神功皇后凱旋の跡 「清水八幡神社」
2012年 01月 22日
今日は、まず、北条の(私が思う瀬織津姫の)神社 「國津比古命神社」の歴史を研究しているサイトをご紹介させていただきます。
北条に鎮座する、
「國津比古命神社」「櫛玉比賣命神社」は、姫の名前を表には出さずとも、その存在をずっと受け継いできた神社だと私は思っています。
私が始めてここを訪れたのは、もう1年半くらい前になります。
鹿島に行った帰り、どこかの神社に行こうと道路地図に書かれた 「國津比古命神社」という名前に目が留まり、初めて参拝し、その更に上に鎮座される、「櫛玉比賣命神社」についた時、間違いなくここも瀬織津姫だと思ったことを今でも忘れません。
夕日が沈む時刻、姫の拝殿を写真にとると、信じられないくらいの光で拝殿が包まれカメラが変になったのかと思うほどでした。
その時の写真がこれです。
そしてその帰り道、神社を出てまっすぐ国道へと出ようと車を走らせると、向こうに見える鹿島の上に、
雲から沢山の光の柱が降りてきました。
これが、その時の写真です。
この光を見た時、瀬織津姫の存在を確信したことを、今でもはっきりと覚えています。
そして、この神社のことを紹介しているホームページ、ブログと出会いました。
この神社では、今でも行われてる大切な神事があります。
ぜひ、みなさんにもその存在を知っていただきたく思いますので、今日は、まずそちらのサイトをご紹介させていただきます。
風早物部饒速日王国
徒然なるままに
今年は、この神事について深く研究されるそうですので、その研究の結果が私も楽しみしています。
少しづつ、少しづく、姫の存在があきらかになっていっていると、感じます。
私も、そのためにお役にたてればと、あらためて感じております。
では、今日のお話です。
今日は、先日神功皇后ゆかりの地です。
前々回、前回、そして今回と、この三社は全てそう遠くない地区にあります。
松山空港一体で、この辺りには、もう大分前にお話しました、「福水神社も含め」数多くの神功皇后の跡が残る地域です。
この辺り一体は、この松山地域の古代の玄関口、船がつくところではなかったのかと思っています。
今日ご紹介する神社は、まさにその入り口、弁天山の麓に鎮座される神社。
松山市内から、松山空港への行く間に、トンネルがあります。
そのトンネルの山が、弁天山です。
初めて、その山が弁天山だと知った時からずっと気になっていた山でした。
どうして、ここに 「弁天」 と名前がつけられたのか、その由来が書かれたものは今も見つけることができませんが、この山一体に、姫を祀る一族がいたことは、間違いないと思っています。
弁天山から、福水神社、そして総合公園の辺りは、今は住宅ができ平地になったところも多く存在しますが、昔は、その山々は、全て連なっていたといいます。
そして、海は今よりも上にあり、海からすぐ山があるような地形でした。
現在空港になっているあたりは、埋め立てで、空港のすぐ北側にある 「忽那山」は 本来は島で、その島のおかげで波よけとなり、船がつけやすい状態であったのではないかといいます。
また、ここから、道後方面へと川があり、川を上って道後へと向かっていたのではないかとも言います。
今日ご紹介する神社は、本来は、この「忽那山」または、弁天山のどこかに祀られていたものだと思います。
そこには、瀬織津姫が祀られ、松山の入り口となり姫を祀る一族の国だった。
そこを封印するために、神功皇后の跡地とされた。
でも、九州と大きく違うところは、九州は神功皇后が戦った場所とされているのに、ここ松山には、戦いの場所は全くありません。 戦いの場所として残るのは、昨日のお話ように、神功皇后ではなく、神武天皇の子孫、
久米氏。
同じように、姫を封印されてしまった、九州と伊予の国の違いは、どこにあるのか。
これから、その違いをもっと深く追求していきたいと思います。
私の中で、その一番のキーワードとなると思っているのが、
「八幡大神」 の存在です。
宇佐氏と越智氏。 大分と伊予。 ここに神功皇后の秘密があるのではないかと思っています。
*清水八幡神社
*松山市別府町838
*祭神
品陀和氣命(ほむだわけのみこと)
帯仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
武内大神(たけしうちのおほかみ)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
清水八幡神社は、神功皇后が、三韓を討ち都へと帰る途中、この神社に軍装の脇当を納めたことにより、脇宮八幡宮と称したといわれています。
ここに書かれているように、神功皇后がここに立ち寄った時には、それ以前からの神が祀られていたことになります。
そして、変えられた名前が、 「脇宮八幡宮」 。
さらにその後、皇后御駐踵の際、御料の清水を奉ったことにより、後に清水八幡宮と改称したといいます。
この「皇后」 が、神功皇后だとすれば、ここに二度訪れ、一度名前を変えたにも関わらず、さらに、「清水(瀬織津姫)」との関わりをしめすかのような名前にしてあります。
清水八幡神社は、元はここではなく、10町余を離れた八坂瑠という地に奉斎されていましたが、
そこに大岩があって大蛇が潜み、参詣者を驚ろかすので今の地に奉遷したといいます。
10町とは、約1キロあまり先。
1キロあまり先とは、「忽那山」または、弁天山のどこかに祀られていたと考えられます。
そしてそこには、大蛇(瀬織津姫)がいたということです。
神社の名前を変え、祭神の名前を変えても、なおそこには、姫の魂があり、人々はその祟りを恐れていました。 それは、ここだけではなく、都も同じこと。
だから、陰陽師という存在ができ、陰陽師の力にすがっていたのです。
また、空海も同じ。 仏の力で、なんとかその「怨霊」を封じ込めようとしたのです。
人の罪とは、どんなことをしても、自分自身の心の中に住み着くもの。
それは、いくら拝んでもなくなることはありません。
殺人を犯し、逃亡する人と同じように、自分の罪を認め、それをあきらかにしなければ、何年たとうと、何百年たとうと、その罪は受け継がれていくのです。
だから、「怨霊」 がいる、何か悪いことがおこるたびに、そのせいにしてしまうのだと私は思います。
「怨霊」 とは、 自分の中に宿るものなのです。
自分の心がつくるものなのだと私は思います。
清水神社から見える 弁天山
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