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越知氏の氏寺 「光蔵寺」 (あの鳴滝)

こんばんは。

今日のお話は、今治市朝倉にあるお寺、光蔵寺です。

この日は息子が早朝からカブトムシを取りに行くというので、玉川方面へ行ったのですが、まったく見つからずそのまま朝倉へ。

そしてなんとなく、何度も通った道を通っていると、息子が急にトイレに行きたいというので、
どこかないかな~と廻りを見渡すとお寺があるのを見つけました。

お寺なら、行かせてもらえるかなと思い行ってみました。
息子がトイレに行っている間に、お寺の縁起を読んでみると、ここは、越智家の氏寺だとされていたのです。

今まで全く知らなかった越智家の氏寺が、朝倉のこんな場所にあるなんて。。。。

朝倉は、これまで何度かご紹介したように、斉明天皇のゆかり地。
多くの斉明天皇の伝説が残っている場所です。

そしてそれと合わせて越智家の由来も多く、弥生時代から古墳時代にかけて
ここが、越智郡の陸地の中心だったのではないかと思っているところです。

医王山光蔵寺は、
朝倉の高き峰にあることから「高蔵寺 たかくらのてら」とされていました。

推古天皇年 (602年)
旅の薬生僧俊覚日羅上人が伊予国の
大領小千益躬を施療し平癒したことへの報恩により、本尊薬師如来像をお寺のある
水之上(みずのかみ)に安置し、領内に飢饉や旱魃・洪水のないよう領民の五穀豊穣・領内安泰を祈願、自らも延命地蔵王菩薩像を彫って小千氏の氏寺「高蔵寺」を建立したのが医王山光蔵寺の開基であるとされます。

このお寺の縁起を見ておわかりのとおり、
ここは、越智家の中で突然、世の中に名前をあらわしはじめた人でもある、あの鉄人伝説の

「小千益躬」に由来するとされます。

しかし、本来小千家は、神さまを祀る一族なので、こんなに早くお寺を建立するとは考えがたいのですが、
602年。大化の改新の少し前に、ここに建立されたというのです。

もしこれが本当なら、仏教が日本に入ってきて、物部氏が蘇我氏に滅ぼされた後、
神を祀る一族が住む場所にも、少しづつお寺も建てられるようになっていたのかもしれません。
しかし、その時はまだ、静かに浸透して行っていたというように思います。

その後、斉明天皇の時代にも、この朝倉にお寺が斉明天皇が名前をつけたというお寺があります。

しかし、このわずか数十年後に、斉明天皇が名前を付けたとされるお寺は、その姿を消してしまいます。
そしてそこに置かれてあった多くの仏像は、北条へと移されていったのです。
この理由は今でもはっきりとわかっておらず、朝倉町史は地震のためではないかといっています。

当初私も地震で全てが倒壊してしまい、人が住むことができなくなったのかと考えました。
でもなんなくしっくりこなかったのですが、この越智家の氏寺は、その地震があったとされる以降も
こうして、1400年の間ここにあり続けているのです。

やはり、これは地震が原因でななかったと思いました。

その理由もまた姫の封印に関係すると思います。

小千家の氏寺とされるこの光蔵寺は、
現在のお寺の前を流れる古寺川上流の古寺山(小寺山)に存し、
林内に点在する堂は七堂伽藍であったほど大きなお寺だったといいます。

冒頭の縁起には、ここを開基したのは、
「旅の薬生僧俊覚日羅上人」と書いていますが、もう一つの説があり、
この御本尊を掘ったのは、あの行基だとも言われます。

お寺の前を流れる古寺川は国府の田畑を潤す頓田川の上流で、
さらにその奥の古寺山の山中にある
磐座(いわくら)があり、古来より山ノ神としてお祀りされていたといいます。

