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こんばんは。
今日は、久しぶりに松山の県立図書館に行ってきました。
夕方から子供の歌の発表会があるため、遠くへ行く時間がないしゴールデンウィークで道が渋滞しているので、こんな日は図書館かなと思い行くことに。

駐車場に着き、
今日はどんな本と出会うかな~と考えながら図書館へ。

ずらりと並ぶ本の中から、1冊の本を選ぶというのも、一つの出会いかなと神社のことを調べ初めてから強く思うようになった私ですが、今日も思いもしなかった本と出会う日となったのです。

いつも行く階でエレベーターを降り中へ。
なんとなく気の向くままに右から2列めの通路を通り、最初は今日は神社の資料を見ようかなと
各市町村別の神社の資料の前で足を止め、今気になっている宇和島の資料を手にし中を数ページ見たのですが、違うな~と棚に戻し、何かないかな~とあたりを見回すと、1冊の本に目が止まりました。

今まで何度かその本の題名は見たような気がしましたが、今までは全く目に止まることはなかったのですが、今日はなんとなくその本を手に開いた場所を数ページ読んでみると、

う~ん、なんとなく気になる。

その本を片手に、今度は市町村別の市誌のコーナーへ。
そこで宇和島市誌を手にとり二冊の本を持って机にいきました。

とりあえず宇和島市誌は後にして、この目に止まった本を読んでみようと思い早速読み始めました。

すると、そこには大山祇神社に関するとても興味深いことが次々書かれていたのです。
これを二時間で読むのは難しいと思い、コピーしようと気になるページを次々書き出していきました。

そしてあるページに目を通した時です。

「あれ?この文章どこかで見た気がする!」

よ~く読んでみると、そこに書かれてあったことは、先日大三島へ行った時、
3時間話し込んだあのお寺の奥様が下さった資料と同じ文章でした。

実はこの時、十六皇子について資料があるというので頂いたのですが、
この資料を書かれた方のことを、奥様から聞いていたのです。

今から20年近く前、私と同じようにこの十六皇子を見せてほしいと来られた方がいました。
その方はそれを元に本を書かれた人でした。
奥様はぜひこの本を私に読むようにと勧めてくださいました。
でも、この本は自費出版だから店頭にはもうないかもしれないと言っていて、
どこかで見つかるといいねと言っていた本だったのです。

もう発行してから17年もたっているので、もしかしたら見つけれないかもしれないなと実は半分もうそんなことを言われたのも忘れてしまっていました。

そして今日、なんとなく手にとった本が、奥様から読むようにと勧められたその本だったのです。

本当に、不思議です。

人も本も、会うべき時が来れば自ずと現れると言いますが、
本当に出会いとは不思議だと改めて思った一日となりました。

神社に行き始めて、本当にこんなことが幾度となく起こります。
だから、何かに出会い何かを発見したり何かに気付いたりする度に、

「あ~やっとこのことを教えて頂けるようになったんだ」 とうれしさと共に感謝の気持ちでいっぱいになります。 今回のこの本の中には、まさに今私が知りたいことが山のように書かれてありました。

私の疑問がまたこれで少し解けるかもしれません。

古い資料や、山のようにある文献を一つ一つ全て読むのはそれはそれは大変なことです。
それらの中の一文や、見たいけれどもすぐには見れないものの写真などを掲載してくれている本がなければ今の私はないなとつくづく思うのです。

歴史のことを知ろうとすると、単に一つのことだけを調べていても全く先に進むことはできないのです。

神社や神様のことや、一般的な日本の歴史はもちろんですが、
仏教や道教、密教、仏、神話や昔話、言葉、遺跡、古墳、海外の歴史や古代文明。。。。。
上げればきりがないほど、多種にわたりその意味を調べていかなければいけません。
各分野の専門家の方が調べて下さった資料があるということを、改めて感謝せずにはいられません。

それぞれの調べた結果は私には全くと言っていいほど当てはまらないものばかりなのですが、
でも、その資料を目にすることができるということは、本当にありがたいです。

今回の本を見つけた時は、やっとその意味を知ってもいい時がきたんだと、
なんとも言えない気持ちになりました。そのくらい、先日行った大三島での出来事と、今回の本は歴史の封印の謎を秘めた重要なものなのです。

他の人からみれば、それは全く違う意味でとられているか、またはあまり関心のいかないことかもしれませんが、この意味を説くことがとても重要なことだという強い思いがしてなりません。

このことはいつかここでも話せる範囲で書きたいと思います。
そして、この本の著者の方がもしご健在なら一度会ってお話がしたいなと思っています。

では、前おきが長くなってしまいました。

今日の神社のご紹介です。

今日は、前回ご紹介した住吉神社からすぐ近くにある

「三嶋大明神社」 です。

古代の川の道、政庁へと続くこの川を少しさかのぼってみることにしました。
そこで、まずであったのが、住吉神社からすぐのところに鎮座する この神社でした。

ここは、四十五代聖武天皇の神亀5年に越智宿弥玉純により勧請された
伊予の国七十二郷七十二社のうちの一社です。

神亀5年、8月23日に同時に勧請された神社を今まで何社も紹介してきましたが、
同じように勧請された神社にも関わらずその神社の名前はさまざまです。

どうして大山祇神社とせず、三嶋神社としたり、三嶋大明神神社としたりするのか。
私はここにも祀る人々の微かな抵抗が見られるのではないかと思うのです。

「三島明神」 とは、 大山積神であり、大山積神ではないからです。
本当の三島明神とは、本来三島家→越智家→小千家→乎致命→コチ命→ヲチ命が祀る神。
それは大山積神ではなかったからです。

ですから、三島明神とは表向きは「大山積神」
裏では 「瀬織津姫とニギハヤヒ」 の意味も持っているからです。 

だから、わざと神社の名前を大山祇神社としなかった場所もあるのではないかと思います。

そしてもう一つ、
大三島の大山祇神社を含む伊予の国に鎮座される大山祇神社は、
社名と祭神の書き方が違います。

他県では、「大山祇神」 と書かれてあるところが多いのですが、
なぜか、大三島を筆頭に、祭神は 「大山積神」 とされます。

「祇」 と 「積」 

どうしてわざわざ神社の名前と、祭神の名前の 「つみ」 の字を変えているのか
その明確な理由が今までわかりませんでした。
でも、今日見つけた本の中に書かれてあった 

「祇」 と 「積」 の 字が持つ意味から、少しその理由が見えてきました。

著者の方は、全く姫の存在には気づいていません。
ですから、この本来の意味から解釈する神の意味は私とは少し違いますが、
私はこの字の意味から、私なりの考えが見つかりました。

まず 「大山積」 とは、山を司る神という意味。
大山積神とは古事記の中で、山の神としてその神格が表されています。
にも関わらず、祀られている場所は瀬戸内海のほぼ中央。
海の中の小さな島。

どうしてこの島に山の神が、しかも「日本総鎮守」として祀られているかと疑問を抱く人は少なくありません。

そしてその御神徳は、山の神としながらも、海の神でもあり、武神でもあり、酒の神でもある。
一見とても複雑に思える大山積神の姿です。

しかし、その神社の名前は 

「大山祇神社」 

「祇」 ということばについて書かれてある 古い国語辞典「大言海」 という本があります。
その中で、「地祇」 について以下のように書かれてあります。

1.地祇とは万物を提出するものなり。
2.祇は地神なり。すなわち国土の神で、天神に対する国土の神である。
3.またクニツカミともいう。
そして、神祇令の 
「天地地祇は、神祇官みな常典によってこれを祭る」という用例があげられています。

「祇」という字には、万物を育む神、万物を生み出す国土の神という意味があったのです。

しかし、祭神にはあえて、「積」 と書いています。単なる山の神という名前です。

本来ならば、祭神もまた大山祇神とされるはずなのに、「積」と書いたことにこの神社の本来の意味が
込められていることがわかります。

ここ大三島に祀られる神、この島に祀られる神の御神徳は

「万物を育む神、万物を生み出す国土の神」=「太古の時代からの神」 ですが、
祀られている神は 後に変えられた 「山の神」 ということなのです。

それはこの場所が、神の島であり、常世の島だったからです。
また、完全に本来の神を消し去ることはできず、
また、その神徳だけを入れようとしたこの時代独特の考えからによります。

