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三角寺

こんばんは。

三連休いかがお過ごしですか?
私は今日から三日間のお休みです。
昨日と今日はあいにくのお天気でしたが、
明日は少し晴れそうですね。

今回お話会をすることとなり、
改めてこのブログの大切さを実感いたしました。

お申し込みをされた方のほとんどが、
このブログをご覧いただいている方で、
また、今は面識のある方でも、
始まりはみんなこのブログからでした。

しばらく、神社やお寺のことを書いていないにも関わらず、
ずっと見てくださり、
本当に感謝しています。

今、本当に時間がなく、
以前のようには書く事ができませんが、
少しづつまた神社やお寺のことを書いていきたいです。

歴史の難しいこともですが、
皆さんの神社巡りの道しるべになれたらいいなと思います。

今日のお話は、

愛媛県四国中央市にある、
四国八十八ヶ所65番札所 三角寺です。

今年は、四国八十八ヶ所1200年祭ということで、
ここ愛媛にも沢山のお遍路がさんの姿を見かけます。

近年、歩き遍路をされる方が増え、
あちこちで、歩いているお遍路さんの姿を見かけます。

四国ならでは光景。
四国意外では見ることができないのではないかと思います。

人々の生活に溶け込むお遍路。

いつまでも、続いて欲しいなと思います。

「三角寺」

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愛媛県の最後の札所となるこのお寺は、
四国中央市の山の中にあり、
奥の院は、ここから更に山を超えた反対側にあります。

四国中央市は、
歴史上とても重要な場所の一つで、
三島とも深い関わりのあるところです。

今から1300年前、
歴史が大きく変わるあの時代に、
一つの大きな舞台になったところではないかと
思うほどです。

徳島県、香川県、高知県の県境にあるこの町は、
とても位置的にも重要な意味を持つ場所。

四国最大規模の、
横穴式石室を持つ古墳もここにあります。

そんな場所にあるお寺の名前も

「三角寺」

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弘法大師も、
四国でたった一つの、三角の護摩堂を築いて21日間、
国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法する。


この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、
寺院名の由来ともなっているいいます。

これが、
その三角の池。

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三角の護摩堂は、
ここ三角寺意外にはありません。

そして、この三角の護摩堂の中で、
「降伏護摩の秘法」と言われる秘法を修法する。

降伏護摩とは、
五無間を犯し、方等大乗を謗じ、仏性を殷滅し、君主に背逆し、正法 を惑乱する、
是くの如きの人に於いては降伏法を作すべし。

「五無間」とは、
無間(むけん)地獄に落ちる5種の悪業。
母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、
仏身を傷つけることの五つ。五逆罪。

「方等大乗」とは
不変平等の真理を説きあらわした 経典。

「仏性」とは
仏の性質・本性

「殷滅」とは
隠れて見えなくすること

そして、君主に逆らい、

仏の正しい教えの
判断を失うもの。

これらに用いる秘法
それが、

「降伏護摩の秘法」

この秘法を、ここで修法したことが
意味すること。

それが、
ここであったことを意味しているのかもしれません。

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本尊である
十一面観音は、古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、
信仰されており、

「子宝杓子」といって、子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、
仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられています。

どうして、杓子が子宝に恵まれるものとして
考えられているのか。

それは、「杓子」が
女性を意味するもの、女神を意味するものだから。

女神の体そのものだからです。

「三角」

女神の体の中で、
特別な秘法を修法した弘法大師。

この場所は、
それをしなければいけない場所、
それをするために一番適した場所だと
思ったからかもしれません。

使われるものには意味がある。
それをすることにも意味がある。

それが例えただの伝説だったとしても
そこには必ず、意味がある。

今度のお話会では
そんな話もしたいと思います。

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by ldc_nikki | 2014-11-03 00:17 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。
最近平日は、ゆっくりと歴史のことを考える時間がなく、
なかなか更新ができなくてすみません。

文章を書く時は、
頭の中から他のものを消してしまわないと、上手く書けません。
音楽をかけ、気持ちを落ち着かせ、脳の中を空っぽにする。

そして浮かんできたことを、ただひたすら文章にする。

こうしてブログや、歴史のお話を書く時は、
浮かんでくる言葉に意識を集中させます。
そうすると不思議と、次々言葉が浮かんできます。

時々自分で書きながら、新たなことがわかったりもします。
書くことは、自分自身に気づきを与えることにもなります。

また、こうして残しておかないと、時間がたつと、
何を考えていたかも忘れてしまうことがあり、
日記のように書くこの文章は、私の中で浮かんだ記録を残しているのかなとも
思えたりします。

不思議ですね。

さて今日は、フェイスブックで書いたものを同じ内容になりますが、
四国八十八ヶ所をご紹介したいと思います。

第59番札所 金光山 最勝院 国分寺
今治最後のお寺、国分寺は、今治市の東に位置し、旧越智郡朝倉村との境目にあります。

国分寺がおかれる山は、古代から信仰の対象になっていた山で、
多くの古墳が見つかっています。
ただ残念なことに、この山は高度成長期にあちらこちらを崩され、住宅やマンションとなり、昔の形を今にとどめていません。

先日も、愛媛県各地で遺跡を彫っている方とお話したのですが、愛媛県の考古学で一番の汚点は、この山を何の調査もせず、崩してしまったことだとおっしゃっていました。

今となっては、二度と元の姿を見ることはなく、
その時壊され、捨てられたものを復元することもできず、
真相は闇の中に葬られたままとなってしまいました。

高度成長期、日本のあちこちで行われた開発によって、多くの遺跡や古墳は崩されてしまったと言います。
あの有名な高知県のストーンサークルもその一つですね。
もうこれ以上、山や土地を崩したり開発したりするのはやめてほしいと私は強く思います。

「国分寺」
とは、741年(天平13年)、
第45代 (奈良時代)聖武天皇が仏教による国家鎮護のため
日本の各地につくらせたお寺のことで、国分寺の近くには、ほとんど場所で国府があったともされています。
今治もその一つで、奈良時代、伊予の国の国府がおかれた所でした。
国府のあった場所は、はっきりと今も見つかっておらず、今も謎のままですが、この国分寺からそう遠くないところにあったとされていて、現在一番有力な場所は、ここから少し北へ行った
拝志という所だったのではないかと考古学の間では言われているそうです。

