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こんばんは。

この間の日曜日、念願の徳島県へと行ってきました。

普段の日曜日は、子供の用事で
どこか遠くまで行くことは無理なのですが、
珍しく、全てお休みになり、さらに子供はお爺ちゃんと釣りへ。

こんな日はめったにない。
ということで、急遽、ず~っと行きたかった神山へと行くことにしました。

目的の神社は、上一宮大栗神社。
ここだけは、必ず行くことに決め、後は行ってから考えようと思い、
その他の予定は全く考えず出発!

神山へと着いたのはお昼すぎ。
ご飯も食べず、ひたすら閃くままに、6箇所まわってきました。

何も考えずに行く方が、不思議と
意味のある場所に行くことができるし、出会いにも恵まれる。
本当に、心の赴くままに行くことが、大切だなと
神社に行き始めて思うようになりました。

今回ぜひとも叶えたかった、宮司さんとのお話。
後で徳島の方から聞いてびっくりしたのですが、
上一宮大栗神社の宮司さんは、
地元では、1000回行って2回会えればいい。と言われるほど、
なかなかお目にかかることが難しいとのこと。

そんな方と、初めて徳島へと行って会うことができ、
約1時間もお話ができました。

黄金の狐のお話を聞き、ぜひとも自分の耳で伺ってみたかった
神社の伝説。
まだまだ、伺いたいことは沢山ありましたが、
今回、また一つ確信にいたるとても大事な伝説を伺うことができました。

本当にいつもいつも思うことですが、
「時がくれば必ず行くことができる。」
それを実感した、今回の徳島入りでした。

徳島へ入るためには、
きっとそのための私自身の準備が必要だったのだと
改めて感じました。
あの黄金の伝説も一つ。
あのお話を知らずにもし徳島へ行っていたら、
今回の宮司さんとのお話も、実現していなかったかもしれません。
また、もしお会いしていたとしても、
大事なことを聞けなかったかもしれなません。

次の進むためには、
次に進むために必要なことをクリアしなければいけない。
間を飛ばしても、それは本当に進んだことにはならない。

そんなことを、神社に行き始めて教えていただいた気がします。

それは、神社に限らず、私たち人生においても同じことなのだと。

一日一日を大切にし、今できることを一生懸命していれば、
きっと次へと近づいていく。 決して、どんなことも無駄ではないことを、
神社は教えてくれました。

今回も、そんなことを強く思う徳島の旅となりました。

徳島のお話はまだ少し先になりますが、
今回の徳島のお話もさせていただきたいと思いますので、
しばらくお待ちくださいませ。

ただ、徳島については、
まだはっきりと全てをお話できないかもしれません。
だんだんと、とても繊細な問題へと入ってきたからです。

また、はっきりと全てが繋がるまでは、
間違っていることもあるかもしれません。

だから、少しづつ、少しづつ、
真実に近づいていけたらいいなと思っています。
そして、ブログをご覧の皆様も、
一緒に、考えて、一緒に前へと進んで行っていただければ
うれしいなと思います。

いつも書いていることですが、
歴史の真実を知ることは、誰かを非難するためでもなく、
何かを壊そうとするためでもなく、
その全てを否定するためでもありません。

過去があるから、今があり、今があるから未来がある。
その繋がりの真実を知ることは、私たちが今生きている意味を
知ることに繋がると思うのです。
そして、これからの未来に、何が必要かを知ることにも
繋がると私は信じています。

全てを受け入れてこそ、次へと本当の明日へと進むことができると
信じているからです。

そしてそれは、私たちそれぞれにも当てはまること。
今の自分を全て受け入れてこそ、次へと進むことができる。

それができないから、人を恨んだり、憎んだり、誰かのせいにしたり、
世の中のせいにしたりしてしまう。
また、真実を隠そうとするから、
何かにずっと怯えながら生きていかなければならないのだと思うのです。
その気持ちが、心のどこかに潜んでいる限り、
本当の幸せには繋がらないと。

また、今の世の中も、自分自身も、何が足らないのか、
何が間違っていたのかを知ることが、次への一歩に繋がると。

瀬織津姫の復活とは、瀬織津姫が封印されたことにより、
失ってしまった大事な心を取り戻すことなのだと、
私は思っています。

そして、それが新しい人の生き方へと繋がるのだと。

「倭が危機に陥った時、黄金の狐を呼び戻し倭を救う。」

大宜都比売が黄金の狐へと戻る時。
それは、まさに今の時代のことではなかと思えてなりません。

今日ご紹介する神社は、
以前にも一度ご紹介した、旧北条市の小さな島に鎮座する

「鹿島神社」 です。

もう一か月以上の、5月3日。
鹿島神社で春の御祭りがありました。

鹿島神社の春の御祭りは、
えひめの無形文化財にもなっている、
「櫂練」が行われます。

また、この次の日、鹿島の目の前にある小さな岩に結ばれた注連縄の
一年に一度の締め変えが行われます。

今日は、そんな鹿島の御祭りの様子を交えながら、
鹿島神社のお話をさせていただきます。

鹿島神社は、茨城県鹿島神宮と同じ
武甕槌大神を祀る神社です。

この島は、神功皇后が三韓征討に行く途中立ち寄り、
武甕槌神、経津主神を勧請奉斎した神社で戦勝と道中の安全を
祈願して出陣したと伝えられています。

また、ここにも鹿島神宮と同じ、
地震をおさえる石 「要石」が置かれてあります。
ここ北条の鹿島では、この要石は、地底にする大鯰の頭を押させているという
伝説が残っていますが、この大鯰とは、本来は龍のことだったと思われます。

古代、日本では、龍が日本の中に潜んでいる考えていました。

それは、姫にも繋がり、
日本という国は、本来姫によって守られた島だったのではないかと思います。

日本には、中央構造線という大きな断層がありますが、
この断層が 「龍脈」と考えられ、九州から四国を通り、紀伊半島、伊豆、
そしてその最北が、茨城県だと言われています。

茨城県の鹿島神宮に置かれた要石は、
この龍脈の頭の部分に置かれているのです。

四国八十八か所のお寺の中の伝説にも登場する 
「行基菩薩」が書いたと伝わる日本最古の地図があります。
その地図については、後日詳しくお話したいと思っていますが、
この地図は、西日本の周りを大蛇か龍のようなものが
まるで取り囲むように描かれています。

西日本は、龍の身体の中にすっぽりと入っていたのです。
(しかし、絵の中に書かれた龍はなぜか、頭と尾が切られています)

姫を封印し、地底へと封印してしまった後、
日本は次々と、地震がおきます。

それは、当時の人々にとっては、姫が地底から出ようと暴れている姿に思えたのでしょう。
また、姫が怒り狂い、地底の奥底で暴れていると考えたのでしょう。

だから、それをおさえるために
要石は置かれたのではないでしょうか。
日本の龍脈のその端に。

そして、姫のその中心があるとされていたこの愛媛にも、
同じように、その要石は置かれていました。
その場所は、河野家が誕生した北条の島に。

行基が書いたとされるこの絵図を見た時、
当時の人々が、日本をどのように見ていたがわかったような気がしました。

龍に囲まれた日本。
日本そのものが、龍によって守られた島、
それは、本来姫によって守られていた島だと認めていたのです。

本来その地図に描かれた龍は、
頭と尾が一つになり、まるで円を描くように輪になっていたのではないかと
言われています。

しかし、その絵の龍は、
その頭と尾を切り取られ、
輪は切り離されてしまいました。

それが最初から描かれていなかったのか、または後で切り取られたかは
まだわかっていません。

でも、切り取られた姿が
今の姿なのではないでしょうか。

地底に閉じ込められた龍(姫)を、水として地上へと出そうとした
弘法大師空海。
それが、各地に残る湧水を出す伝説なのだと、
この絵を見て改めてそう思いました。

*鹿島神社
*松山市北条辻1595

 「鹿島の櫂練」

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鹿島神社拝殿
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宮入
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そしてこれが、北条鹿島の要石

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by ldc_nikki | 2012-06-12 23:57 | 愛媛県松山市北条 | Trackback | Comments(6)

こんばんは。

少し前から、なぜか丹波の籠神社のことを告げられます。
以前から、籠神社のことは気になってしかたがない所なのですが、
そちらの宮司さんとお話をされたことがある方が、
次々私の周りに現れます。

昨日もある方から、
籠神社の話が出て、そこで、まだ私が読んだことがない
一冊の本を、宮司さんから読むようにと勧められたという話を聞きました。

私もぜひお会いしてみたいという衝動にかられ、
昨日はなかなか眠ることができませんでした。

籠神社。
今年行くことができるのだろうか。。。。
もし、今その時ならば、きっと行くことができるはず。
でも、もしまだその時ではないのなら、
もう少し先になるかもしれません。

でも、いつか必ずその時がくると信じて、
私は今できることをしていきたいと思います。

では、昨日の続き、大三島です。

前回お話した、向雲寺で、お寺の奥様と約3時間お話をさせていただいたのですが、
その時、
大山祇神社の元神宮寺、東円坊に行ってきなさい。となぜか言われ、
私たちは、東円坊へと向かいました。

東円坊とは、元四国八十八か所55番札所だったお寺で、
大山積神の本地仏、大通智勝仏を本尊とするお寺です。

大山祇神社は、奈良時代(神仏習合時代)
神社の本地仏を祀るお寺として、神宮寺がつくられました。
大山祇神社の神宮寺の山号は、「月光山」 
月が光る山。姫のことをあらわしています。