神功皇后が女神の力だけと取り入れた女性になろうとしたことや、
古事記の中で伊邪那美神が死ぬことで新たな神が生まれたとされることや、
天照皇大神やスサノオがお互いのもっているものをかみ砕き新たに誕生させた
五男三女神や、伊邪那美神が死ぬ原因となった火の神を切ったことによって
誕生した神のように、古代の人々は、一度命が終わることにより新たなそれ以上の力を得ることができるという黄泉がえり、再生、復活の力を信じていたからです。

それが、7で終わり、8でまた新たな世界が始まるという
キリストの考えとも一致するのです。

「大山祇神社」と「大山積神」 の その意味は、同じ呼び方でも全く違うものだったのです。

この古代の川の河口近くに祀られている 「三嶋大明神社」も、本来は古代からの女神、または饒速日尊をまつる場所だったのだろうと思います。
ここから、入ってきた「藤の木」=「藤原氏」により、ここにも新たな神が祀られることになったのかもしれません。

また、ここには、歴史の不思議を感じさせる一人の女性の物語があります。

神社の特殊神事としても行われる

「鍵谷祭(鍵谷カナ姫命祈年祭)」

この鍵谷カナ姫命とは、1782年、この地に生まれた一人の女性のことで、

「伊予絣(いよかすり)」 を独自におり始めた創出者として、今もこの地にその伝説がのこる女性です。

「織物」の神でもある姫と深いかかわりのあるこの地で、
女性であり、 「鍵谷」(鍵をかけられた谷) という偶然にしてはあまりにその名前に姫との繋がりを感じさせられるこの女性がこの場所で生み出した日本三大絣の一つ 伊予絣。

そして三島神社に神として祀られ今もなお、特殊神事が行われている。
まるで、本来の姫を祀るように。。。。。。。

*三嶋大明神社
*松山市西垣生町1226番地
*祭神
大山積神(おほやまつみのかみ)
雷神(いかづちのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
*境内社
疫鎮神社  御先神社 松尾大明神
白山神社 鷺神社  三光宮 稲荷神社産神社

そしてもう一つ、上の境内社の名前をご覧ください。
ここに  「鷺神社」 があります。
ここの鷺神社の祭神は、なぜか「少彦名命」 です。
この意味はまだまだこれから調べていかないといけないですね。

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拝殿です。
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ここも注連縄が逆になっています。
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神紋
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本殿
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境内社
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今日も長い文章を最後までお読みくださいましてありがとうございました。

沖縄は梅雨入り。四国も初夏の陽気となり桜も緑の葉に変わりました。
そして東北はやっと雪溶けだそうです。
日本は本当に広いですね。
でも、確実にそれぞれの場所でそれぞれの季節が進んでいるのだと実感します。
季節は止まることなく、進んで行く。
人の命も、私たちの時間も止まることなく同じように。。。。
この一瞬一瞬が、もう二度と帰ってこない大切な時なのですね。

最後に、もう今は散ってしまいましたが、短い春を思い出しながら。。。。。。

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by ldc_nikki | 2012-04-29 02:47 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(3)

こんばんは。

今日は、今治市に鎮座する 「三嶋神社」をご紹介します。
今治には、沢山の三嶋神社があります。

越智氏の本拠地なので、当たり前といえば当たり前なのですが、
「三嶋」 と書かれていない神社でも、その大半が神紋が 「三」の文字。
改めて、三嶋の勢力がどれだけ大きかったかを、思いしらされます。

今日ご紹介する三嶋神社は、
国府があったところではないかと言われている場所の一つ、

「上徳」 というところにあります。

「上徳=神徳」とも読めるこの場所は、
富田地区にあり、朝倉へと続く頓田川沿いに位置します。

川を朝倉方面へと走っていると、右下に木々が生い茂る小さな杜があり
神社はこの杜の中にあります。

この神社へ行くのは今回で二度目。
一度目はもうずいぶん前で、なんだか薄暗いところ。。。と思ったのが第一印象でした。
その時は、全く気付かなかったのですが、
ここに、大きな鍵を握る神様が祀られていたとことに今回気づきました。

その神様が、タイトルにもある

「鷺大明神」 です。

境内社の中に祀られる神様なのですが、
この神様が、出雲と伊予の国を結ぶ重要な神様なのではないかということが今回わかりました。

「鷺」 と言えば、
ブログの中でも何度も出てきている鳥。

三嶋明神と鷺は、同一とも言える とても深い関係にあります。

あの今治市鳥生町という名前の由来にもなった鷺は、
三嶋明神の 「神使」 と言われています。
河野家が戦いに苦戦している時、鷺が現れ助けてくれたお話や、
道後温泉のお湯を見つけたのも、足をけがした鷺がお湯の中でその傷をいやしている姿を見て
発見したと言われ、現在も道後温泉の本館には、まるで大山祇神社の方を見ているかのように
本館の屋根の上にいます。

北を向いた鷺
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また鷺は月の神の使いともされ、兎と同様、
月の女神の神使です。

古代太陽の神使は 「カラス」 とされ、
それと反対に、 月の神使は 「鷺」 だとされていたのです。

そしてこの鷺が、伊予の国以外に祀られていることがわかりました。

その場所が 「出雲」 です。

鷺大明神として出雲の国に祀られる 「鷺」は
島根のお隣の鳥取では、 鳥取の神話の代表 「兎」とともに 鷺が祀られているといいます。

「鷺」と「兎」はともに、月の使い。
どうして、出雲の国に「鷺大明神」が祀られたのか、
これからもう少し詳しく調べていかないといけませんが、
私は、この鷺大明神が一つの大きな鍵を握るような気がしています。

*三嶋神社
*今治市上徳字高森194・195番地
*祭神:大山津見命(おほやまつみのみこと)

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神社の境内には、水を抜かれた池があります。
その中には、小さな祠が。。。。 ここに昔は弁財天が祀られていたのでしょうか。
それともここが、祓いの池だったのでしょうか。
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そして更に奥には、大きな磐があります。
古代、ここが祭祀の場所だったのかもしれません。

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そして磐の隣には少し小高い丘があります。
その上に、小さな祠があります。 
ここに鷺大明神は祀られています。

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この階段を上がります。
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そして同じ場所に、天照皇大神。
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この三嶋神社のすぐ近く、田んぼの中にもう一つ小さな祠があります。

「桜元塚大明神」

その由来ははっきりとわからないのですが、
地元の言い伝えでは、お酒が好きな神様で、必ず午前中に行くことと言われているそうです。

「桜」の「元」 とは、桜の神様はここです。と言いたいのでしょうか。
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by ldc_nikki | 2012-04-24 22:48 | 愛媛県今治市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日の神社は、丹原町に鎮座する三島神社です。

この三島神社は 「和銅5年」に勧請された三島神社の一社です。

三島神社は、これまで何度かお話をしましたが、
この和銅5年と、神亀5年の二度、この伊予の国に一度に建立されます。

神亀5年とは、728年、聖武天皇の御代。

そして、和同5年とは、712年、元明天皇の御代、古事記が完成した年と同じ年です。
どちらもなぜか、8月23日という同じ日に、一度に勧請されました。

古事記が完成したこの年は、まだ大山祇神社の大造営は終わっていません。
また現在の宮浦へも移されていません。

その前に、どうして一度に多くの三島神社を勧請しなければならなかったのか
まだ謎のままですが、
私は、この和同5年に勧請された場所は、
大和の勢力が一揆にその勢力を拡大した証だと思います。

こうして、大造営が始まった701年から、完成し正遷座行われる19年間の間に、
この伊予の国の形は大きく変わっていったのだと思います。
そして、大三島以外の姫の姿はとうとうなくなり、本体である大三島の姫は封印されるほか
なくなってしまったのだと思います。

「戦わずして国譲りが行われた。」

これはその時のことを言っているのではないかとも、最近思えてきました。

そして国譲りを行った神は、大山祇神社の真北にあたる出雲の国に眠った。
北の端に。。。。 
北の端が、その魂を永遠に眠らせる場所として選ばれたのではないかと、
またちんぷんかんぷんなことが頭をよぎります。

でも、こうしていろいろ考えることが楽しいのです^^
1300年前の歴史、どれが真実かなんてほんとは誰にもわからないのかもしれません。
でも、少しでも近くなりたい。
ほんの少しでも、真実に近づきたいそう思う気持ちがあることに
意味があるのだと思います。