拝志は海のすぐ側にあるため、私自身は少し違うのではないかと思っていますが、その場所を特定することはできません。
ただ、私の中でとても気になる場所があり、その近くではなかったのかと思う所があります。
それは、あの役行者と関係のある場所で、役行者が石鎚山に入る前にいたとされているところです。

聖武天皇から「国分寺建立の詔」と言われるものが出されたのですが、その内容は

・各国に七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経すること。
・自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること。
・国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすること。
などでした。

聖武天皇はなぜ、日本中に国分寺を建立させたかと言うと、
当時日本は、地震や飢饉、台風等自然災害に見舞われ、また、日本中で伝染病が広がり多くの人が亡くなりました。
そんな世の中が平穏になるようにと、奈良に東大寺を建て、国分寺を建立するように命じたのでした。

ここでとても気になるのが、
国分寺におかれた塔は、七重塔だったということです。
国分寺以外のお寺では、三重塔、五重塔また八重塔というものもあります。
それなのに、国分寺でつくるように命じたのは、全て
「七重塔」だったということです。

そして東大寺におかれた大仏。
そして、法華経。

私は聖武天皇が本当に恐れていたものが、ここにあらわされていると思っています。

伊予の国分寺におかれた七重塔は、
高さ60mほどあったとされ、豪壮な七堂伽藍を構えた
寺院でした。

古代の謎を秘めた朝倉や、古代の今治の交通の要だった川、
頓田川からすぐの場所につくられた国分寺。
今治の東に、
聖武天皇の勅願により行基菩薩が東の仏、薬師如来像を彫造。

弘法大師はここに長く滞在し、
「五大尊明王」の画像一幅を奉納。
弘法大師の弟子・真如も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納めたと言います。

そして国分寺の横に神仏習合の形を今に残す神社、
春日大社が置かれることもまた、ここの意味を物語ってるように私には思えるのです。

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「春日大社」
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by ldc_nikki | 2013-07-27 04:17 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(6)

愛媛巡礼

こんばんは。

今週から新しい職場に行き始めました。
以前からつきたかった情報発信の仕事です。

半分以上が営業の仕事にはなりますが、
これもきっと何かの役に立つ。
今、与えられた仕事を一生懸命にすることが、次へと繋がると信じ、
後はできることを精一杯するだけですね。

3月4月は、引っ越しや移動、新しい職場や学校など、
別れと出会いの月。
皆さんは、どんな春を迎えているのでしょうか。

先日、久しぶりに、動画をつくってみました。
今回は、四国八十八か所の動画です。

菩提の霊場 愛媛。

なかなか愛媛まで来れない皆様。
動画でほんの少し、愛媛の雰囲気を味わっていただければ嬉しいなと思います。

またこの動画に使っている音楽は、
実際の四国八十八か所のお寺の鐘の音を使いつくられたものだと言います。

愛媛巡礼。

心の中へと向かう旅。 皆様の何かのお役にたてると幸いです。。。。





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by ldc_nikki | 2013-03-06 22:26 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

第43番札所 源光山 円手院 明石寺 
げんこうざん えんじゅいん めいせきじ

伊予の国 四番目の霊場は、
三間町のお隣の町、宇和にあります。
三間町から山を越えると古代南予の中心的な町として栄えた宇和町につきます。
宇和は、「弥生の里」と言えるほどの多くの弥生時代の遺跡があります。宇和からは、九州地方との文化の繋がりを感じさせるものが多く出土しています。
その中でも、銅矛(どうほこ)は5例以上に上ると考えられており、宇和にある歴史博物館に展示されてある銅矛は、まるでおとぎ話に出てくるような立派な銅矛。
また、宇和からは、瀬戸内海地方で多く発見される、平形銅剣が発見されており、今治や松山の道後地方との関連性が考えられるとても貴重な場所です。
それは古墳にもあらわれ、「古墳時代初期」のものがここからも発見されています。
愛媛の古墳時代初期の古墳が見つかっている場所は、
「宇和町」 「松山市」 「今治市大西町」 「今治市唐子山」この中でも今治市唐子山は、古墳時代以前のお墓が見つかっているところでもあります。 
このようなことから宇和は、ちょうど卑弥呼の時代、300年前後に大きな豪族がいたと考えられています。

四国八十八か所は、平安時代に開基されたものですが、
実はこの弥生時代からの歴史が大きく繋がってきているのです。

ここ43番札所明石寺に残る伝承は、そんな古代に栄えた宇和歴史の流れが見える伝承の一つです。

 「明石寺」は、現在は 「めいせきじ」と読みますが、本来は「あげいし」と呼ばれていました。 
その名前の由来には、一つの女神の伝説が残っています。
神仏習合の名残を残した明石寺は、明治維新まで神仏習合の寺院で、住職を別当職と呼んでいました。
ここも本来は神を祀る場所でした。
しかし、6世紀、欽明天皇の勅願により円手院正澄という行者が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るためお寺を創建し、その後、天平六年 (七三四) 役行者小角から数えて五代目に当たる寿元行者が、紀州より熊野十二社権現を観請し十二坊を建てて修験道の中心道場となりました。
その後、弘仁13年(822)に弘法大師がこの地を訪れ、荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興したといいます。

そして、女神の伝説。

「その昔、若くて美しい女神が願をかけて、深夜、軽々と両腕に大石を山に運んでいました。
ところが、目の前に天の邪鬼いて、石をかついでいる女神の後ろから 「コケコッコー」と 朝を告げる鶏の鳴き声をしました。
女神は、朝が(太陽が昇る)きたとことに驚き、こんなはずではなかったがと思いながらも、石を置いて消えてしまった といいます。」

この伝説が元となり、「あげいしじ」と呼ばれるようになったと言われています。

この中に出てくる、「朝を告げる鶏」
これはあの古事記の中に出てくる一文と同じ。

「思金神に思はしめて、常夜の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」

アマテラスを磐からだすために、神々たちは、常世の長鳴鳥という 「鶏」を鳴かせるのです。
朝(夜明け)を知らせる鶏。  「東天紅」

朝が来ることを知らせる鶏は、
単に朝を知らせるもにではなく、太陽の出現の象徴でもあります。月から太陽の時代への以降をこの伝説が物語っているのです。

伊勢神宮が20年に一度行う 「式年遷宮」の儀式の始めに、宮司さんは、この鶏の鳴き声を3回されます。
それは、天の磐戸の再現です。

古事記では岩から出てきたことをあらわしていますが、
ここ明石寺では、太陽の出現によって、女神は石を置いて消えてしまう。交代を意味するのです。

そしてここ明石寺は、弘法大師が水を出した所でもあります。
弘法大師はある所では水を出し、ある所では水を出ないように封印したりします。
水に関する伝説が多い弘法大師ですが、私はどうして弘法大師は水を出したり、止めたりするんだろうとずっと不思議でした。
人々のために水を出すだけならまだしも、大切な水をとめてしまう場所があることを知った時、弘法大師は単に飲むためだけに水を出していたのではないのかもしれないと思うようになりました。
そんな謎の意味が私なりに理解ができた場所もここ明石寺なのです。

