

越智家にとって、 いや、当時の人々にとって、 「三」 という数は、特別な意味があったのではないかと思います。
だからこそ、 それまでの重要な神様が消され、隠された時、 その重要な場所である、
大山祇神社=三島明神 を祀る神社に、 「三」 の文字を使い、三島明神と言い、その島もまた、
大三島としたのではないかと。


今日は、少し遅くなりましたので、 このお話の続きはまた、今晩に書きたいと思います。
上記の七つのキーワードが、 どんな意味があり、 それが、どのように 瀬織津姫に繋がっていくかみなさんも、一緒に考えてみてください。


では、今日の神社のご紹介です。

                      嶋御門神社

*今治市玉川町中村631
*祭神:
 大山祇神(おほやまつみのかみ)
 高龗神(たかおかみのかみ)
 大雷神(おほいかづちのかみ)
*由緒
 文治元年に河野四郎通信が、三島の神を勧請して全村鎮護の社として創建されたという。

この神社は、 玉川町の鴨部という場所に鎮座します。
目の前に、鴨部小学校があります。

ここは、越智家にとても深いかかわりのある場所と伝わりますが、 この地名 「鴨」 から、
鴨族とも、関係があるのではと思っています。

玉川町は、 朝倉についで、とても古い歴史がある場所です。
大国主命や、少彦名命の伝説も数多く存在し、 古代の舞台の一つだったと思います。

ここから、歩いて神社へ。 遠くに鳥居が見えています。
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ここは、上記の由来でも書かれていますが、河野家が建立したと伝わる神社です。
文治元年とは、源氏と平家の戦い、壇ノ浦の戦いで、平家が滅亡した年です。
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鳥居をくぐり、階段をのぼります。
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拝殿
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そして、ここにも、三島の神紋はありました。
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先日、 子供と一緒に、 「ライフ 命をつなぐ物語」を 見ました。

地球上には、沢山の命があります。
そして、それらすべてに、それぞれの生き方があります。

決して人間だけが、生きているのではなく、 命あるすべてのものが同じように、懸命に生きている。

そして、 人間以外の命は、 自分の命を、新しい命につなぐために、この地球の命のために生きている。
どんな命も、 今のこの地球に必要なもので、 無駄な命なんて一つもない。

「愛」 は 新しい命を生み出すために、未来の命へつなぐために 
神さまから与えていただいた素敵なプレゼント。

命は、この世界に誕生したその時から、この地球上のすべての命と繋がっていることを、
私たちは忘れてはいけない。。。。。。。。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-09-30 01:14 | 愛媛県今治市(旧玉川) | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

まずは、昨日の続き、今治市の歴史をご紹介します。

前回は、 今治市祇園町に鎮座する、三嶋神社のお話でした。
今日は、その三嶋神社に関連する場所のお話です。

三嶋神社の総本家は、 大三島の大山祇神社ですね。

そして、大山祇神社の宮司として、三嶋神社をずっと守ってきた一族は、 伊予の豪族、越智家です。
大山祇神社を宮浦へと遍座してから、伊予の越智家は、大きく二つの役割に分かれます。
一つは、国造り、そして戦いにでる一族と、
もう一つは、 神社の神職を務める一族に。

国造りを行ってきた越智一族は、後に河野家と名前を改め、水軍として後世を送ります。
そして、もう一方は、 大祝家として、今も、大山祇神社の神職を務めていらしゃいます。

今日のゆかりの地は、
この大山祇神社の神職、大祝家 ゆかりの地です。

大祝家には、有名な伝説 「鶴姫伝説」 があります。
鶴姫は、大祝安用(おおほうり やすもち)の娘。兄に大祝安舎と大祝安房という人物がいたといいます。

大祝家は、代々神職を務めるものは、戦いにでることはありませんでした。
ですから、戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していました。

1543年(天文12年)6月、大内義隆は、陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣します。
そして、瀬戸内海の覇権の確立を目論んでいました。
それに、河野氏は、全力で戦いに臨みます。
しかし、鶴姫の右腕で恋人とも言われる越智安成、兄とも討死してしまいました。

そこで、鶴姫は、残った兵士を集め、戦いに向かいます。
不意を突かれた、大内軍は、鶴姫によって倒され、鶴姫は勝利を収めたといいます。

しかし、戦いで失った、兄や恋人を想い、海に身を投げ亡き人となってしまったと伝わります。

大山祇神社には、日本でたった一つと言われる、女性ものの鎧が飾られていますが、この鎧は、この鶴姫のものという、伝説が残っています。

実は、以前も少しお話をしましたが、もう6年ほど前になりますが、不思議なご縁で、
私は、この鶴姫伝説の舞台に出ることにでることになり、鶴姫とともに、戦う兵士の役でした。
そして、まだ当時1年生だった、私の娘は、鶴姫の子供時代を演じることになったのです。

今、思えば、この時、もうすでに、大山祇神社、そして、越智家とのご縁があったのかもしれません。

そして、今回ご紹介する場所は、その鶴姫亡き後、天正年代から延宝三年の間、99年間、
大祝家が、住んでいたとされる、屋敷跡、そして、残されたお墓です。
(天正年代とは、安土桃山時代、 延宝3年は、江戸時代初期の頃)

前回、祇園町の三嶋神社で、宮司さんにお話を聞いた時に、大祝家が住んでいたとされる屋敷跡が近くにあるから、ぜひ、行ってみてください。と言われ、神社を後にして、教えていただいた場所へと行ってみました。

神社からすぐ近くで、住宅街の一角に、大祝家のお屋敷があったとされる場所はありました。
背の高い木が目印だと教えていただいたので、近くまで行くとすぐわかりました。

今は、空き地のようになっているその一角に、まるで神社の杜のように、その周辺だけ木が茂り、
その中に、ひっそりと、石碑が見えました。
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石碑には、「三島大祝宮」 と書かれてありました。
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大祝家の屋敷は、元は、今治市別名というところにあったとされるのですが、
別名より、ここ鳥生に移住してきて、祭祀の行事があるときは、船で大三島にわたり祭祀を司っていたと伝わります。