空海が、どんな想いで姫の場所へ足を運んだのか。
円空が、どんな想いで姫の仏像を彫り続けたのか。
一遍上人が、何を知り何を探しに神社に行ったのか。

1300年の間に多くの人が、この謎にかかわりその場所を訪れた。

そして現代も、その想いをまるで受け継ぐかのようにいろいろな場所で
その謎を追いかけている人がいます。

私を含め、それぞれの地で歴史に魅せられ、何かにかきたてられるように
姫の封印の場所へと向かう人々は、例え永遠にその訳がわからなくても、
それでもどうしてかそこへ向かいたい。

そんな純粋な魂の声のままに動いているように思います。

そしてもしかしたら、いつの日か、みんな同じ場所へたどり着くのかもしれない。
なんて最近ふと思ったりします。

全く違うことをしているようでも、全く違うものを見ているようでも、
きっと道はある所に続いていると。
私も、その日を楽しみにしています。

*三島神社
*西条市桑村449
*祭神
主祭神:大山祇神(おほやまつみのかみ)
  配神:雷神、高龗神

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まっすぐの参道を歩きます。
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拝殿
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本殿
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神域と御神木
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昨日、ある方がおしゃっていました。
縄文時代の人々にとって、音楽とは向こう側の世界とこちら側の世界を繋ぐものだったと。
向こう側の世界とは、私は神さまの世界。
それは神と人とをつなぐものだったのかもしれないと私も思いました。
私はブログを書くとき、必ずヘッドフォンで音楽を聴きながら書きます。
他の音が入らないように、その日自分がききたいと思う音楽を聴きながら。
そうするとなぜか何も考えなくても指がかってに動いていく気がするのです。
よく作曲家や作詞家の方が、歌詞や音楽がおりてくる。と言いますが、
その時、その人はきっと何かと繋がっているんだろうなと、こんな私も最近少しわかるように
なってきました。
私がブログの最後に載せている音楽は、私がこのブログを書きながら聴いていた曲です。
この曲を聴きながら、ブログを読むともしかしたらみなさんの心の中にも
何かがおりてくるかも。。。。。。




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by ldc_nikki | 2012-04-16 23:15 | 愛媛県西条市(旧東予市) | Trackback | Comments(2)

波賀部神社 (運命は)

こんばんは。

あの地震から1年。
あの日私は名古屋にいました。
初めてのレコーディングのために名古屋に行き、
瀬織津姫の歌を歌わせていただき、次に山水さんが奴奈川姫の歌を録音し、
歌い終わってすぐあの地震が起きました。

名古屋は長周波地震でまるで船に乗っているような揺れでした。
編集室は鍵を閉めると外に出られないからとドアを開けしばらく様子をみていましたが、
誰もが今までに体験したことのない揺れで、
これはいつも地震とは違うと感じ、すぐスタジオにおいてあった小さなテレビをつけました。

するとそこに映った映像は、まるで現実に起きているとは思えない光景でした。
私はたった一つだけ動いたこだまに乗り、真夜中なんとか愛媛に帰ることができました。

誰もが自然の力を思い知らされた日だったのではないでしょうか。

そして、誰もが原発の恐ろしさを嫌というほど味わった日だったのではないでしょうか。

あれから一年。
今もまだ多くの人々は家にも帰ることができず、原発の問題も解決できていません。

もしもう一度同じような規模の地震あるいは津波が来たらどうするのでしょう。

この度の震災で亡くなられた多くの皆様のご冥福を心からお祈りするとともに、
一日も早く原発がこの日本から、世界中から無くなることを願いたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日のご紹介は、

松山市にある 「波賀部神社 」 です。

ここには、神社の敷地の中に大きな古墳があります。
6世紀頃前半に造られた古墳と言われ、前方後円墳としては松山で最大級の古墳です。
墳丘の主軸方向は、ほぼ西を指向し、全長は62m、前方部が全長30m・高さ6.13m・幅28m・考円部高さ6.66m。

6世紀前半と言えば、空白の100年と言われるほどその間の歴史は今もよくわかっていません。
伊予の国でも、このような大きな古墳ができているにも関わらず、その歴史は謎のままです。

またこの神社には、もう一つの言い伝えがあります。

嵯峨天皇の皇子「寛王命」が、伊予国守として赴任され、この地で亡くなったといわれています。
神社は、越智玉澄が神亀5年(728年)大三島より勧請(かんじょう)して、石井郷一宮三島大明神と称し社を建立したと伝わりますが、「寛王命」がこの地で亡くなり、神社の傍らに葬り神霊を合祀したことから、墓辺神社と呼ばれるようになったといいます。

その後、
墓の字を忌み波賀部神社に改めました。

そして永禄、元亀年間に大友義純、長曾我部元親が乱入した際には三島大明神の社名を掲げて危難を免れ、以後王塚三島大明神と称えましたが、明治14年波賀部神社に復したと伝わります。

この古墳からもう少し北へ行くと、久米とよばれる場所があります。
ここは、7世紀前半 「政庁」とよばれる現在の県庁本館のにあたる建物が建設されて場所があります。
また、 このすぐ近くには、久米の山の中に祀られていた伊予比売命の御神体が流れついたと言われる場所があります。

洪水で流れついたと伝わる姫の御神体ですが、
本当は洪水で流れついたのではなく、この地を奪われた時その御神体は伊予比売命と、伊予比古命の二つの御神体は別々にされてしまったのではないかと思います。

一つは天山村に流れ着き、もう一つは日瀬里(現在の久米窪田)の龍神淵。

この場所は、大和によってこの地を奪われ今治よりも先に、国府の役割があった場所。

その証拠が、久米で見つかった、

「久米官衙遺跡」です。

この遺跡については次回に詳しく紹介させて頂きます。

*波賀部神社
*松山市高井町1,067番地
*祭神
大山積命(おほやまつみのみこと)
雷神(いかづちのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
配神:寛王命(かんのうのみこと)
*境内社 床浦神社 旭神社 金刀比羅神社 生目神社 一事神社 太刀打神社

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拝殿
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境内社の 「床浦神社」
「床浦神社」とは、厳島神社の末社として宮島の中に鎮座される神社です。
厳島神社が現在の場所に鎮座されるまでの間、ご祭神を仮に祀ったところと云われています。

祭神は、
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三姫神

厳島神社の神紋「三亀甲(みつぎっこうに)剣花菱(けんはなびし)」は、岩台に走る亀裂の模様をかたどったとされています。

市杵島姫が、瀬戸内海の聖地を探していると亀の甲羅の亀裂がある岩を見てここから上陸したとも伝わると言います。

「亀の甲羅」

亀に姿を変えれていた姫の姿がここにも繋がります。
瀬戸内海は古代、海亀が多く生息する地でもありました。
ここ宮島では、古から海亀が産卵し海に帰るときに酒を飲ませて帰したという慣しがあったと言います。

海亀に姿を変えられたいた 「神女」は瀬織津姫のことでした。
そして、ここ宮島に伝わる市杵島姫命の伝説もまた海亀に導かれて上陸したと伝わります。

しかし宮島に初めて姫が祀られたのは、本当は、仁徳天皇の時代でした。

するとこの推古天皇の時代、佐伯 鞍職が厳島神社を創建したと伝わる伝承は、
もうすでに姫の封印が始まっていたことを物語っているのかもしれません。

ここにどうして「床浦神社」が境内社としてあるのかはわかりませんが、
この神社も姫に関わる重要な神社の一つだということがわかりました。

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本殿
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そしてこの白い木の向こうに古墳があります。
この古墳には誰が眠っているのでしょう。。。。
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今日はこの言葉を最後に。。。

「運命は我らを幸福にも不幸にもしない。
ただその種子を我らに提供するだけだ。」

モンテーニュ

種を枯らすのも育てるのも、そしてどれだけ美しい花を咲かせるかも
自分自身なのですね。。。。。



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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-03-12 22:08 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

今日は、先日のブログでも紹介しましたように、今治の商店街でゆるキャラとB1グランプリが開催されました。

普段は全く人がいない商店街が、前に進めないくらいの人、人、人。。。。

ゆるキャラとB1の力は凄いな~と改めて実感。

でも、それぞれの町が自分たちの町のよいところを見つけ、それを多くの人に知ってもらいたいと活動をすることはいいことですね、

日本は小さな島国ですが、それでも多くの市や町があってそれぞれ独特の個性がある。

長い歴史の中で造り上げてきた証ですね。

ゆるキャラやB1はそれをわかりやすく伝えることができる、とてもいい手段だなと今回のイベントで思いました。

ではせっかく写真を撮ってきたので神社のお話に入る前に、ゆるキャラのご紹介^^;