明石寺の本堂に上がる手前を山の方へ行くと、
まるで鳥居のようにそびえる大きな木があり、その向こうに弘法大師由来の湧水があります。
周りには何もなく、ただ湧水だけが存在する場所。
湧水の後ろは山になっていて、どうして水を出した所がここだったんだろうと思いながらそこを立ち去ろうとした時、ふと後ろを振り返ると、あることを思いつきました。

湧水の背後にある山の奥には古墳時代初期といわれる古墳がある場所であり、その向こうには、「鳥殿」 と呼ばれる山があります。ここは、弥生時代栄えた一族の聖域だったのです。
その場所から水を出した弘法大師。
太陽によってその姿を消したしまった女神の水を、もう一度この地上へと出そうとしたのではないかと思ったのです。

弘法大師は、あの室戸岬で、そこに空と海しかないことを知り、空海と名前をつけたと言われます。
それは、私たち人間は、空にも水があり、地上にも水があり、そしてこの大地の下にも水がある。
それはまるで子宮の中にいる赤ちゃんと同じように、私たちは水に囲まれて生きているということを前身で感じたのではないかと思うのです。

つまり地底(黄泉の国)へと姿を消した女神の水をもう一度この大地の上に出そうとしたのではないかと。

地球は「水の星」
水によって生命が誕生し、水によって自然が形成され、水によって命が繋いでいかれる。
空にも水が存在し、地上にも水が存在し、そして私たちの立つ大地の下にも水が存在する。そして私たちの体も水によってつくられている。
水が生命にとってどれだけ大切なものか、今の私たちは頭では理解しながらも、心で本当に感じているかと言うとそうでないかもしれません。

空、大地、地底。
水はそれぞれの場所で、それぞれの役割をはたし、また循環してく。全ての水は全てのもの、全ての生命と繋がっているのです。

原発によって侵された海、川、大地は、
その場所が侵されただけではなく、全てのものに循環していくということを忘れてはいけないと思います。

四国八十八か所は、水と私たちの命、また全ての命との繋がりを頭だけでなく、心で感じることができる場所でもあるように思います。空海は、いつの日が今のような時代がくることを予想していたのでしょうか。
私たちが、いつかそのことを忘れてしまいそうになった時、思い出すためにその人生の全てを欠けて、私たちに多くのものを残してくれたような気がします。

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by ldc_nikki | 2013-03-01 22:24 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

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第42番札所 一カ山 毘盧舎那院 仏木寺 
いっかざん びるしゃないん ぶつもくじ

伊予の国 三番目の霊場は、
41番札所龍光寺と同じく三間町にあります。
龍光寺から車だと数分のところにあるこのお寺もまた
とても意味深い伝説が残っています。

三間町は、その姿がはっきりと見えないものの、
41番札所そしてこの42番札所どちらとも、仏また稲に関係する重要な土地だったことがわかります。

ここ仏木寺の伝承は、
あの高野山に匹敵するほどとても意味深いのです。

弘法大師がここを訪れた時、牛を引く老人に出会いました。
そして、誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にしました。
よく見ると、この宝珠は弘法大師が中国より日本へ帰る途中、「有縁の地が選ばれるように」と、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠だったのです。

*有緑の地とは、仏や菩薩に会い教えを聞くご縁のある地と言う意味や、血縁、地縁など深い関係がある地という意味。

この宝珠を見た弘法大師は、
「この地こそ霊地である」と感得、堂宇の建立を決心したと言います。

この宝珠と一緒に投げた、「三鈷」とは、三鈷杵(さんこしょう)のことで、金剛杵(こんごうしょ)という、密教やチベット仏教における法具のこと。
金属製で杵(きね)の形を し、両端が三つに分かれています。この時投げた、三鈷杵は、高野山の松の木にひっかかっていて、弘法大師は密教を広めるためにふさわしい土地だと感得し、高野山にお寺を建立したのです。
そしてその三鈷杵と一緒に投げた、どんな願い事も叶うという宝珠がこの仏木寺となるこの地の楠の大樹にひっかっていたのです。 方や高野山、方や三間。

三間は、高野山に匹敵するほどの大きな意味を持つ場所だったのです。

また、院号は、「毘盧舎那(びるしゃな)」とは、
「光明遍照」(こうみょうへんじょう)と意味で、
あの東大寺の仏さま、「毘盧舎那仏」のことでもあります。

毘盧舎那は、密教では大日如来とされ、
また、宇宙の真理を全ての人に照らし悟りに導く仏のことともされます

まさに「太陽の象徴」

またこの仏木寺では、弘法大師が宝珠のひっかかっていた楠で、弘法大師自ら大日如来を刻み本尊としました。そしてこの宝珠を眉間に埋めて白毫(びゃくごう)とした。
白毫(びゃくごう)とは、仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされる白く長い渦巻き状になった巻き毛のことです。この渦巻き状になった巻き毛から光を放ち、無量の国を照らします。

弘法大師が投げた宝珠に巻きつけられた白毫(びゃくごう)にはきっと深い意味が込められていたのだと思います。

また高野山では松の木、ここ三間では楠。
この二つの木にも、大きな意味があるのです。

こんな風に、ありえない伝説の中にも隠された大きな意味があるのです。心の目を開き真実に従ってみるものにしか見ることができない真実。ここにも、そんな真実の姿があるのだと思います。

私たちは多くの情報の中に生き、いろんなものに左右され、内なる声や、真実、また本当に大切なものが見えなくなってしまっているように思います。私もずっとそうでしたが、どれが正しくどれが正しくないのか、人の意見に惑わされてきたと感じます。本当に大切なものに出会うために、自分の内なる声を聞くことができるようになるために、毎日ほんの少し、自分自身を見つめる時間をつくってみてはいかがでしょうか。
ここが、そんな皆さんの少しでもお役にたてることができればいいなと思います。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2013-02-27 22:25 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(1)