そして、神宮寺の最盛期には、二十四坊あったといいます。

また、神宮寺の奥の院は、
現在の生樹の御門の奥にあったといいます。

東円坊は神宮寺の中の一つですが、
時代とともに、多くの坊は廃絶し、今では、現在の55番札所南光坊と、
この東円坊のみとなってしまいました。

明治の神仏分離によって、
旧神宮寺は廃寺となりましたが、本堂はそのまま大山祇神社の祖霊殿となり、
地元の人からはここを「神宮寺」と呼んでいました。

そして、東円坊は、祖霊殿の近くに移され、
今は無住職となってしまったものの、そこには代々受け継がれてきた
仏像があります。

その仏像が、
大山祇神社の本地仏、大通智勝仏です。

ここに置かれてある、大通智勝仏の仏像は、
前回お話した向雲寺の仏像とは全く違い、その姿は大日如来です。

ですから、
これは、大山祇神社の本地仏ではなく、
大日如来だという人もいるといいます。

しかし、この大日如来こそ、
真の本地仏の姿だったのです。

今は、お堂に鍵がかけられその姿をうっすらとしかみることができず、
写真にとることができませんでしたが、
この姿が全てを物語っているのです。

それが、どういう意味なのか、
ここでは控えさせて頂きますが、
いつか、お話できる時がくるまで、皆様もそれぞれに、
その意味を考えていただきたく思います。

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東円坊の手水舎の後ろに書かれた絵。

亀の上に梵字が書かれています。
この梵字の意味は 

「胎蔵界の大日如来」です。

亀の上に、胎蔵界の大日如来。
これにも、深い意味があるのです。

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境内にあった小さなお堂。
この石にどんな意味があるのか、どこにも書かれてありませんでしたが、
まるで、桃のような石です。。。。

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そして、この中に、
大山祇神社の本地仏 「大通智勝仏」の仏像があります。

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東円坊の仏像の写真は、今回映すことができせんでした。
その代わりに、先日北条で偶然見つけた 石に描かれた 大通智勝仏の仏像の写真を
載せたいと思います。

この石に描かれた大日如来が、
大山積神の本地仏の姿です。

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今日の動画は、
故宮下富実夫さんと、森繁久彌さんのコラボ曲です。
宮下 富実夫さんの曲は、ブログの中で何度も紹介させて頂きましたが、
姫神よりもさらに前、まだ世の中にヒーリングミュージックという音楽が
浸透されていない時、宮下富実夫は、少しづつ少しづつ、その音楽を
広めるために活動をされました。
魂を揺さぶる音楽。
今日ご紹介する曲は、宮下さんの音楽と、森繁さんの声が
身体の中にす~っと入って、嫌なものを全て消し去ってくれる気がします。
目を閉じて、皆さんも聴いてみてください。




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by ldc_nikki | 2012-05-24 23:45 | 愛媛県今治市(旧大三島町) | Trackback | Comments(4)

こんばんは。

今日は、いよいよ今回の岡山の旅の最終日です。

朝から、休憩もせず、ご飯も食べずめいいっぱい回った今回の岡山の旅。
どの神社も、とても素晴らしい神社でした。
そして、どこも姫に繋がる大切な神社でした。
最後にご紹介する今日の神社も、
1800年の歴史をもつ、姫と神宮皇后の跡が残る、
とても大切な神社です。

ここ両児神社は、
今から約1800年前、現在の地から北へ数キロほど行った、
高鳥居山北方50メートル余りの宮所という地に建立されました。

第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后は九州の熊襲が叛いたため
九州に下られ熊襲を討たれました。
そしてその後、神功皇后は、亡き仲哀天皇の意志を継ぎ
再度九州へと戦いに行かれます。

これが、今にいう三韓征伐です。

しかし、ここ岡山の神社に伝わる伝承は、日本書紀に書かれてあることとは
少し違います。
今回最初に訪れた牛窓でも、神功皇后は、朝鮮半島に行ったのではなく、
西の国(九州)に行ったと書かれてあります。

また、ここ両児神社に伝わる伝承では、
神宮皇后は
新羅が熊襲の背後にあってこれを援けている事を見抜き、
武内宿禰と共に大勢の海軍をひきいて出兵し、
新羅は降伏し帰国されたた書かれてあります。

やはり、神功皇后が戦った相手とは、
日本にいる 「新羅」
朝鮮半島へは行っていませんでした。

もちろんどちらが本当のことか、
それを証明するものはどちらもありません。
でも、私はどちらかと言えば、この岡山に伝わる伝承の方に近いのでは
ないかと思います。

神宮皇后の伝承そのものも、一人の女性のお話ではありませんが、
それだけでなく、三韓征伐自体もなかったものだと
思います。

この時、神功皇后のお腹の中には、
後に応神天皇となる御子が宿っていました。
福岡県筑前国槽屋郡蚊田の産屋にて皇子を出産され、
共に都へと帰る途中、
船路をここ二子の地に寄せられ
熊襲、新羅戦勝の奉賽と皇子のご安泰を神に祈念されました。

そして皇后は、
御太刀、鏑矢、朕懐石(筑前国深江村にて朕石を採取し守石として懐中した石、
又肥前国浦上村にて採取し皇后妊身の為安産の守石として懐中した石)を奉納されたといいます。

大昔、
現在この両児神社が鎮座されるあたりは海で、
海に浮かぶ3つの小島からなっていといいます。

特に中の島(現在川崎医科大学付属病院)の頂上に霊地があり、
伝説によると二子の高鳥居山にある二子宮から毎夜不思議な神光が
松島の霊地に向かって海を渡っていました。

人々はこれは二子宮から松島の地に渡らせ給う印であろうと考えました。
第48代称徳天皇の御代神託により現在の地に遷座されたといいます。

今から1800年前と言えば、
ちょうど卑弥呼の時代です。

この時代、本当に日本であったことはなんだったのでしょうか。

神宮皇后、そして卑弥呼、
そして、一説には、孝霊天皇や、倭迹迹日百襲媛命、
また吉備津彦や小千命も、この時代に生きた人物とされます。

もしかしたら、その時代一つの舞台になった場所が
ここ岡山だったのかもしれません。

*両児神社(フタゴジンジャ)
*倉敷市松島943
*祭神
 伊邪那岐命
 伊邪那美命
 天照大神
 月夜見大神
 品陀和氣命

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拝殿
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本殿
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境内には沢山の境内社がありました。
その中で、神功皇后が奉納された宝物を
御神体とした社があります。

「御太刀神社」です。

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今年の秋、
ここ岡山で写真展をさせていただく予定です。

今年初めて松山でさせて頂き、
夏には、今治で。
そして、その次が岡山となったことにも
なんだか不思議なご縁を感じています。

小千家の祖は、ニギハヤヒであり、
孝霊天皇でもある。

ここ岡山の吉備津彦、本名 彦五十狭芹彦命も
倭迹迹日百襲姫命の父も 孝霊天皇。

越智家の祖 彦狭嶋命と、吉備津彦は兄弟。
それが、何を意味するのか、
これからまだまだ調べていかなければいけないと思います。

今日は、久しぶりに、
愛姫伝の動画を、載せたいと思います。

「神々を巡る伊予の旅」 




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-05-15 23:20 | 県外編 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。
長いゴールデンウイークもあっというまに終わり、
明日からまた仕事や学校のスタートですね。

今年のゴールデンウィークは、
西日本では晴天に恵まれ、絶好の行楽日和となったのですが、
東日本では、大雨や洪水、竜巻と
楽しいはずのお休みが、災害に覆われるという
全く正反対になってしまいました。

被害にあわれた皆様に、心からお見舞いを申し上げます。

自然の前に人は本当に無力だということを
痛感させられることばかりです。

昨日、家族で子供の頃以来の蒜山高原へと行ってきました。
最初は、鳥取に行く予定だったのですが、
少し遠すぎるということで、急遽蒜山へ。

メインは子供たちだったので、
蒜山の牧場で、チーズやソフトクリームを食べたり、
牛の乳搾り体験をしたり、蒜山焼きそばを食べたり、なんだか
食べてばかりの旅でしたが、
家族が、私のために一つだけ神社につきあってくれました。

そこで、選んだ神社が、高速のインターからすぐ近くの
茅部神社。

桜並木の参道で有名なこの神社は、
高天原候補地の一つになっている、とても意味のある神社です。
神社の上には、天の岩戸と呼ばれる巨石もあり、
今回巨石に行くことはできませんでしたが、
子供たちも思わず、ジブリの世界だと声をあげたほどの、
なんとも言えない空気が漂う神社でした。

この神社もまた、ご紹介させていただきたいと思いますので、
どうぞお楽しみに♪

では、今日の神社です。

今日は、前回中断しました 岡山の旅2回目。
前回と同じく牛窓に鎮座する神社です。
牛窓に伝わる神功皇后の伝説は前回紹介させていただきましたので
まだ読んでいない方は、ぜひそちらからお読みください^^

今日の神社は

「五香宮(ごこうぐう)」 といい、牛窓神社のすぐ下にあります。
海岸からすぐの小高い丘の上にある小さな神社ですが、
ここは、神功皇后にまつわるさまざまなものが奉納されているという
すごい神社です。