まずは、ここ「今治市」のゆるキャラ、「バリィさん」です。
頭につけている冠は、しまなみ大橋。
鳥は焼き鳥発祥の地と言われているから。
お腹に巻いたタオルは、今治の名産、「タオル」 で作られています。
そして、昔から船で栄えてきた今治は、今も造船の町と言われているため腹巻に入れている 「お財布」は
船の形をしています^^
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なんでも、古代史に結び付けてしまう癖からか、今治のシンボルが 「鳥」か~・・・・・。と複雑な思い。

続いて、滋賀県彦根市からやってきた 「やちにゃん」
彦根城城主井伊直弼の娘 「弥千代姫」がモデルになっているそう。
ちょっぴりお転婆な姫は、ダンスが得意とか。 
ついつい「姫」に反応してしまう私。 まるで職業病のよう^^;
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うちの娘が、妙に気に入っていた 「なんなんちゃん」
愛媛県宇和島市のゆるキャラで、花菖蒲の帽子をかぶる 「種の妖精」
好物はやっぱり、「じゃこ天(宇和島名産)」 
今日は見ることができなかったのですが、なんなんちゃんにはペットがいるそうで、
その名は 「ツツ人」 
時々いなくなるツツジ星人だとか^^; 見てみたいですね~。
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以上、ゆるキャラのご紹介でした^^

では、神社のお話に入りたいと思います^^

今日の神社は、今回の宇和町最後、 「大蔵山三島神社」

大蔵山三島神社は、前回の若宮神社のところでお話しました特別な縁故関係にある、三島神社です。

宇和町の「大氏神」でもあるこの三島神社の鎮座地は、「神領」

まさに神の領域です。

この三島神社の由来書は、思ったより新しく 「承平中(931~938)」ころから始まります。

これを見た瞬間、本当は違うな。と思いましたが、まずは、ここで語られている起源をお話します。

承平中(931~938)国司から海賊と化した藤原純友征討を期に、伊予の押領使である越智好方が、大三島大山祗神社より「大山積大神」を神船に乗せ、明浜町俵津を経由し、ここ宇和郷の中心地大蔵山山麓神領に勧請したことが始まりとされています。

藤原純友は、愛媛の中ではよく出てくる名前ですが、この人物も謎を秘めています。

一般的には、藤原北家の出身で本来は、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にありました。
それが、どういうわけか海賊の頭領となって、瀬戸内で反旗をひるがえし朝廷に対し反乱を起こした人物と言われています。

この戦いは、以前長浜の三島神社をご紹介した時にも出てきましたが、その時からなんだかしっくりこない話だな。と思っていました。

この藤原純友については、もう一つ説があります。

それは、藤原純友は本当は大山積神を祖とする(これは間違いですが。。。)伊予国の豪族 「越智氏」 の一族で今治の高橋郷の高橋友久の子であったのですが、父、藤原良範が伊予の国司として赴任したおりに養子になり、藤原姓を名乗ったといいます。

私は、この二つの説の中でどちらかというと、後の方の内容に近いのではないかと思っています。

「越智氏」は、大山祇神社が宮浦に移った時に、藤原氏側に服従してしまいました。

だから生き残ったものたちは、自分たちの想いを心に秘めたままそうするしかなかったのだと思います。

藤原純友はそんな越智家の子孫として生まれ、ずっとこの時をまっていたのではないかと思います。

そして、とうとう200年間の一族の想いを一揆にはらそうと、反乱を起こしたのではないかと。。。。。

「藤原氏」 は、越智氏と婚姻関係を結びながら、その勢力を拡大していきます。

それを物語ものが、「越智から橘」 への名前の変更です。

藤原純友を討ったといわれる人物は、伊予橘氏の一族 「橘 遠保」です。

橘 遠保は、伊予橘氏の一族だと言われています。

伊予橘氏がどういう氏族だったのかは、今はまだよくわかっていませんが、
私は 「伊予橘氏」 は本来 「越智氏」だったと思っています。

「橘氏」の起源は、やはり古事記の時代にあり、その鍵を握る人物が藤原不比等です。

藤原不比等は、どこまで本当かわかりませんが、数多くの側室がいたとされています。

その中でも、後の聖武天皇皇后となる娘を生んだ側室 「県犬養三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ)」

三千代は、阿閉皇女後の(元明天皇)に出仕した可能性が高く、その後、三千代は軽皇子後の「文武天皇」の乳母も努めたといわれています。

元明天皇からとても信頼されていた三千代は、元明天皇が即位する(708年)、元明天皇から 「橘」姓を賜っとされています。

その後、藤原不比等の後妻となり、聖武天皇の皇妃となる娘を生むのです。

しかし、三千代は藤原不比等の後妻となる前に、敏達天皇系皇親である美努王に嫁ぎ、

「葛城王(かつらぎのおおきみ)」を生んでいたのです。

葛城王は、藤原不比等の子供ではありませんが、三千代が元明天皇から賜った姓

「橘」を継ぐことを許され、 「葛城王」 から 「橘諸兄(たちばな の もろえ」となります。

では、一番肝心なところのお話をします。

「橘姓」の祖となった、三千代は、「越智氏」 の血を受け継ぐものだったのです。

加茂族の本拠地だった現在の西条市は 大宝律令により 「神野郡」 とよばれるようになりましたが、
この「神野郡」とは、現在の西条市と新居浜市の両方を合わせたものをさします。

「神野郡」はのちに、「新居郡」と名前が変えられますが、この地を治めていたのは 

「越智氏」子孫 神野郡とよばれる時は「越智玉澄の兄の玉守」でした。

しかし、新居郡と名前が変えられる時、国司が越智から橘に変わっています。

そして、この伊予橘が越智の子孫だという説があります。

それは新居浜市の一宮神社の系図に、越智氏から橘に変更されたと記されているからです。

楠正成も、「橘氏」の子孫と言われ、越智氏の血を受け継ぐ子孫だといわれています。

ということは、「橘」の姓を賜った 「三千代」は越智氏の血を受け継ぐ娘だったということになるのではないかと思うのです。

そして、三千代の父である 「県犬養」とは、本来犬を飼養・使用することを「業」とし、狩猟や守衛を行って一族とされています。また、天智天皇と天武天皇との争い、壬申の乱で天武天皇側につき勝利へ導く一族となったことは知られていることです。

しかし、この県犬養一族は、四国にいた一族で、本来は越智氏と関係の深い一族だったと考えられます。

三千代の父、また母のどちらかは、「越智氏」の血を受け継ぐものだったのです。

今治には、県 「阿方 (あがた)」と呼ばれる地域がありますが、ここは四国八十八ヶ所のお寺、延命寺があるところですが、ここにはスサノオの伝説があり、現在の野間神社は旧野間郡といわれた地域の大氏神だったのにも関わらず、この阿方だけは氏神に入っていません。

それはスサノオを通さなかったからだと。

そして、空海がこの地に、八十八ヶ所を置いた意味も、県犬養との関係を考えるとよくわかります。

また三千代は 「橘氏」の氏神として、京都(山城国相楽郡)に、大山積神を祀っています。
その神社を 「梅宮大社」といいます。

越智氏が橘氏へと変更されたのは、「県犬養三千代」が越智の血を受け継ぐものだったからではないでしょうか。

四国には、「犬神信仰」 が盛んに行われた場所でもあります。

それは、犬が人間を守るために働いてくれていたからでしょう。本来は越智氏のために。。。。

そして、桃太郎のお話の中でも犬が家来として一緒に旅に行く理由はここにあるのではないかと思うのです。

越智から藤原へと変えられた 「藤原純友」

そして、越智から「橘」へと変えた 「橘三千代」

純友は本来の越智氏の想いを受け継ぎ、三千代は新しい越智氏の姿になり、その血を受け継ぐ

「橘遠保」により、純友は殺されてしまったのだと。

越智氏の子孫 「河野氏」 は一説には、この新居郡の越智玉守の子孫が後に、「矢野氏」と「河野氏」に別れたとされています。

ちょうど、神野郡が新居郡となるころです。

この時、越智氏の間で、本来の越智氏の想いを受け継ぐものとそうでないものに別れたのではないかと思うのです。

だから、越智から河野へとちょうど変わる頃、空海が築いた四国八十八ヶ所に、河野氏の祖は懺悔に行くのです。 先祖が行ってきた一族の罪を祓うために。

藤原純友は、朝廷についてしまった今治の越智氏に生まれ、その生い立ちにずっと疑問をもっていたのかもしれません。 
自分の想いとは裏腹に、名前を藤原に変えられてしまったことが、どうしても許せなかったのではないでしょうか。