おはようございます。
今日は、

第41番札所 稲荷山 護国院 龍光寺 
いなりざん ごこくいん りゅうこうじです。

伊予の国 二番目の霊場は、
愛南町から宇和島を飛び越え、三間町にあります。
三間町は、周りを山に囲まれた盆地。
縄文時代早期からこの豊かな土地で人々は暮らしはじめ、
愛媛の中でも、早期から米が栽培されていた所でもあり、
現在も愛媛でもっとも美味しい米がとれるところとも言われています。
四万十川に続く川や、豊かな土壌が、米をつくるのにとても適した場所だったことも、米の産地となった理由でもあると言います。現在も、昔の面影を残すこの三間には、四国八十八か所が二つもあります。
私が愛媛の中で最もその古代の姿がわからない地域でもあります。 

そんな三間町にある四国八十八か所は、どちらもとても何かとても重要な意味をもつお寺。
弘法大師も、ここをとても重要な土地と見ていたことが二つのお寺の縁起から読み取ることができます。
その一つが、ここ、龍光寺。

縁起によると、弘法大師がこの地を訪れた時、
稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、
「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消しました。
大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置したことがこのお寺の始まりで、
この時、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置したと言います。

このお寺の縁起にも書かれてあるように、ここは平安時代も同じように「米」に纏わる伝説が残っています。
お寺の山号も「稲荷山」
現在も、三間のお稲荷さんと呼ばれるこのお寺は、
神仏習合の時代は「稲荷社」とも呼ばれていました。

またこのお寺は、
四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられているのです。

日本総鎮守の神を祀る大三島、大山祇神社
そして、四国霊場の総鎮守の寺 「龍光寺」。

日本は、古代から「稲」で栄えてきた国。
稲は現在は単なる食べ物でしかありませんが、この時代、稲は今のお金と同じようなもの、また権力の象徴でもありました。
しかし、それ以上に太陽の恵みと水の恵み、そして四季折々に変化する気候、自然の恵みを詰め込んだ稲は、人間に豊かさをもたらす神の恵みそのものでもあります。

現代の人々は、お金をえることによって権力を握ろうとし、
見えないところで、人の命を奪おうとし、
古代の一部の人たちは稲のために、多くの人の命を奪い、
権力を握ろうとした。

やり方は少し違いますが、1000年以上前と今はある意味同じなのかもしれません。
しかし、古代以上に今の世の中は、酷いかもしれません。
自然の命までもは奪おうとしているから。

お金が第一の世の中。
本当に今のままでいいのか、この稲の歴史がその答えを教えてくれるような気がします。
稲の神を祀る山に龍が光る。
龍が稲のために今も光っているのかもしれません。

でも、それは権力を握らせるためでも、人間の私利私欲のためでもなく、人がこの世界で生きていけるため。それをここが教えてくれる。心の扉を開いて本当に大切なものを観ることができれば、ここの本当の意味も見えてくるのかもしれません。

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by ldc_nikki | 2013-02-26 08:04 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

第40番札所 平城山 薬師院 観自在寺 
へいじょうざん やくしいん かんじざいじ

伊予の国、菩提の霊場の一番初めのお寺
観自在寺。

愛媛県の最南端にある愛南町にあるお寺です。
一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれます。
このお寺の縁起は、
大同2年(807年)に平城天皇の勅命を受けて弘法大師がこの地を訪れ一本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置したことが始まりとされています。

このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされたと言います。

ここの本尊でもある薬師如来は、
四国八十八か所の中でも多く祀られる仏さまで、古来から多くの人々に信仰されている仏さまです。

薬師如来は東方浄瑠璃世界教主で、
世における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめる仏。
病気をなおしてくれる姿が代表的ですが、
宗派によってはさまざまな意味の仏さまとなっています。

東密(とうみつ)という、真言宗に伝わる密教の中では、
胎蔵界大日如来と書かれたり、天台宗では、東の国の帝たる天皇と結び付けられています。
ここに弘法大師が、どうして阿弥陀如来や十一面観音とともに薬師如来を刻み本尊としたのか、その意味もまた、上に書かれた薬師如来の意味をよく考えると見えてくるのかもしれません。

というのが、
菩提の道場の始まりのお寺の名前が
観自在寺という名前になっていることが、その意味を見なさいとも言っているように私には思えるのです。

菩提の道場とは前回お話したように、
ものごとのありさまを正しくみる道場。自らの心を奥深くまで見ることによって、仏の悟りの心へとたどり着くことできる道場。そしてまたそこには、真実の姿が見える場所でもあります。

観自在とは、あらゆるものを自由に観る事ができるという意味でもあり、見ると観るがその意味が違うように、
あらゆるものを心の目で観るための始まりのお寺でもあるのです。

あらゆるものを自由に観ることができる力をここで授けてくれるのかもしれません。

ベトナムの僧侶、ティクナット・ハンさんの「般若心経〈ハート・スートラ〉」は、こんな書き出しで始まるそうです。
 「あなたはここにある白い紙の中に、ポッカリ浮かぶ白い雲が見えますか?」そこに雲はなくとも、そこに雲があることが見えるか。

皆さんは、一枚のなにも書いていない紙の上に
雲を見ることができるでしょうか?
それは、雲を見てくださいと言われなくても、真っ白い紙の上に雲の存在を観ることができるかということを言っています。

観自在とは、そこに雲がなくても雲あることを知る、観ることができるようになるための場所でもあるということなのです。

白い紙。現代の私たちにとっては、何も書いていない白い紙はただの白い紙にしか見えませんが、白い紙は、一本の樹からつくられます。そしてその樹が成長するためには、水が必要です。では水とはどこから来たのかというと、雲からきたのです。

今の私たちは、白い紙を見てもそこに雲を見ることはできないのではないかと思います。ものはものでしかなく、それがどうやってできたか、そこにはどんな魂や自然からの恵みが存在するのかということを考えなくなってしまったのです。

またこの白い紙のお話は、本来の歴史や本来の女神の姿を見ることにも繋がります。目でみても、いくら文献を読んでも、そこに書かれている事柄をそのまま観ることしかできない、本当は、紙の上に雲を見るように、その先を辿っていった先にあることを見なければその向こうにあるものを浮かびあがらせることができないということを伝えているのではないかと思うのです。