神功皇后はここで、8つの頭をもつ怪物 「塵輪鬼(ちんりんき)」と
戦って命を落としてしまった 仲哀天皇の意志を継ぎ
この場所から男装に姿を変え出発したというお話をしましたが、
その出発前、この地に祀られる「住吉大明神」に参拝されました。
その参拝された場所が、ここ五香宮だといいます。

その時神功皇后は、自らの 「腹帯」をここに奉納され、
腹帯の代わりに、鎧をつけられ出発されました。

そして無事戦いが終わり帰路の途中再度ここへ上陸し、
「武内宿禰ともども、住吉宮に御参拝になり、戦勝に感謝し、
また無事出産されたことをご報告し、

自ら御着用の御鎧一領、御冑、御太刀、御腹帯、
御馬具等を御奉納なされたと言います。

ここには、神功皇后の腹帯を含め、
上記のように数多くのものが奉納されたという伝説が残っています。

この内容からもわかるように、
神功皇后の伝説の中でも、特に重要な場所です。
そんなこの神社の由緒の中に、
とても気になることが書かれてあります。

それは、神功皇后が応神天皇をお腹に身篭りながら
戦いに行ったのは、 「三韓征伐」 のためだったとされているのですが、
この神社に残る由緒では、

「西国との和平」 のためと言わんばかりのことが書かれてあります。

神宮皇后は

「西国との和平を実現し、ご帰還のさいにここに来たと」

ここの由緒が100%正しいとは言えませんが、
私は以前から神功皇后の目的「三韓征伐」とは、朝鮮半島を指すのではなく
日本のことを指すと思っていました。
だから、ここに書かれてあったことがもし事実なら、
やはり神功皇后の目的は、日本にあったことになります。

まるでそれを物語るかのように、
この神社に隣接するお寺には、姫と繋がるものが多数存在しました。

では、神社とお寺を紹介したいと思います。

まず最初は、五香宮のすぐ目の前にあった小さな社です。
海辺に建てられたこの社には、

「竜王宮」 と書かれた文字が。

ここは、まるで 「浦嶋子(浦嶋太郎) が、
亀に姿を変えられた神女とともに向かった
「竜宮城」 のことをあらわしているかのようです。

*竜王宮

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そしてそこに描かれた彫刻は、まるで二見浦。
注連縄で結ばれた岩の間から、太陽が昇る姿です。

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龍宮城を祀るこの神社のすぐ目の前に、
五香宮へ入る階段があります。

*五香宮
*戸内市牛窓町牛窓2720
*祭神
住吉大神 神功皇后 応神天皇
上筒男命 中筒男命 底筒男命

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拝殿
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本殿
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神社の本殿の裏から、隣接するお寺へ行くことができます。
お寺の名前は、

「海岸山妙福寺」 真言宗高野山派 
瀬戸内三十三観音霊場 第6番 でもある 弘法大師ゆかりの寺です。

神社の後ろに、お寺も。。。
これを見た瞬間に、岡山でも、同じ形だということを
確信しました。
そして中には、 びっくりするものが。。。。

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まずはこちらが本堂です。
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創建は、746年~756年。
この時代は、ちょうど奈良の大仏が完成する時代

「孝謙天皇」の御代です。

ご本尊は、 「千手観音」
通常の 瀬織津姫の本地仏と言われる仏さまです。

このお寺は、
地元では、
「室谷山金剛頂寺真光院」を「西寺」というのに対して、
当寺を「東寺」(ひがしでら)と通称しているといいます。

ということは、ここは 大日如来にたとえたら
「胎蔵界」 のお寺ということになるのでしょうか。

大日如来は、如来の中でも最高の仏さまといわれ、
全ての如来の中心的存在です。
密教では、金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅という二つの曼荼羅で
その世界を表しますが、大日如来とはそのどちらともの、
中心的如来さまです。

金剛界とは 「悟りの知恵」 を表すと言われます。

金剛とは、物を打ち砕く武器として使われていたもので、
こころの中の煩悩を打ち砕く知恵とされていて、
人間のほうから仏の方へと向かう心の中を表した世界です。

本来は、金剛界と胎蔵界は二つで一つ、一体です。

胎蔵界とは、生をうけた胎児が、母の胎内で成長していくように、
大日如来の大いなる慈悲。 命ある全てものが大日如来の深い慈しみの中で、
内奥に潜む清浄な菩提心に自慢め、悟りの世界に導かれてゆく、
人間の魂の屁開をあらわします。

どうして金剛界と胎蔵界のお話をしたかといいますと、
通常、亀趺と言われる亀の上に石碑が乗ったものがあります。
これは、江戸時代に日本に伝わったとされ、長寿を象徴するものだと
一般的に言われていますが、
私は単にそれだけではないような気がするのです。

このお寺の中に、この亀趺があります。
これがその写真です。

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これが亀趺と言われるもので、上にのせているものは、
必ずしも石碑とは限りません。
他県では、この上に 「浦島観音立像」がのっていたりします。

そして、ここ妙福寺の亀趺は、
大三島のある重要なお寺の中に書かれてあった
亀の絵にそっくりなのです。

それが、石碑に書かれてある 梵字です。

この梵字の意味は
「胎蔵界の大日如来」 を表します。
大三島のあるお寺に描かれてあった絵は、
亀の上に梵字だけがのっていました。
その梵字が、胎蔵界の大日如来でした。

ここには胎蔵界大日如来に関わるものが置かれてあるのですが、
私はこの絵を見た時に、これは封印された姫の姿を現す絵だと思いました。

亀は、姫が封印されて姿を変えられた姿です。
それが、浦島太郎のお話の起源である 「浦嶋説話」 の中の姿です。
その上に、胎蔵界の大日如来がいらっしゃるのは、
姫が仏の慈悲において、その魂の怒りが悟りへと変わり導き
やがて悟りを開き、その本来の力をあわせ人々を見守る仏となるようにという
思いが込められているのではないでしょうか。

それが、胎蔵界曼荼羅の魂の導きの意味。
胎蔵界大日如来の、大いなる慈悲の先の魂の姿だからです。

亀の上に書かれた 胎蔵界大日如来の梵字の意味は、
それを願ったものではないかと私は思います。

そしてそれを意味するかのように、
お寺の中には、海亀の供養塔がありました。
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更に供養塔の横には、姫を祀るかのような社が建てられていました。
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参拝を終え、車を出そうとした時、
磐が祀られていることに気付きました。

それは、神功皇后が船を繋いだという伝説の

「纜石(ともづないし)」 でした。

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この地で何があったのか、その本当のことは見ることはできませんが、
きっとここでも多くの人の命が失われたことでしょう。
それが、八つの首をもつ怪物にたとえられたのだと。。。。。

次回は、まるで空海に導かれながらたどりついたかのような 
姫を祀る神社のお話です。



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by ldc_nikki | 2012-05-06 22:13 | 県外編 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

ゴールデンウイーク後半がスタート。
関東から北の方面では、季節外れの大雨で各地で浸水被害が出ているとのこと、
関東、東北の方々は大丈夫でしょうか?

一昨日は、ブログでもご案内していた 「古事記ものがたり」の著者、
宮崎みどりさんと、小林晴明さんの古事記の講演がありました。
予定より少し早く会場へつき、急遽受付をすることに。
私は夜の部にしかいけなかったのですが、昼の部と夜の部の両方に参加されていたかたがいるなど、
本当に沢山の方がこられ大盛況でした。

夜の部は、歴史に詳しい方ばかりがこられていたということもあり、
内容がいつもにもまして深いお話になり、とても貴重なお話を聞くことができました。
おかげで、また更に姫との繋がりを発見することができ、本当に感謝と感激の中講演が終了しました。

講演の後、お時間のある方々での親睦会があり、
そこでは、更にヒントとなるお話や、私の全く知らなかった愛媛の不思議な場所など、
多くのお話が聞くことができ、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

今日は岡山のお話は中断して、
どうしても書いておきたいことがあるので、急遽、書きとめておきたいと思います。

親睦会の時に出会った、ペトログラフを研究されている方のお話によると、
「滝」 は、そのほとんどが、北斗七星が滝の真上で柄杓を反対向けた形になり、
滝の下で 今度は柄杓が上を向きその水を受ける形になるといいます。

イメージを画像に表すとこんな感じです。

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講演の中であの三重県の瀬織津姫の滝でもある

「那智の滝」 が こんな風に北斗七星の中より落ちた水が流れ、
滝の下でその落ちた水を受けるという形になるというお話を聞き、衝撃を受けたのですが、
更にその後、滝はそのほとんどがそういう形になっているというお話を聞き、
言葉にならないほどの衝撃を受けました。

そして、あることが全て繋がったのです

もう何度もここでお話しているように、
姫は 「北斗七星」にたとえられていました。
妙見信仰のその意味を説いた
空海の言い伝えの中にも、そのことがはっきりとわかる文章があります。