当時は、大三島に住んでいたわけではなかったようです。

ここには、現在、屋敷は全く残されていませんが、 なぜか、お墓がすこしだけ今も残されているのです。

小さな祠が。
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残されたお墓
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まるで、そこは、神の杜。 
大祝家は、約100年間、この場所に建てられた大きなお屋敷で暮らしいていたのですね。

しかし、今では、そんなことも、多くの人の記憶の中から消されようとしています。
自分たちには、関係ないことのように。。。。。

過去を想うことを忘れ、未来だけを見つめてきた人間は今、未来でさえ見ることもできなくなってきました。
それは、今だけを見つめ、今、この瞬間がよければ、今この瞬間の満足だけを得ようとしているからです。

過去は悔やむためにあるのではなく、過去は非難するためにあるのではなく、
過去、現在、未来、すべてが繋がっていて、今、私たちが生きているこの命は、過去の人々の想いを受け継ぎ、未来の命へとつなぐためにあるのだと。

そのことに気づくことができれば、今、私たちが、どう生きればいいかも見えてくるのではないかと思います。
今が、どんなに厳しいとしても。。。。。。

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今日、祖母が嫁いでいった、お寺、私の祖父が住職をしていたお寺に眠る、祖父のところへ行ってきました。
お墓参りをした後、もともとお寺があった場所へと、行ってみることにしました。

祖父と祖母のお寺は、祖父が、戦士した後、後継ぎがいなかったため、祖母はお寺を手放し一時、無住職時代が続きました。
そのせいで、お寺は荒廃してしまいました。
その後、都市計画により、移転をよぎなくくされるに及び、再建の気運がもり上が、現在の地へと移転し、四十九年諸堂を新築し、寺観を一新して、現在に至っています。

でも、祖母が住んでいたお寺とはずいぶん変わってしまいました。
お寺の中には、住吉神社や、稲荷神社などのお宮もあったと聞いていたので、その神社が今、どうなっているのか、ずっときになっていました。

私は、それを確かめるため、元あった場所へと行ってみることにしたのです。
はっきりとした場所はわからないのですが、だいたいこのあたりだと思うところに行ってみると、そこに、小さな住吉神社が、あったのです。
神社の境内に入ってみると、そこに、昭和30年改築と書かれた石碑がありました。

もしかして、この住吉神社は、お寺の中にあったものかもしれないと思い、近くの商店街の人に聞いてみることにしました。
商店街は、そのほとんどが、シャッターを閉め、人の気配がありません。
もう、あきらめて帰ろうと思った時、カメラ屋さんの看板を掲げた一軒のお店の中に、私と同じくらいの年齢の男性が、二人、話をしていました。

若い人たちだから、聞いてもわからないだろうと思い、そのまま帰ろうとしたのですが、
やっぱり、聞くだけ聞いてみようと、思い切って声をかけてみました。

すると、その人たちは、三津の歴史を勉強し、古いものを残していこうと、活動をしている人たちだったのです。 しかし、お寺の中にあった住吉神社のことは、全くわかなく、それどころか、お寺の存在さえも知らないとのことでした。

でも、三津の歴史にとっても詳しい人がいるので、 その人を紹介してくださると言ってくださり、
私は、その足で、その方のところへ案内していただきました。

築100年という、古い、立派な建物へ案内され、中へ。

そして、お寺のことを聞くと、やはりはっきりとは知らないとのことだったのですが、 
一緒にいた女性が、昭和の初めころの航空写真があるから、それを見たら、何かわかるかもしれないと、
昭和3年の航空写真を持ってきてくださったのです。

全員で、食い入るように、現在の神社の場所を見ると、
そこには、確かに、木が生い茂る、お寺らしき姿が写っていたのです。

港町で栄えた三津は、当時から、お寺の周辺は家がたくさんありました。
でも、川の向こう側は、田んぼや畑ばかりで、家はほとんどなく、今とは全くの別の世界でした。

初めてみた、祖母や祖父、そして母が暮らしたお寺。
そして、その中にあった住吉神社は、お寺がなくなった後も、ずっとその場所で、守られ続けていました。
すべてをなくさなかった、地元の人たちに、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

今日、この場所へたどり着けたことも、祖父や住吉神の導きだったのでしょうか。
神社のことを知ることができただけでなく、 また新しい出会いを運んでくださったことに感謝でいっぱいです。

さっそく、明日祖母に、そのことを伝えに行こうと思います。
きっと、祖母も喜んでくれることと思います。 
そして、元気になったら、一緒に住吉神社にお参りに行きたいと思います。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-09-11 04:52 | 愛媛県今治市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。
ゴールデンウィークいかがお過ごしですか?

前半 3日間、朝から晩まで忙しくてあっというまに終わってしまいました。

今日、松山でろうそくを買いました。
そのろうそくの収益金は、震災にあった方々へ送られるそうです。
私は見ることは出来なかったのですが、そのろうそくを今日の夜8時から、商店街で一斉に灯したそうです。

綺麗だったでしょうね。
ろうそくを入れるコップに、メッセージを書きました。

「愛」 

どうしてかはわかりませんが、この言葉しか頭に浮かんできませんでした。

多くの人の愛で、人々の心が少しでも癒されますように。
沢山の人の愛で、一日も早く、普通の生活に戻れるようになりますように。

「愛」 は、 必ず、沢山のものを救ってくれる、そう思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、先日お話した、徳川神社のすぐ隣にある神社

「船川神社」 をご紹介します。

旧重信町と松山市の境目。 徳川神社は、松山市側にありましたが、ここは、重信町側にあります。
町の境の両側に鎮座する 二つの神社。
船川神社は、小さな橋を渡った向こう側にあります。
近くには、山の神池という不思議な池もあります。 

また、この辺は、今も古墳や石器が発掘されていて、とても古い時代から人が住んでいたと言われます。
また、この神社は、由緒の中には、いつごろ建立されたかは書かれていなく。
書かれてあるのは、大国主命と少彦名命が力を合わせ国土を固めし時にという言葉より始まっているそうです。
それだけ、とても古い時代に建立されたのでしょう。