伊予の国、最初の霊場は、そんな観ることができなくなった心の目を見えるようにしてくれる場所として存在するのかもしれないと私には思えるのです。

これから始まる伊予の国の霊場の第一歩が、
観自在とされることがそれを物語っているように私には感じます。

「 観自在菩薩 行深般若 波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうおんかいくう どいっさいくやく」

般若心経の最初の部分です。
「観自在」まずは、心の目を開いて心の奥そこへ向かって行きましょう。
自分の心の中へ入っていく始まりの地、

「観自在寺」

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by ldc_nikki | 2013-02-24 02:44 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

菩提の道場 愛媛の旅


こんばんは。
まだまだ寒い日が続きますが、皆様風邪などひいてないでしょうか。

フェイスブックを見れない方が多いようなので、
同じ内容になりますが、
しばらく忙しくて両方をアップすることが難しいので
こちらにも書きたいと思います。

フェイスブックの方では、
しばらくこのブログでもお話しました大国主命と少彦名命のお話をしていました。

そして
今日からは、お寺のお話をしたいと思っています。
重複になるところもあるかもしれませんが、
もう一度、順に愛媛の四国八十八か所をここでも巡ってみたいと思います。

四国のお寺と言えば、真っ先に思い浮かぶのが、やっぱり四国八十八か所。
最初の頃は神社しか行っていなかった私が、お寺に行くようになったのも、四国八十八か所のお寺がきっかけでした。
それは、そこに弘法大師空海の跡があったらかでもあります。

神仏習合

神さまと仏さまは裏と表の存在で、本来はどちらも一つ。
神も仏も信仰していた弘法大師空海。
そして、愛媛の歴史を語るには、この平安時代に生きた、弘法大師空海をおいて語ることはできません。
また歴史の意味を知るためにも、四国八十八か所の意味を知らければいけないと強く感じています。

私たちの住む日本は、神さまから仏の国へ以降していきました。
「大日如来の本国。」
 この意味が、「日本」と呼ばれる原点とも言われるほど、仏もまた日本にとってなくてはならないもので、その風習を今も受け継いでいます。

今日からしばらくの間は、愛媛の四国八十八か所を順に、お話しながら仏の世界をほんの少しご案内させて頂きたいと思います。

まず今日は、
四国八十八か所について簡単にお話したいと思います。

774年に香川県善通寺市で生まれた弘法大師空海。
幼名は「佐伯 眞魚(さえき の まお」
眞實(しんじつ)の魚と書いて、まおと言います。
そんな弘法大師空海は、793年、19歳の時に大学をやめ、山の中に修行に入ったと言われ、そんな修行の途中、高知県室戸岬を訪れ、御厨人窟(みくろど)と言う大きな洞窟の中から、
空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっています。

そんな空海が、815年に開創されたと伝えられているのが、
この四国八十八か所です。
四国八十八か所は、四つの道場に分かれていて、
阿波国の霊場は「発心の道場」、
土佐国の霊場は「修行の道場」、
伊予国の霊場は「菩提の道場」、
讃岐国の霊場は「涅槃の道場」

と呼ばれています。

愛媛(伊予の国)は、菩提(ぼだい)の道場。

菩提(ぼだい)とは、サンスクリット語でボーディのことで、
悟りを開くための、仏の智慧(ちえ)のことで、
煩悩を取り去り、もののあり方を正しく見ると言ういみでもあり、また密教では、「菩提とは実の如く自心を知ること」とされ、それを「如実知自心」と言います。
自分自身を限りなく見つめ続け、自分の心とは生きとし生けるものすべてが本来持っている菩提心ゆえに、
その自心を真実の方法に従って観察すれば、仏果(仏の悟り)の心に気づくことができる。

すなわち、菩提、仏の心=仏は自分の中にある。

全ての生命、生きるものは宇宙(神)の一部であり、だからその心、仏もまた自分の中にあるということ。

更にその奥を言えば、
もののあり方を正しく見、自心の心の中を真実の方法にしたがって見つめ続ければ、
本来の真実の姿も見えてくるということに繋がるのではないかとも私は思っています。

愛媛が 「菩提の道場」とされることは、
偶然なのか、必然なのか、本来のものの在り方を正しくみる場所であり、自分の心の奥底にある本来の仏の心(姿)を見る場所でもあり、知る場所でもあり、それは、更に奥底まで見続ければ、悟り=真実の仏また神の姿があるということにもなります。

また愛媛を旅することは、自分自身を見つめ、生きる意味、命の意味、生まれた意味、そして、最後は、宇宙の根源である命の源へとたどりつく場所ではないかと思います。

そしてそれが、裏表の存在でもある神にもたどりつき、歴史の本当の姿へと繋がっていく。

2014年、来年開創1200年を迎える四国八十八か所。
この節目は、今大きな変革期にきている世の中を仏の心でもある自分の心の目でもう一度見つめ、自分自身の中の命という意味と向き合ういい機会かもしれないと、そんな機会を空海が与えてくれたのではないかとも思える今日このごろ。

「お遍路」が始まった原点ともされる、衛門三郎が、自分自心の心と向き合うために、真実に気づき全てを詫びるために弘法大師空海の後を追いかけたように、私たちも真実の心、真実の神へと近づくために、
ほんの少しここで四国八十八か所を辿ってみたいと思います。




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by ldc_nikki | 2013-02-23 01:57 | 四国八十八カ所 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日はまず感謝のことば。。。

7月30日から始まった写真展が、今日終わりました。
会場だった銀行の方々にもとても喜んでいただき、また、多くの方がご覧になっていたことを聞きました。

地元今治で初めてさせて頂き、不安な気持ちもありましたが、
私の書いた説明を熱心に読んでくださる方がたくさんいたことを聞き、
本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

前回は、初めてでまったく気が付かず、感想ノートを置いていなかったので
今回は、会場においていました。

ドキドキしながらノートを開けると、
ほんのわずかな数でしたが、書いてくださっていました。

緊張しながら読んでみると、
そこには、感謝の気持ちがつづられていました。

何度も足を運んでくださったかたもいらっしゃいました。
写真の前で参拝をしてくださった方もいらっしゃいました。
そして、またぜひ開催してくださいと書いてくださっていました。

そして、最近神社へ行くことがなくなったけど、神社へ行ってみたいと思います。
と。。。。。。

前回の写真展の時もそうでしたが、
ほんのわずかでも、神社や神社の歴史に興味をもってくださったこと、
そしてなにより、心に何かを伝えることができたことが、何よりもうれしく開催してよかったと、
また、神社のことを辞めなくてよかったと思う瞬間です。