もしそうならば、古事記での編纂いらいの、大事件だったに違いありません。

だから、こうして多くの神社にその由来が残っているのでしょう。

宇和町は、古墳時代初期からの古墳が残るとても歴史の古い土地です。

にも関わらず、神社の由緒は、700年より古いものがありません。

そしてこの藤原純友の乱で建立されたという三島神社は、歴代領主 「橘家」 ・西園寺家の氏神として代々崇敬され 「大氏神」 です。

純友の乱で争い勝った 「橘家」 によって 大氏神として鎮座された三島神社は、本当はもっともっと古い時

代に姫を祀っていた場所だったのではないでしょうか。

それは、ここを訪れることでよりはっきりとそう思えました。

それは、神社の神門をくぐる前にある、美しい池の中に祀られる小さな社 「厳島神社」の姿を見た時に。

神社への参道よりも、私の目の中に飛び込んできた風景は、まるで江戸時代にでもタイムスリップしたような

池の中に祀られる姫の姿でした。

*大蔵山三島神社
*西予市宇和町神領2-433
*祭神
大山積大神(おほやまつみのおほかみ)
別雷大神(わけいかづちのおほかみ)
高龗大神(たかおかみのおほかみ)

三嶋橋を渡って。
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一の鳥居
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二の鳥居
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拝殿
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本殿
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そして姫を祀る 「厳島神社」 です。

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池の中に祀られた姫の社へと続く道
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ここはもしかしたら禊ぎの場所だったのかもしれません。
池はとても浅く、澄んだ水がとても印象的でした。
こんなに綺麗な池の中に、美しい姿で祀られる姫は初めてみたかもしれません。

姫は封印されてしまっても、大切にされているこの場所を見て、なんだか少し安心しました。

それが、姫の名前でなくても。。。。

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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-12 04:22 | 愛媛県西予市宇和町 | Trackback | Comments(2)

こんにちは。

今日11日と明日12日は、今治でB1とゆるきゃらショーがあります。

B1もゆるきゃらも、結構な数がくるようで、商店街は朝から人でいっぱいです。

四国内のゆるきゃらが多く参加する中、せんとくんが今治に初上陸するそうです。

また島根の、しまねっこも初上陸です。

せんとくんは、もうご存知のとおり昨年の奈良平城遷都で大活躍したゆるきゃらですが、平城京ができて今年で1302年。 そして、古事記ができて今年で1300年。

1300年前は、まだまだ争いが耐えない時期でした。
新しい都ができ、姫が封印され、まさか1300年後に、ゆるきゃらが今治にやってきて一緒に町を盛り上げるなんて、想像もつかなかっただろうな~。 

なんて、考えてしまいます。

島根と奈良と愛媛。

三つのゆるきゃらが一緒に並んだところを写真にとれたらな~。

ということで、今、行ってみると「しまねっこ」がいたので、とってきました。

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かわいいですね^^

そして、今治市のゆるキャラ 「バリィさん」

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残念ながら、今はせんとくんに会えませんでした。

でも、かわいいゆるキャラ発見!

姫路の 「しろまるひめ」

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そして、現在紹介している 宇和町(西予市)のゆるキャラ

「せい坊」

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このイベントは、明日まで今治市の商店街で開催されていますので
ぜひ、お越しください。


さて、今日は昨日の続き、宇和町の神社をご紹介します。

今日の神社は、明石寺から北西に数キロ行ったところに鎮座する 「若宮神社」です。

小さな神社ですが、この神社はとても重要な意味がありそうです。

宇和町の、「大氏神」さまは、ここから南へ3kmほど行ったところに鎮座する

「大蔵山三島神社」(後日紹介)

と 「特別な縁故関係にあり、祭礼の行列で地区の者が金幣や長柄を奉じて先頭に立ち、三体の神輿も先頭がこの永長が担当していた」と、三島神社の由来書に書かれてあります。

肝心の、若宮神社の由来書はなくなってしまっていて、正確なことは誰もわからなくなっているようなのですが、ここにも、姫と大山積神関係がありそうです。

「若宮神社」 とは、全国にあり、愛媛の中にも、境内社として数多くの若宮神社が残っていますが、

この神社の本来の意味は、

「本宮の祭神の子供を祀った神社」 とされています。

でも、ここにも姫の封印の秘密があるのではないかと思います。

ここ、宇和町永長の若宮神社の祭神は、

「少彦名命」 です。

三島神社の祭神の子供を祀った神社なら、このはなさくや姫は磐長姫など、大山積神の子供を祭っているはずなのですが、なぜ、少彦名命なのでしょう?

現在は大山積神とは全く関係のない少彦名が祀られていますが、本来は、違う神様を祀っていたのが、どこかで変わってしまったのではないかと思います。

それでも三島神社の由来書から考えると、「子供」 というのは不自然。

先頭を仕切る氏子が、この若宮神社の氏子だということは、ここに祀られる神こそ、本来の祭神であったか、
もしくは全く逆で、重信町の浮島神社の特殊神事のように、

新大和への道しるべとなった 「猿田彦命」が、先頭を歩いているはず。

どちらにしても、ここは三島神社の祭神変更に大きく関わった神社であることは、間違いないと思います。

また、この若宮神社から、東へほぼ直線にまっすぐ行くと、あの 「鳥殿」という山があります。

また、鳥殿の西側(若宮神社側)の地域を 「加茂」 といいます。

ここにも、加茂族の後があることがこれでわかります。

 「加茂=鳥」 

この鳥殿の山は、加茂族によって占拠されてしまったことを物語っているかのようです。

瀬織津姫の封印に大きく関わった 「加茂族」 は、瀬戸内海側だけでなく、この南予へもその勢力が及んでいたことをここは物語っているようです。

*若宮神社
*西予市宇和町永長863
*祭神:少彦名命(すくなひこなのみこと)

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拝殿です
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本殿
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神紋
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境内社
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ご神木
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そして、この山の向こうに 「鳥殿」はあります。
まるで、龍が山を取り囲んでいるかのようです。

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では、素敵な週末になりますように☆





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-11 11:52 | 愛媛県西予市宇和町 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。

昨日の、常世の国のお話。 少し長くなりすぎて、よくわかなかったらごめんなさい。
今日は、不老不死のお話は、お休みして、 まずは、神社のご紹介から。

今日は、今治市大西町に鎮座する、「素鵞神社」

ここ 素鵞神社の起源はとても古く、また ここに奉納されたものに、とても興味深い伝説があります。

この日の目的の神社は、ここではなかったのですが、そこに向かう途中に、立ち寄ってみることにしました。

大西町は、旧越智郡、 今治市から松山方面へ行った、旧今治市のお隣の町になります。
大西町の隣は、野間地区というところなのですが、 ここには、スサノオの伝説が残る、野間神社があり、ここ大西町の多くはなぜか、この野間神社の氏子になっています。

スサノオの伝説の始まりは、大西町の海岸。
海岸に船でついたスサノオが、 現在の野間神社がある、神の宮という所へたどり着きます。

その途中の不思議なお話が、今も、野間神社に伝わります。

その伝説が元となっているからでしょうか、大西町は、野間神社の氏子となるようです。

そして、今日、ご紹介する神社も、そんな野間地区との境目に位置する、スサノオを祀る神社です。

ここの祭神は、

須佐之男命(すさのをのみこと)
稲田毘売命(いなだびめのみこと) 
大山積神命
高籠神
雷神

そして、
弥都波能売命(みずはのめのみこと)

(古事記) 弥都波能売命
(日本書記)では、罔象女神(みつはのめのかみ)

そして、罔象女神(みつはのめのかみ)は、 瀬織津姫と同一の女神さまです

そんな、 「素鵞神社」に残る 伝説とは、こんなお話です。

平安時代中期、 「992年」 のことです。
公家であり、小野道風・藤原行成とともに 三蹟 (書道の大御所三人のこと) の一人、藤原佐理が、筑紫から都へ帰る途中、この瀬戸内海で、大きな嵐にあいました。