妙見信仰では、
北を指す星、北斗七星は、瀬織津姫のことをあらわしていました。

しかし、北をさすもう一つの星には 「北極星」 があります。

この北極星は、宇宙の中心とされ、
北極星は天皇にたとえられるようにもなりました。

これが 「8の暗号」の本の中も書かれてあった
「北極星人=天皇」 のことです。

北極星を天皇とする考え方は陰陽の原点です。
この陰陽の考えが元となり、後の日本独自の思想、
阿倍晴明の陰陽師が誕生します。

陰陽の考えは、
天は5つの部分にわかれていて、その中心が北極星 すなわち
天の中心=太一。 それが、天帝(てんてい)であり、それが天皇となっていきした。

そして、そのまわりをまわる車が、
帝車(ていしゃ)として強力な補佐官の役割をしていると考えられていました。
帝車が、北斗七星です。

伊勢神宮には、このことがわかる 北極星と北斗七星が描かれ、
また現在も、
伊勢神宮の内宮は 「北極星」 であり、 
外宮は「北斗七星」 とされていているのです。

ここまではわかっていたのですが、
今回の滝と北斗七星との関係を知って、新たなにはっきりと私の中で繋がったことがあります。

それは、瀬織津姫が、単なる滝の女神、
大祓の祝詞の中の大祓大神にされたのは、
この滝と北斗七星との関係、また陰陽に繋がる元となる思想 「道教」からです。

古事記をつくるのにあたり、また新しい大和をつくるために、大きな力を貸したと言われる
後に陰陽師となる 「葛城氏」 は、 北斗七星と滝の関係、また道教の考えかたから
瀬織津姫を単なる滝の女神にその神格を変え、大祓詞をつくったのです。

瀬織津姫は、本当は単なる滝の女神ではありませんでした。
単なる水の女神でもありませんでした。
それを、単なる滝の女神としたのは、この陰陽の考え方。
それは、滝から流れ落ちる水が、北斗七星から落ちる水。

また、本来は宇宙の中心として考えられていた 「道教」 の考えから
新たな宇宙の中心 「北極星=天皇」 の誕生を意味していたのです。

しかし、本来の女神の力は完全に消えたわけではありません。
だから、天皇を北極星にした後も、北斗七星として外宮(豊受大神=瀬織津姫)として
祀りつづけ、今もなお内宮よりも重要な神として外宮があるのです。

陰陽の考え方は、更にさかのぼれば、道教が元になっています。
道教も、歴史の封印に大きく関わった一つといわれますが。
この道教の中でも、北斗信仰というものがありました。

しかし、道教では、北極星ではなく、北斗七星が神格化されていたのです。
そして、北斗七星の横に、織女(織姫=ペガ) が描かれていました。

それは、古代中国またそれより以前の中の太古の文明の中にもある考え方にもある思想で、
糸を紡ぐ女性が運命を決める女神だとされていたことにあります。

七夕の起源とも言われる、この運命の糸を紡ぐ
織姫が瀬織津姫とよばれることとなりました。

では、どうして道教の考え(北斗七星の神格化)が、陰陽の考え (北極星の神格化)に
変わっていったのでしょうか?

古代中国には、東夷(とうい)とよばれる古代中国東方の異民族がいました。
この異民族がどこから来たのかは、まだぼんやりとしかわかっていませんが、
後に、この異民族の呼び名が、日本でも 「蝦夷」 とよばれる姫を祀っていた民族の呼び名へと
繋がっていきます。

この東夷と呼ばれる民族は、
母系社会(母方の血筋によって家族や血縁集団を組織する民族また、
女神信仰で、女性が命をつくったと考え、男神よりも女神の方を上とみていた民族)
でした。

上の説明にもあるように、これが本来、
文明最古の民族に繋がる一族の生き残りだと思われる、
「女神信仰」「聖母信仰」 の民族です。

メソポタミア文明の起源ともなっているこの民族は、
全ての源は 「女性」であり、 女性により全てはつくられ、生まれ、また運命を握り、
死を迎えるその瞬間まで、女神がその力を持っていたと考えていました。

それが、縄文時代に日本でも多く発見される 土偶にも表れています。

しかし、この民族は、後に現れてきた 「男系社会」をつくろうとした民族に
次々と滅ぼされていきます。
その度に、女系民族はその地を追われ、世界中へと逃げて散らばっていったのです。

この散らばった民族の一部が、
東夷と呼ばれる中国古代(起源前2000年前ころからいたとされる)の人々でした。
この東夷族の中に中国五帝の1人に数えられている王がいたといわれます。

この母系社会の伝承により、
天空のある一点を中心として星々が巡っているように見えることを知っており、
そこを北辰と呼び宇宙の中心と考えていました。

その象形は、
北辰を中心点としてその周囲を24時間かけて回る星々を一輪の円で描き、
一日というサイクルを表して「日」の原型と成りました。

これが、星信仰の原点であると思います。
これが、今の 「日(ひ)にち」 一日の考え方の原点でもあります。

母系社会において智慧や秩序の基盤となった「日」は、
道教において神格化されることになります。

その神格化された星が 道教では 「北斗七星」 だったのです。

しかし、母系社会から男系社会へと世の中は変わり始めます。
男系社会が一番の神としたのは、女神ではなく 男神。

「火(日)の神」 = 「太陽の神」 だったのです。

だから、男系社会へと世の中が変わり始めたと同時に、
本来は 星で一日を表していた 「日」 が 陽(太陽)を象徴する文字として
使われるようになり、それは後に 「北辰(北極星)」 と 「太陽」 が対極をなす関係として
考えるようになりました。

少し説明が長くなりましたが、もうおわかりいただけたでしょうか?

この男系社会の象徴は
北極星であり、その対極の太陽なのです。

それが、現在の日本の原点、古事記により変えられた日本の姿
男系社会の原点 「北極星=天皇」 「太陽の神=アマテラス」の誕生へと繋がっていったのです。

そして、女系社会において、
一番の神とされていた、全ての源である女神、再生、復活を意味する
命を司る女神は、 その座を奪われてしまったのです。

そして、もう一つの女神の姿 「月」 
月もまた、命の根源。 生命の誕生と死を表す姿。

それまで、月の運行(月の暦)で生活していた人々は、
太陽の運行で生活をする (太陽歴)へと変わっていったのです。

それは、女神信仰から男神信仰への移行だったのです。

これは日本だけでなく、世界中で、太古の昔から争われていたことで、

「天智天皇」が万葉集の中で詠んだ歌(天の香具山) にもあるように、
この女神を元に、太古の昔から、多くの争いが起こってきました。
その争いが、700年前後この日本で終焉を迎えることとなったのです。

北斗七星がどうして瀬織津姫なのか。
滝の女神がどうして瀬織津姫とされたのか。
どうして、姫は封印されなければいけなかったのか。

また、空海はこの全てを妙見信仰を説くことで、
全てを知ったのです。

太陽を神として男系社会をつくった、あのギリシャも今大きな危機にあっています。
そしてかつてその絶大な力で、一大帝国を築いた
「ローマ帝国」もまた、同じような歴史を辿り、太陽を神として男系社会をつくった国。

男系社会への移行は、権力を象徴し、利益と争い、競争の世界です。

今、その世界が、次々と滅びようとしていることに
そろそろお気づきの方も多いのではないでしょうか。

でも、私は今の世の中の全てがいけないとも思いません。

女系社会から始まった人々の文化は、男系社会へと移行し、
そして、やっとその両方が、一つに合わさる時ではないかと思うのです。

どちらか一方が、大きな力を持つのではなく、
どちらも、バランスよく必要とする世界。
それが、これから目指す世界なのではないでしょうか。

実はそれが一番難しいことかもしれませんが、
地球という、命を誕生させることのできる星に生まれた私たち人間に
与えられた課題の一つのような気がします。
人間の欲望は、一つの試練。
地球という奇跡の星に神さまから命を授かった私たちは本来は
地球を守るためにどう生きなくてはいけないかをずっと問われてきたようにも
思います。

人類が地球上に降り立ったその日から、
ずっとずっと、そこに向かって歩み続けてきたのではないでしょうか。

私はそのキーワードが、なぜかこの日本にある気がします。
こんな小さな島国ですが、 きっとこの日本だからこそ、そのことに
気付くことができるのではなかとも。

太陽を神としながらも、その神を女神としたことも、それを暗示しているようにさえ思います。

太陽と月の存在により生まれた 奇跡の星 「地球」

みどりさんが講演の中で、言ったことばが、今も私の頭の中をよぎります。

「宇宙で、人間の命は誕生することはできないのです。
男と女が交わり、命が誕生することができるのは地球上でなければならないのです。」

この言葉を聞いて、
人間の魂は、命を誕生させるためにこの地球にやってきているのだと
私の中で誰かが叫んだような気がしました。
地球とは命を誕生させることのできる、
たった一つの場所。

もしかしたら、私たちの知らない宇宙のかなたに同じような星があるのかもしれません。
でもそれは遠い遠い遥か彼方。

人間だけでなく、木も花も、昆虫も魚も、動物も、
多くの生き物が存在することができる、命の宝庫が地球なのです。

全てのものが循環しながら、次の命へと繋がり永遠にその命を繋いでいけるうように、
私たちが、今進むべき道を考える時がきているのだと
思えてなりません。

女神を復活させること、女神の封印された歴史を知ることは、
地球の命を存続させるために、必要なことだと改め思います。

どうか一人でも多くの人が、そのことに気付いてくれますように。
こころから願いながら、こらからも、愛姫伝を続けていきたいと思います。





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by ldc_nikki | 2012-05-04 04:07 | 古代の謎 | Trackback | Comments(2)