写真展にお越しの皆様が、このブログをご覧になっていないかもしれませんが、
この場を借りて、心からお礼を申し上げたいと思います。

貴重な時間を、写真展に費やしていただき本当に感謝申し上げます。

これからも、もっともっとみなさまの心に何かを伝えることができるよう、
初心を忘れず続けていきたいと思います。

神社の歴史を調べること、古代の封印の謎を解くことも大事なことの一つだとは思っていますが、
私自身その中で多くのことを学ばせて頂いたり、気づかせて頂いたり、心安らかな気持ちにさせて頂いたり、さまざまなことを考えるきっかけを与えて頂いたりしています。
それは、瀬織津姫という女神さまを知ることがなかったら与えられることのなかったことばかりです。

だから、私も、私が姫を伝えることで、一人でも多くの人の心に何かを伝えることができればいいなと思っています。

まだまだ未熟ものですが、これからも末永くどうぞよろしくお願いいたします。
本当に、ありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では、あれから一か月以上たってしまいましたが、
今日から香川県の神社をご紹介したいと思います。

香川県へは今回初めて入ることができました。
行きたい所はたくさんあるのですが、今回私が向かった場所は、ずっと前から気になっていた場所
香川県の三豊です。

三豊そして観音寺は、姫の神社もありそれ以外にもなぜかとても気になる神社がありました。

全てをまわることはできませんが、行く前日、気になる所を全て地図に記して、
その中で行く場所は、実際に現地に入ってから決めることにしました。

いつもそうなのですが、前もって決めて行っても、なぜかその時になると全く違うところへ行っていたりします。

だから今回も、後はその時に自分たちの心が向かう所へ行くことにしました。

するとやっぱり、いざ高速にのり現地が近くになると、
なぜか前日にここで降りようと決めていたところが来ても降りる気持ちになれず、もう一つ先のインターまで
車を走らせました。
そしてインターを降りて、右に行くか左に行くかというところで、なぜか当初はここはいけないかなと思っていた方向へ曲がってしまったのです。

その先にある場所は、

四国八十八か所第71番札所 剣五山 千手院 弥谷寺。

ここは、前日はとりあえず記をつけたところでしたが、正直あまりよく知らないお寺でした。
でも、なぜか一番初めに選んだ場所がここでした。

でも行ってみると、香川の八十八か所の中でも特に意味のある場所で、
姫との繋がりがとても濃い場所、また、四国でも3つしかない、黄泉の国への入口だったのです。
そして更に、この後行った二つの神社が、この弥谷寺と繋がっていることに次の神社についた時に気付いたのです。

これは、書物の上では決してわからない、その場に立たないとわからないことでした。

今日はまず、この第71番札所 剣五山 千手院 弥谷寺からお話します。

千手院 弥谷寺のご本尊は、その名前の通り

「千手観世音菩薩」 

姫に繋がるとされる仏さまです。

しかし、それ以上にこの場所は、弘法大師もあるところで例えたように、
黄泉の国と関係のある場所だったのです。

この山は、古来から霊山信仰の山とされていて、亡くなった方が仏の世界へと旅立つ場所。
それは、四国に三つしかないと言います。

一つは阿波の切幡寺、一つは伊予の岩屋寺、そしてもう一つがここ

弥谷寺です。

ここ弥谷寺には、古来から死者が黄泉の国へと旅立つと言われる洞窟があります。
そしてこの洞窟が、極楽浄土への入口だったのです。

現在でもこの信仰は残っており、この水場の洞窟に、水経木と呼ばれる真言を書いた木札を
おまつりし、山頂から流れ落ちる霊水で経木を洗い清め子孫末裔が現世で安穏に過ごせるように
多くの方が参拝されているそうです。

「黄泉の国への入口」 「山頂から流れ落ちる霊水での清め」

これはどちらも姫の神格をあらわしています。

以前、沖縄のお話の時にもお話しましたが、
ここは、姫の 「子宮への入口(沖縄でいうホト)」 と同じです。

「子宮とは、誕生する場所でもあり、再生(黄泉がえり)の場所でもある」

古来の人々は、古墳を前方後円墳を代表するように、
子宮をただ誕生する場所とは考えていませんでした。
それは、死者の向かう場所でもあったのです。

古墳とは、姫の子宮を意味していたのです。

一つの命が終わり、新たな命として再生、誕生する場所、
それが、古墳であり、子宮だったのです。

また、洞窟も同じ。
洞窟の奥には、龍が住んでいると考えられていたように、
洞窟もまた、子宮への入口だったのです。

そして、仏によって黄泉の国の女神(古事記で言えば伊邪那美神)とされたように、

「黄泉の国、死者の向かう場所」だけを強調されてしまったのです。

ですが、ここでもその洞窟の前で今の残る信仰は、
姫を祀っていたと思われる山、「弥谷山」の山頂から流れる落ちる姫の霊水によって
清めることにより、子孫末裔まで現世で安穏に過ごせるとされていました。

弘法大師は、この洞窟のすぐ側にある「獅子の岩屋」で、
7歳の頃学問に励んだとされています。
この場所が、弥谷寺の奥の院です。

本当にここで7歳の時、学問に励んだかどうかはわかりませんが、
ここが仏によって黄泉の国への入口にされてしまった、姫を祀る場所だということを
知っていてこの岩屋にこもったのではないでしょうか。

四国の三つのうちの一つの黄泉の国への洞窟がある弥谷山。

この山が、姫を祀っていた山だということは、この後お話する二つ神社が教えてくれています。

そしてまた、
この山がある三豊は、今治や岡山や神戸と同じ時期に同じ一族が住んでいた場所。
それは、卑弥呼がいた時代と重なる時代をさしています。

なぜなら三豊にも、
あの沖縄から持ち帰った貝殻でつくった腕輪が見つかっています。

岡山と神戸は、今治と繋がっていたことは、
大山祇神社の文献からも見られます。そして、同時期のものとされる腕輪がこの場所から見つかったことは、
この三豊も、同じ志、同じ想いを持つ人々が暮らしていたことを意味するのだと思います。