その嵐は、幾日も続き、藤原佐理らは、困りはてていました。
すると、ある夜、 大山積神が夢に現れてこういいました。

「大山祇神社には、神額がなくて困っている。
お前が、通りかかったので、海を荒す方法をとった。 ぜひ、筆をとってほしい。」

と告げられました。

藤原佐理は、早速筆をとり、神額を海岸から流すと、神の加護で、大三島の海岸に着き、大山祇神社に渡りました。

やがて海もなぎ、藤原佐理は、無事都へ帰りました。

ところが、この神額を書いたのは、ここ大西町紺原三軒屋の、品部川すそであったそうです。

そして、その後、数百年の時は流れ、 

「文禄3年(1595)9月5日」 航海の無事、安全を祈願して、船みこしを奉納したのが、この神社の始まりです。

この 「船みこし」 には、 大山積大神と筆を持った 藤原佐理の人形が向かいあって座っており、
中央の神額には、

「扶桑総鎮守 (日本全土の守り神)」 と書かれています。

毎年、五月の、野間神社と素鵞神社の御祭には、約30人の人々で担がれ、ゆったりした船歌にのって、宮出が行われ優雅な、船みこしの姿が浮かびます。

私も、何度か、野間神社の春の大祭に行ったことがありますが、獅子舞が野間神社の拝殿のある上から順番に階段を降りてくるのですが、その最初に、船みこしがおりてくる姿を見たことがあります。

写真がないのが、残念ですが、船が大勢の人々に担がれ、階段を降りてくる姿に、初めてみた時は、とても驚きました。

そんな、船みこしが奉納されている神社が、ここ 素鵞神社です。

船みこしが、ここに奉納されたのは、 200年くらい前のことですが、 神社の起源は、とても古く

「192年」 仲哀天皇 ちょうど、卑弥呼の時代までさかのぼります。

神社の由緒では、  仲哀天皇の時代、 奴麻の国造 「若弥尾命」が 大山積神を祀り、この地を神野原とよんだことが、始まりとされています。

しかし、もちろん、この時代には、大山積神はどこにも祀られていません。

その後、728年、高籠神、雷神 を合祀したさいに、滝之宮という名前が付けられました。

そして、どこにも、スサノオや稲田姫を祀ったという記述がないのにもかかわらず、 
1594年、 突然、 牛頭天皇が分祀されます。

その後、1871年、再度、滝之宮と牛頭天皇を合祀し、現在の
素鵞神社という名前に、変更されたのです。

この由緒のどこにも、罔象女神のことについては、ふれられていません。

それなのに、ここには、今も、罔象女神の名前が、残されています。

これは、この神社の起源、 192年に祀られて神が、 瀬織津姫のことをさすと言っているのだと思います。

ここもまた、姫の消された 神社の一つ。

でも、今も、罔象女神として、残されていたことに、感謝です。

そして、これは、どうしてなのかわかりませんが、 神社庁の中での、紹介では、
ここ 「素鵞神社」 の御祭神の中に、 大山積神の名前が、のせられていません。

*素鵞神社
*今治市大西町紺原甲484番地
*祭神
須佐之男命(すさのをのみこと)
稲田毘売命(いなだびめのみこと)
弥都波能売命(みずはのめのみこと)

そして、神社庁での、由緒では、
文禄3年(1595)9月5日創祀。と書かれてありました。

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拝殿です。 この日ちょうど、地元の方々が、神事をされていました。
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本殿
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もう一つの鳥居
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この神社の近くには、古墳時代初期の貴重な前方後円墳 妙見山古墳(国指定史跡)があります。
ちょうど、一番初めにここに、瀬織津姫が祀られたころ、ここには、大きな集落があったのだと思います。

どんな人々が暮らしていたのか、とても気になります。

そんなことも、もっと調べていくと、わかってくるのかな。。。

神社庁での、由緒の中に書かれた、

文禄3年(1595)9月5日創祀。

初めて、私の誕生日と同じ日が創祀の神社に出会いました。

不思議と、ただ、誕生日が同じというだけで、親近感が。。。

人間は、何か共通点があると、不思議と親近感をおぼえます。

初対面の人でも、誕生日が同じだったり、名前が同じだったり、 出身地が同じ、趣味が同じ、
何か一つ、共通点があると、急に会話がはずみ、仲よくなるものですよね。

無理やり共通点を探すのも、変ですが、趣味が多い人や、経験豊富な人は、共通点を見つけやすいもの。

よく、子供が、 どうして、こんな無駄なことをしないといけないの?

なんてことを、言いますが、 無駄だと思えることほど、 将来、  役にたったりするものだと私は思います。

いろんなことに興味をもち、 いろんな人と接し、いろんな経験をすることは、人生を豊かにすることの一つなんじゃないかなと思います。

今日も、素敵な一日を お過ごし下さい^^



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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-12-14 07:29 | 愛媛県今治市(旧大西町) | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は、また一段と寒い一日でした。
先日まで、とても暖かかったので、寒さが余計に厳しく感じます。

そして、今日、また、少し大きめの地震がありました。
茨城県から始まり、 広島県、 福島県、そして、北海道と、次々 マグニチュード5~6クラスの地震が
比較的浅い所で起こっています。

今までと、また、地震の流れが変わってきたような感じもうけます。
身近な変化に、敏感に感じ取れる感覚を持ちたいと思います。

地震を予知することは、とても難しいことです。
もう何年も、地道にデーターをとり、研究している方々もいますが、それでも、はっきりとした予測はできません。

後は、 本来もった、 動物的感覚、 そして、何かが起こった時に、これまでの常識にはまらず、
瞬時に決断できる心をもつことが必要だと、 強く感じます。

空、海、太陽、月、動物、 私たちの身の回りの当たり前の風景から、 何らかの異変を感じれるような素直な心をもてるようになりたいです。

では、今日もまずは、 神社のご紹介からです。

今日、ご紹介する神社は、 今治市の近見山という、山の麓に鎮座する 「大山積神社」 です。

この大山積神社は、 神亀5年、聖武天皇の勅によって大三島大山積大明神を勧請した神社の一社です。

このブログの中でも、何度も出てくる 神亀5年。

ここも、また、その年に勧請された神社です。
また、右別宮と称され、陸地部の別宮のうち最も社格が高いと言われます。

また、ここは、河野氏と長宗我部氏の戦いの舞台となった場所の一つでもあり、
この戦いで、愛媛の多くの神社やお寺に残る古い書物は、焼かれてしまったともいいます。

また、この神社が鎮座する 「近見山」の頂上には、今も、小さな社が置かれいますが、
ここからは、瀬戸内海を一望することができます。 
そして、 大三島の御神体、鷲ヶ頭山を望むことができ、大三島まで渡ることが困難な人々は、
ここから、 参拝していたのではないかとも、言われています。

この近見山は、昔、四国八十八ヶ所 第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺が置かれていた所でもありました。

山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたと伝わる、
巨大なお寺が、この山の上にはあったのです。

聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創したことが、起源と言われているように、
ここ、近見山も、封印された山の一つです。
現在は、そんな面影など、どこにもありませんし、山の中へも人が入ることはない、
入らずの杜のようになっています。

私たちの身近な存在でもある山でもあり、また今だに謎の多い、遠い存在の山ともいえるかもしれません。

*大山積神社
*今治市石井町5丁目421番地
*境内社
杵築神社
*祭神
大山積命(おほやまつみのみこと)
*由緒
神亀5年聖武天皇の勅によって大三島大山積大明神を勧請する。右別宮と称され陸地部の別宮のうち最も社格が高い。

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神社は、ここから少し階段を上った所にありますが、まず、入口にあった 境内社から参拝させて頂きました。

「杵築神社」
祭神は書かれてありませんでしたが、 たぶん 「大国主命」 だと思います。
あの、大浜八幡神社にも、姫の横に、同じ 杵築神社 があります。
ここに、その名前を見ることができて、なんだかうれしくなりました。
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そして、隣には、稲荷神社が。。。。
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これまで、稲荷神社は、ブログにのせたことがありませんでした。
それが、どうしてなのかわかりませんが、 ずっと、載せてはいけないと思っていたのです。
でも、私の中では、この稲荷神社も、また、 「瀬織津姫」 
狐が蛇に化けたのではなく、蛇が狐に化けた姿。 稲荷神社は狐が人々を表面的には騙したように見せかけ、実は、「狐=化ける動物」 なんだよと、訴えている姿なのでした、

それを、考えたのも、また、空海です。

またお話が脱線してしまいました。 では、 大山積神社の拝殿へと参りましょう。

鳥居の中央から、草が生えています。不思議ですね。
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杜の中を歩いて行きます。
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狛犬です。
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そして、拝殿
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神紋はもちろん三島です。
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そして本殿
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神社へ参拝してから、近見山の頂上へと向かいました。
車を降りて、山の中を歩きます。
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思ってい以上に、長い階段。
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やっと、案内板が見えてきました。
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少し歩くと、やっと、頂上へ到着!
小さな社が見えました。 ここから、大三島へ向かって参拝をしていたのでしょうか。
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社の向こうに、大三島があります。
そして、瀬織津姫が鎮座したいたという記述がのこる唯一の島、津島も目の前に。。。。
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この日はあいにくの雨。 大三島の御神体の姿を見ることはできませんでした。
微かに、うっすらとその山の輪郭が見えますが、この海の景色を見たことがない方には、想像すらできないと思いますので、 大三島の姿は見えないかもしれません。