また、古くは神村(かみむら)と呼ばれていました。

「神の村」 ここは、神々に深い関係があったのかもしれません。
この神村が、上村(かみむら)に変わり、現在は上村(うえむら)となっています。

祭神は、由緒に書かれていることからか、
大国主命(おおくにぬしのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)

でも、神社の神紋は、「三島」のものです。
神社には、祭神の名前はありませんが、ここも、三島明神(瀬織津姫)が祀られていたのだと思います。
境内社には、荒魂神社があり、姫がいることは、これを見てもわかると思います。

そして、以前ほんの少しだけお話しました、「蛇」
実は、この神社の本殿のすぐ裏で出会いました。 まるで、本殿から出てきたかのように、本殿の方から私の前を横切り、山へと帰っていったのです。

蛇は神使ともいいます。 また、瀬織津姫もニギハヤヒも 「龍」 「大蛇」 とたとえられているのです。
本殿で参拝を終えたあとに、そこから蛇がでてくるなんて、本当にびっくりでした。

今は、姫の名前だけでなく、三島明神、更には、大山積神の名前もありませんが、ここはきっと姫とニギハヤヒが原点の神社だと、そう感じました。

ここで、「事代主命」 の名前がありますが、 事代主命は、ニギハヤヒのもう一つの名前の場合もあるようです。 全ての事代主命が、そうというわけではありません。
でも、その場合もあります。

それがどうしてかと言いますと、静岡に鎮座する 「三島大社」をご存知でしょうか?
静岡の三島大社は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)、二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称しています。

どうして、事代主神が、三島明神なのか。。。

静岡の三島大社は、この伊予の三島明神と深く関係しています。
大三島の三島明神は、海を超え、静岡県伊豆地方にある島、「三宅島」に渡ります。
そして、三宅島富賀神社→白浜海岸白浜神社→大仁町広瀬神社→三島市三嶋大社と移動していくのです。

白浜神社は、現在は 三島明神の奥様をお
祭りしているのですが、
白浜神社までは、夫婦で一緒に来たものの、奥様は白浜の地に留まり、三島明神だけが次の神社へ移ったという伝説も残っています。

そして、この時、なぜか三島明神を、事代主神として祀ったのが、始まりでのようです。

この伊豆のお話は、またいつかじっくりとさせて頂きたいと思います。

では、船川神社です。

*船川神社
*東温市上村甲275番地
*祭神
大国主命(おおくにぬしのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
*境内社
荒魂神社
素鵞神社
天満神社
奈良原神社
*神代の昔大国主命、少彦名命が力を合わせ国土を固めし時にという言葉より始まり、数多くの神社は人皇第何代という事から始まっている由緒が多い中で、その事しか記載されていない。この地は古くから人が住み始め、今も古墳や石器が発掘されており、また、古くは神村(かみむら)と呼ばれていたが、上村(かみむら)に変わり、現在は上村(うえむら)となっている。
 尚、本殿は平成16年4月1日附で、旧重信町の有形文化財に指定され、現在は東温市の指定になっている。指定の内容は彫物であり、明治12年に完成し、屋根の形は美しく前拝があり、かご彫り・すかし彫りという技法により龍の彫物等があり、友沢弥三郎(ともざわやさぶろう)の作で、他の神社では類を見ない中予地方では非常に珍しく一見の価値がある。


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拝殿
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船川大明神と書かれてありました。
愛媛では、三島明神と書かず、こうしてそれぞれの神社の名前をそのまま使っている所が多いのです。
これも、何か理由があるのかもしれないと思います。
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本殿です。
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境内社 「荒魂神社」
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何故か 祭神の御名前が。。。
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三島の神紋です。
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境内社
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「愛」とは、何でしょう。

私は、20歳から約10年間、愛について考えた時期がありました。
その中でも、一番、難しい 男女の愛について、長い時間をかけて考えました。
そして、いろんな愛についても、考えました。

報われない愛、 裏切りの愛、 悲しい愛、 苦しい愛、
この気持ちをどうしたら無くすことができるのかを、必死で考えました。

今でも、全てをわかったわけではないと思います。

でも、報われないと思う心、裏切られたと思う心、悲しい、苦しいと思う心があるうちは、愛ではないのだと思うようになりました。
今でも、もちろん、そう思ってしまう出来事があるかもしれません。

でも、それは、自分勝手な愛。
苦しいのは、自分の思うようにならなかったからで、
悲しいのも、自分の思うようにならないからなのです。
自分がこれだけ、思って、これだけしたにも関わらず、相手はその心に答えてくれないことに、いいようのない感情を抱いてしまう。

だから、「愛」 という言葉は、簡単に使えない言葉かもしれません。
親が子どもを愛するように、誰かを愛することは、とても難しいことなのかもしれません。

それでも、人は人を好きになる。
「愛」という意味を、もっともっと考えなさいと 言われているかのように。。。。。


 



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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-05-02 00:56 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(0)

こんにちは。
今日から、ゴールデンウィークですね。
昨日は、ブログを書いている途中で寝てしまっていました。。。

皆さんは、どんなゴールデンウィークを過ごされるのでしょうか?
今年は、震災の影響で、旅行を自粛される方も多いと聞きます。
でも、こんな時だからこそ、元気を出して、笑顔になることも必要かな。なんて思います。

ボランティアツアーがあると聞きました。
1000人の募集があっというまにうまったとか。

うちの子供たちも、ゴールデンウィーク中は、ずっとチャリティーイベント出演する予定です。
今回の地震で、子どもたちも、それぞれにいろんなことを考えたようです。
多くの人の命が犠牲になり、人々が学ぶためにしては、あまりにもその代償は大きいものでした。
でも、もう後戻りはできません。
亡くなった人々の命を無駄にしないように、よい世の中にしていかなくてはいけないですね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、先日の続き、天之逆矛があった場所は?です。
数回前に、ご紹介した 「徳威三嶋宮」は、神社の名前に、「徳威」がついていて、私も見つけた時は驚きました。 