しかしこの磐座は、水ノ神だったとも言われ、ここで雨乞いの神事が行われていたと言います。

地名も 「水の上(みずのかみ)」これは 「水の神」のことをあらわしているのではないでしょうか・

水の神から山の神へ。

まるで大山祇神社と一緒ですね。

また、水源の近くには古くから銅鉱石を産出する
金山(かなやま)があったといいます。

ここも当時の人々に必要不可欠だった、銅鉱石がとれる場所だったのです。
この山を 【金山」といいます。

だからか、ここにはもう一つ名前があり、

「金蔵寺 かなくらのてら」とも言います。

また、江戸期まで光蔵寺が水之上の氏神である飯成神社の
別当寺であったとも言います。

「飯成神社(いなりじんじゃ)」は、このお寺からすぐの所にあり、
現在は、宇加之魂神(うかのみたまのかみ) を祀ります。

稲荷は通常「稲荷」と書きますが、ここでは「飯が成る神社)と書いて「いなり」と読みます。

弘仁15年嵯峨天皇の詔勅を奉じて山城国稲荷山から当国へ十社を勧請した中の
1社だと言います。

そしてもう一つ、このお寺で気になることがあります。

それは、ここが奈良時代、華厳経学の道場となっていることです。

華厳経学は、今とても興味のある経典で、
釈迦が成道(じょうどう)した悟りの内容を表明した経典とされます。

華厳経学もとても奥が深く、
実在した釈迦族の王子が真理を発見して覚者となり、覚った真理を説いた内容となっています。

これを 「佛教」ともいいます。

この後アジアを中心にした多くの国に影響を与え、
独自の宗教が出来上がっていきます。

今日本に伝わってきている仏教も、強く影響を与えているとされますが、
その内容は日本に伝わると同時に大きく変えられてしまったともいいます。

 佛教は、釈迦が祖。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの経典宗教は、神が総てを創造したのに対して
佛教は釈尊が真理を発見した宗教です。

世界宗教の中で唯一、信仰や儀典への参加や忠誠心を強要しない宗教ともいえるといいます。

元々日本は自然に宿るものを神としていたので、
今のような仏像や、神像などをつくる風習はありませんでした。

しかし、この沸教が日本に入ってから、神像等をつくる礎となったともいいます。

この後の日本に強く影響を与えた、沸教。

しかし、この本来の教えもまた、神の入れ替えに利用され、
元の教えとは違うようになってしまいました。

華厳経学、これからの大きな鍵となる一つのような気がしています。

ここに由来する鉄人、小千益躬を見るためにも、
やはり朝倉は、もっとしっかり突き詰めていかなければいけないと思いました。

そして、同時に、
どうして中心だった朝倉が衰退し、他へ移っていったかも、
もう一度見直さなければいけないと思います。

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そしてこれが、飯成神社です。
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人はどれだけ緑を壊せば気が住むのでしょうか。
森に住む動物たちどんどんその住かがなくなっていく。

二年前、私が行った、あの美しい姫の滝。鳴滝もまた、
人の手によってその姿を変えてしまったと言います。

あの場所は、私にとって特に思い出深い場所でした。

姫の魂がしっかりと今も残る場所の一つでもありました。

まるでもののけ姫の世界のように、あの場所で私の目の前に現れた猪。
あの猪たちは、今もあの森でいきていてくれるでしょうか。

どうかこれ以上森を壊さないで。
これ以上森がなくなれば、私たち人間の身にも降りかかってくることを知っているのでしょうか。

人も自然も、動物たちも、みんなこの森のおかげで生きていくことができる。
それを、もう一度思い出してほしいと思います。

そのためにも、こうして伝えていかなくてはいけない。
そう思います。

2年前の鳴滝
越知氏の氏寺 「光蔵寺」 (あの鳴滝)_e0165472_2461032.jpg




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愛姫伝神社・お寺・観光マップ
by ldc_nikki | 2012-09-17 02:47 | 愛媛県今治市(旧朝倉)

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