海から一番近い山。 近見山。
そして、この近見山と海の間に、大浜八幡神社もあります。

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そして、今治の町も。。。
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霧で、霞んだ町、山、海、島。。。
今、古代の歴史も霧でかすみ、見えなくなっているかもしれません。
でも、この霧がいつか晴れるように、 少しづつ、その秘密を解明していきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では、最後に、今日の本題ともいえる、 「八咫烏」 についてのお話です。

「八咫烏」 この 言葉は、日本人なら、だれしもが一度や二度は聞いたことがある名前だと思います。

八咫烏とは、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる三本足のカラスのことです。

この三本足の烏は、三足烏(さんそくう、さんぞくう)が起源となっていると思われ、
古事記以外の神話や絵画などに見られる三本の足を持ったカラスのことです。

八咫烏とは、この三足烏に、日本独自の、呪術を使い、より強力な威力をもった、烏に変えられ、神武天皇の元に遣わされたのだと思われます。

烏を太陽の象徴とする神話は、マヤ文明でも見られ、黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もあるそうです。 
この神話の神格もそうですが、 烏とは、太陽の神の使いとされていたのです。
そして、三本の足は、、陰陽では偶数を陰、奇数を陽とする考えかたから、3は奇数であり太陽と同じ陽となるからだと考えられ、三本の足となったのだと言います。

中国神話では、烏は太陽の象徴とされています。

「太陽=烏」 
これは、「天皇=アマテラス=太陽」
太陽の神を意味する、天皇のことを意味することに繋がります。

でも、八咫烏には、この意味だけではありません。

「太陽⇔月」 太陽を陽とすれば、月が陰。
「太陽=烏」 で表される反対の姿は、 「月=兎」
兎は、中国では不老不死の薬の材料を手杵で打って粉にしているとされていました。

烏は、月兎と対比されていたのです。

日烏(火の鳥)の対極は、月兎。

ということは、天武天皇は、 月兎(月)から、烏(太陽)と変えるために、太陽神の使いの烏を、神武天皇の元へとつかわし、真の王へと導いたのです。

そして、そのためには、ただの 三足烏では、だめだったのです。
より強力な意味をもつ、最大の神の力を発揮できる烏ではなければいけなかった。
だから、 三足烏を、八咫烏へと変えたのです。

八咫烏の 「八」 は文字どおり、 最大の神の数 「八」 そして、

「咫」とは、 中国で円周を表す、単位と言われ、
「咫=約一八センチ=8寸」 の意味をもっていました。

ということは、 八咫烏とは、 「八八鳥」 昨日お話した、 陰と陽の 「八」 をもった、最大の数、最大の力をもった、三足烏だということになります。

古事記をつくって、証明したかったことの一つに、
「天皇は太陽神」 だと いうことがあります。

それまでの 「月」 の時代から、 「太陽」 の時代へ変えることも目的だったのです。
古事記ができるまでは、暦も、「月」 を元につくられていました。
それまでは、日初を、月の始まりとする 「太陰暦または太陰太陽暦」 だったものが、太陽暦と変わっていこうとしていたのです。

月を中心に考えていた時代から、 太陽中心への時代へ。

それはまた、 「月である 瀬織津姫」 から 「太陽である アマテラス」 への 変革だった。
日本の神の象徴は、太陽でなければいけなかったのです。

だから、月の女神である 瀬織津姫は封印され、 太陽の神である アマテラスを誕生させる必要があったのです。 

それも、最大の 「8」の呪術をもって、その力を永遠のものにするために。

それまでも、太陽信仰がなくはありません。 縄文時代から、 太陽と月は、どちらも神として、深く信仰されてきました。 
でも、神と通じることができるのは、月。 月の女神の力が、太陽の男神の力よりも、強かったのです。
古代、神事は全て夜、行われていました。 闇の中でも、明るく光り輝く月、そして、その女神の力は、太陽の神へも通じていた。
命の誕生が、月の満ち欠けと関係しているように、命の誕生は、月の力によって生まれ、また、死んでいき、
そして、新たな命となってまた生まれてきたのだと、考えたのではないでしょうか。

月は、再生の象徴、復活の象徴。

人は誰でもいつかは、その命が終わる時がくる。 でも、月の力をえることができれば、終わった命は、また復活しこの世に生まれてくることができると、思っていたのだと思います。

もちろん、太陽もなければ私たち生命は生きていくことができません。 
食物も育たず、 食べることができません。  陰と陽 陽と陰。 
どちらも陰であり、どちらも陽であり、両方がなければ、その命は存在しないということも、知っていたからこそ、 縄文時代、人々は、土器や、さまざまな所に、太陽と月を描いたのだと思います。
 
月=命の源、全ての生命を誕生させることができる神もまた、 「女」 「女神」でなければいけません。

たとえそれが、太陽の神だとしても、全ての根源となる最高の神は、 
「女」 「女神」 でなければいけなかった。

それまでは、 「月=女神」 「太陽=男神」 であったものが、 「太陽=女神」 となってしまったから、
瀬織津姫は、封印しなければならなくなったのです。 対極するものは、全て、 「陰と陽 陽と陰」
「女神=男神」 でなければいけなかったからです。

「月」 そのものは、 「月読み」という名前で 誕生させましたが、月に力を与えるわけにはいかなかったため、 「闇を守る神」 と させられた。
月もまた、 「闇を照らす光(太陽)」から、ただの闇へと変えられてしまったのだと。

そして、私が月の力の中で、一番重要だと思うことは、もう一つあります。

月の輝きは、太陽の光によって照らされています。
夜、光輝くのは、 月と太陽が、一つになっているからこその姿。 月は昼間は光輝くことはなく、月と太陽が一つになる時は、夜しかなかったのです。

だから、「陰(女)と陽(男)」 が、一つになり、生命が誕生するのは、夜。
そして、その生命を生むのは、 「女=月」 だったのです。

月である女神に、命を育むための太陽の光があてられ、太陽と月は一つになった。

そして、生命を誕生させるために必要な、 「羊水=聖なる水」 は月の中に存在し、月は、その聖なる水の中で命を育てる。 
一度は、終わってしまった命も、太陽と月が交わることによって、また誕生することができる。

それが、月の本当の力、月の本当の意味だったのではないでしょうか。

命の誕生、命の根源は、「月」 そして、 それは 「女性」 
その最高で最大の女神こそ、瀬織津姫だったのではないでしょうか。

古事記によって、日本は、「月」 「女神」 そして、「女帝」 「人間の女性」 も封印してしまったのだと。 

今、なんだか、私の中でほんの少しですが、新しい未来が見えてきた気がします。
そして、ほんとうにこれを書いている今、 初めて、姫の姿が私の頭の中に、その姿をほんの少し見せてくれたような気がしています。

今まで、遠い遠い存在で、その姿が、私には全く見えなかったのですが、やっと、ほんの少し、私の中にあらわれてきてくれたような気がします。

姫さま、本当に、ありがとうございます。

(追伸) 最後に、これで、「兎」の存在の意味も、わかったでしょうか。
因幡の白兎の意味が。。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-25 00:58 | 愛媛県今治市 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

しばらく大山祇神社の謎のお話を続けてきましたが、また、今日から伊予の国の神社を巡りながら、瀬織津姫の姿を探してみたいと思います。

大三島のお話も、もしかしたら、時々交えながらとなるかもしれませんが・・・・。

今日は、現在合併して砥部町となった、旧広田村に鎮座する 「三島神社」をご紹介します。
三島神社が鎮座される所には、「龍」にまつわる伝説が残っていることが多々あります。
ここ、広田村に鎮座する 三島神社の奥の滝には、 「馬に角が一本だけはえた姿をしている」 「龍駒」の伝説が残っています。

この三島神社は、桓武天皇元年、大三島から、三嶋大明神の神霊を勧請の際、行在所として供奉の人々が神霊を安置して休息した場所と伝わります。 その時、ここを 「神谷口」と称したといいます。