「こんなに早く見つかるなんて!」 と すっかり、この「徳威三嶋宮」がそうかと思いました。
でも、それから、重信を調べるうちに、他にも、この「徳威」と関係のある神社が見つかりました。

そして、これらの神社の原点?ともいえる神社も。
今日は、その中の、もう一つの 「徳威」の神社をご紹介します。

ここは、現在の住所は松山市。
重信と松山市の境目にあります。
しかし、もともとは、この場所にあったのではなく、貞和二年(1346年)くらいまでは、別の場所にありました。

現在の場所はココです。


松山市津吉町乙12番地乙13番地

神社の名前は、「徳川神社」
徳川神社という名前は大変珍しく、全国でも、徳川神社という名前の神社は、ここだけだそうです。
もともと、ここ津吉町は江戸時代まで德川村と称しており、その時期に津吉村に改名させられ、この神社は、その時の徳川村をそのまま使っているのではないかといわれています。

しかし、元は、
人皇第32代崇峻天皇の時代大三島宮より大山祇神を勧請したのが始まりとなっているのですが、
ここで一つ疑問があります。
人皇第32代崇峻天皇の時代とは、推古天皇の前で、587年9月9日 - 592年12月12日の間といわれています。
前回もお話しましたが、大三島瀬戸に、神社ができたのは、推古天皇の時代、また、それまでは、大山祇神という名前ではありませんでした。
それなのに、推古天皇より前に、大山祇神を勧請したというのは、おかしいのです。

ただ、神社という建物はなかったかもしれませんが、もうこの時代には、三島明神(瀬織津姫)が何らかの形で、あの 「みたらしの水」の場所にあったのかもしれません。
その三島明神(瀬織津姫)を、この徳川神社の元となる神社に勧請したのだと思います。

そして、その時は、現在の場所ではなく、違う場所にありました。

そのあった場所というのが、

「御所ヶ谷徳威」

という場所です。 
そして、社名も

「徳威宮」 と称しており、この時期神託に依り今の地に奉遷したと伝わります。

この神社も、あの 「徳威三嶋宮」と同じく、「德威宮」と呼ばれていたことになります。

二つの三島明神が祀られる、 「徳威宮」。
もともと同じものだったのか。 それとも、別々に二つの神社が鎮座していたのか、わかりません。

しかし、どちらも、天之逆矛に関係する重要な神社だったのではないかと思います。

また、この徳川神社が、現在の場所へと移るころ、つくられた
貞和二年(1346年)作の井川水神の木彫りの神像があります。

「井川水神」 ここも、やはり水の神(瀬織津姫)の神社だったということがわかります。

また、もう一つ
文明二年(1470年)作 猿田比古神木彫りの神像の遷宮面があります。
人の顔の大きさぐらいで鼻は大きく約30㎝程あるそうです。

二つの 「徳威宮」
このどちらかに、天之逆矛はあったのでしょうか?
でも、どうして、この重信に、天之逆矛は一時的にしてもあったのでしょう?
私の推測ですが、その鍵を握る神社があります。
その神社については、また、後日ご紹介したいと思います。

では、徳川神社です。
*徳川神社
*松山市津吉町乙12番地乙13番地
*祭神
大山祇神(おおやまづみのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
雷神(いかづちのかみ)
面足尊(おもたるのみこと)
惶根尊(かしこねのみこと)
猿田比古神(さるたひこのかみ)
井川水神(いかわすいじん)
*御神徳
御神格高(何事にも御利益あり)
無病息災・安産祈願
※特に高龗神の御神徳(雨水を支配する神)は非常に高く、崇敬者の方も多い!
*境内社
素鵞神社
若宮神社
白山神社
天満神社
金刀比羅神社
奈良原神社

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この杜の中に神社はあります。
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拝殿
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本殿
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神紋
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境内社
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ご神木
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今日もありがとうございました。
素敵なゴールデンウィークをお過ごしください。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-29 12:23 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(3)

こんばんは。

旧重信町は、天之逆矛にまつわる伝説の地かもしれないと、先日お話しました。
そして、その周りには、沢山の意味のある神社があると。

天之逆矛については、次回また、続きをお話します。
その前に、昨日の謎の日、神亀5年8月23日から 16年前の和銅5年8月23日のお話をさせて頂きたいと思います。

神亀5年には、伊予の国に80箇所以上三島神社が、同日に勧請されました。

それより、16年前の8月23日にも、伊予の国に、一度に三島神社を勧請しているのです。
和銅5年は、西暦712年です。
この年を聞いて、思いつくものがある方もいらっしゃることでしょう。

そう、この年は、来年1300年祭が行われる、古事記が完成した年です。
この年の1月、太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ)によって、献上されました。
もう、ここで何度かお話させていただいているように、古事記の中には、瀬織津姫は書かれていません。
瀬織津姫の名前が、消され始めたのも、ちょうど、この古事記ができる前後から、そして、大山祇神社が、瀬戸から、現在の宮浦へと移ったのも、ちょうどこの前後なのです。
古事記は、瀬織津姫を語る上で、はずせないものなのです。

そして、今日の神社、今までも何度か同じ年に勧請された神社をご紹介しましたが、これらは、この古事記ができた、この年の8月23日に、勧請されているのです。

どうして、古事記のできた年に、多くの三島神社をつくらなければいけなかったのか。
その謎は、今もまだ、はっきりとわかりません。 そして、この8月23日の意味も。。。。。。。

ただ、同じ日に、多くの三島神社を勧請しなければいけなかった、何かの理由があるはずだと。

今日、ご紹介する神社は、和銅5年8月23日に、伊予国司三位越智宿称玉興が大三島宮より勧請し、拝志郷一宮三島大明神と称え、氏神として崇敬したといわれます。
この、越智玉興とは、神亀5年に勧請した 玉澄の兄です。
玉澄とは、異母兄弟になります。 
越智玉興が、玉澄に 「河野」という名前を与え、これより、越智から河野と名乗るようになります。