こんばんは。
今日から、数回にわけて岡山の神社をご紹介したいと思います。

先月初め、一日だけ何も予定がない日があり、この機会に少し遠くへ行ってみようということになり、
選んだ先は 「岡山」

今年の秋、岡山で写真展を予定しているため以前から岡山へ行きたいと思っていたのですが、
少し前に、岡山に残る神功皇后の伝説を聞き、その場所へ行ってみたいと思っていたので、
行くことにしました。

日帰りの旅でしたが、中身の濃い一日となりました。
今日から数日、岡山の旅を一緒にお楽しみください。

岡山は、桃太郎で有名な土地ですが、
その桃太郎のお話も、元は歴史上の大きな争いが起源となっていると思われます。
そして瀬戸内海に面した岡山県にも、神功皇后にまつわる重要な伝説が残っています。

第一回目は、そんな神功皇后の伝説からスタートです。

「神功皇后」

最近、この名前を口にすることが私自身とても多くなりましたが、
周りの友達や、会社の人など、いろいろな人にその話をするたびに、

「名前は聞いたことあるけど。。。。。」 と ほとんど人は、神功皇后のことをほとんど知りません。

子供に聞いても、学校では教えてくれないようで、
歴史上とても重要な王妃だとされているわりには、今の時代その存在をほとんど取り上げることは
なくなってしまいました。

神功皇后は、古事記と日本書記の両方にその記述がありますが、
書かれている内容は、少し違います。
また、日本書紀は古事記に比べとても詳細にその行動を書いてあります。

また、神功皇后は今は実在しない人物と考えられている説の方が、多数となっているようにも思います。

古事記と日本書紀の記述で、大きく違う点は、
神功皇后と百済との関わりです。
日本書記では、古事記に比べ百済との関わりが強く表れています。

それは、日本書紀を書いた人物が、「百済系」の人物だったからのようです。

愛媛における神功皇后の伝説の中には、戦いの伝説はなく、そのほとんどが、
本来祀っていたであろう神の場所へと行き、その地で祈りを捧げています。

そのことから私は、神功皇后とは、瀬織津姫の力を得るために、またその場所を訪れなければいけない理由があったから、そういう伝説を残したのだと思っていました。
しかし、他県の話がだんだんわかるにつれて、それだけではないことがわかってきました。

日本書記における神功皇后の伝説と、そこに書かれた場所(神社)の伝承の多くが不思議なほど一致していることも 「ひもろぎさん」のブログからよくわかります。

でも、あまりに一致しすぎていて、まるでそれは日本書紀の記述に合わせて
神社をつくったかのように私には思えます。(ひもろぎさん、ごめんなさい)

古事記は今から1300年前、
712年(和銅5年) (大山祇神社が伊予の国へと一度に勧請された年)に完成します。

それから、わずか8年後
720年(養老4年) (大山祇神社、正遷座の翌年)また(八幡神社での法生会開始の年)に
日本書記は完成されます。

わずか8年後に、一度作った歴史書を更に作り直す必要がどうしてあったのか、
今もなお多くの論争が繰り広げられています。

私自身も、はっきりまだわかったわけではありませんが、
一つの理由として、この神功皇后のことがあるのではないかと思います。
神功皇后という存在をつくることで、八幡神の力を大きくする必要があったのです。
それは、八幡神とは本来の神の力だけを持った神だったからです。
また、その神により一度殺めてしまった神の魂を 「法生会」 という形で、鎮める神でもありました。

この神は、その時の朝廷にはどうしても必要な存在だったのです。

また、神功皇后という、「女王」 の存在も必要でした。

それは 「聖母」 とも言える、まるで女神のような存在です。
しかし、全てつくり話というわけではありません。

多分、 「卑弥呼やイヨ、斉明天皇、もしかしたらその他の伝説、また百済記の中に書かれてあることが元になった、 多くの人の伝説が一つにまとまり、それを朝廷側(百済系氏族)の目線で書かれたものだと思われます。

一番のポイントは 「百済系氏族による目線」 ということです。

しかしその中で伊予の国における神功皇后の伝説は、
本来姫神を祀っていた人物(斉明天皇他)が、実際に姫神を祀り祈った場所が神功皇后に変えられた可能性もあると感じています。

とても複雑な、神功皇后の伝説ですが、
神功皇后の伝説の場所を、一つ一つ検証していけば、封印された多くの伝説が浮かび上がってくるのではないかと思っています。 (それは、瀬織津姫のことだけに限らず)

前置きが長くなりましたが、それでは神功皇后の岡山 「牛窓」に残る伝説をご紹介します。

「西暦310年頃、仲哀天皇(第14代)は、妻である神功皇后と共に、三韓攻め(新羅・百済・高句麗の三国)のため、瀬戸内海を渡っていました。
その途中、吉備国(現在の岡山県牛窓)の浦に立ち寄られました。
船が港に着くと、突然空は雲に覆われ、激しい落雷と共に頭が8つの怪物が現れました。
怪物の名前は「塵輪鬼(ちんりんき)」。 
その怪物が、黒雲に乗って仲哀天皇の一群に襲いかかってきました。
勇敢な仲哀天皇は恐れることなく弓を手にとり、塵輪鬼に矢を射りました。
すると、鬼は真二つになり海に落ちていきました。
しかしこの時仲哀天皇も、流れ矢に当たり、それが元で崩御されてしまったのです。

その時海に落ちた鬼の首が現在の牛窓一体にある小島
鬼島(黄島)、胴が前島、尾が青島となりました。

夫、仲哀天皇を亡くした神功皇后は、天皇の意志を継ぐため、
浦に祀る住吉明神にお参りした後、この地より男装をして出発したといいます。

そして神宮皇后が、三韓征伐を終えて再びこの地に立ち寄られた時のことです。
倒したはずの塵輪鬼の魂魄(こんぱく)が牛鬼に姿を変えて海底から出現し、皇后の船に襲いかかりました。
するとその時、住吉明神が老翁の姿となって現れて、その牛鬼の角をつかんでなげ倒しました。
そしてとうとう、息絶えたといいます。

ここ牛窓に残る伝説では、
神功皇后は、ここから男装をして出発されたといいます。

牛窓で、男装することになった神功皇后の本当の理由はなんだったのでしょうか。
どうして、ここにこのような伝説が残ったのか、まだその謎ははっきりとわかりません。
でも、一つ言えることは、
ここにも、姫の跡があるということです。
そして、この牛窓を含め岡山は、亀の中(亀甲)に閉じ込められた姫の姿が多く存在するということです。

そしてここ牛窓神社の本殿の裏には、

「祇園神社」 として、 瀬織津姫は祀られていました。

*牛窓神社(ウシマドジンジャ)
*瀬戸内市牛窓町牛窓2147
*祭神
 応神天皇
 神功皇后
 比賣大神
 武内宿禰命
*原初の頃は、土地の神霊及び氏の祖先の神霊をまつっており、牛窓明神と呼ばれていたが、長和年間、教円大徳によって豊前(大分県)の宇佐八幡宮から応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・比賣大神の御神霊をお迎えして牛窓八幡宮となり、明治6年郷社に列せられ牛窓神社と改称した。

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木々が生い茂る、美しい参道でした。
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拝殿です。
偶然、拝殿の中で一人の女性が、「豊栄の舞」の練習をされていました。
少しその姿を拝見させて頂き、参拝させていただきました。
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とても立派な本殿でした。
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ど根性の木
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そしてここに瀬織津姫は祀られています。
祇園神社の中に。
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ここから、出雲大社へ参拝できるようになっていました。
初めてみました。
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そして反対側には、伊勢神宮への遥拝所
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牛窓神社から海の方へ向かう参道がありました。
そこから見える景色。 この海が歴史の中に封印された牛窓の海です。
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by ldc_nikki | 2012-05-01 23:51 | 県外編 | Trackback | Comments(1)

こんばんは。

今日のお話は、神功皇后にまつわるお話です。

伊予の国にも、沢山の神功皇后にまつわるお話があります。
これまでもいくつかご紹介してきましたが、
今回ご紹介するお話は、伊予に伝わる神功皇后のお話の中でもとても重要な意味を含む伝説だと思います。

この意味がもし解明できれば、
もっと鮮明に古代の謎が浮かびあがってくるかもしれません。

でも、そう簡単にはわからないのが歴史。
一つ一ついろんなことを学んでいきたいと思います。

今日ご紹介するお話の神社は、石手川と小野川の河口。
松山空港のすぐ近くにあります。

これまで松山空港近くの神功皇后由来の神社をいくつかご紹介しましたが、
その中でもここは、とても重要な場所を意味します。

神功皇后は、川の河口付近の神社にその足跡をよく残しています。
神功皇后が立ち寄ったとされる川の河口は、
瀬織津姫が祀られていたと思われる場所が多いことがわかってきました。

そして、神功皇后が立ち寄っていないのに、神功皇后の由来が残るこの場所は、
もう一つの大事な意味をしめしています。

それは、この地に大和があがってきた経路。
当時の主要な川をしめしていると思われます。

今日の神社の名前は

「住吉神社」

住吉三神は、神功皇后を勝利へと導いた神として、たびたびその名が現れます。
住吉三神は、
底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)
この三柱の神のことを言います。

そして、神功皇后をあわせると
住吉大神といい、住吉大社にともにまつられます。

住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住」(スミ)と「吉」(エ)