*第71番札所 剣五山 千手院 弥谷寺 けんござん せいじゅいん いやだにじ
*香川県三豊市三野町大見70
*本 尊: 千手観世音菩薩
*開 基: 行基菩薩

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鐘楼
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護摩堂
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そしてここが黄泉の国への入口の洞窟
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弘法大師が刻んだとされる
弥陀三尊磨壁仏またの名を「磨崖仏(まがいぶつ)」
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本堂
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大師堂への入口
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大師堂
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大師堂から奥の院「獅子の岩屋」へ行く廊下から見える
洞地蔵尊
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そしてこの奥の真っ暗な岩屋の中に、
大師像、阿弥陀如来像、弥勒菩薩像が安置されています。
(写真はのせていいのかどうかわかりませんので、今回はのせないようにしようと思います。
ぜひ、機会があればその場でご覧くだいませ)

「子宮」

古代の人々は、子宮を今の人以上に特別なものとしていました。

古墳、洞窟、貝、海、湖、そして龍体である日本の子宮とされる場所。

それは、どれも誕生と死、再生、全てのものを生み出す場所。

そしてその子宮と女神は同じ意味を持っていました。

日本だけでなく、世界中で同じように。

私は今日友人からこのタイミングで、子宮、命に繋がるあることを聞かされました。
それは神社とは全く関係のない話題の中で。
そしてそれは
現代の私たちにももしかしたら関係することがあるかもしれないこと。

私は、このことを聞いて家に帰ってから
いろんなことが彼女の言ったその言葉で繋がり、なぜか全身震えが止まりませんでした。

日本人の考えは、1300年たっても何も変わっていなかった。

それは今ここでまだお話することはできませんが、
この 「子宮」 に対する古代の人々の考え方が、封印の意味、そして新たな国をつくる重要な鍵を
にぎることは間違いないのではないかと思います。

そして、それは、今も知らず知らずのうちになのか、日本人の魂がそうなのか、
今も受け継がれている。

姫を封印したにも関わらず、完全に封印できていないのは、
全てを誕生させる場所とされる、女性しか持つことができない 
「子宮」にあるのかもしれません。



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by ldc_nikki | 2012-08-18 02:45 | 香川県 | Trackback | Comments(8)

こんばんは。

今日から徳島のお話にはいります。
今回私がまず選んだ場所は、「神山町」 

神山町は、徳島市から車で50分ほど行った山の中、
徳島県の北東部にあります。
徳島では、高天原と言われるこの町には、
多くの古代の謎が隠されています。

神山という名前の町になったのは、
1955年。
それまでは、阿野村、神領村、下分上山村、上分上山村、鬼籠野村という
5つの村に分かれていました。

今回は残念ながら行くことができませんでしたが、
この中の鬼籠野村が、先日ヤマタノオロチのところでご紹介した村です。

今回は、神山町を中心に、6箇所行ってきました。
徳島のお話はこの6箇所から始めたいと思います。

まず最初に向かったのは、

四国八十八か所
第12番札所 摩廬山 正寿院 焼山寺

ご本尊は、虚空蔵菩薩。

このお寺は、徳島の中でも姫に通じるとても需要なお寺です。
そのことに気付いたのは、
次回詳しくお話する場所、杖杉庵の存在を知った時でした。

杖杉庵は、焼山寺と同じ山にあるお寺で、
四国八十八か所が今のようなお遍路さんの文化が誕生したことに
繋がるお寺です。

どうしてここが、お遍路さんの誕生とかかわりがあるのかは、
次回に詳しくお話しますが、
そのお話を抜きにして、この焼山寺は語れないほど、
重要な場所ですが、まずは、
焼山寺の由緒を、お話したいと思います。

焼山寺は、
焼山寺山は、標高938メートルの8合目近くあり、
八十八か所の中でも、2番目に高い山岳札所と言われます。

この山を最初に開いたのは、
やはり 「役行者」でした。

「役行者」とは、これまで何度もブログでお話してきましたが、
姫を封印するための中心人物の一人です。

役行者は、神々の住む山(龍)の住む山に、
蔵王権現を祀り神々を封印していきました。
石鎚山を筆頭に、多くの霊山には、天狗の伝説が残り、
天狗の名前が付けられていますが、
これは、役行者の分身でもあり、龍を封じ込めるために
つけられた名前でもあります。

天狗のお話をまだ読んでいない方は、ぜひそちらもお読みいただけたらと
思うのですが、天狗は、龍を食べる存在。
役行者もまた、龍を封印し消し去る存在。

どちらも同じ役目をもつものだったのです。

天狗が神のように崇められる場所もあれば、
悪のように書かれる場合もありますが、
これも、天狗にとっての敵と味方、双方から見た天狗の姿。
鬼のお話もそうでしたが、
ある人々にとっては善でも、ある人々にとっては悪というわけです。

古代の伝説の謎がとてもわかりにくいのは、
全く反対の立場の人間が、つくった物語だからなのだと私は思います。

そして、焼山寺のある焼山寺山の由緒は、
封印した側、役行者側の立場で書いているということを
頭において読んでみてください。

飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのですが、
この山には、神通力を持った大蛇が棲んでおり、
しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていました。

そして弘仁6年ころ、弘法大師がこの地にやってきました。

弘法大師が、一本杉で休んでいたところ、阿弥陀様があらわれた夢を見ました。

目を覚ますと目の前が火の海になっていました。
そこで麓の垢取川で身を清めて山に登りました。
すると、大蛇は全山を火の海にして妨害してきました。

弘法大師は「摩廬(水輪の意)の印いん」を結び、真言を唱えながら進みました。
そして大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわしたのです。

大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと
大蛇を岩窟に封じ込めたといいます。

そしてその時、この岩頭に
自ら三面大黒天を刻み安置し被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈りました。

これが、
焼山寺の由緒です。

四国八十八か所にはこのように、多くの伝説が残っていますが、

「大蛇が山を火の海にしたなんて、あるわけない。」

普通はそんな風に考えてしまいますよね。
だから、こうした由緒がどうしてつくられたかなんてことは
今まで、深く追求されることはありませんでした。

四国には、大蛇の山が沢山あって、
悪いことばかりして、蛇は嫌われもの? 