私は、他国で生まれた、母違いの弟玉澄に、国造りを任せ、苗字を河野と名乗らせたのにも、訳があるのではないかと思います。
越智家の祖である、物部氏族は、この時もう衰退していっていました。
越智氏族と関係の深かった、斎明天皇の崩御し、越智氏族の力もまた、なくなってしまいました。
もしかしたら、このままでは、滅びてしまうと考え、名前を変えて、再起を願ったのではないと、思えてきました。

前回紹介した神社と、今回紹介する神社は、ある神社を囲むように鎮座されています。
このように近い場所に、2回、別々の場所に、勧請されたのにも、きっと何かわけあってのこと。
和銅5年(712年)~神亀5年(728年)8月23日は、越智氏族の大きな変革期であり、その当時のことを考える上で、きっと重要な出来事ではないかと思っています。


*築島神社
*東温市大字下林甲2616番地
*祭神:大山祇命(おほやまつみのみこと)
*和銅5年8月23日伊予国司三位越智宿称玉興が大三島宮より勧請し、拝志郷一宮三島大明神と称え、氏神として崇敬したと云う。
仁平3年正月源三位頼政が心願あって社殿を再建、神領久米田、別当、社僧読経料、水田等の寄進があった。後に十城別王が伊予に封じられたとき、当郷御瀧峯伊邪那岐、伊邪那美二柱の神を奉斎したが、天正18年官命により三島宮へ合祀、築島大明神として改めた。
寛文6年大旱魃の際、浮穴郡十三ヵ村より雨乞の祈願をして神威顕現瑞雨を得たので一三ヵ村より本殿を改築し、爾来十三ヵ村の祈念祈雨の祈願所と崇め、天保8年の神殿改築にも前例により十三ヵ村より寄進があった。
昭和35年一二五〇年祭執行、同41年神殿屋根を銅版に葺き替えた

また、上記の由緒を見てわかるように、三島明神(三島神社)は、多くの場所で、雨乞いの祈願が行われています。 雨=水 と関わりの深い神様ですね。 
そして、由緒の中では、どこもそうなのですが、大山積神の名前はほとんど出てくることはありません。そのほとんどが、 「三島明神」 としての姿なのです。

越智家、河野家は、どんなに世の中が変わろうと、大山積神とは呼ばず、三島明神の名前を貫きとうしました。  これが、微かな、抵抗だったのかもしれません。

では、築島神社です。
ここの神社は、北と西と東に、入り口があります。 
まずは、北の入り口。
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次に、西の入り口
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拝殿
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本殿
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境内社
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ご神木
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次回は、天之逆矛の続きのお話をさせて頂きます。

今日27日、首都機能移転が、東日本大震災を機に再浮上している。との記事がありました。
江戸、東京と、長い間、東京が日本の中心となってきました。
まだ、実現するかどうかはわかりませんが、自然災害によって、首都を移転するという話が真剣に行われるようになったようです。

太古の時代も、自然災害により、また、時代の流れにより、都、城を移動してきました。
そして、現代のような、さまざまな物が進んだ世の中でも、同じようなことが起ころうとしています。

原点に帰る時期にきていると、いろんな場面で感じさせられます。
人々の心も、同じように、忘れていた心を取り戻してほしい。 そう願います。

本当に、大切なものは何かを。。。。。。

今日もありがとうございました。






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-28 00:50 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日は、昨日の続きです。

今回の場所はココ。


龍神社のある、明神ヶ森の向こうの、東三方ヶ森の麓の村です。
綺麗な川と、美しい木々に覆われた森。

昔の日本の風景が、そのまま残っています。、
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この川が、重信川まで続いています。

車を止めて少し歩いていると、道路が川に?
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山から流れてきた水が、道路の上を流れて下の川へと落ちていっていました。

最近、こんな山の中が、大好きです。
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桜が綺麗に咲いていました。
この山の中の、龍神社には、今回は行くことができませんでしたが、地図にも載っていない、小さな大山住神社がありました。
ここには、酒だる村あとがあり、お酒を造っていた後の樽が沢山おいてありました。
「大山住」 と書いてありましたが、きっと、お酒の神様とも言われる、大山積神のことだと思います。
酒だる村の敷地の中にも、ちゃんと赤い鳥居が見えました。
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そして、反対側の入り口には、小さな鳥居と、大山住神社の文字が。
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木で作った鳥居も、いいですね。
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小さな拝殿ですが、村の人の想いが、込められた大切な神社。
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ここには、昔の日本の風景、生活が残っていました。

静かに、ゆっくりと時が流れる。 
ここに、贅沢な暮らしはないかもしれませんが、私たちが、今本当に、大切にしなければいけないものが沢山残っている場所のような気がします。

こんなことを書いている私も、電気もガスも何もない生活ができるかといえば、できないかもしれません。
でも、人の欲望はとどまるところを知りません。

人間の欲望をかなえるために、作られた 「原子力発電所」
危険を伴うのを承知で、日本中につくられています。 
絶対安全なんて、あるはずないのに。 地球が静かな時代に暮らしてきた現代の人々は、まさかそんなことはおこるはずはないと思い、危険をどこかで感じていたはずなのに、目をそらしてきたのかもしれません。

未来の子どもたちに、この美しい風景を残すためにも、豊かな自然を受け継ぐためにも、今、変わるべき時。
昔に戻ることも、全てを辞めてしまうことでもなく、やはり前を向いて進んでいかなければいけないのだと。
新しい生き方を、私たち日本人が考え、生み出し、始めなくてはいけないのだと、私は思います。

理想のようにはいかないのかもしれませんが、
欲望のままに生きるのでもなく、全ての欲望を抑えて生きるのでもなく、
全てのものをわかちあい、思いやり、助け合い、地球と共に生きる生き方を。

また、自分の欲望を満たすために働くのではなく、 夢を持つのではなく、 
一人一人が、誰かの幸せを願い働く。 人は、働く意味を忘れてしまっているような気がします。
世の中全てが、欲望のために走りすぎていて。