その後、土御門天皇元年8月21日、改めて、大三嶋より勧請したと伝わります。

祭神は、 大山積命。 

しかし、ここには、それ以前から祀られていた神様がいることを伝えるように、不思議な伝説が残っています。

ここ、多居谷という部落の山奥、多居谷川の水源である北谷嶺のふもとに、高さ約10m、幅約30mに及ぶ赤紫色の巨大な岩嶺があり、そこに、駒ケ瀧があるそうです。
瀧の頂上に約4㎡ほどの平らな所があり、ここから水源に向かって、溝中央の岩石に馬蹄の跡が残っているといいます。

ある一説には、この頂上には天狗が住んでいるとも言われ、
もう一説には、ここに天の神さまが、 真っ白い「龍駒」にのって現れ、この岩を下りていき人々の住む部落の方へと行かれたといいます。
そして、この岩石には、今も、馬の足跡が残っていると伝わります。

神様がのっていた馬は、「龍駒」 と言って、頭に、一本の角があるといいます。

真っ白い頭に角がある馬といえば、西洋のユニコーンを思い浮かべます。

ユニコーンの角には、蛇などの毒で汚された水を清める力があるといいます。
その一方、とても獰猛(どうもう)な、生き物ともされています。
フランスの文学者の書では、ユニコーンのことを
「この世で最も美しい、最も誇り高い、最も恐ろしい、最も優しい動物」 として描いているそうです。

この表現のされ方は、瀬織津姫と同じですね。

この龍駒は、高千穂にもその伝説が残るといいます。

どうして、この場所に、「龍駒」の伝説が残っているのか、その理由はわかりませんが、この白い龍駒に乗った神が現れて以後、雨乞いの聖地とされていると言います。
この瀧に雨乞いの行事を古例によって斎行すれば必ず雨が降ったと伝えられています。

ここも、また、水の神(姫)の聖地と言えるかもしれません。

*三島神社
*伊予郡砥部町多居谷12
*祭神:大山積命(おほやまつみのみこと)

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御神木
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拝殿
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境内社(宮谷三島神社・熊野三社神社・天満神社・若宮神社)
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この他、この中には2社の名前が書かれてあったのですが、字が消えてしまい見えませんでした。

本殿
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燈籠
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この村の山奥に、真っ白い角を持つ馬にのって、美しい姫が下りてきた。
そして、この村を今も守り続けている。 なんだか、何もない小さな山里が、神の森に見える。
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私たちが知らないだけで、 この国には多くの伝説が残っています。
皆さんのすぐ近くでも、もしかしたら素敵な、伝説があるかもしれません。

たとえ、誰かがつくった物語でも、 そのつくった人々の心の中には、物語の映像が見えていたのかもしれません。

その光景を目に浮かべるだけで、 何もない風景が、全く違う世界に見えてくるものですね。

人の想像する能力は、神さまから与えられた素敵なプレゼントかもしれません。
そして、人は、想像することによって、 また新しい何かを生み出すこともできる。
それもまた、 人間に与えられた、神様からのプレゼントだと私は思います。

その素敵なプレゼントを、 みんなが幸せになれる世の中のために、 活かせていけたらどんなに素晴らしい世の中になることでしょう。。。。。。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-11-08 01:03 | 愛媛県伊予郡砥部町 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、午後から急に寒くなりました。 
季節は、冬に向かっているのだと感じた一日でした。

日が暮れるのも、どんどん早くなり、6時になると、もう外は真っ暗。
これから、冬至にかけて、ますます日が短くなってきますね。

今年の冬至は、12月22日。
冬至は、一年で一番太陽の力が弱まる日と言われています。

だから、冬至が太陽の再生、 復活の日でもあると考えられていました。

冬至の日が過ぎると、 また、新しい命が誕生する。 再生、復活の日なのです。

古代、人々は、不老不死を強く願っていました。 不老不死の山、 蓬莱山に神仙人が住むと信じ。。。。

大山祇神社のある、大三島は、 古代、不老不死の島だと思われていたと思っています。
そして、月光山と呼ばれて、 三つの御神体の山に神を祀り、 満月の夜、聖なる泉の水を飲んでいたと。。。

大三島に太古の昔、 植えられたと伝わる、 不老長寿の楠は、 約3000年前に植えられたと伝わります。
紀元前、 日本にやってきた人々は、 瀬戸内海の中心に浮かぶ 高い三角の山をもつ 「大三島」 をきっと
蓬莱山と思ったのでしょう。

大三島の祭祀は、その時、あの三角の山の巨石から始まったと言われています。

そして、聖なる泉は。。。。。。。。

さて、今日は、前回の続き、川内町の神社をご紹介します。
川内町は、今日でひとまず終わりとなります。 今回、一番気になっていた神社、 「吉井神社」
神社の名前だけ見ると、どんな神社か全くわからない神社ですが、
もちろん、この吉井神社という名前は、後の世につけられた名前です。

ここは、 11号線を、井内川という川沿いに南へ向かった山の中。

こんな、何もない山の中に、 ずっとずっと昔から鎮座する 吉井神社。

吉井神社は、久米主命が、この地を訪れて、野蛮な民族を倒し、平定した時、ひもろぎをたて、天神地祇及び祖神を奉斎されたことが始まりと言われます。

ここで、一つ、わからない言葉があります。
それは、この野蛮な民族のことを 「古那」 と言っているのです。
古那とは、いったいどんな民族のことを指しているのでしょう・・・・・・。

そして、ここは、久米氏の祖神を祀った所でもあるということ。。。
久米氏は、古代日本における軍事氏族の一つと言われ、
高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があったと言われます。

瓊瓊杵尊を先導したと言われるのが、 この久米氏の祖 「大来目命」と天忍穂耳命です。
瓊瓊杵尊を先導した久米氏が、祀っていた 祖神とはいったい誰のことだったのでしょう。。。。。。

この吉井神社は、現在、アマテラスとスサノオの誓約で、生まれてた、五男三女神を祀っています。
本来は、この久米氏の国だったこの地域は、その後 713年に、越智家が神殿とたて、現在ここは、
「三島紋」 の神社となっています。

吉井神社と呼ばれる前は、 総河内八社大明神と呼ばれていた、吉井神社。
ここも、また時代の変革とともに、 その姿を変えていった一つかもしれません。

*吉井神社
*東温市井内字宮の森1835
*祭神
正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさやあかつかつはやひあめのおしほみのみこと)
天之穂日命(あめのほひのみこと) 
熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)
市杵島毘賣命(いちきしまひめのみこと) 
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
多紀理毘賣命(たきりひめのみこと) 
活津日子根命(いくつひこねのみこと)
多紀津毘賣命(たきつひめのみこと)

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拝殿
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本殿
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天正18年(1590)11月に八柱神宮、河内一宮、日生宮、新居田神宮、風宮、熊野宮、明神宮、天神宮の八社を相殿に祀りました。 
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境内におかれていた、不思議な形の石。
これは、 何のための石だったのでしょう。。。。。
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そして、神紋は、「三島」 です。
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日本の食べ物と言えば、「 お米 」 
そして、昔話の中でも出てくる、日本に昔から伝わる 「白い 御結び(おむすび) 」

アマテラスとスサノオの誓約の時生まれた 長男 「正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命」
天之忍穂耳命は、本当は、「瀬織津姫とニギハヤヒ」の間に誕生した 子供。

この名前は、「忍」は威力ある、「穂」稲穂が、「耳」実をいっぱいつけた稲穂、
稲穂の神、実の神。
そして、太陽の神 ニギハヤヒ と、 海の神 水の神 瀬織津姫・

太陽(ニギハヤヒ)の光を、たっぷり浴び、 天の恵み 「雨」(瀬織津姫) の水分を得て作られる 稲は 
太陽と海の子供(天之忍穂耳命)。 「稲」は、 「米」となる。

そして、海で作られる、神聖な 「塩」 (瀬織津姫)で、三角に 「5本」 の指で握られる。

5本は、5つに分けられた、 その魂を合わせることにもなる。
それが、 「おにぎり」

三角おにぎりは、 「父」 「母」 「子」 三位一体を現した、私たち日本人の原点の神の食べ物。
そう思うと、 たった一つの 「おにぎり」 がとてもありがたい、とても神聖な食べ物に思えてきますね。

「母」 の愛情を たっぷり込めた おにぎりには、目に見えない不思議な力が宿っているかもしれませんね。

今日は、 「愛姫伝 第10章 命の水」 です。





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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2011-10-25 23:05 | 愛媛県東温市川内町 | Trackback | Comments(6)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。
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