「スミノエ」は、「澄んだ入り江」のことをあらわすといい、澄江、清江とも書いていました。

これは、古代における天皇即位の際の重要な祭儀である八十嶋祭の清めの海を表していて、
天皇は即位すると住吉(スミノエ)の海で清めの儀式を行ったといいます。

澄んだ入江は、姫とも関係がある場所。
どうして、ここで禊をおこなっていたか、それはやはり再生の場所だったからなのでしょう。

そんな住吉三神をまつるこの松山の神社の由来は、
神功皇后が住吉神のお告げに戦いに勝利し都へと帰る途中のことでした。

神功皇后は住吉神に、
「太神降臨したもう宮処を教えたまえと」 と祈り、
九本の藤の木を海中に流しました。
その九本の藤の木は伊予の国の九箇所の浦に漂着したといいます。

その一つが、ここ松山市石手川と小野川の河口へと流れついたのです。

「太神が降臨した場所」の一つが、ここだったということです。

この川は、以前もご紹介しましたが、
考古学からも、古代の主要な道(川)であったと考えられている、「小野川」へと繋がっています。
そしてその小野川沿いには、天の香具山の片方 「天山」があり、
奈良よりも先に完成したという古代の政庁があります。

そして途中で二つに分かれる「石手川」沿いには、
道後温泉や、湯月城、古代の出雲の地と言われる場所があります。

どちらにも繋がるこの川の河口は、
歴史を見るうえで、とても重要な場所です。

その川の河口に、藤の木が漂着した。

と言われる伝承は、神が降臨した場所を表しているのではなく、
伊予の国へとあがってきた誰かを意味しているのではないかと思うのです。

それは 「藤の木=藤原氏」 のことではないかと。。。。

藤の木が流れついた場所は、全部で9か所。
残りの8か所をざっと探してみました。

するとあと二箇所。わかりました。

その一つが、隣の町、 「松前町」を流れる川の河口です。
この川の近くには、伊予稲荷神社や、伊予皇子が祀られる伊予神社。
愛比売が降臨した山、谷上山があります。

そしてもう一つが、予想もしなかった 「宇和島市」

宇和島市の中心部を流れる川の河口近くにその場所がありました。
この川沿いには、宇和島でも有名な和霊神社があり、この川では毎年大きな大祭が行われています。

今まで宇和島市については全くふれてきませんでしたが、
これでやっと宇和島が歴史の中で何かを消され変えられた場所だということが見えてきました。

これでやっと宇和島にも入ることができるかな。。。。と思っています。

そして残りの 6か所はまだどこかわかっていません。
伝承が残っているかどうかわかりませんが、いつか全部わかる時がくればいいなと思っています。

まずは、一か所目。
一番重要な場所とも言える、石手川、小野川の河口に鎮座する 住吉神社です。

*住吉神社
*松山市西垣生町1369番地
*祭神
表筒男神(うはつつをのかみ)
中筒男神(なかつつをのかみ)
底筒男神(そこつつをのかみ)
息長足姫(おきながたらしひめ)(神功皇后)

ここが、川の河口です。

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興々島もすぐ目の前に見えています。

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今では小さな神社になっています。
とても重要な場所だということはきっとだれも気付いていないのだと。。
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拝殿
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注連縄が逆ですね。
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本殿
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境内には綺麗な花が咲いていました。
ピンク色の椿
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椿の花言葉は 「誇り」 「私は常にあなたを愛します」

そしてこちらは 「花桃」
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花桃の花言葉は、「天下無敵」 「あなたに夢中」

住吉神社に行った後、この川を天山まで遡ってみることにしました。
この続きは次回に。。。。

今日は、以前の職場の送別会でした。
職場を去って、はや一か月。 でもたった一か月で、なんだかもう遠い過去のような気がしました。
ついこの間まで、一緒に仕事をしていた人たちなのに、
不思議ですね。

出会いがあれば別れがある。
終わりがあれば始まりがある。

今いる場所が今自分に必要な場所なんだと、なんだか強く感じました。

よくも悪くも、必要な時に必要な人たちがまわりにいるもの、
全ては今の自分にとってぴったりの場所なのだと。
きっと人生はその繰り返しなんだと思います。

今を一生懸命に生きる。
全てを受け入れて。。。。

今日も、ありがとうございました。



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by ldc_nikki | 2012-04-26 23:17 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

今日は、前回の続き旧東予市の神社です。

ここは、前回お話した三島神社のすぐ近くにある
小さな山の上にある神功皇后由来の神社です。
三島神社に行ったあと、川沿いを走っているとなんだかとても気になる山が。。
山の上には、ほんの少しだけ社が見えていました。
やっぱり気になる。。。。
ということで、行ってみることにしました。

そして入口の神社の由来を読むと、
神功皇后のことが書かれてありました。

東予市で神功皇后の名前を見たのはここが初めて。
こんなところにも神功皇后はきていたなんてびっくりでした。

この辺りは、神功皇后の時代は浅い海。
ということはこの山は、当時は満潮の時は島になり、干潮の時は山になる。
神功皇后はなぜかここのような地形の場所にその跡が多く残ります。

神社の名前も何かとても意味のありそうな不思議な名前。

「護運玉甲甲賀益八幡神社(ごうんたまかぶとかがますはちまんじんじゃ)」

社伝によると、
仲哀天皇・神功皇后が紀伊の国より南海道に巡幸(各地を巡っている)のとき、
この地に行宮(宿泊所)をつくりました。
そしてその夜見た夢のお告げにより、ここに神を祀ったといいます。

それが由来となり、
この山は「神齋山カミイワイヤマ (神さまの神聖な山)」と呼ばれ、
後に里人が社を建てたとされます。

1600年の古社。

里人がここに社を建てた時の祭神は、
「吉岡の神」と「猿田彦神」、二神と伝えられているといいます。

その後、
天智天皇の御代(667年)2月1日、
国司土師連(ハジシノムラジ)がこの地を通行のとき、
老翁が現れ、我八幡大神と共にこの地を守護しようと言いました。
老翁に誰かと尋ねると、
「猿田彦神」となのったといいます。

どうしてここに、猿田彦神が現れたのでしょう?
667年は、天智天皇が天皇となった年でもあり、
ここ西条、東予市の一番波乱の時代です。

今日丹原に住む友達から、
とても気になる話を聞きました。

それが、この東予市や丹原の元の地名にまつわる由来です。

ここは昔「桑原」と呼ばれていました。
この地はかつて養蚕が盛んでした。
蚕は桑の葉を食べて育ちます。
だからこの地域では、桑の木が沢山あったので、この名前がついたと言われています。

そして以前お話した 「綾延姫」にも繋がります。
織物を伝えたという「綾延姫」のお墓があるという綾延神社もこのすぐ近くです。

このことから、この地域には真の秦氏が住んでいた地域と思われることから、
この地に本当に祀られていた神さまは、
「瀬織津姫」ということになります。

ここで再度秦氏についての私の考えをお話しますが、
私は本当の秦氏は、仏を祀ったのでも、稲荷神を祀ったのでもなく、
古代からの女神を祀り続けていたと思っています。
稲荷神やお寺の中に秦氏の名前が数多く出てきますが、
それらは全て、本当の秦氏ではありません。
それを証明してくれたのが、新居浜市の一宮神社と、秦氏の菩提寺と言われるお寺でした。
どちらも秦氏だと思われていますが、
実はどちらも 「養子」 
本来の秦氏ではなかったのです。
稲荷神を祀る、京都の伏見稲荷も同じです。

姫を祀る重要な神社に新たに神々を祀ったのは、
「藤原氏」また「鴨族」。
それは、大山祇神社を含む、そのまわりに建立された神社も
「藤原姓」がかかわっています。 

神功皇后の由来の場所には、必ずと言っていいほど、
「水」 が関係ある場所です。
それは、聖水の湧き出る泉であったり、海と川がひしめき合う場所、河口であったり、
温泉のわき出る場所であったり。。。。。
「水」と「神功皇后」 これが神功皇后の謎を解く鍵となることは間違いないと思います。

*護運玉甲甲賀益八幡神社
*西条市上市甲460番地
*祭神
猿田彦大神(さるたびこのおおかみ)
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
誉田別尊(ほむだわけのみこと)
気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
武内宿彌(たけしうちのすくね)

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この階段をのぼり山の上へ。
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古いご神木が迎えてくれます。
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山の上にのぼると、拝殿がありました。
山の上は思ってたよりもずっと狭く、
なんだか不思議な空間。
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本殿。
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拝殿の横に小さな境内社が。
そこには、姫が。。。。。
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ここから見る景色。
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山をおり帰ろうとした時、石垣の下に小さな社が目にはいりました。
「あんな一目のつかない場所に。。。。」

そこに祀られる神さまは、
なんと 「天照皇大神」 でした。
姫の名前でもある、「水波能売命」は拝殿の横に祀られ、
本来もっと目立つ場所にあるはずの、「天照皇大神」が
こんな奥に祀られていたのです。
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手前左の小さな鳥居のある社ではなく、
木に半分隠れた小さな社が見えるでしょうか?
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ひっそり祀られていた 天照皇大神の境内社
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次の神社へ行く途中、
綺麗な菜の花畑を見つけました。
東予市はあちらこちらの田んぼに、
菜の花が植えられています。

田植えの前に、田に栄養を与えているのでしょうか。
菜の花の時期ももう終わり。
もうすぐ一面、緑いろの田んぼになりますね。。。。。

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by ldc_nikki | 2012-04-17 23:24 | 愛媛県西条市(旧東予市) | Trackback | Comments(0)

こんばんは。

昨日から新しいスタートをきりました。
実は、この歳になってまた学校に通うことになりました。

現在学生2日目。

1年間という短い間ですが、また学生ができるなんて思ってもみなかったです。

思った以上に学校で、まるで中学校か高校に戻ったようです。

新しい環境になれるまで、もう少しかかりそうですが、
いろんなことが新鮮で、とても楽しいです。

私がここに行ったことで、次にどんなことが待っているのか、
どんな道へと繋がっているのか、物語の続きを読むかのような今不思議な気持ちです。。。。


では、今日のお話です。
今日は、伊予の国に伝わる 「姫だるま」 です。

「姫だるま」 愛媛の方ならその存在をほとんど方がご存知なのではないでしょうか?