日本は、とても小さな国です。
でも、日本は、とても大事な国です。
今回、このような大きな災害が日本に起こったことにも、大きな意味があるように思います。

私たち日本から、新しい世の中をつくっていくようにと、神さまから言われているような気がします。
困難は、新しいものを生み出すために、起きる。
今は、大きな節目の時、そんな気がしてなりません。。。。。。。。






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-23 02:36 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。
今日夕方、久しぶりに虹をみました。 
太陽の横に、縦にまっすぐの虹と、頭の上に、不思議な青紫色に輝く虹でした。 

神社に行き始めてから、本当によく虹を見るようになりました。
虹も何かのメッセージなのかと思ってしまうほどです。

それは、どんなメッセージなんだろう?
3月11日、あの地震が起こる一日前、新幹線の中、ちょうど岐阜あたりで、まっすぐの虹を見ました。
3月11日は、私にとっては、とても大切な日でした。 
一つの夢が叶うかもしれない、とても大切な日。

その場所へと向かう途中に見たあの虹は、私には、希望の虹に見えました。

そして、11日、私たちがあることを終えてすぐでした。
あの地震があったのは。。。。 

眩しい太陽の光の中に、見えた今日の虹。 
どんな意味が込められているのかわからないけど、美しい光景を見せていただいたことに、感謝です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日からご紹介する場所は、先日二日間で巡った重信町です。
まだ、全て行ききれていませんが、ここ重信は、数々の歴史が秘められた場所だということに、本当にびっくりしています。

少し前に、玉川のお寺の由緒に書いてあった、天之逆鋒は、ここ重信から大三島へと奉遷されたと思う神社に今回たどりつくことができました。

でも、どうして、重信の神社に、あったのか、誰が、重信へともってきたのか。
まだまだ、謎はいっぱいです。

ただ今回強く思ったことは、ここは、とても重要な場所で、
古代から「水」の源の一つの場所として、信仰されていた場所だということ。

そんな、重信の地を、数回にわけてご紹介したいと思います。

ここ重信町には、高縄半島の中で一番高い山と言われる 東三方ヶ森(ひがしさんぽうがもり)という山があります。 三つの市、東温、今治、西条の市境が交わる位置にそびえています。
そして、その三つの市が交わる点を、三角点とよんでます。
今も、昔と変わらず、豊かな森で覆われ、三つの平野を潤す、水の源です。
南は道後平野一の河川、重信川、北は今治平野に流れ込む蒼社川、東は丹原平野を潤す源なのです。
古代の人々が、もっとも大切におもっていた 「水」 の源です。

今回まず私たちが向かったのは、この東三方ヶ森へと向かう、152号線の道でした。
ここには、「龍神社」 もとは黒滝神社とよばれてた、雨乞いの場所だったといわれる神社があります。

この神社が、何故か気になり、まずいってみることに。
いつものように、はっきりと場所がわからないまま、とりあえず、車を走らせました。

そして、いつものように、行った後、家に帰って気になる場所を調べていると、いろんなことがわかりました。

152号線は、東三方ヶ森の麓へとつくまでに、二つの伝説の山があります。
重信に近い方から、福見山、そして、明神ヶ森その向こうに、東三方ヶ森。

今回、行ってはいないのですが、この福見山には、不思議な伝説があります。

天竺(印度)の法道仙人が開基した。法道は紫雲にのり来朝し、播磨の法華山で修行し、飛鉢の術を会得した。法道仙人がこの山で修行していると、瀬戸の沖合を行く船に鉢が飛んできた。船主が断ると積んでいた米俵が次々と山に飛び去った。船主は慌てて法道仙人に詫びを入れると、米俵が戻ってきた。そういうことで俵飛山と呼ばれた。米俵の一つが川上に落ちたので、以来この地の人が裕福になった。福見と呼ばれ、俵飛山福見寺と称した。

という伝説です。

天竺からやってきたという、法道仙人。
兵庫県に、この伝説が残っていますが、ここ重信にも、法道仙人の伝説があったのです。
この福見寺は、現在も、福見山の山の中にあります。
いつか、行ってみたいです。

そして、もう一つの山、明神ヶ森。
ここは、古代、雨乞いの場所だったといわれいます。 現在、明神ヶ森に行く途中の黒滝川の近くにある
龍神社は、最初は、この森にありました。

神社には、十二躰の御神像があり、雨乞神として霊験あった神社だと言われています。
雨乞神、ここも、もしかしたら、瀬織津姫を祀っていた場所かもしれません。
今回は、残念ながら、龍神社には行くことができませんでした。 というのも、普通の車ではいけるような場所ではなかったのです。 今まで行った中でも、車で行くには、一番の難所かもしれません。
車を変えて、いつか必ず行ってみたいと思っています。
きっと、その前に、行くべき所があるのだと、そう思って今回は、行くのをあきらめました。

でも、その代わりに、全く行く予定ではなかった神社を見つけました。
走っている途中、ふと目に入った神社 「總東風神社(そうこちじんじゃ)」です。
山に入る前のご挨拶と、これから重信をめぐらせていただくためのご挨拶に、参拝させて頂きました。

*總東風神社
*東温市山之内甲630番地
*祭神
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
 建速須佐鳴命(たけはやすさのをのみこと)
 大市比売命(おおいちひめのみこと)
 猿田比古命(さるたひこのみこと)
 大気津比売命(おおげつひめのみこと)
*由緒
創建年代・由緒不詳。江戸時代の社号は「總河内五社大明神」貞享4年(1687)郡代官の木材寄進により神社再建。弘化3年(1846)神殿再建。明治3年(1870)「總東風霊社」と改称したことがあるがその後、現社名に復した。

由緒に書いてありますが、ここは、創建の年代はわかりませんでした。
そして、ここには、大山積神のお名前はありません。
神社の中も、聞いたことがありません。
でも、拝殿を見てびっくり。 ここも、三島の神紋だったのです。

三島の神紋ならば、ここも、大山積神の名前があるはずなのですが、ありません。
でも、よ~く考えると、つながりのある神々ばかりです。

・宇迦之御魂神は、母が、大山積神の子、大市比売命。十六王子の、東南を司る神であり、スサノオの妻。
・大市比売命は、宇迦之御魂神の母でスサノオの妻。十六王子の東を司る神。

