天之逆矛がなぜ? 「御鉾神社」
2011年 04月 12日
今年は、桜が咲くのがとても遅かったのですが、先週末、一揆に満開になりました。
今日も近くの公園の前を通ると、今にも零れ落ちそうな桜の花が、それはそれは綺麗に咲いていました。
今年の桜は、一度に花を咲かせたおかげか、いつもよりも更に美しく感じます。
今日ご紹介する神社にも、綺麗な桜が咲いていました。
「御鉾神社」
今治市玉川町の、鬼原という、不思議な地区にある神社です。
ここは、玉川の奥ではないのですが、地元の人しかあまりいかないような場所にありました。
きっと、今治の人でも、あまり知られていない神社だと思います。
でも、この神社はとても古い時代に建立されていて、不思議な由来が残っているのです。
私も、最初は目を疑いました。
神社の由来の中に出てきたことば 「天之逆矛 (天の逆矛)」
天の逆矛とは、あの伝説の物語、ニニギノミコトが、高千穂峰に突き立てたという伝承です。
一説には、イザナギ・イザナミより大己貴命(大国主命)に受け継がれた 「天の沼矛」をニニギノミコトがこの地に降臨の際、突き立てたものだとも伝えられています。
大国主が、
「私はこの矛を持って様々な地を平定してきた。あなたもこの矛で国を治めるならば、きっと平定できるだろう」
と、ニニギノミコトに授けたのだといいます。
大国主とは、ニギハヤヒのことでもあると言われます。
もし、この説が正しければ、もともと、この矛は、ニギハヤヒが持っていたことになります。
しかし、古事記が作られた700年代、そう、三島明神が、大山積神に名前を変えられた時、このニギハヤヒが持っていた矛を渡し、国譲り(国の王が変わる)が行われたのではないかと思うのです。
この玉川に鎮座する、「御鉾神社」の伝承が正しければ、この説の一部があきらかになるのです。
もちろん、伝承は、古事記のように、全てが正しいとも、どれが正しいともいえません。
でも、「御鉾神社」の伝承は、おどろく内容のものです。
その由来は、次のものです。
推古天皇の御代に、国司小千益躬が訓見郡徳威の宮より大三島宮へ天之逆矛を奉遷した時に、当地に滞在して同神の御威徳を後世に伝えるため小祠を建営して御鉾の宮と崇め奉った。
古事記の中で、最後の天皇として登場する、日本で初めての女帝と言われる推古天皇の在位期間は、
593年1月15日 - 628年4月15日。
その時代に、あの鉄人伝説でも名を残す、小千益躬が、大三島宮へ、天之逆矛を奉遷したというのです。
これが正しければ、天之逆矛は、一時、大三島宮(三島明神の宮)にあったことになります。
そして、「御鉾神社」は、大三島に行く前に、この玉川の地に滞在して、そのことを後世に伝えるために鎮座した神社なのです。
訓見郡徳威の宮から、大三島へ奉遷された、天之逆矛。
徳威の宮とは、どこなのか、なぜ大三島へ移されたのか。 その謎は、まだわかっていません。
これからの課題です。
それが、わかれば、更に謎がとけてくるかもしれません。
その日がくるののが、とても楽しみになってきました。
でも、一ついえることは、大三島は、やはり時代が大きく変わる時、その鍵を握る重要な場所だったということ。 そして、ここ愛媛、伊予の国は、まだまだ知られていないだけで、歴史を語る上ではずせない場所だということです。
そして、古事記の国生みの物語の中で、女神 (愛比売)の国となったのにも、とても大きな意味が込められているのかもしれないと、改めて感じました。
「御鉾神社」
今治市玉川町鬼原字惣六谷甲321番地
大山祇神(おほやまつみのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
八千矛神(やちほこのかみ)
拝殿
境内社
ご神木
本殿
桜の紋に、右三つ巴
そして、ここにも、 越智氏の代表家紋。
三島明神の証です。
今日も、ありがとうございました。
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