でも、もしかしたら若い方は知らないかもしれません。
というのが、先日前の職場の30代前半の男性二人に、「姫だるま」のことを聞いてみると、一人はわかったのですが、もう一人は知りませんでした。

昔は、どの家庭にもほとんど一つはあったという 「姫だるま」。
でも、それもだんだん忘れさられ今ではおいているお家も少なくなってしまいました。

そんな姫だるまと不思議なご縁で繋がり、先日姫だるまの復活の存続のために活動をされている方の所へ行ってきました。

思いもかけないところで、

「姫だるまの活動をされている人が松山にいるから、そこを尋ねてみてはどうか?」
と、言われました。

これも、何かのお導きかもしれないと思い、その週末早速姫だるまを売っているお店にまずは行ってみようと
足を運びました。

その方から名前を教えて頂いたわけでもなく、ご紹介をしていただいたわけでもなかったのですが、
とにかく行ったら何かわかるかもしれないと思い、向かってみたのです。

お店に着き、店員さんに姫だるまの歴史のことを伺ってみると、私はあまり詳しくないからと、お店も責任者の方を呼んでくださいました。
そして、出てきてくださった方が、姫だるまの活動をされているその方でした。

まずは、姫だるまの写真を一枚ご覧ください。

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こちらが、伊予の国に伝わる 「姫だるま」です。

全国に姫だるまと呼ばれるだるまは他にもありますが、ここ愛媛に伝わる姫だるまは、他の地方の姫だるまとその意味が違います。
どこが違うかといいますと、この姫だるまにはちゃんとモデルの人がいてそのモデルとは

「神功皇后」 です。

この美しい着物、真紅の真綿包みは、応神天皇をお腹に宿した姿です。

以前ブログでもお話した、神功皇后と道後温泉のお話をおぼえていらっしゃるのでしょうか。
神功皇后は、現在の道後公園のところへお滞在し道後の湯にはいられご懐妊されました。

神功皇后は、道後の湯で身を清めながら、国家の平和と繁栄と、わが身に世継を賜わるよう神さまに祈りを捧げました。

するとこの祈りは神に届き、「住吉大神」 のご神託によりお腹に子供お授かりました。

その子供が、後の応神天皇です。

「道後の湯 (伊予の国の神の湯)」 で 「身を清め」、 「住吉大神」 の 「神託」 により 「子供」 を
授かった。 

この伝説にはとても深い意味がありますが、この意味についてはまたいつかお話するとします。

この姫だるまは、この伝説、神功皇后ご懐妊の記念としてつくられたと伝わる だるまなのです。

子供がもって遊ぶと健やかに育ち、
病人が飾ると起き上がりが早くなるといわれ、
信仰にまつわるだるまとして、古くから多くの人々に愛されてきました。

また、この姫だるまはお腹の中に子供を宿した姿と言われ、
安産のお守りに持つ方も多いといいます。

さらに、誕生日にこの姫だるまを贈られた女性は、1年以内に良縁があるという伝説もあるといいます。

姫だるまには、 上の写真のように赤い着物を着た姫と、青い着物をきた姫の二種類があります。

それが、こちらです。

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左の青い姫だるまは、まるで男性のようですが、これは神宮皇后が男装をして戦い向かった姿を現しているとも言われます。

その由来から、必勝祈願、合格祈願に購入される方も多いといいます。

そんなお話から、あることを聞いたのです。

それは、お話を伺った久保さんのお友達で岡山の選挙に出馬された女性が、必勝祈願に姫だるまを買われ、出馬前に、岡山のある神社にその姫だるまを持っていき、必勝祈願をされたというお話でした。

そこは、神功皇后が三韓征伐に男装の姿をして出発された場所だったのです。

そのお話を聞いて、どうしてもその場所に行ってみたくなり、先週岡山に行ったのです。
そこでのお話はまた後日になりますが、

姫だるまのお話から、久保さんにも出会え、神功皇后の大切な場所へも導かれ、
そこで、姫と神宮皇后とのつながりも更にはっきりと見えてきました。

最近、時々誰かに言われる

「〇〇へ行ってみなさい」 は お告げなの? と思うようになりました。

というのが、昨日また、同じように

「〇〇へ必ず行きなさい!」 と言われ行った場所で、言葉にならないことがありました。

昨日は入校式だけだったので、午前中で終わり、もう一度大三島に行ってみようと思いでかけました。

まず向かった先は、大山祇神社に関わる重要なお寺。

そこで、お寺の奥様とお話することができました。
初めてお会いしたにも関わらず、本堂の中で3時間お話を伺い、
その時、 その方から 「〇〇へ必ず行ってきなさい!」 とまるで、お告げのように言われたのです。

お寺を後にしまずは生樹の御門へ。 その後、その 「〇〇」 へと行ってみました。

行った時は、何も気づかなかったのですが、その場を後にし車に乗ってすぐ

まるで、頭の中に突然何かが降りてきたかのように ハッと、
そこにあったものの意味が、わかったのです。

そこには二つの重要な封印の姿が隠されていました。

とうとう見つけてしまったかもしれないと思いもうどうしたらいいのかわからなくなりました。
姫の変えられた本当の封印の姿をとうとう見てしまったかもしれないと。。。。。

そこを後にした瞬間、次々と浮かび上がる真実かもしれないことがら。
私は、どうしてももう一つ聞きたいことができ、再度さきほどの奥様のお寺へ戻りました。

そして、今あった出来事を話、興奮も冷めないまま、
どうしても聞きたかったことを伺いました。

すると、奥様は 

「さっき説明してあげればよかったわね。ごめんなさい。」 
と言って、その場所へ説明してくださりました。

私が
「あ!あれですね。あの上の・・・・・・・」 

「そうそう、あれがそうなのよ。 でも、実はもう一か所あるのよ。
私も最初このお寺へ来た時(25年前)は、全く気付いてなかったの。 
でも、もう一か所必ずあるから探してみなさいと言われて探してみると、あったのよ。 もう一か所。」

「え~どこですか~。」
「どこだと思う?探してみて」

そう言われて一生懸命探したのですが、見つかりません。

「わかりません。どこにあるのでしょう?」 

すると、 奥様が、 
「わかった。 じゃあ そこで振り返ってみて!」

パッと後ろを振りかえりふと見上げると、そこにも同じもものが!

もうびっくり! でも、驚いたのはそれだけはありませんでした。

そのお話を聞いてそろそろ帰ろうかと思った時、

「あ!もう一つだけ秘密のお話を聞かせてあげようか。。。。」

と言ってある場所に行き話はじめました。
それは、今からもう20年ほど前の話。。。。。

もうそのお話を聞いた瞬間に なぜだか、全身に鳥肌が。。。。

「それって、今もどこかにあるんですか?」

「あるわよ。見せてあげましょうか?」

そう行ってそこへ案内してくださったのです。

それを見た瞬間! 「え~!!!!!! これは!!!!!!」

もう、ことばになりません。 
その女性は、現在愛媛にたった3人だけいる 琵琶を弾くおひとりで、芸名が

「豊水」 

もうご縁としか言えない不思議な出来事です。

その方は、それにどんな意味があるのかも、神様のことを全く知りません。
でも、確かにその方自身が導かれてここに来られたのだと、私は思いました。

私は 何がなんだかわからない想いがこみあげてきました。
きっと、他の人が見たらなんてこをはない一つの 「・・・」 かもしれません。

でも、私にはそれにどんな意味が込められ、どうして女性の前に現れたのか、
それを考えると、本当に言葉になりませんでした。

昨日新たなにわかったことや、出来事は このブログでは書くことができないかもしれません。

それはいろいろな意味で、まだおおやけに言っていいことかどうか、自分でも迷っているからです。
私の勝手な思い込みかもしれません。
でも、それはここで言うことはまだ無理かもしれないと思うほど、深い意味を込めた封印の形です。

ある意味、とても恐ろしいほどの。。。。

いつか、どんな形になるかわかりませんが、お話できる日がくるように願っております。
またその日までに、まだ見つけなければいけないものがあるような、不思議と今そんな予感がしています。

それがいつ見つかるかわかりませんが、いつか全てをお話できる日がくればいいなと
こころから願っております。




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by ldc_nikki | 2012-04-14 02:15 | 愛媛県松山市 | Trackback | Comments(3)

こんばんは。

今日は、2月3日節分。そして明日は、立春ですね。

節分は立春の前の日、本来は季節の変わり目を意味し、立春を一年の初めと考えるところから大晦日という意味もあります。

いよいよ、本当の2012年のスタートということですね。

ですから節分は、前年の厄、邪気を祓うという意味があります。

しかし、これも本来は「陰陽道」と深い関わりがあります。

「豆まき」は、皆さんも子供のころから当たり前のように行っている風習ですが、これは、悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う意味があります。