・建速須佐鳴命は、大市比売命の夫であり、宇迦之御魂神の父。

・猿田比古命は、まだはっきりと大山積との関係がわかっていませんが、十六王子の中の西南を司る神。
 そして、この十六王子として、大山祇神社では、御前神社に鎮座しています。
 御崎神社は、ちょうど大三島の西南の方向にあり、三島に渡る船着場、潮待ち場とされていたとと伝わる、 
 今治市波方の宮崎の鼻と言われる場所に、御崎神社として猿田比古命を祀る神社があります。

・大気津比売命は、今気になっている姫さまのひとりで、十六王子の中の、東を司る神。
 イザナギとイザナミの国生みの中の徳島県(阿波国)の女神。
 食物の神とされて、稲荷神として祀られることもあるのですが、スサノオと大市比売命の子、大年神の妻
 とも言われています。

なんだか、ややこしなりましたので、簡単に説明をすると、猿田比古命以外は、全て家族。
大山積の子→(大市比売命)と建速須佐鳴命の子→宇迦之御魂神・(大年神の妻)→(大気津比売命)。
というわけです。

このつながりは、もちろん事実とは違うと思います。
でも、大山積神となんらかの関係のある神々には、違いはないのかなと。

でも、今回初めて、徳島(阿波の国)の女神の場所へとくることができました。
実は、少し前、(オオゲツヒメ)というハンドルネームの方と出会いました。

今まで全く気にならなかったのに姫の名前だったのですが、それから、とても気になっていたのです。
だから、今回、このタイミングで、姫の神社に来れたことにも、何だかとても意味があるような気がしています。

オオゲツヒメとセオリツヒメ。 
これから、何か、わかってくるのかも?
楽しみです。

では、そんな不思議な三島の神紋をかかげる神社を紹介します。

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本殿の扉に、はっきりと三島の神紋が。
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ここにも
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境内社
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最後は、何も書いていなかったのですが、とても気になった石です。
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今回の、重信最初の神社でした。
これから、東三方ヶ森への登山口近くまで向かいました。
続きは、また次回で。


「わからないから楽しい」

皆さんには、夢はありますか?
何か、いつかこんなことができたらいいな。とか、こんなこをしてみたいな。とか。

もしかしたら、もう今さら夢なんかもってなんて思っていませんか?

夢は、叶うまで、いろんな出来事が楽しい。 もちろん叶った時は、もっと楽しい。
また、夢はなかなか、簡単に叶うものではないから、途中で不安になったり、諦めようと思ったり、辛くなったり、しんどくなったりもします。

でも、人生は、いろんなことがあるから、楽しい。
どんな風にも、想像し、変えることができるから楽しい。

叶うまでに、何かにたどり着くまでに、いろんな人に出会い、いろんな場面に遭遇し、いろんなことを考え、いろんなことを経験する。 ドキドキしたり、わくわくしたり、 時には泣いたり、怒ったり。
いろんなことがあるから、人生で、
自分で作れるし、何度だってやりなおせるから、また新しい何かが生まれる。

全てが決まっていたら、人は、生きている意味を見失ってしまう。
何かに向かって、走しることが、人生なんだと、私は思います。

私も、何度も、沢山のものを失いました。 何度も0からスタートしました。
でも、そのたびに、新しい何かが始まり、また新しい出会いがあり、新しい道ができました。
明日は、何が起こるんだろう。
どんな出会いがあるんだろう。
これから、どんな展開になるんだろう。

同じ生きるなら、少しでも、そんな気持ちになれたら、もっともっと人生は楽しいものになるような気がします。
命は、いつか必ず消える時がくるのだから、限られた命を、どうか精一杯楽しんで、乗り越えていってほしい。
大切な命を、精一杯楽しんで。






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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-21 22:50 | 愛媛県東温市重信町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

愛姫伝第六章を、つくりました。
今回は、「神様を巡る伊予の旅」です。

伊予の国は、神々の神話の中では、あまり語られることがありませんでした。

私自身も、こうして自分の足で愛媛を巡り、調べ、歴史を知るまで、正直無縁の場所だと思ってまいりました。
でも、伊予の国、愛媛は、古代の歴史を語るうえで、はずすことのできない大切な場所だということがわかってきました。

神の名前は、変えられ、わからなくなった現在も、「三島明神」として、多くの神社、お寺が、原点を消し去ることはなく、今も尚、その形をどこかに残そうとし、受け継いでいる。

日本は、今、戦後最大の危機に遭遇していると言われています。
しかし、それでも、今の世の中は、昔に比べるととても恵まれているのかもしれません。

贅沢な暮らしになれ、便利な暮らしになれ、何不自由のない生活になれてしまった私たちは、全てのものがあたり前に存在していると、勘違いしてしまっていたかもしれません。

今のような、平和で、何不自由のない生活がおくれるようになるまで、多くの人々が、前に進むために、命を落とし、犠牲になり、何度も試練も乗り越えてきました。

言い方をかえれば、試練がなければ、今の世の中はなかったかもしれません。
未来の私たちのために、多くの人が試練を乗り越え、前を向いて進んだように、私たちも、未来の人々のために、もっとよい世の中をつくらなければいけないのだと、今回の地震は物語っているようにも思えます。

でも、今回の地震で、一つ思ったことは、日本の人々は、「誰かのためになりたい、何かの役にたちたいと思う心や、自分のことより人のことを気遣う心」を、なくしてしまったわけではなかったのです。
その心は、眠っていただけで、ニギハヤヒと瀬織津姫が願った 「一願成就」の心は、受け継がれていました。

変えなくてはいけないもの、変えてはいけないもの。
神々が鎮座する神社は、そんなことも、私たちに教えてくれるような気がします。

「神々を巡る伊予の旅」 です。







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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-18 00:45 | 歌・動画 | Trackback | Comments(7)