と思ってしまいますが、
この大蛇のお話があるところは、ほとんどが姫と関係のあるところと言っても
いいと思っています。

神山町は、古代、
まだ仏が祀られる前、役行者がここを封印するまでは、
姫を祀っていた場所でした。

姫を祀るところは、本当に沢山あり、
よく土着神という言葉を目にしますが、この土着神も本来の倭の人々が
縄文時代から祀り続けていた、女神でした。

後ででてきます、徳島の一宮とされる神社が
そのことを伝えています。
この神社に本来祀られていた姫は、伊予の国から渡っていったのです。

大蛇が火の海としたのは、大蛇=悪とするためのにつくられたお話です。
姫神が、鬼神になった姿です。

この当時起こった天災や、厄病は、
封印された姫の祟りによっておこされたと考えられていました。
ここで火の海とした大蛇も、姫の怒りの姿として現され、
女神を悪とするために、人々に言い伝えられたものだったのです。

そして、空海がその魂を鎮めるために自らつくった

三面大黒天。

これは、姫を意味するものでした。

空海は、姫の存在を知り、姫が封印された場所を
一つ一つ訪れます。(本来は、お弟子さんも含まれていたと思いますが)
そして姫の魂を鎮めようとしていったのです。
またもしかしたら、後世に姫の存在を残すために自らの跡を
残していったのかもしれません。

三目大黒天は、
中央が大黒天、右面が毘沙門天、
そして左面が弁財天の像。

大黒天は、ニギハヤヒの封印された姿でもあります。
そして毘沙門天は、鬼の上にのった姿で現されているように、
密教ではとても重要な仏の一つ。
そして、弁財天は、封印された女神の姿です。

宮島の厳島神社のイチキシマヒメが、弁財天とされることと同じです。

古代の女神は、
三つの顔で表されるとお話しました。

しかし、本来三つの顔、処女、母、老婆、の三つの姿また、女神が逆三角形として
あらわされた 「3」 。
それは、後に、男と女を含む3つの神の姿に変わったり、
男神だけの姿となったり、それぞれの宗教によってさまざまでした。

ですから、大黒天=オオクニヌシもまた根源にあるのは、
ニヒハヤヒという太陽の神を生んだ 「女神=瀬織津姫」 なのです。

女神信仰だった古代の人々が、太陽の神を信仰していなかったわけではありません。
女神信仰の一族は、太陽、そして星もまた、同じように神として
信仰していました。
どちらも大事だと考えていたからです。

でも、太陽を生んだその源もまた、 「命の女神」

ですから、ニギハヤヒという太陽の神の根源にもまた、女神の姿があり、
本来の倭が一番偉大な神として必ず祀っていたのが女神だったのです。

この三面大黒天は、そんな一つの女神からなる三つの顔を
あらわしています。

余談になりますが、
香川で有名なあの金比羅さんのオオクニヌシが、海上交通の神として、
愛媛の海運業者からも信仰されるのは、
根源に、女神(命と水の神)があったからなのです。

弘法大師が、これをつくったのは、
一つの顔に三つの面をもつ女神のことをいいたかったのだと思います。
そして、他の場所にはつくらず、ここにこの三面大黒天を置いたのは、
ここ神山が、徳島の中で姫の封印において特に重要な場所。
神山に太古の昔に姫が正式に祀られることになった場所でもあるからなのだと思います。

火の海にして抵抗をした 龍(女神)
でも空海は決して、女神を封印しようとしたのではないと私は思います。
空海は、いつかその姿がもう一度この世に復活する時がくるまで、
その魂を鎮めただけなのだと。

そして、その復活の時は、
四国と本土に、黄金の橋が架かる時から始まる。

三つの橋が繋がった
1999年。

この時から、少しづつ再生の方向へと動き始めています。

命の女神は、
再生復活の女神。 そのための膿が今出ているのかもしれません。

それでは、写真で神山町、焼山寺へ。。。

徳島で最初に目についた金長まんじゅう屋さん。
信号で止まった時、ふいに左をみたら、「金長」の文字が。。。。

金長とは、あの徳島県小松島に棲むと言われる 狸の名前です^^

この狸さんも、
姫の封印に関係のある狸さんなんですよ。

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途中、阿波から神山へ抜ける山道で、
弘法大師に出会いました。

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ここから焼山寺。

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そしてここに三面大黒天が祀られています。
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本堂の横には、神社があります。
十二社神社。 この神社の由緒はなくなってしまって今となっては
全くわからなくなっているそうです。
でもここも神仏習合の姿を今も残している一つ。
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そして、焼山寺からの神山の景色。
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この深い山の中で、
一つの大きな変革が起こったのです。

大河ドラマ 「平清盛」

清盛が生きた時代は、まだ女神の封印のことは忘れ去られてはいませんでした。
それどころか、女神の重要性が再認識された時代でもありました。

だからと言って、女神を復活させることは行われるはずもなく、
どんどん仏にすがる時代でした。

そんな中、清盛は、荒廃した広島県宮島にあった神社を、
再建しました。
清盛が、どうしてここに神社を再建しようとしたか。。。。

それも女神に関係があったと私は思います。
この女神の力を、清盛は知っていたのだと。

そしてその力を知ることになったと思われる大きな出来事が
この時代に起こりました。

清盛18歳。
西日本の各地で、昼もまるで夜のように真っ暗になり、
何日も雨が降り続きました。
朝廷は、雨が止むようにと祈り続けました。
そして、その願いが通じ、雨があがりました。
その願いが誰に聴きとられ、天変・異変に終止符を打ったのは
大三島に祀られる 「大山積神」でした。

そして、この時 大三島の大山積神の重要性を再認識した朝廷は、
現在のような形、
「本社に「雷神・高龗」を加えまつり、
三社をもって「本社」とするようにという「宣旨」があったのです。
それと同時に、
国中の神社の傍らに「神供寺」を設けさせたのです。

「三社を持って本社とする」

これは、三面大黒天、女神が三つの姿を持つことに繋がります。

そして、神供寺は、
大山積神によって封印された女神の魂を鎮めるために、
置かれたお寺です。

更に、この時、
大山祇神社には、神供寺のほかに「一于の堂」を建て、
そこに大通智勝仏の像を安置し、大山積神の本地仏としたのです。

どうして、大山祇神社のみに、
この時、本地仏を置いたのか。
それは、ここ大三島が女神が祀られる源だったからです。
そして、この大山祇神社に置かれた 「大通智勝仏の像」
が、隠された本当の女神の姿です。

それが、現在の東円坊におかれる
「大日如来の大通智勝仏の像」です。

伊予の国、大三島の大山祇神社が
日本の総氏神とされるのは、本来の女神が、
ここにいるかならなのです。
それを証明する日本にここだけにしかない仏の像。

大日如来の大通智勝仏の像です。




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-07-18 23:49 | 徳島県 | Trackback | Comments(2)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。
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