豆まきは、平安時代宮中において大晦日に盛大に行われたといいますが、古くは中国から伝わり文武天皇の時代、日本に伝わってきたといわれます。

あれ? と思われたかと思います。

そう、この豆まきも、姫の封印によって始まったものなのです。

「節分」 の 「鬼」 とは、姫のことだったのです。
鬼にされた姫の怨霊を恐れた人々が怨霊を追い払うため、また、自分たちが犯してしまった罪を祓いたいという気持ちから始まったものだったのではないかと思っています。

そして、姫の封印に大きくかかわった 「陰陽道」が、この節分が行われる起源にもなったのです。

以前にも少しお話しましたが、日本独自の考え 「風水」 の中でことば 「鬼門」がこの節分とも繋がっています。

「鬼門」とは、北東を意味します。そして 「裏鬼門」は西南を意味します。

北東を鬼門とよぶようになったのは、姫を祀る一族が住んでいた場所が、都から見て北東の方向にあったからです。

姫を祀る一族への門。 それが 「鬼門」とよばれるようになった理由の一つだと思います。

それと、中国の春秋戦国時代に書かれたともいわれる『山海経(せんがいきょう)』に書かれた内容が、一致したともいえます。

「東海の中に度朔山(どさくざん)がある。頂に大きな桃の木があって、三千里にも渡って蟠屈しており(渦を巻くように曲がりくねっており)、その枝の間の東北を鬼門といい、多くの鬼が出入り口となっている。
頂には二人の神が居て、ひとりを神茶(しんと)、ひとりを鬱壘(うつりつ)といい、悪鬼を調べ取り締まる役目を負っている。
害をもたらす鬼を葦の縄で捕らえて虎に食わせる。このことをもとにして黄帝は礼の決まりを作り時々これを払い、桃の木でつくった大きな人形を門戸に立て、門に神茶と鬱壘そして虎を描いて葦の縄をかけ、凶悪な物の精鬼を防いだ」と。>

そして、鬼門の方角は十二支では、丑と寅の方角(うしとら)に当ります。

ですから、鬼の姿は十二支の意味する牛の角をもち、トラのパンツを身に付けています。

節分の鬼とは、最後まで抵抗し続けた蝦夷がいた場所、最後に姫を祀った早池峰の山の方角に住む、十二支の 「牛」と「トラ」の姿の鬼のことだったのです。

また丑は「12月」をしめし、虎は「1月」をしまします。
鬼門とは、一年のうちの ちょうど「12月と1月」の間にやってくることになります。

だから、立春を一年の初めと考えていた昔の人々は、立春の前の日を、鬼門のいるという鬼を祓うために、そして何事もなく平穏に春を迎えることができるように、節分という行事を始めたのではないかと思います。

「鬼」に変えられてしまった姫。

通常行われる節分は、 「鬼は外、福は内」 と言って豆をまきますが、
「福は内、鬼は内」 というところもあります。

例えば、新宿区歌舞伎町、稲荷鬼王神社。
白龍を、白狐に変えられてしまった稲荷ですが、ここは、

「鬼王」として「月夜見命」「大物主命」「天手力男命」の三神を祀っているそうです。

月夜見命=瀬織津姫が、鬼にされたことをちゃんと伝えているのでしょう。

また、役行者によって封印された
奈良県天川村の、天河神社。

鬼は全ての意識を超えて物事を正しく見るとされているため、前日に「鬼の宿」という鬼迎えの神事を行い、鬼を迎い入れてから節分会をするそうです。

天川村においても鬼にされた姫。 でも、その鬼こそ嘘偽りのない正しい世界を知っている、また姫の存在が立春の日にいなくてはいけない存在だということを物語っているかのようです。

そして、もうすぐ日付が変わりますが、明日は立春(2月4日)。
立春とは、太陽黄経が315度のときをいいます。

冬至で生まれた太陽が、本格的に始動し始める時が立春。

節分も、立春も太陽信仰に基づく考えかたからきています。

立春の前の節分が、平安時代より盛大に行われるようになったのも、姫の封印に深く関わりがあるのではないでしょうか。 

古代からあった、月信仰と太陽信仰ですが、
アマテラスの誕生とともに、月は姿を消し、太陽だけの世界となったことを、節分や立春が物語っているように私は思います。

さて、前おきが長くなりましたが、今日は今回の西条の最後の神社のご紹介です。

ここは、西条祭りが行われる4つの神社のうちの一つ、

「石岡神社」です。

ここも、神功皇后にまつわる伝説が残っている場所。そしてその伝説は、とても重要なことを言っています。

石岡神社は、

神功皇后が三韓から凱旋の際、皇子を奉じ武内宿弥と共に此の岡で、天地地祇を奉斉されたことが起源となっているといいます。

西条の神功皇后の伝説は、戦いに行く前に立ち寄った場所はなく、全てが戦いが終わった後に立ち寄ったとされる場所です。

その中でも、ここ石岡神社は、「新羅征討の祝い」の行ったとされている場所なのです。

ただ立ち寄った場所ではなく、ここでどうして祝いが行われたのか、そこに深い意味があると思っています。

神功皇后は、その時ここで歌を詠まれたと伝わり、その歌が今もここで伝わり続けています。

「橘の島にしあれば川遠み さらさで縫ひし我が下衣」

これは万葉集の中の歌として知られている歌のようなのですが、この歌がここで歌われたことはほとんど人が知らないようです。

神功皇后は、 ここを 「橘の島」 と言っています。

橘とは、「不老不死の果実」があるといわれる島 「常世」を表します。

「橘の島」 とは、常世の国、伊予の国の中にある島。ということが、ここではっきりとしたのではないでしょうか。

しかし、この歌を訳してる内容を見ていると、どれも何か違うような気がします。

どうして、祝いが行われたこの岡で、この歌を詠んだのでしょう。

全く違うかもしれませんが、神功皇后の気持ちになって少し考えてみました。

そして、私の中で浮かんできたその意味は。

「橘の島にし居れば川遠み さらさで縫ひし我が下衣」

「橘の島は瀬織津姫という聖なる水を司る女神の場所、だから姫を守る人々と戦った私はここから川はこんなに近くにあるのに遠くに感じるのです。
だから、今の私はこの水で下衣をつくる布をさらすわけにはいけない。
私の下衣は、この水でさらさずそのまま縫うことにしまします。」

神功皇后は、姫の聖なる水が宿る場所では、その水を新しい神の宿る水へと変えるための儀式を行っていました。

聖なる水は、真奈井の水、瀬織津姫の水だと思っていたのです。

だから、戦いに勝利した祝いの場で、その水を使うわけにはいけなかったのだと思うのです。

自分の魂が篭っていると考えられていた下衣をつくる布をその水でさらす(清める)わけにはいけなかったのではないでしょうか。。。。

ここ石岡神社の石岡とは、祝いの岡(祝いが岡)がやがて (石岡)になったといわれています。

*石岡神社
*西条市氷見乙1345-1
*祭神
 誉田別命(ほむだわけのみこと)
 気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
 三女神(さんにょしん)

一の鳥居

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二の鳥居。ここから境内に入ります。
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まるでお城の幣のような入り口です。
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まっすぐに続く広い参道。
この中に一歩足を踏み入れた瞬間、姫の空気が漂っていました。
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参道の周りは神域。木々の間から差し込む光が、とてもまぶしい。
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拝殿が近づいてきました。
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拝殿
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境内を取り囲むように、多くの境内社があります。
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本殿
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境内にたつ御神木
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最近、なんだか目に付く神社
「高良神社」
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この木が、ここで一番大事な木かもしれません。
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全部ご紹介しきれませんでしたが、ここにこの他にも多くの境内社があります。
そして、最後に参拝した境内社は、「条内神社」でした。

ちょうど夕日が沈む時間だったから、また奇跡の瞬間を見ることができました。
条内神社の前にある小さな鳥居の中央にちょうど夕日が入りました。
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この太陽の光の道は、そのまま小さな社へと続いていました。

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とっても素敵な神社でした。戦いがあったこの地に眠る姫。でもそんな空気などどこにもなく、ただ静かに見守る姫の姿が見えるかのようでした。
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そして、少し高いこの岡からは、古代の謎が眠る山が聳えていました。

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ブログを書いている間に、日が変わり立春になりました。

今日はいよいよ、古事記のお話をされている 「宮崎みどり」さんにお会いします。

新居浜から、ブログをご覧になってくださっている方も一緒に参加することになり、
7人の姫で行ってきます。

まるで北斗七星 「姫」 と同じ。

ということは、姫というより天女ですね。

本当は8人の天女が舞い降りたのに、1人だけ衣をなくしてしまって天へと帰れなくなり、7人になってしまった天女。 
それも 「8」 に意味があったから。
もしかしたら、明日、天女は8人にもどるのかな。。。。。。

2012年の立春、それぞれの天女たちの新たなスタートの日となりますように。
そして、それが幸せへの1歩となりますように (合掌)




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-02-04 01:37 | 愛媛県西条市 | Trackback | Comments(0)

数あるブログの中からお越しいただきましてありがとうございます。 不思議な数々の出会いから、今は、愛媛の神社めぐりをしながら、神社や女神様そして、神話の神々の伝説を調べています。
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