こんばんは。
今日は、早速ですが、神社のお話から。。。

昨日も少しだけ、お話しましたが、北条に鎮座する、国津比古命神社と櫛玉比賣命神社です。

二つの神社は、北条の櫛玉比賣命古墳に鎮座します。
国津比古命神社の御祭神は、
天照国照日子天火明櫛饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしにぎはやひのみこと)
櫛玉比賣命神社の御祭神は、
天道日女命(あめのみちひめのみこと)。御炊屋姫命。

同じ小高い山の上にあるのですが、姫をお祀りする、櫛玉比賣命神社の方が上にあります。
まるで、上から、ニギハヤヒを見守るかのように、鎮座されているのです。

国津比古命神社は、応神天皇(270年2月8日 - 310年3月31日)の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。
初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して國津比古命神社と名を改めました。

そして、櫛玉比賣命神社は、同じ頃、櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしたのが始まりです。
またの名前、社号は『祓座大明神(はらいにますだいみょうじん)』ともいわれましたそうなのです。
それは、饒速日尊の宮殿を参詣する前に、ここでまずお祓いを行ったと伝わっています。

『祓座大明神(はらいにますだいみょうじん)』この名前を見るだけでも、まるで瀬織津姫。

ニギハヤヒは、物部氏の子孫である、小千氏の祖神。そして、もちろん、妃神も祖神です。
越智、河野家は、三島明神を、祖神として古代から、現在まで、変わらず信仰し続けています。
大三島の大山祇神社を祖神として、三島明神を祀ったにも関わらず、祭神は、大山積神。
でも、この祭神は、三島明神=瀬織津姫・ニギハヤヒ ということが、ほぼ間違いのないこととと思っています。すると、ここ北条では、ニギハヤヒとともに、妃神は、天道日女命ではなく、瀬織津姫ということになります。

「祓座大明神」だけでも、十分姫の姿を見ることができますが、この二つの神社には、今はほとんど他では行われていない、特別な神事があります。
秋に行われる、お祭りの中に、御動座祭というお祭りがあります。
他のお祭りは、男神、ニギハヤヒのお宮から始まるのですが、どういうわけか、この御動座祭だけは、姫神である、櫛玉比賣命神社から始まるのです。
この動座祭は、『日本書紀』に書かれる神武天皇の「顕斎」の構造とよく似ているといわれます。

「顕斎」というのは、目に見えない神を見えるようにして祀ること。
つまり斎主(神主)として厳姫と言う巫女名(司祭者として神意を伝えるシャーマン)を授け、神武天皇自身が高皇産霊尊になる儀式を行って、高皇産霊尊を身に憑(のりうつ)らせ、神託を聞かせたと伝わる記述です。

御動座祭の中の特別な神事「『宵の明星』が、この記述とよく似ています。
これは、宮出し前のお忍びの神輿渡御のことで、神主である國津比古命神社宮司、年に一度の大祭に合わせて風早のクニタマ(國魂=古代風早国草創から続く首長霊)をその肉体に乗り移らせてその霊威を更新させ向こう一年、善政を行うことを祖神に誓う神事なのです。

神主が御祭神である饒速日尊(ニギハヤヒ)の降臨・御動座を希(こいねが)う祝詞奏上しているところへ、櫛玉比賣命神社の神輿一体が無言のまま石段を降りてきて八脚門の前に差し掛かる。
この時、その姫神の神霊が、風早國造神主に憑依し(表面上女性化する)、つまり目に見える現実の神事は男性の宮司によって斎行されていますが、宗教儀式上は、妃である櫛玉比賣神が、饒速日尊の神輿へのお渡りを誘導する神聖な儀式。

そして、二つの神が一つになった時、
「一願成就」 
どうか一人一人の幸せを願って、お守りください。そして導いてやってください」
ということを、神が神に向かってお願いするのです。

古代においては、実際の政治は王である男が行っていましたが、さまざまなことを決める役を果たすのは、妃である女性祭祀者でなくてはならなかったのです。
「厳姫と言う巫女名」 これは、瀬織津姫とも言われる、宮島の厳島神社の厳島姫(イチキシマヒメ)のことではないかとも思うのです。
厳島姫とは、瀬織津姫が、巫女(シャーマン)的な役割も果たしていたということにも繋がるような気がします。

物部氏の祖神、ニヒハヤヒと「祓座大明神」瀬織津姫は、天道日女命と名前を変えても、今もなお、ここ北条では、古くから伝わる神事を行っていたのです。
古くは、国津比古命神社に参拝する前には、必ず、姫神が鎮座する、櫛玉比賣命神社に参拝し、祓いを行ってから参拝していたとも言われています。

私は、まだほとんど愛媛を中心にしらべていますが、この愛媛に、こんなにも姫の秘密が隠されていたことに、今、本当に驚いています。
「三島明神」には、古代の歴史を覆すような秘密が、まだまだ眠っている気がしています。

*国津比古命神社
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*櫛玉比賣命神社
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姫の神社から見るニギハヤヒの拝殿
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今日、こんな記事を見つけました。

世紀的な天災を前にして、人間は何をなすべきか。

300余年前、康煕帝は天災に直面した時、自己と大自然との調和がとれていたかどうかを考えました。
調和がとれていなければ心から変えてゆき、これが即ち『浄化』

今は「天人合一」という秩序ある状態ではなく、絶えず乱れている。麻薬、色情が至るところに現れ、師弟関係や家庭倫理なども、今までになかったほど無秩序で混乱した状態になった。

日本で起きた世紀的な天災を前に、人類は皆、康煕帝のように自身を浄化し、心の中から道徳の価値観を高め、厄介な事をよい事に転換できるよう望んでいる。

「心の浄化」 

偶然なのか、多くの人が、見えない何かに気づき始めているのか。
さまざまな人達が、「浄化」 ということば 言っています。

瀬織津姫の名前が、またこうして多くの人に伝わっていることもまた、浄化を意味しているのかもしれません。


希望の光は、もう降り注いでいます。
どうか、多くの人の心に、希望の光が届きますように。 





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-04-07 00:27 | 愛媛県松山市北条 | Trackback | Comments(0)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。
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