大三島の謎 2 「横殿宮と鳥生の宮」
2012年 03月 26日
大三島二回目。
今日は、昨日の「みたらしの井戸」のすぐ側に鎮座する、大山祇神社元宮、
「横殿宮」のお話です。
「みたらしの井戸」は、現在も大山祇神社へ献上する禊の水。
そして、この場所は大山祇神社が本来あった場所とされている 元宮のすぐ側にあります。
大山祇神社に三島明神が祀られたのは、
現在の神社境内の中央に聳える楠が植えられたとされる 2600年前。
小千命が、ここに神を祀ったことが始まりとされます。
しかし、大山祇神社の由緒では、大山祇神社はもともと現在の宮浦の反対側、現在の上浦町瀬戸にあったとされます。
だから、この説が一般的な大山祇神社の始まりとされています。
594年推古天皇の御代、三島逈戸浜(上浦町瀬戸)に大山祇神社が建てられ、その神社を
「横殿の宮」と言ったと書かれています。
そして更にこれより前、崇峻天皇589年、
神託により、小千益躬は三島逈戸浜 「鼻刳瀬戸」の御神木に鏡をかけ祀った(大山積神を)
ことが始まりです。
小千益躬とは、崇峻天皇の御代、
靺鞨(まつかつ)の国より鉄人が八千の兵を率いて攻めてきたのを、
播磨の国で討ちとったといわれる英雄。
それまで越智家は、ただの地方豪族でその名前が愛媛以外の記述で出てくることはありませんでした。
しかし、この時突然その名前が表舞台へと姿を現します。
この横殿の宮に大山祇神社が建てられることになる原点もまた、この小千益躬。
そしてこの時から、小千玉澄まで大山祇神社の遷座に深くかかわっていくことになります。
589年、三島逈戸浜 「鼻刳瀬戸」の御神木に鏡をかけ祀ったとされる伝承と同じ時、
これと同じような伝承の場所が、ここ今治市内にあります。
それが、現在「鳥生」と言われる場所、以前お話した今治市鳥生祇園町に鎮座される三島神社です。
継ぎ獅子の発祥の地とも言われるこの三島神社は地元の人からは祇園さんとよばれています。
この神社の原点は、小千益躬にあります。
第三十二代崇峻天皇、御宇2年(589年)に、この地方の豪族小千直益躬(おちあたいますみ)が、靺鞨(まつかつ)の国より鉄人(強い武人)が八千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨の国で討ちとり、木の下の浜(今の鳥生の浜)へ凱旋し、自ら榊の大樹に鏡をかけて大山祇の大神を祀ったので、木の下三島宮と呼ばれていた。この木の枝に多数の白鳥が巣を作り、ひなを育てたので鳥生の宮と称し、地名も鳥生としたと伝えている。
これが祇園町に鎮座される三島神社の由緒です。 そしてこのことは、
『三島宮御鎮座本縁』にも、一説にはと、大三島瀬戸の伝承とともに書かれています。
同じ年、別々の場所で同じような言い伝え。
このことだけでも、どちらが本当の伝承なのか。どちらもつくられたものかもしれないし、
もしかしたらどちらかが大山積神のことをあらわし、どちらかは瀬織津姫のことをあらわしているのかもしれません。
もしそうなら、瀬戸に祀られた神が、大山積神で、鳥生に祀られた神が瀬織津姫。
その理由は、この鳥生の宮のほうの伝承には、三島明神(大山積神)の本当の姿を伝えているからです。
それが 「白鳥」 この白鳥とは 「鷺」のことです。
「鷺」とは「月の神使」 それとは反対に 「烏」は 「太陽の神使」とだからです。
この鳥生に現れた鳥は、烏ではなく 鷺。 それは月の女神の神使だったのです。
小千家が、本当に祀っていた「三島明神」とは 「月の神」 だったということを言いたかったのではないでしょうか。
そしてまたもう一つ、この小千益躬の鉄人伝説でとても気になることがあります。
それが、河野氏が、自らの氏族の来歴を記した文書 「予章記(よしょうき)の中の鉄人伝説です。
予章記以外では、小千益躬が戦った相手 「鉄人」とは、靺鞨(まつかつ)の国からやってきたとされているのですが、予章記には、「鉄人」とは 「百済」からやってきたと書かれてあるのです。
きっと多くの人はこの内容を読んで、そんなはずはないと思い、勝手にこの相手を百済ではなく
「新羅」 としているのではないでしょうか。
それは、この後、斉明天皇時代にかけて日本が見方をし、援護するために多くの軍勢を送ったのは、
百済とされているからです。
日本は百済の応援に行っているはずなのに、
小千益躬が戦った相手は 「百済からきた鉄人」だった。
これが本当の姿だと私は思います。
そして、河野家はこの予章記の中で、
「河野氏の祖先は小千益躬」だと書いています。
大山祇神社を宮浦へと正遷座させた 「越智玉澄」ではなく、「小千益躬」だと。
(「小千家」はこの越智玉澄から 「越智」に変わったとされています。)
これが、河野家が書き残した唯一の抵抗ではないかと思います。
自分たちは、本当の小千家の子孫であり、「越智家」の子孫ではないと言いたかったのではないでしょうか。
そして、小千益躬が祀った場所は、瀬戸ではなく、この鳥生。
瀬戸に祀ったのは、後に 「越智」 となのるものたちに祀られたのです。
それが、摂津から来たと言われる 「百済」 の関係のある一族です。
ここ横殿宮 瀬戸に祀られた大山積神は、本来宮浦に
2600年前から祀られていた 「三島明神」とは全く違う神です。
本来現在の場所 宮浦の大山祇神社のご神体(安神山)に祀られていた三島明神は
「大蛇」 それは 「龍」 そしてそれは、月の女神 瀬織津姫だったのです。
しかし、瀬戸から宮浦へと移されるその時、安神山の大蛇は、追い出されました。
『三島宮御鎮座本縁』の中で、そのことも書かれています。
文武天皇701年、越智玉澄が宮浦へ大山祇神社を建立しようとしていたのですが、安神山にすむ大蛇が悪さをして移すことができないため、この山に「五龍王」を祀り追い出したと。
この安神山にすむ大蛇とは、姫のことだったのです。
そして、現在元宮のあったとされる瀬戸周辺には 「曽我」という名前が多く、
現在の大山祇神社がある宮浦側には 「藤原姓」が多いこともそれに繋がるのかもしれません。。。。。
現在の元宮 横殿宮は、楠の森の中にひっそりと小さな社殿が鎮座されているだけの寂しい境内。
私はここが、新しい大和をつくろうとした一族が、大三島へと初めて上陸してきた場所ではないかと思います。
そして、100年の月日をかけて、少しづつ少しづつその勢力を増していったのだと。。。。
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